#1 ラビット・ホール 2
どれほど歩いただろうか。耕作地帯を抜け、集落を過ぎ、大きな建物が並ぶ商店街まで来た。
大きな、といっても、大半は三階建てか四階建てのやや小さい造りだ。赤いコンクリート壁の洋風なビル、錆の目立つトタン造りの工務店。どれもそれなりの年数が経っているようで、埃が舞う未舗装路も相まり、昔懐かしい雰囲気を醸成している。
ふと、一軒の店先で立ち止まる。入り口の近くには自転車が停められ、酒瓶が入った木の籠が無造作に積まれている。ガラス戸から中を覗くと、灯りは点いておらず、人が居る様子もない。商品が雑に陳列されているだけだ。
少女の言葉に誘われるままここまで来たわけだが、山を降りてからというもの人の姿をまるで見ていない。それどころか、話し声や生活音さえ聞こえてこない。路面の足跡や干された洗濯物といった誰かの形跡は見かけるが、気配はなく、ただ静かだ。
『広報課が、正午をお知らせします』
急に発せられた女の声に、天空はびくっと肩を震わせた。発信源は後ろの建物、屋上にあるスピーカーだった。防災無線か何かだろう。
正午ということは、もう宿を出てから四時間経っているのか。ずっと歩きっぱなしでもうくたくたなので、天空はこの辺りで昼食を見繕うことにした。地図アプリで飲食店を探そうと携帯電話を開くが、画面には圏外の表示。ネットどころか電話も使えない。いくら地方の田舎とはいえ、いまどき人里で電波が届かないなんてあり得るのだろうか。
とはいえ気にしても仕方ないので、歩いて店を探すことにした。
十字路を二回曲がった突き当たりで、初めて飲食店を見つけた。五階建ての洋館の一階で、「洋風料理店」と看板にある。天空はゆっくりとそのドアを開き、中に入る。
店内は存外広く、客は居ないがそれなりに雰囲気が良い。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
ややあって、厨房の中からコックコートを着た青年が出てきた。ひょっとして店内も無人なのでは、という予感もあったが、さすがにそんなことはなかった。
「失礼ですが、どちらの方から来られたんですか?」
天空が窓際の席に座ると、水の入ったコップをテーブルに置いた店員が訊いてくる。
「はい?」
「ああいや、ちょうど今、外出禁止令が出てるので。まあ、禁止令が出てても、うちはお客さんをおもてなししますけど」
「禁止令?」
「熊が出たらしいですよ。一時間くらい前だったかな、町内放送でやってました」
実際に出くわさずとも、田舎生まれなら誰しも熊の恐ろしさを知っている。天空の地元でも、里に降りた熊が人を襲う事件は度々起きているし、死人が出るのも珍しくない。
「怖いですね……」
我ながら、森から町に出るまでよく無事に来れたな、と天空は思った。
「ええ。おかげでご覧の通り、昼時なのにお客さんが全然入らなくて。最近は物騒ですよねぇ……あ、すみません、余計なことお話しして」
「ご注文は何に致しましょう」と促され、天空は慌てて机上のメニュー表を開いた。品数はあまり多くないし、決して安いとも言えないが、どれも食欲をそそられる料理名だ。
が。
(え? いや高っ!)
海藻サラダの千五百円という価格が目に留まり、天空は心の中で突っ込む。たかがサラダでここまで値が張るか。他の料理は概ね適正価格なのに、なぜかこれだけやけに高いのが気にかかる。とはいえさすがに手が出せる値段ではないので、
「えっと、じゃあビーフシチュー定食で」
と、適当な料理を注文した。店員は「かしこまりました」と言って厨房へ去っていった。
途端に疲れがのしかかってきて、天空はため息をつく。数時間歩き通した両脚は悲鳴を上げているが、高校を出て運動不足気味の体には良かったかもしれない。
しかしここまで歩かせておいて、あの少女は自分に何をさせたいのだろう。
わざわざ葉書を送って呼び寄せたのだから、少女には意図があったはずだ。だがしかし、その彼女は何も教えてくれないままどこかへ消えてしまった。今頃熊に襲われたりしていないかと心配な気持ちも湧いてくる一方、未だに彼女が『居た』という認識に自信がもてない。あの場で起きたことは幻のようで、けれど彼女から貰った鍵はポケットの中にあり、狐につままれたような、奇妙な感覚が拭えなかった。
天空は頭を振った。たとえあれが幻でも、自分は今ここにいる。それは確実なことだ。当てはないけれど、とりあえず店を出たらあの少女を探してみよう。
ひとまず頭を冷やそうと、グラスに口をつけたとき――
ガッシャーーンッッッ!!!!!
「ひっ!」
不意にけたたましい金属音がして、気の抜けた悲鳴が出る。
厨房の方から聞こえたが、調理器具でも落としたのだろうか。それにしては慌てるような声や、片付ける音はしてこない。
というか、注文してからもうそれなりに時間も経っているのに、そもそも調理する音自体が聞こえてこない。普通、料理中は食材を切るとか水道を使うとかで物音が出るはずだ。厨房と客間は扉で区切られているが、音が遮られるほど厚いとは思えない。
何か変だ。天空は直感的に思う。
少し考えてから、天空は席を立った。そして厨房の扉まで寄ると、ゆっくりと、慎重に押し開いた。勝手に入るのは良くないとわかってはいたが、衝動的で好奇心に忠実なのが彼女の悪癖であった。
「失礼しまーす……」
最低限の礼儀を尽くして中に入る。室内は灯りが点いておらず、薄暗かった。部屋の中心には大きな調理台があり、壁際の冷蔵庫や流し台、コンロが取り囲まれている。さらに奥の部屋に通じる扉もあった。
すぐ目に付いたのはコンロだった。といっても火元はガスではなく、薪を燃やして調理する古めかしいタイプだった。天板の上で大鍋がぐつぐつ煮立っており、近くの床には空の小鍋が転がっている。さっきのはこれが落ちた音だろう。
(お湯じゃないよね、これ)
鍋の中を覗き込んで、本能的に鼻を摘まんだ。大鍋は無色透明の液体で満たされ、肉やジャガイモといった食材がぐずぐずに煮崩れている。一見するとただの調理風景だが、鍋の中身は何故か石鹸を煮詰めたような酷くケミカルな異臭を発していて、体に入れて良いものには到底思えない。
違和感が確かな疑念に変わり、脳が警告信号を発し始める。だがしかし、体はすでに調理台の反対側へ動き出していた。
そこには想像を絶する光景があった。
「は……」
それらは人型に見えた。三人はさっきの店員と同じコックコートを着ていて、もう一人はスーツを着ている。体格はそれぞれ異なっているが、全員床に横たわったり壁にもたれたままびくともしない。
そして全員の肌が、まるでミイラのように茶色く干からびている。
呼吸と鼓動がどんどん速くなる。それに伴って胃液が込み上げそうになって、天空は両手で口を覆った。
(嘘、これって……みんな、死んでる?)
紛れもない、それは四つの死体だった。
天空は昔一度だけ、死体を見たことがあった。だが今目にしているのは、それとはあまりに違い過ぎていた。
皮膚が枯れ、頬骨や鼻骨が浮き出るほど乾き切った顔。ある者は両目と口が裂けそうなほどかっ開き、またある者は助けを求めるかのように、干からびた手を伸ばして事切れている。作り物にしてはあまりに精巧すぎるし、仮にそうだとしても、こんなものがレストランの厨房にあること自体意味が分からない。第一、あの店員は死体があることを知っているのか?
知っているはずだ。知らないわけがない。なら何故彼はさっき、これといった動揺もなく天空を出迎えたのだろう。それとも彼が四人を殺したのか? いったいどうして、どうやって?
思考がぐるぐる渦巻いて止まらない中で、天空はふと気づいた。四つ死体の中で一つだけ、肌にみずみずしさを保っているものがあった。顔立ちからして多分男、恰幅の良い体型で、流し台に寄りかかっている。
天空がしゃがみ込み、恐る恐る顔を近づけてみると、
「う……ああ……」
「ひいっ!?」
腰を抜かしかけて、すぐに気づく。彼は死んでいない。まだ生きているのだ。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「クハッ……ううっ……あ、あんたは……」
「ただの客です。いったい何があったんですか?」
男は浅く息を吐いた。周囲のミイラと比べれば血色は良いとはいえ、相当弱っているようだ。
「た……タツヤが……う、うちの店員が、急に、おかしくなって……」
「タツヤって、さっき厨房に入って行った男の人ですか? 何をされたんです?」
「ハァ……ハァ……話してる時間は、な、ない。奴が戻る前に、ここから、に、逃げるんだ……うぅ」
衰弱からか、はたまた恐怖からか、彼はひどく体を震わせていた。とにもかくにもここから出よう。
「歩けますか?」
天空は男の肩に腕を回し、立ち上がった。
「だ、ダメだ……私のことは、いい……」
「放っておけませんよ!」
だがそのとき、
「ちょっと困りますよぉ。勝手に厨房に入られちゃあ」
やにわに隣室の扉が開き、中から先程の店員が現れた。
「たっ、タツヤ……!?」
「ったく、店長も注意してくださいよぉ」
彼の目には三つの異様な屍と、恐怖の色に染まった男の顔が映っているはずだが、まるで気にする様子はない。それどころか、少し呆れたような笑顔を浮かべてさえいる。
「調理の邪魔ですから、席に戻ってください」
柔和な顔でそう言うと、彼は天空の胸ぐらを掴み、持ち上げた。
「えっ——ちょっ、ちょちょちょ!!」
両足が地面から浮いた天空は、次の瞬間投げ飛ばされた。
「うわあっ!!!」
部屋の隅に叩きつけられ、糸が切れた人形のように床へ崩れ落ちる。鈍い痛みが後頭部を走り、視界が明滅する。たいして腕っぷしがあるようには見えないのに、とんでもない怪力だ。
「お、そろそろいいかな」
苦悶する天空に脇目も振らず、タツヤはいそいそとコンロの前に行く。そして鍋を満たす謎の液体を小皿に取り分けると、床に倒れている男に掛け合った。
「さあ店長、味見お願いしますよ」
「や、やめろ……!!」
狼狽える男。だが、タツヤはお構いなしに彼の下顎を掴み、口をむりやり開かせると、そこへ液体を流し込んだ。
「グボァッ! オエエエ!!!」
液体を飲まされた男は、すぐに激しく咳き込み、嘔吐し始めた。
それだけではない。目鼻や皮膚、全身の穴という穴から、汗やら何やらといったあらゆる体液が噴き出し始めた。
「あァアァあぁ!!! あァア!!! ウァァアア!!!!」
波打ち際に取り残された魚のように激しくのたうち、えづく男。白い調理服のあちこちに黄色や茶色の染みができ、肌はみるみるうちに土気ばみ、頬はどんどん痩せこけ、やがて動かなくなった。
「あちゃー、また掃除しなきゃ」
液溜まりの上で天井を仰ぐ男を見下ろして、タツヤはぼやいた。
天空の両脚は震えていた。今、目の前で起きていることが現実だと受け入れられなかった。悪い夢なら醒めて欲しいと思った。
「……なんなのよ……あんた……」
だが、激しい鼓動と乱れる息の感覚は、否が応でもこれが現だと仄めかしていた。
「んん? お客さん、まだ居たんですか。早く席に戻ってください、もうじき出来ますから」
タツヤはゆっくり天空の方を振り向く。その口ぶりには一切の敵意も孕んでいなかった。迷惑客への応対にしては圧が足りないが、彼の『料理』と厨房の惨状を見れば誰だろうと踵を返すだろう。
「それとも味が心配ですか? 大丈夫っすよ、お客さんに粗末なものは出しませんから。こう見えて腕には自信が——」
「ふざけないで! あんたの毒料理なんてこっちから願い下げよ!」
天空はそう吐き捨てて一目散に厨房から出ようとする。だが彼女が振り返ったとき、タツヤはもう扉の前に立ち塞がっていた。
「ッ!」
ゾッと背筋が凍りつく。薄ら笑いを浮かべる彼の瞳は、その真ん中に天空を捉えていた。
殺される。
「すみませんが、退店はできかねます。注文頂いた後に帰られたら困りますから。それに、」
すると突然、陰気なオレンジの光がタツヤの体を包み込み、彼の周りに塩のような結晶が降り始めた。
滝の如く注がれる粒が、足先から頭の頂点を一瞬で埋め尽くすと、黄色い炎を上げながら表面だけ溶けていく。
『お客さんにはゼひ、うちの味を楽しんデただきたいですかラ』
そうして、彼は人型の怪物に変貌を遂げた。
ぱっと見は厨房服にコック帽を被った料理人だが、体躯はラグビー選手も可愛く見えるほど大柄で屈強だ。体表はお歯黒のように真っ黒で、妖しく光る黄色い眼と口輪を嵌められた口には、血の通った心がまるで感じられない。右手には犬の頭を模った禍々しい杖が握られ、コックというより死神の類を彷彿とさせる。
「バケモノ……!?」
頭が真っ白になって、後ずさりする。と、足元からビチャ、と水音がした。
見るとそれは、ついさっきもがき苦しんで死んだ男から絞り出された、汗と尿と胃液でできた水たまりだった。
すぐ隣の死体——見ず知らずの天空に助けを乞うでもなく、ただ逃げろと促した男——は、全身の水分を失って乾き切り、汚れたしわくちゃの紙細工のように成り果てていた。
ここで日和ったら終わりだ。
歯を食いしばって自分を奮い立たせる。怖がるのは後でいい。今すぐここから逃げるんだ。
『料理ができあがルまで、おとなしくしてもラいますよ』
怪物が杖で床を突くと、床から這い出るように三体の怪物が出現する。彼らは全身を汚れた布で巻かれ、風切り音のような呻きを上げながらふらふら揺れ動いている。さながらミイラと死霊使いだ。
天空は室内を見渡す。どこかに突破口があるはずだ。客席への扉はタツヤが立ち塞がっていて行けそうにない。ならば————
『取り押さえロ!』
号令を受け、一番近くのミイラが俊敏な動きで迫ってくる。天空は右に動いてそれを避け、次いで左手から回ってきた相手を蹴り倒すと、コンロの鍋を思い切って持ち上げ、
「こぉんのぉ!!!」
大きく体を捻らせ、タツヤに向けて中身をぶち撒けた。
『ヌウッ!?』
たちまち部屋に充満するケミカル臭。怪物たちが一瞬怯んだ隙に、天空は客間へ飛び込み、脇目も降らずに店の出口を目指した。
だがそんな彼女の背を、怪物の放った水の渦が突き飛ばした。
「きゃあっ!!!」
激流をもろに浴び、天空は頭から転倒した。
すぐに立とうとするも、床にできた水溜まりがぬるぬる滑って上手くいかない。それに加えて、左手にひりつく痛みを感じた。
見ると手の皮膚が火傷のように赤く爛れていて、思わず呻き声が漏れた。やはり普通の水ではない。
『おヤ、食事前にどこへ行ク気ですか?』
はっと顔を上げると、厨房の前にタツヤが居た。遅れてミイラたちが一斉に客間へなだれ込んでくる。
顔の前で両腕を合わせて身を守ろうとするが、多勢に無勢だった。瞬く間に腕を握られ、脚を掴まれ、そのままミイラたちに組み伏されてしまう。
「クソっ、 離してッ!!!」
懇願も聞き入れられるはずがない。いくら押し返しても、ミイラたちはまるでびくともしなかった。彼らの手はひどく冷たくて、触られているところから体温が奪われている気さえした。もう何の抵抗手段もない。死の恐怖が気道を伝い、血管を這い、胸の奥まで絡みついて離さない。
このまま殺されるのだろうか。
そう思うと、今までの人生の記憶が頭を駆け巡った。
天空は、自分をとても幸福な人間だと思って生きてきた。
家は裕福とは言えなかったが、父のおかげで衣食住に困らず、不自由を感じたことは一度も無かった。友達は別に多くはないし、海外旅行に行ったとかとんでもない高級料理を食べたとかみたいなことはなかったけれど、家計とか環境といったしがらみもなく、何でも好きなように、自分の進みたい道を選べる身分だった。
だというのに天空は、自分の道を選ぼうとしなかった。自分が選べる道が何なのかわからなくて、けれど、誰かからそれを与えられたわけでもなかった。
この十八年余り、天空は人に褒められるようなことも、人に誇れるようなことも何一つしてこなかった。ただ能天気に、のらりくらりと面倒事をかわして生きてきた。
彼女には、己の手で人生を切り拓くだけの力も術ももっていなかった。
だから父との思い出以外、記憶の中には何も残っていなかった。
どうして私は、こんな私なんだ。
(嫌だ)
嫌だ。どうしてこんな、意味のわからない死に方を。
嫌だ。まだ、何もしていないのに。
「嫌だ!!!!!!!」
瞬間、ポケットの中が熱くなり、
ゴオッ――
と、青白い光が起こった。
『ウギャッ!?』
熱をもった眩い輝きに、ミイラ達は吹き飛ばされ、タツヤは目を覆った。天空だけが、その目で光を見た。
夜空のような、深海のような、青くて美しい煌めきを。
(綺麗……)
光のドームは一瞬で部屋に満ち、消え去った。
『ウぅ……なんダ、今ノは……』
タツヤはうずくまり頭を抱えた。天空にもそれは分からなかいが、自分を取り押さえていたミイラは全員離れている。チャンスは今しかない。
天空は立ち上がり、扉を蹴り開けて店の外に出た。
『あっ、オイっ! 逃ガすな!!!』
後ろからタツヤの声がする。もう何がなんだかわからないけれど、とにかく今は逃げ延びなければ。