#2 タウン・ウィズ・ノーネーム 2
身も蓋もないことを言えば説明回
雷破に案内されたのは、瓦屋根の古めかしい屋敷だった。
年季の入った袖看板には「石住習字教室」と端正な筆遣いで書かれている。瓦屋根が突き出た軒の下には透明なガラス戸の入り口があるが、雷破はそちらには行かず、建物の脇を通って奥にある玄関口の方に行った。
「おーい。石住、居るかー?」
擦りガラスの戸を無遠慮にノックする雷破。すぐに中から「はいはい、今開けますから」と返ってくる。
「どうも。君が訪ねに来るなんて珍しいですね、稲見くん」
戸が開き、青い作務衣を着た黒縁の眼鏡の青年が出てくる。
「会いたくて会いに来たわけじゃねぇよ。お前も歓迎する気はねぇくせに」
「なかなかつれないことを言ってくれますね。おや、そちらの方は?」
青年は、雷破の背後に立つ天空に目を向けた。怪訝な様子の彼に、天空は小さくお辞儀した。
「込み入った話でな。訊きてぇことがあって来た」
「ほう。まあ上がってください」
二人は靴を脱いで屋敷に上がり、青年に導かれて廊下を歩く。
「どうぞ、散らかっていますが」
そうして通されたのは、屋敷の外観にはそぐわない洋室だった。部屋の中央にはどんと書机が置かれ、窓の隣にはカーテンが降りた本棚が立つ。壁にはどこかの地図やカレンダーなどが貼られ、達筆な書の掛け軸やタペストリーが整然と飾られている。
「居間はちょうど、母が占領していましてね。まったくあの人ときたら、ひっきりなしに押しかけては、ちゃんと早起きしてるかとか嫁はまだかとか、そんな話ばかりしてくるんですよ」
言いながら、青年は部屋に一つしかない椅子に腰を掛けた。
「それで、込み入った話というのはいったい?」
「ああ、話せば長くなるが――」
と、雷破は青年に、天空と出会ったいきさつや、彼女が町に迷い込んだ経緯について一通り説明した。
「……なるほど、たしかにそれは、困ったことになりましたねえ。えっと、お嬢さんのお名前は、」
「東濃です。東濃天空」
「東濃さん、ですか。変わったお名前ですね」
反応は存外軽かった。いつもこれくらいだと嬉しいのだが。
「僕はこの習字教室の講師を務めています、石住と申します。いやはや驚きです、まさか『外』の人がここにやって来るとは」
石住はそう言って柔和に微笑む。落ち着き払った、ゆったりとした声質の人物だ。
「天空の話が本当なら、こいつを町に連れてきたのは山に居たガキってことになる。そいつが『廻元者』だとしたら、お前なら誰か知ってんじゃねぇかと思ってな」
「そういうことでしたか。ですが、それは僕なんかより研究所の方が――」
「ちょっと待って、ストップ。そのカイゲンシャ? って何なんですか」
二人だけで会話が進みそうなところに、天空は慌てて待ったをかけた。
「そうか、お前にはまだ説明してないんだったな。石住、こいつに教えてやってくれ」
「何故僕に振るんです」
「そりゃあ、こういう話はお前の方がわかりやすいからに決まってんだろ。梁太の大天狗さんよ」
石住は小さく嘆息をついてから「仕方ないですね」と手を叩いた。
「ここが普通でない町だということと、最近出ている怪物のことは稲見くんから聞いたんでしたね?」
天空は無言で頷く。
「結構。ではもう一つ、この町の不可思議なところをお教えしましょう」
と、石住はまるで、悪戯を内緒で打ち明けるかのように人差し指を口に当てる。
「この町には普通の人間の他にも、ある特別な力をもった人々が暮らしているのです。そこの稲見くんのようにね」
「はい、たしかに見ました……けど、他にも同じような人たちがいるんですか?」
それは他でもない、あの魔法のような雷の力のことだろう。一方、雷破は眉間に皺を寄せて居心地が悪そうにしていた。
「はい。ある者は電気を操り、またある者は炎を放つ。武器や道具を生み出す者や、手品としか言いようのない現象を起こす者。それらはひっくるめて『廻元者』と呼ばれています。えんにょうの『廻る』に元日の『元』、忍者の『者』で廻元者です」
「ふーん。それが魔法使いの名前……」
廻元者。なんだかやけに無骨で、わかりにくい響きに思えた。気取っているような、芯を捉えていないような、そんな言葉だった。
「魔法じゃありませんよ。まあ、ほとんどそうみたいなものですがね――廻元者が操る力、それは魔法ではなく『元素』の力です」
「元素?」
「ええ。外界でも習うでしょう? 元素」
たしかに中学と高校で習った記憶はあるが、いまいちピンと来ない天空は黙りこくる。もう何年か前だし、たいして興味も無かったのでとっくに内容は頭から抜け落ちていた。
そんな天空を見かねたのか、石住は立ち上がり、机の後ろの壁に張り出されている日焼けした掲示に手を添えた。
「では復習しましょう。この世界を形作るのは、目に見えないほど小さな原子という粒です。そして、それを種類ごとに分類したものを元素と言います。さらに、元素を法則に従って性質ごとに配置した表が、この元素周期表です。ここまではいいですか?」
駆け足気味ではあるが、一応言葉の意味は理解できる。何故そうなっているのか、というのはともかく。
「どうして周期表がこんな形なのかとか、そういうのはここでは重要でないので飛ばします。大事なのは、廻元者のもつ力は、この周期表に載っているひとつひとつの元素に由来している、ということです」
そう言って石住は、周期表の最下段、離れ小島に記載されたある一つの元素を指さした。「Th」という記号で表されたその元素は、左下に90という数字を伴っている。
「例えば、原子番号九十番、トリウム。北欧神話の雷神、トールに因んで名付けられました。熱に強く、溶接棒や耐熱用品に使われていた元素です。稲見くんは、そのトリウムを操る力をもっているんです」
「はあ……?」
天空はどう反応していいかわからなかった。トリウムなんてもの、今まで生きてきて初めて聞いたくらいには馴染みがない。
そもそも天空にとって「元素」というものは、あまりいい思い出のあるものではなかった。この奇妙な形をした表に並ぶ、記号と数字の羅列には、学生時代に大層苦しめられた。目で見たり手で触れたりできる物を、ただのアルファベットやプラスマイナスの記号に押し込んで、やれ何の粒が何個結びついたとか、何個残ったとかをいちいちけち臭く思い悩む行為は、本来触れ合える世界の本質をむりやり覆い隠しているような気がしてならなかった。化学というのはなんて無味乾燥でつまらないのだ、と。
「無理もねえよ。俺だって、自分が廻元者じゃなきゃ一生縁がねぇもんだからな」
天空の心を見透かしたように雷破が言った。彼の台詞は自分のことなのに、どこか他人事のように聞こえた。
「いささかマイナーでしたか。なら違う例を出しましょう」
と、石住はやにわに左手を顔の横に差し出す。その中指には、光沢を放つ無色の宝石の指輪がはめられている。
すると、六角形の格子模様が空に描かれ、石住の体を取り囲む。「C」という文字がぼんやり浮かび、包囲の中で彼の体は白く光り、その作務衣を僧侶のような黒い衣と、白の格子模様が入った袈裟に変化させた。
「変身した……ってことは、まさかあなたも、廻元者?」
天空の言葉に、召し替えが済んだ石住はまたにこりと微笑む。
「ええ。試しにこんなのを出してみましょう」
彼は大きな袖を揺らし、右手を見せるように開く。すると一瞬煌めきが起き、そこにぱっと大きな石が現れる。
「わあ、綺麗……」
手のひらに収まりきらないほど大きいそれは、一切のくすみや曇りがないと断言できるほど透明に澄み渡り、入り込む光のすべてを滞りなく通しているかのように見えた。いったい何カラットになるのだろう。
「僕がもっているのは『炭素』の力。今出したこれは、ダイヤモンドの原石です。それも滅多に見られないくらいの大きさのね。きっと査定すれば、天地がひっくり返るほどの値がつくでしょう。ところで、ちょっと離れた方がいいですよ」
自然と顔をダイヤモンドに近づけていた天空に、石住はそう忠告した。そして、原石の上に左手を被せると——
「わっ」
瞬間、ダイヤモンドが熱を帯び始めた。
「ダイヤモンドは、炭素が取り得る姿の一つに過ぎません。炭素という元素は、原子同士の並び方や結びつき方によって、炭、黒鉛、ダイヤといったさまざまな姿になるんです。ですが見た目は違えど同じそれらは同じ、炭素の塊。ですから、ダイヤもこういう風に燃やしてしまえる」
太陽のように白く眩い輝きを放つ宝石を持ちながら、石住は涼しげな顔で言う。天空はそうっと、白熱する石の表面に指を近づけてみる。
「あつつっ!」
「何やってんだ馬鹿」
雷破は自分の尻尾を追いかける犬を見るような態度で言った。
「だって、手の上で燃やしてるのに全然平気そうだから、熱くないのかなって……」
「当たり前だろ。毒草が自分の毒で枯れるか?」
「ひどい言い草ですねえ。君も同じ廻元者でしょうに」
石住が少し小さくなったダイヤを握り締めると、燃え続けていたそれは跡形もなくどこかへ消えてしまった。まるで最初から何もなかったかのように――山で出会ったあの少女も、こんな風に突然消えたっけ。
「――と、こんな具合に、廻元者は自分の元素に関連する物体を生み出して、操る力があるんです。一人につき、一種類の元素だけですがね。理解できました?」
「ええ、まあ……なんとなくは」
つまり、炭素の廻元者である石住は、何もないところに炭素を生み出したり燃やしたりする力がるということか。同じように雷破はトリウムの力、電気と熱の力を。
「で、ようやく本題に入りますが……稲見くんの話によれば、東濃さんを町に招き入れたのは廻元者かもしれないということでした。ですが、町と外界を行き来できて、なおかつ町の中に人を引っ張ってこれそうな力をもった人というと、はっきり言って心当たりはありません。第一、僕の知り合いの中には、幼い女の子の廻元者さえ居ませんね」
「そうかい。ま、いくらお前でも、全部の廻元者を知ってるわけねえか」
「もっとも、少女の姿は偽装で、誰かが化けているという可能性もありますが、それを言い出したらキリがない。廻元者の力は多種多様ですから」
どうやら空振りのようだ。二人の口ぶりからして、この石住という男は多くの魔法使いと関わりがあるらしい。それでも見つからないとなれば、天空にはもう探すあてが思いつかない。
「大体、その女の子というのは本当に人間だったんですか? ひょっとしたら、神か妖怪の類かもしれませんよ」
「いや、そんなこと――」
ありえないと言いかけて、天空は口をつぐんだ。いまさら鬼が出ようが蛇が出ようがおかしな話しではないだろう。
「冗談はよせ。ただでさえややこしいことになってんのに、ますますややこしくなる」
「これは失敬。で、訊きたいことはこれだけですか?」
石住が意地悪そうに小さく笑うと、その衣装が光って元の作務衣に戻った。雷破といい石住といい、変身ヒーローのようだ。
「あの、外から来た人って、私以外にいるんですか?」
と、天空。
「少なくとも、僕が知る限りではあなたが初めてですね。もっとも、東濃さんがこうして町にいることを考えれば、同じように迷い込んだ人もいるかもしれません――それに、ここが閉じられた町だといっても、完全に外と行き来できないわけではありませんから」
「え……それってまさか、この町から出られる方法があるってことですか!?」
勿体つけた言い方をする石住に、天空は訊き返した。
「ええ。町と外の間には鉄道が通っていて、定期的に運行しているんですよ。それに乗って外に行く人もいれば、帰ってくる人もいます」
彼は拍子抜けしそうなほどあっさりと言った。
「さっきの半球の例で言うなら、接合部は一見隙間が無いように見えても、実際は目に見えないほど細かい抜け穴はある。その抜け穴を通るのが鉄道ってわけだな」
雷破が続ける。「閉じられた町」というぐらいだから、厳重に閉じられた檻を想像していたが、そんな簡単な方法で出られるとは。
「っていうか、稲見さん、なんですぐ教えてくれなかったんですか」
「いやなんでってお前、訊いてこなかったからだろ」
「……それもそっか」
頭の隅で気になってはいたのだが、知りたいことやわからないことが次々と出てきて後回しになっていた。
「じゃあ、その鉄道ってどこにあるんですか?」
「ここからずっと北の方に行けば駅があります。ただ、もし列車で外へ帰ろうと考えているつもりなら、それは無理ですね」
「え?」
一転、石住は低いトーンで続ける。
「定期便は三ヶ月に一度運行されています。そして、今月の便はもうすでに出発した後です」
それを聞いた途端、天空の思考は真っ白になった。そして、胃の奥がきゅっと締まるような感覚がした。
「な、なら、三ヶ月経つまでは家に帰れないってことですか……!?」
石住は何も言わない。その代わり、雷破がさらに重い情報を告げてきた。
「たとえ三ヶ月待っても、簡単には乗れねぇぞ。なんせ、外界行きの列車の切符代は三十万円かかるんだからな」
「さんじゅうまん?!?!」
素っ頓狂な声が口から飛び出す。三十万なんて、普通の乗車賃どころか外国行きの飛行機代さえも凌ぐ額だ。当然、天空はそんな大金など持っていない。
「審査とか色々あんだよ。だからアホみたいに金がかかる」
「なによそれぇ……」
口の中に酸味が広がり、全身に冷気とむず痒さを覚える。帰る手段があっても、これじゃあ帰れないのと一緒だ。
「これでわかったろ。ここがどういう町で、お前がどんな面倒事に巻き込まれてんのか」
彼の言葉に、天空は何も言えなかった。奇妙な町並みに、謎の怪物、超人的な力をもった人々。どこか浮き足立った今までの出来事が、「帰れない」という言葉ひとつで大きな重石へと変わった。
別に天空は、故郷にたいした思い入れはない。深い絆で結ばれた人が待っているわけでも、やり残したことややりたいことがあるわけでもない。けれど、もう二度と帰れない、なんて言われるのは、感覚的に嫌だった。まるで自由に泳いでいたのに、いきなり手足に枷をはめられるような、息苦しい感じがしてならなかった。
「……他に、帰れる手段は無いんですか?」
わずかな期待を込めて天空は訊ねる。
「二つとしてありませんね。もっとも、あなたをここへ連れ込んだという人物は、別の方法を知っているかもしれませんが」
自分をここへ連れ込んだ人物——あの少女が。
彼女は、天空を呼び寄せた理由を話してはくれなかった。ただ「やってほしいことがある」とだけ言って、具体的なことは言わずに消え去ってしまった。いったい、自分は何故呼ばれたのだろう。何をやらせるために——
(……そうだ)
そこまで考えて、天空はふと閃く。
「駅に行く道、教えてくれませんか」
「あ?」
天空の発した言葉に、雷破は虚を突かれたような顔をした。
「近くの線路が通ってる所でもいいです。どこか教えてください!」
「おい、お前何する気だ?」
雷破は答えてくれなかった。石住もまた、怪訝そうな表情でこちらを見ていた。けれど天空はもう意思を固めていた。
「帰るんです。この町から」