#3 ストレート・アローズ 6
逢坂の依頼を終えた二日後、昼前に一本の電話が掛かってきた。
「お電話ありがとうございます。林防除会社でございます」
『もしもし? この間お世話になった逢坂なんですけども』
天空が事務所の黒電話を取ると、聞き覚えのないしわがれた女の声が受話器から聞こえた。
「あー……えっと、逢坂様でいらっしゃいますか……?」
どう応じていいかわからずしどろもどろになると、電話の主は『あら、ごめんなさい』と言った。
『そういえば、そちらと顔を合わせたことはなかったですね。あたしは、逢坂房子、と言います。朋美さんの義理の母です』
名前の部分を区切って強調した彼女は、ゆっくりだがしっかりとした喋り方だった。
「ああ、そうでしたか。いつもお世話になっております。その後どうかされましたか?」
電話応対があまり得意ではない天空は、まさか鹿が駆除できてなくて苦情を入れてきたのか……? などと、悪い考えを急速に思い浮かべてしまった。しかし電話口の相手は『あー』とか『うーん』とか口ごもるばかりで、なかなか要件を言わなかった。
『そうだねぇ、なんて言ったらいいのか……とにかく、とにかくお金のことは後回しで、今すぐ来てくれませんかね』
ただ懇願するようにそう言って、電話はがちゃりと切れた。
林に事情を説明し、二人はすぐに車で逢坂ファームへ向かった。林の運転は相変わらずひどいとしか言いようがなかったが、最初の頃よりかは慣れてきた。
農道の傍らに車を停めて降りると、農地の一角に佇む茅葺屋根の古民家から、藍の野良着に前掛けを着けた老女が出てきた。
「突然お呼びしてすみませんね。私が房子です。いつもうちの嫁が世話になっております」
逢坂房子は腕を大きく振ってこちらに歩んできた。機敏な動きは若々しく、老いを感じさせなかった。
「こちらこそお世話になっております。わたしは社長の林、こちらは研修中の東濃と申します。本日はどういったご依頼でしょう? また鹿の被害でしょうか」
林が問い、天空はわざとらしくならない程度の角度で会釈した。房子は皺の深い顔を曇らせ、
「いや、多分鹿じゃないんですが……見てくださった方が早いね。ちょっとこちらへ」
と、近くの畑に二人を案内した。目に入ったのは、黒い土に残された一組の足跡だった。
「何の足跡ですかね」
天空が疑問を述べる。それは畑の中を何度も方向転換して彷徨い歩き、最後は山の方へずっと伸びている。獣にしては形が人に似すぎているし、人にしてはあまりに大きすぎる。これだけはっきり残っているということは、できてから時間も経っていない。
「鹿を駆除してもらった次の日にできてたんです。それから日が経つごとに増えて……作物は荒らされていないんですが、気味が悪いったらありゃしない」
肩をすくめる房子。
「朋美さんはこの件をご存知なのでしょうか。彼女が畑を管理されていると、以前お聞きましたが」
「もちろん。ただねぇ、あたしがお宅に電話したとき、自分で何とかすると言って、山に行ってしまったんですよ」
彼女は林に答えた。
「えっ? それじゃあ朋美さん、今は山に一人なんですか?」と、天空。
「ええ。私が畑を守りますって、取り付く島もなく」
房子は首を縦に振った。秋口の山一人で入るなど危険極まりない。まして、何が棲んでいるかわからない山に。
「だったらすぐに連れ戻さないと……ですよね!?」
天空は林に目配せする。
「嫁のことは気にしなくていいです。あの山には何遍も入っていますから――それにしてもあの子、真面目なのはいいけど、向こう見ずっていうか、人に助けを求めないっていうか。朋美さんが何を考えているのか、あたしにはさっぱりですよ」
房子は極めて冷静だった。義娘相手にちょっと冷たすぎやしないかと天空は思うが、口には出さなかった。古い社会の嫁と姑はどこもこんな関係なのか。
「つまり、ご依頼は足跡の正体を調べること。朋美さんの捜索は含まないということでよろしいでしょうか」
「はい。できれば駆除もお願い致します。いつ実害が出るかもわかりませんから」
いつもは最初から駆除対象がはっきりしているが、今回はまず相手の正体を探らなくてはならない。害獣駆除というより生物調査のようだった。
「かしこまりました。ひとまずわたしたちも山に入って、足跡を追ってみます。あとはお任せください」
林が言うと、房子は「ありがとうございます」と頭を垂れ、家に戻って地図を持ってきてくれた。
積めるだけの道具は車に積んでいた。山登りに必要な持って、二人は山へ入った。
斜面は緩やかで歩きやすかった。木立は開けていて、頻繁に人が出入りしているのか、踏み固められた道も整備されていた。足跡はそれを通った後、途中で草地に踏み入っていた。草はくっきり折れ曲がるほど固く踏みしめられていて、楽に辿ることができた。
空気はいやに穏やかだった。本来なら聞こえてくるはずの鳥のさえずりや、木の葉のざわめきなどが一切聞こえない。奥へ向かっていくほど、静けさは深みを増していくようだった。獣たちは全員で払っているのか、どこかに隠れているのか、小鳥一羽も見えはしなかった。
足跡は中腹に差し掛かった辺りで唐突に途絶え、二人は立ち止まった。
「どうしよう、これじゃあ捜しようがないんじゃ」
「そうでもありません。これだけ痕跡がはっきり残っていますから、まだ近くに標的が居るかもしれません」
「手分けしますか?」
「いえ、一人になるのは危険です。一緒に動きましょう」
林はコンパスを出し、地図を確認する。
「逢坂さん、本当に大丈夫なんですかね」
逢坂朋美は単独で足跡を追っている。彼女とは少し言葉を交わした程度だが、畑を荒らす鹿にかなり業を煮やしていたのは覚えていた。解決に動くのも無理はないだろう。
「この地域に住む方々は山に慣れています。わたしたちの心配は無用ということでしょう」
「でも、やっぱり心配ですよ」
外界に居た頃、ひっきりなしに熊害のニュースが報じられていたのが記憶に新しい。この平和な日本で、唯一人間を食い殺せる野生動物が熊だ。その熊よりも実態の掴めない何かが、おそらくこの山に潜んでいる。
「逢坂さんはしっかりした人です。房子さんに教わって、ここでの暮らし方も身につけたと以前仰っていました。それに、今回の依頼はあくまで畑の侵入者を突き止めて仕留めることです。それ以上のことをしようとするのは、差し出がましいだけ」
「……意外とドライなんですね、林さん」
冷徹な林に、天空は零した。上司である彼女が言うのだから、天空は従うべきだった。けれど少しばかり、反発する気持ちがないわけでもなかった。
「冷たいと思いますか」
林は地図に目を落としたまま問いかけた。「いや、別にそこまでは」などと取り繕う天空に、彼女は何故か自嘲気味に笑った。
「わたしもそう思います。これでも本当は逢坂さんが心配ですし、捜したいところです。けれど以前、言われたことがありまして。『頼まれてもいないことを勝手にするのは、ただのお節介だ』と。小さい頃からのお友達に」
天空は言葉に詰まった。
「ええ。わたしは昔からずっと、その人のお世話をしていました。何不自由ないように、気持ちよく過ごせるように。ただ、彼はあるときにそう言って、お世話を拒むようになってしまいました。当時はやや……不愉快に思ったりもしましたが、今となってはわかります。自分が余計なことをして、彼を縛りつけてしまったのだと。それからわたしは、誰かをお世話するとき、頼まれたことだけをするようになりました。本当はもっといろいろしたいのですけれど、善意を押しつけても、困らせてしまうだけですから」
「……その人とは、今も友達なんですか」
「ええ。ちょっぴり気難しくて、素敵なお友達です」
林は目尻を下げた。愛おしそうで、けれど少しばかり寂しそうだった。
――ズオオォォッ!
そこでにわかに、森が激しくざわめいた。
「な、何……?」
天空は眉をひそめた。枝葉と同時に地面も揺れた気がした。
「東の方から聞こえました。行ってみましょう」
いつの間にか日は落ちかけ、空を陰気なオレンジに染めている。二人は急いで山の東側へ向かう。
その内、木々の隙間にできた広場のような所が見えて、天空は「あっ!」と指を差した。落ち葉と落ち枝が埋め尽くす中に、小さな人影があったのだ。間違いない。
「逢坂さん!」
天空が呼びかけると、逢坂はこちらを振り向いた。彼女は野良着のままで、荷物もまったく持っていなかった。本当に着の身着のままで山に入ったのだろう。夜になる前に発見できなかったらどうなっていたことか。
「こんにちは。無事で良か――」
安堵しつつ駆け寄ろうとして、天空は止まった。逢坂の後ろに何か、黒い物体が倒れていることに気づいたからだ。
それは鮮やかな血溜まりの上に、手足を投げ出して仰向けになっていた。血の量からして死んでいるのは明らかだった。他方、逢坂に負傷している様子はなかった。
「……何があったんですか?」
彼女は林の質問にも答えない。ただ姿勢を低くし、長靴を履いた足でじりじりと二人ににじり寄ってくる。さながら敵を前にした狼だ。
「逢坂さん?」
天空が問うた瞬間、
「うああああああッ!!!」
彼女は奇声を上げて飛びかかってきた。
「ひゃっ!」
天空は体を横に逸らして避ける。逢坂はまたゆっくり振り返ると、今度は拳を握り締めて林に殴りかかろうとする。
「なっ、何するんですかっ!?」
林が逢坂の手首を掴み、両者は押し合いになる。歯茎を剥き出して食い下がる逢坂の眼鏡の奥には、初めて会ったときのような理性は宿っていない。
「ちょっと! やめてくださいっ!」
とっさに天空は逢坂の腹を抱きかかえ、むりやり引き剥がした。そのまま二人はもつれるように倒れ、揉み合い、最後には互いを突き飛ばした。
「ぐっ……逢坂さん、どうしちゃったんですか……!?」
口に入った枯れ草を吐き出し、天空は林に支えられて立ち直る。逢坂もこちらを凝視したまま、ゆっくり体勢を戻す。
「あなたも……あなたたちも、畑を荒らすつもり?」
訳のわからない台詞を口走る逢坂。眼球は強迫的に血走り、息はひどく荒くなっている。
「はぁ? 何言ってるんですか、私たちは房子さんの依頼で、例の足跡を調べてるだけですよ!」
「そうです。わたしたちはお宅の畑にも、あなたにも危害を加えたりはしません。どうか落ち着いてください」
天空が返し、林がなだめる。
「……うちの畑に、手を出すなんて許さない……」
しかし、逢坂に二人の声は届いていないようだった。
その変わりようは、天空の嫌な記憶を呼び起こす。初めてこの町に来た日、話の通じない狂人に殺されかけたことだ。
(まさか……)
「うちの畑を荒らす奴は、全員私ガ駆除しテやる!!!』
逢坂が叫ぶと同時に、彼女の体は半透明な緑のゲルに包まれる。ゲルは瞬く間に黒く硬化し、そこに異形を顕現させる。
「フレンジー……!?」
体は元の姿よりも遥かに大柄だ。全身はボディアーマーを思わせる漆黒に覆われ、白い眼をもつ頭はガラスケースを被っている。手は無い代わりにドリルのような金属棒が右腕にセットされ、左腕には妙なノズルが付いている。女性らしさどころか人間らしさも失われた、戦闘ロボットに近い容貌だ。
「下がって!」
とっさに鞄からステッキを出す林。怪物と化した逢坂が急接近し、ドリルで腹を殴りつける。
「ゔっ!」
ギリギリ変身が間に合うものの、彼女は痛烈なブロウと膝蹴りを避けられず、木の幹へ叩きつけられた。
「林さん、大丈夫ですか!?」
「っ……はい、廻元者は体が頑丈ですから……それよりも、早く逃げてください……」
天空は苦悶の表情を浮かべる彼女に寄り添った。たしかに目立つ傷はないし、呼吸もしっかりしているが、放っておくことはできなかった。
『二匹まトめて、ここで仕留メるッ!!!』
ガラスケースに覆われた頭から、逢坂はくぐもった声を発した。これが足跡の正体か。
奴はただイカれているだけ――雷破の言葉が脳裏によぎる。物狂いにまともな会話が通じない以上、説得ではどうしようもない。できるのは、力づくで止めることだけ。
「……やるしかないか」
天空は化け物に居直った。奇しくもこの状況は、レストランで男を見殺しにするしかなかったあの日とよく似ていた。けれど違うのは、天空が戦うための力を手にしていることだった。
もしものときのために「鍵」はいつも持ち歩いていた。天空は懐に忍ばせたそれを握り、強く念じながら胸の前に掲げた。
どうか、助けてくれ――その思いに呼応するように、暖気を伴う無数の環が天空を包んだ。
不愛想な作業着が、純白のローブへ変わっていく。ベルトやブレスレットで飾り立て、胸元に円の意匠をあしらうと、天空は新たな姿に生まれ変わる。
「東濃さん、あなた……」
体内から湧き上がる熱は夕暮れの山に降りた冷え込みを相殺し、天空の原動力となる。
「私が相手になります!」




