#2 タウン・ウィズ・ノーネーム 5
飯を食べ終わったら何をしようか。行きつけの食堂で汁の少ないうどんを啜りながら、稲見雷破は考えていた。
いつも客でいっぱいの店も、十五時近くなればさすがにまばらだ。野球の試合なら、今から行けばまだ四回、五回くらいか。だが、あそこの連中は手が出るのが早いから良くない。競馬の時期はまだ先だし、賭け事にも興味はない。同僚のいくらかはどこかの雀荘やら敷に出入りしているようだけれど、たいして多くない稼ぎを賭けて何が楽しいのかさっぱりわからない。しかし、この町の娯楽といえばそのくらいしか無いのだった。
だったら何で気を紛らわそう。いつもは家に帰って昼寝している雷破も、今日だけは頭か手足を動かしたい気分だった。でないと、さっきの女のことが頭から離れそうにない。
「いらっしゃい」
店の出入り口が開き、店主の老婆が不愛想に言った。硬い床を革靴が叩く音が、自分の席に近づいてくる。
「ずいぶん遅い昼食だな」
その客人は言いながら、雷破の向かいの席に腰を下ろした。
「……何の用だ」
三船舞依。一見男と見まがうような長身と、整った顔の持ち主である彼女は、この古びた大衆食堂では浮いている上等な黒のスーツを纏っている。
「どうして今日はこんな時間に食べてるんだ? 日曜は暇だろうに」
「あんただって、昼間っから励起態で外歩いてんのか? 恥ずかしげもなく」
「事件が起きれば休みなんて関係ないんでな。あと、そんじょそこらの廻元者よりは真っ当なコーディネートだと思うが」
と、三船は長い脚を組んだ。たしかに普通の人間からは、彼女の出で立ちは身なりのいい紳士にしか見えないだろう。
「だが、お前の用件はご自慢の洋服を俺に見せびらかすことじゃねぇだろ」
麺をひと啜りし、雷破は先を促した。
「今日の昼前、南秋沙に熊が出たのは知っているか?」
周りの客を一瞥して三船は言った。彼女が動いているということは確実に物狂い絡みの話だが、こういう場である以上情報統制は気にするらしい。
「ああ。外出禁止令が出たとか」
「私は今、そいつを仕留めた奴を捜していてな。心当たりは無いか、稲見」
雷破は箸を止め、三船の目を見た。その目は刑事の目だった。警察に捕まるような真似をしたつもりはないが、どうして悪事を働いた気分だ。
「知らねぇな。その頃はまだ家で寝てた」
目線を逸らして食事を続ける。
「ほぉ。ちなみに、熊が仕留められた現場は矢木興産という工場でな。たしか、お前の職場もそこだったよな」
「そいつはたいした偶然だ。で?」
「とぼけるのはよせ。現場はお前の職場、柱に黒い焦げ跡がばっちり残っていた。それに、現場の工具に付いた指紋はお前のものだ」
雷破は箸を持つ右手を見た。指紋なんて採られた覚えはない。
「……どうして俺のもんだって言える?」
「私には優秀な部下がいるんでな。それにお前、嘘の証言をしただろう。名前まで誤魔化して」
舌打ちしそうになるのを抑える雷破。間違いなく、彼女は自分の動向を掴んでいる。大体にして、この店に自分が居ると突き止められていることも不思議だ。刑事としての能力か、それとも廻元者の力か。たしか彼女は、標的を追いかける類の技を使うらしいと石住が言っていたが。
「現場に居たもう一人の目撃者は、『熊を倒したのは自分と一緒にいたもう一人の男だ』と証言している。この時点で『見知らぬ廻元者が熊を倒して立ち去った』というお前の証言とは矛盾している。そして私は、現場に残った指紋を手がかりにお前を見つけた。あの工場の作業員で、しかも廻元者であるお前をな。誰がどう考えても、熊を仕留めたのは稲見雷破と結論付けるだろう」
やはり関わるべきではなかったか。
「どう言われようが俺は知らねぇ。寝てたっつってんだろ」
「それを証明できる人間は?」
「居ねぇな」
雷破の返答に、三船ははぁと息を吐いた。
「なにをそう隠す必要がある? 犯罪を犯したわけでもなかろうに。むしろ善良な市民として、誇るべきことをしたじゃないか」
「お前の方こそ、どうして犯罪者でもねぇ俺に構ってんだ? 警察ってのはよっぽど暇なのか」
「誰が倒したかは捜査記録に載せておく必要があるし、出没したのがどんな個体だったのか研究所も知りたがってる。情報が集まれば研究も進むし、将来新しい個体が出たときに役立つ。これも大事な仕事だ」
「はっ。刑事のくせに学者みてぇなこと言いやがるんだな、あんたは」
「いち警官として町の被害を最小限にしたいだけだ。それに、私が本当に追いたいのはお前じゃない」
「ん?」
すると三船は、背広のポケットから小さい板のような物を取り出した。
「あの場にいたもう一人の目撃者。そいつはレストランで奴に遭遇した後、お前と一緒に工場へ逃げ込んだと証言している」
机上に置かれたその板を見て、雷破は目を見開いた。
「だが、警官の聞き込みに応じた後の足取りが掴めない。荷物をほっぽり出して、今頃どこに居るのやら」
やや癖のついた髪を後ろで結び、真顔で正面を向いた写真。大人と子供の中間のような、少し幼さの残る顔立ちのその人物は、雷破が頭から振り払おうとしていた女と同じだった。
「どうしてこいつを追ってる」
「お前には関係のないことだ」
箸を動かす手を止める雷破に、三船は冷たく返す。
彼自身、東濃天空が外から来た人間だと信じ切っていたわけではない。けれどこの板には、聞いたこともない地名と一緒に彼女の名前と顔写真がはっきりと載っている。どこからこんなものを見つけたのか。せっかく忘れようとしたのに、まだあいつは自分から離れてくれない。
「――こいつが『外』の人間だからか?」
思い切って、雷破はそう口にした。それを聞いた彼女は、左の眉を小さく上げ、脚を組み換えた。
「何故そう思った」
「言ってみただけだ。ただ、もし外の奴が町に入ってきたら、あんたらはどうする」
探るように続ける雷破。三船は思案顔になり、
「事件に関係しているなら追うだけだ」
と答える。
「追って、見つけたら、どうする」
「まずは話を訊くところからだな。どうやって町に入り込んできたのか調べなければ」
雷破は残り数本になったうどんを一息に啜り、箸を丼に置いた。
「あいにく、俺はその女のことは何も知らねぇ。会ったこともねぇよ」
「まったくお前という奴は……そうか、だったらもう構わん。飯時に悪かったな」
三船が席を立ち、出口を開けて去ろうとしたところで、雷破は「待て」と引き留めた。
「もし、俺が『外』から迷い込んできた人間だったら、まずは帰る方法を探す。参考になるかはわからねぇが」
一瞬立ち止まった彼女は、横目でこちらを見やり、
「ご意見どうも」
と、その場を後にした。
深く息を吐き出し、雷破は硬い背もたれに体を預けた。どうしてたかが迷子の小娘に一人に、こんなにも気を揉まなければならないのだ。
「クソッ」
食卓の傍らに置いたカメラを掴み上げ、雷破は立った。
所詮は他人だ。彼女が今どこに居るのかわからない以上、もう雷破にどうにかできる問題ではない。三船に任せれば、きっとなんとかなる。少なくとも、警備隊よりかは穏便に済ませるはずだ――そう思おうとしても、頭のどこかで焦燥が拭えなかった。
「婆さん、勘定置いとくぞ」
「はいはい」
小銭を机上に置くと、雷破は逃げるように店を出た。
のれんの奥から漂う香ばしい匂いが、店先の長椅子に座る天空の鼻腔をくすぐり、胃を萎ませる。
「ほらよ」
ポロシャツから覗く筋骨隆々な腕の先には、まだ湯気が立つ四つの団子が刺さった串が握られている。天空は一瞬躊躇ってから、それを受け取る。
「悪ぃな、俺も金無ぇからよ。こんなもんしか買えねぇんだ」
と、櫻井はみたらしが掛かった艶やかな団子にかぶりついた。その豪快な食べっぷりに、天空は思わず唾を呑み込むと、遠慮がちに串の先を頬張った。熱く、甘い、もちもちとした食感が口の中を広がる。
「美味いだろ、ここの団子。お袋が生きてた頃はよく食ったもんだ」
天空は一つ目を咀嚼している内に、櫻井の団子はもう残り一つになっていた。
「さっきはあいつらが悪かったな。奴ら、女と見たら見境がなくてな」
見知らぬ連中に小屋へ連れ込まれたところを、助けに入ってくれたのがこの櫻井という男だった。彼は天空を外に出すと、何故かこの表通りの団子屋まで連れてきた。無造作な髪と髭を持ち、ほんのり汗臭い彼は正直近寄り難く、未だに何がしたいのかさっぱり読めなかった。
「……どうして、助けてくれたんですか」
ゆっくりと団子を飲み込んだ天空は、彼と目線を合わせずに訊く。今のところ彼に悪意のようなものは感じられないが、まだ警戒を解くには早かい。
「うん?」
「だって、あの人たちはあなたの仲間なんでしょ。見捨てるのが普通じゃないんですか」
「さあ、なんだろうなあ。たしかに、助けても助けなくても、俺にとっちゃどっちでもよかった」
櫻井は最後の団子にかじりつき、
「ただお前、腹減った顔してたからよ」
そう、口をもごもごさせてから言った。
「そんなに、お腹減ってるように見えました?」
たしかに腹は減っていたし、なんなら今もそうだが、顔に出ていただろうか。
「おう。腹減ってるときってのはな、深刻なことしか考えられなくなる。で、大体みんな辛気臭い顔になるもんだ」
「はぁ……?」
わからないでもないが、あんな状況になったら誰だって深刻な顔になるに決まっていると思う。それとももしかして、連中に捕まる前からそんな表情をしていたのだろうか。
「けどそんなときゃ、腹に何か入れればひとまずどうでもよくなる。腹いっぱい食えりゃ、嫌なことも面倒臭ぇことも忘れられる――ま、こんな団子一本じゃ、足んねぇけどよ」
と、彼は残った串を地面に放り捨てた。
「でも、さっきよかマシになったろ」
天空がやっと櫻井の目を見ると、彼はにっこり笑っていた。暖かい団子が胃に送られ、空腹がほんのり満たされていく。
「俺からも質問なんだがよ、嬢ちゃんはなんでハシボソなんかに居たんだい。あそこに来るような奴には見えねぇんだが」
「ハシボソ?」
「ああ。あの辺は『ハシボソ』っつってな。何十年か前に大火事があった通りで、立て直される前に俺らみたいな行くあてのねぇ奴らが住み着き始めたんだ。近くの商店街が『梁太』だから、いつの間にか『ハシボソ』って呼び名が付いたわけだ」
一人分の間を空け、櫻井は天空の隣に座る。
「表の人間がハシボソに入り込むこたぁまず無ぇ。あそこに居る奴はみんな、何かしらでよそに居られない連中ばっかだ。でもお前はまだ子供っぽいし、身なりもちゃんとしてるしよ。ひょっとして、家でも飛び出してきたのか」
「ただ横切ろうとしただけです。あそこが危ないって知らずに入って、あの人たちに捕まったんです」
「なるほどな。で、わざわざそこ通って、どこ行きたかったんだい?」
「それは――」
天空は答えようとして、言葉に詰まる。簡単に返せるはずなのに、何故か答えが出ない。あらためて自分に問いかけてみても、答えが浮かばない。
少女に会ってから決めればいいとさっきは思ったけれど、もし会えなかったら? 町に留まるべきなのか、それとも帰るべきなのか? どうすればいい?
「――――私、どこに行けばいんだろう」
わからない。
靴跡がでたらめに広がる地面を見つめて、天空は呟いた。
「あん? 嬢ちゃん、自分の行きたい所がわからないのか?」
櫻井が疑問の声を上げる。
「なんていうか…………その、私、自分が何をしたいのかわからないんです。今まで、大事なことはいつも誰かに決めてもらってばっかりで。でもそんなのだから、高校を出てから全然手に職つかなくって。働いてお金稼げって言われても、そのお金でやりたいことなんて、別に何もないし。なんのために生きてるんだろうって、ずっと思ってるんです」
気づけば、胸の内を勝手に垂れ流していた。はっとして顔を上げると、櫻井は眉を寄せ、唇の端を下げていた。
「だいぶ甘やかされてきたんだな、嬢ちゃん」
天空は弁解する前に、彼は口を開いた。
「……わかりますか」
否定はしなかった。それがどれだけ贅沢な悩みか、自分でもわかっていた。
「俺だって、人様に褒められるような生き方はしてこなかった。けどな、俺がハシボソに住んでんのは、這ってでも生きてぇって思うからだ。お前を手籠めにしようとしたあいつらも、他の奴らだって一緒さ。表じゃまっとうに生きられねぇ、けどヤクザにもなりきれねぇ。そんな行き場のない人間でも、なんとか生きて、どうにか楽しくやってやろうって思うからこそ、あの場所に居るんだよ」
天空は自分を恥じた。生きることに理由を見出せない自分が、必死で生きようとする人間に、何故生きているのかわからないなんて軽々と言うべきではなかった。彼と自分とでは、文字通り生きている世界が違うのだ。
けれど櫻井は、怒りを露わにしたりはしなかった。ただ頭を垂れる天空に、こう言った。
「でも、知らなかった。嬢ちゃんみたいな奴も、迷子になることがあるんだな」
そして彼は、硬く使い込まれた右手を差し出した。
「もし行くあてがねぇってんなら、しばらく置いてやるぜ」
思いがけない台詞だった。背中に日の光を受ける櫻井の顔は、逆光でよく見えなかった。
「え……いいんですか?」
「ああ。ただ、ちょっとばかし仕事は手伝ってもらうけどな。それに、どっか行くにしても先立つもんが必要だろ。だからしばらくの間、な」
天空はまだ、帰るか否かの決心がついていなかった。ただ、この誘いは渡りに船だった。荷物を失くして無一文な以上、たとえこの先どうなろうが困るのはわかりきっている。
それになにより、居場所を用意してくれるという言葉を、蹴ることなんてできなかった。
だから、天空は彼の手を取った。