Chapter8 「晴れない霧」
Chapter8 「晴れない霧」
警視庁庁舎内の2F会議室。男達が4人、固まるように座わっていた。
「監視がバレたというのか?」
神崎公安部第1課課長が不機嫌そうに言った。
「すみません、油断してました。沢村米子はただの工作員じゃありません。公安のS級並みかそれ以上です」
杉浦巡査長が頭を下げた。杉浦は駒沢公園で沢村米子に襲われ、喫茶店で話した事を神崎に報告した。会議に出席していた原田と川島は杉浦の話を興味深そうに聞いていた。
「なるほど。言いたいことがあるなら直接言えか。気の強い女だな」
神崎が呆れるように言った。
「しかし不思議と、私に敵意が無い事を知ると、敬語を使ってきました。殺戮マシンだと思っていましたが、思った以上に沢村米子は常識があります。まだ高校生ですし」
「ばかもの! 相手は内閣情報統括室の1級工作員だ! 見た目は女子高生だが状況に合わせた芝居や振る舞いもできるはずだ。油断するな」
「すみません」
「原田君、川島君、早急に沢村米子に接近するんだ。どこまで9年前の事件の真相を知ってるか確かめろ。それと、こっちが事件の真相を知っている事を匂わせるんだ」
「事件の真相と実行犯の存在を教えてもいいのですか?」
原田が言った。
「あくまでも匂わせるだけだ。沢村米子に興味を持たせるのだ」
「わかりました。接近してみます」
米子は新宿の大型ブックセンター『紀のくんに屋書店』の絵画コーナーで画集を観ていた。桜山学園の制服姿だった。首からは浜崎里香達から誕生日プレゼント貰ったキャンディーローズカラーのスマフォネックポーチを掛けていた。
「ほう、『カンデンスキー』の画集か。いい趣味をしてるね」
2人の男が米子の観ている画集を両側から覗き込みながら言った。1人は50代くらいで薄茶色の細かいグレンチックのツイードジャケットを着て白い綿パンを履いている。頭にはクリーム色のバケット帽を被っている。もう一人は30代くらいでライトグレーのスーツ姿だった。
「何ですか?」
米子はカンデンスキーの画集を棚に戻すとハンカチを取り出すようなさりげない仕草でブレザーの内側に右手を入れながら言った。掌はショルダーホルスターに収められたSIG―P229のグリップを軽く握った。
「ちょっといいかな、話したい事があるんだ」
若い方の男が言った。
「だから何ですか? 大きな声を出しますよ」
「大きな声を出すのは構わないが銃を撃つのはやめてくれ。話せる所に移動しよう。君に関わる大事な話があるんだ。それと上着の内側から手を出すんだ」
年配の方の男が言った。煙草の臭いがした。米子はブレザーの内側に入れた手を抜いた。これ以上話しかけてくるなら50代の男を抜き手の目潰しで、30代には肘打をこめかみに叩き込んでその場を去ろうと思った。
「私にはあなた達と話す事なんかありません。しつこいと警察を呼びますよ」
「米子ちゃんだよね。警察ならここにいるよ」
「えっ?」
「おじさんの事、覚えてないかな? 私の名前は川島だ。君のお父さんと一緒に働いてたんだよ。こっちのおじさんもね」
川島は原田を指さしながら言った。
「お父さんの?」
米子は不意を突かれた思いだった。父親は9年前に死んだ。父だけではなく、母親も弟も強盗に殺されたのだ。自分はたまたま友達の家に遊びに行っていて難を逃れた。米子はそう記憶していた。父は警察官だった。米子は父親が警察官だったことは知っていたが、それ以上詳しい事は知らなかった。父親の栄一も米子に仕事の事を詳しく話す事はなかった。米子は自分の父親が警察官で悪い人を捕まえているのだろうとぼんやりと感じていた程度だった。テレビドラマのスーツを着た刑事のようなイメージを持っていた。なんとなく父親に仕事の事を訊いてはいけないとも感じていた。警察の事や仕事の事を訊くと父親が厳しい顔になるからだった。
「警察の方ですか?」
「そうだよ、場所を変えて話そうか」
米子と2人の男は米子の先導で新宿駅を抜けて西新宿の中央公園に移動した。米子は水の広場の『白糸の滝』の横にあるベンチに座った。原田と川島は米子の前に立った。
「驚ろかせてすまないね。昔、君の家に遊びに行った事が何度かあるんだ。まだ君は小学校の低学年だった」
川島が言った。
「憶えてません」
「そうか。随分前だし、いろんな事があったからね」
「話ってなんですか!?」
米子が強い声で言った。
「君は内閣情報統括室で工作員をしているね。随分活躍してるみたいだな」
今まで黙っていた原田が言った。
「神崎って人の仲間の方ですか? この前、公安の杉浦さんに話を聞きました」
「話を聞いた? 君が拷問まがいの事をしたんだろ。まあいい、私達も公安だ。私は元だけどな。君のお父さんの上司だったんだ。君の家に遊びに行った事もある。一緒にアイスクリームを食べた」
米子は黙っていた。この男達の真意が分からなかったからだ。
「あの事件の時、私と川島君が君を見つけて保護したんだ。それは憶えてるだろ?」
あの事件とは強盗事件の事だろう。自分が外から家に帰ると玄関に警察官が大勢いた。そしてパトカーに乗せられて、警察署の取調室で両親と弟が強盗犯に殺された事を聞かされた。米子はその時の事をぼんやりと思い出した。事件の後、孤児院に入ったはずだった。
「事件の事ははっきり憶えてません。パトカーに乗せられ、気が付いたら警察署にいました」
米子が言った
「君は家族が亡くなっていた部屋で保護されて救急車で病院に運ばれたんだ」
「違います! 友達の家から帰ったら警察の人が玄関にいっぱいいて、パトカーに乗って・・・・・・」
米子は頭の奥がジンジンと痛み、頭の中に黒い霧が掛かったようになった。
「犯人は捕まったんですか? 強盗の犯人はどうなったんですか?」
「憶えてないのか? あれは強盗じゃない。君のお父さんを狙ったテロだ。君の家族はテロリストに殺されたんだ」
「テロリストって、どういう事ですか?」
「君のお父さんは公安の刑事だった。私の部下で、川島君の先輩だったんだ」
「たしかに父は警察官でした。でもあれは強盗事件だったはずです」
「君のお父さんはある極左集団に潜入捜査をしていた。その事がバレて狙われたんだ」
「そんな・・・・・じゃあ犯人は捕まったんですよね?」
「残念だがまだ捕まってない」
「おかしいです! 父を襲った集団が分かってるのなら捕まえられるはずです!」
「目星はついているが、いろいろ事情があるんだ」
「何という組織ですか!? 実行犯を教えて下さい!」
米子は叫んでいた。仰向けに倒れた弟。首から血が噴き出している母親。男達と格闘していた父親。米子の頭の中で映像がごくごく断片的に蘇った。それはサブリミナル映像のようだった
「復讐するつもりなのか? まあ普通なら危険だから止めておけと言うところだが、君なら可能かもしれないな」
「教えてください! お願いです!」
「個人的な復讐は法律で禁止されている。特に君は内情(内閣情報統括室)の工作員だ。事を起こされると何かと面倒だ。それに急ぐ事はない。君の家族を襲ったヤツらは生きている」
「じゃあ何のために私に近づいたんですか!?」
「君と仲良くするためだ。私もあの事件の事は忘れた事が無い。まあ今日は挨拶っていうところだ。私と川島の連絡先だ。私は警察を辞めて探偵をやっている。川島君はまだ公安の刑事だ。君の連絡先を知りたい」
原田は米子に電話番号を書いたメモを渡した。米子は肩掛けカバンからノートを取り出して自分のスマートフォンの電話番号を書くとページをちぎって原田に渡した。米子の中の防衛本能は危険な行動だと警告したが、なぜか行動を止められなかった。
「また今度ゆっくり話そう。君のお父さんは優秀な公安刑事だったよ」
原田はそう言うと背中を向けて歩き出した。川島も慌てて後を追った。米子は二人が去って行くのをじっと見ていた。
「大きくなってたな。それに噂通りの美人だ。芸能人みたいだった」
原田が言いながら箸で板わさを口に運んで数回噛むと、コップに入った常温の日本酒に口を付けた。
原田と川島は新宿南口近くの『そば処:ハケ水車』にいた。
「はい、あの頃の面影がありましたね。可愛かった子がそのまま大きくなって美人になった典型ですね。制服も似合ってました。あのまま学園ドラマのヒロインができますよ。工作員にしておくなんて勿体ないですよ」
川島が嬉しそうに言った。
「内情の工作員には見えないな。そこが狙いなんだろうな」
「ですね。しかしあの事件の事をあまり覚えてないようでしたね。その方がいいのかもしれません」
「本能が記憶を追い出しているんだ。あまりにも辛くてショッキングな記憶は心の防衛本能が追い出すんだ。記憶を作り変える事もある」
「そうなのかもしれませんね。でも、元気そうでした」
「ああ、元気過ぎるくらいだ。あの娘の経歴の極秘レポートを見たが、とても女子高生のした事とは思えん」
2人が注文した天ざる蕎麦が運ばれてきてテーブルの上に置かれた。
「私も読みました。信じられない内容でした。数々の暗殺、反社組織の壊滅。それにこの前は『赤い狐』と戦いながら外務省の工作員を秋田から東京まで護送してます。ウチの『夜桜』は壊滅状態になったというのにたいしたものですね」
「『夜桜』の再建には時間が掛かるだろう。ますます赤い狐が暴れるだろうな」
「それは阻止したいですね」
「だから沢村米子が必要なんだろう」
原田は蕎麦を箸で掬うと口に運んで吸い上げた。
「でも女子高生ですよ?」
川島はエビの天ぷらを前歯で噛み切りながら言った。
「女子高生は仮の姿なんだろう」
「それにしても強すぎます。頭も凄くいいみたいですしね。さすが沢さんの娘です」
「大きくなった沢村の忘れ形見か。敵にしたくない相手だな」
原田が呟くように言った。
その日の夜、米子は部屋の床に座って考えていた。頭の奥がズキズキと痛んだ。9年前の事件を思い出そうとすればするほど頭が混乱した。俯せに倒れた弟の姿。弟に重なるように倒れて首から血を噴きだす母親の姿。男達と格闘する裸の父親の姿。断片的な光景が頭に何度も浮かんだが、その光景が記憶と結びつかなかった。原田の話した事を何度も頭の中で整理した。父親は公安刑事で極左集団で潜入捜査をしていた。強盗ではなく、その極左集団が両親と弟の命を奪った。米子は自分の記憶と原田の話を繋げようとしたが、繋がらなかった。
米子はベッドに入ったが眠ることができなかった。記憶を手繰ろうとすると頭の中に黒い霧が現れ、手繰った糸がプツンと切れた。黒い霧を晴らそうとすればするほど苦しくなった。逃げ切ったと思っていた何かが迫って来たような気がした。米子はカーテンの隙間から朝の白い光が差し込んだ頃ようやく眠り落ちた。そして夢を見た。夢は救急車の中から始まった。病院に運ばれていろんな人に質問をされたが言葉が口から出なかった。話したいのに言葉が出ないのだ。3カ月入院して治療を受け、退院と同時に孤児を保護する施設に入った。そして知らない学校に転校し、施設から学校に通って小学校を卒業した。卒業すると公立の中学校に入学し、初めて制服を着た。中学1年生の夏に内閣情報統括室のスカウトに誘われて半ば強制的に北海道の訓練所入った。誘い文句は無償で高校に進学できることと訓練所を卒業して組織の仕事をすれば1人暮らしができ、お金が貰えるという事だった。中学校も転校することになったが学校生活に馴染んでいなかった米子にとって何の抵抗も無かった。学校には週2日だけ通えばよかった。訓練所での座学は語学や法律、爆発物を扱うための化学、人体の構造を知るための医学を中心に学んだ。戦闘と暗殺の技術を習得するために筋肉トレーニング、ランニング、格闘訓練、射撃訓練、模擬戦闘と暗殺の訓練が毎日行われ、忙しく時間が過ぎた。それは米子にとって有難い事だった。学校での思い出はほとんど無く、中学校の3年間は訓練に明け暮れる日々だった。
夢の中で銃声が響いた。米子は銃声のした方向に銃を撃った。しかし銃声は続いていた。米子は銃声に向かって闇の中を走って銃を撃ちまくった。それでも銃声は鳴りやまなかった。足元で爆発が起きた。そこで夢から覚めた。走馬灯のような夢だった。目覚ましのアラームが鳴っていた。米子はアラームを止め、ベッドから起き上がるとパジャマと下着を素早く脱いでバスルームに入ると熱いシャワーを浴びた。米子のボディラインは理想的で完璧だった。形の良いふくよかな胸に反比例してくびれた腰がスタイルの良さを際立たせていた。小ぶりだが丸みをおびたヒップは新鮮な桃の様だった。太腿からふくらはぎのラインは筋肉が付いているにも関わらずスラッとしていた。米子はボディソープを付けたスポンジで胸と脇を擦り、湯舟の縁に左右の足を交互い載せるて太腿の内側を磨くように擦った。血行が良くなると気分も落ち着き、肌が薄いピンク色に染まっていった。