#3 ストレート・アローズ 3
食べ物も医薬品も限られた町の人と比べると、外界で暮らしてきた天空は、肌つやが良くて健康的に見えるのです。
「着いたぞ、ここが今日からお前が世話になる『まちばり荘』だ。見てみろ、立派な造りじゃないか」
「どこがですか?」
三船に指し示された建物は、二階建ての古い木造のアパートだった。塀の向こうに見える建屋は、黒い木目が日焼けし、元は赤かったのだろう屋根はひどく塗装剥げしていて、窓越しに見えるカーテンは黄ばんでおり、どう取り繕っても立派だとは到底言い難かった。一応、玄関前の石畳がそれなりに整備されているのは救いかもしれない。
「文句を言うのは勝手だが、感謝はすることだ。身元不明人のお前を住まわせると快諾してくれたのは、ここの大家だけだったんだぞ。ろくな住まいのない連中なんて、ハシボソにでも行けばごまんといる。安全な寝床があるだけマシだ」
三船はそう言って、「ごめんください」と戸を叩いた。
彼女と交戦し、乱入した石住に敗北したのが四日前。それから警察署に連行され、繰り返し何度も取り調べを受けていた天空は、今日やっと娑婆に戻ることができた。といっても、外の世界には帰らせてもらえなかったのだが。
「はーい……あらぁ、素敵な方!」
ガラス戸を開いて出てきたのは、割烹着を着た髪の短い中年の女だった。
「どうも、中央署の三船です。昨日ご連絡した件で、引き取り対象を連れて参りました」
「あー、あなたが三船さん! ごめんなさいね、すっごく綺麗な方だからびっくりしちゃったわ。こんにちは、大家の播磨です」
歯の浮くような台詞にも動じず、三船はこちらに目配せして自己紹介を促した。
「は、はじめまして、東濃です。今日からお世話になります」
借りてきた猫を装い、天空は挨拶する。
「まあ、あなたが。若いって聞いてたからどんな子かと思っていたけど、またずいぶん可愛らしいわねぇ」
「えっ? か、可愛い、ですか?」
天空は困惑した。そんな世辞、今まで言われたこともなかった。
「ええ。お肌も白くて髪も綺麗だし、お洋服もとっても似合っているもの。二人並んでいると、まるで良いところのご子息とご令嬢みたいだわ」
なおもくねくねする播磨に、三船は咳払いをした。
「では確かに引き継ぎましたので、私は失礼します。東濃、困ったことがあれば彼女か隣人にでも頼れ。くれぐれも失礼のないようにするんだぞ」
三船はさっさと踵を返し、播磨はひらひら手を振る。
「あの、お部屋を確認しても」
「あっ、そうだったわね。いやだわあたしったら浮かれちゃって! さ、どうぞ」
播磨に伴って、天空はアパートに入った。
一階の食堂と台所を案内された後、天空二階に通された。急階段を上った先に廊下があり、左右に計六つの居室がある形だった。
「ここが東濃さんのお部屋。入ってみて」
播磨が「102」と書かれたドアを開けると、四畳半の和室がお披露目される。箪笥と折り畳まれたちゃぶ台が左の壁際に置かれ、正面に窓、右手に押し入れがある、なんともまあ味わい深い部屋だ。
「ごめんなさい、古臭い建物で。直すお金も無くってねぇ、おかげで閑古鳥が鳴いてるのよ。だから入居してくれるだけで嬉しいわ。誰であれ、ね」
「いえ……お構いなく」
天空は部屋の中央に進み、ボストンバッグを置いた。狭苦しいがかび臭くはなく、居心地は存外良さそうだ。
「お布団は押し入れに入ってるから。お手洗いは一階のを使って。あ、それからお風呂は無いからね」
「え゛っ」
奇妙に呻いた天空。留置場に居た間、風呂に入るどころかシャワーも浴びられず、もう精神的に限界だった。アパートなら湯船に浸かれると思っていたが、見通しが甘かったようだ。
「あの……言っちゃなんですけど、私しばらくお風呂入れてなくって……どうすればいいですかね?」
「あらそうだったの。どおりで汗っぽいと思ったわ。夕方になったらお風呂屋さんが開くけど、それまでこのままっていうのも可哀想ね」
うーんと唸る播磨は、しばらくしてぽんと手を叩き、
「そうだわ! 裏庭に水道があるから、そこで水浴びしちゃいましょう」
「えっ? だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫、裏庭だから誰も覗いたりできないし。タオルも着替えも用意は任せて」
物理的に背中を押され、天空は中庭へと連行された。
水浴びを終えた天空は、播磨から借りた花柄の浴衣に着替えた。着付けがわからず苦労したところを播磨に助けてもらって、「もうすぐ秋だから暖かい服も用意しておいてね」と念も押された。たしかに、素肌の上にすぐ浴衣を着ると、若干肌寒い気がした。
(お金、稼がなきゃな)
自室の畳に寝転びながら思う。服にしろ何にしろ、とにかく金が要る。
財布は他の荷物と一緒に警察から返されたが、入っている現金はたかだか数万円程度。銀行のキャッシュカードも町では無用の長物だ。家賃も警察や役所が払ってはくれないし、播磨も最初は大目に見ると言ってくれたが、滞納が続けばさすがに追い出されるだろう。
「めんどくさいなあ」
ぽつりと呟く。外界でも職探しに苦労していたのだ。なにもかも勝手が違うこの町で、易々と職にありつけるとは思えない。今まではずっと叔母に寄生していたけれど、これからは自力で金を稼がなくては生死に直結する。とはいえ、どうやって稼げばいいのか。
「そらちゃーん」
座布団に顔を突っ込んで考えるふりをしていると、階下から播磨に呼びかけられた。
「さっきお隣の部屋の人が帰ってきたから、食堂に来てご挨拶しちゃってー」
隣の部屋というと、多分101号室か。やることも無いので、天空はすぐに部屋を出た。
急な階段をおっかなびっくりで降りていくと、玄関の前に着く。そこを右に転回して廊下に行き、天空は食堂の戸を開けた。
「……あ」
そこには、思いがけない人物が居た。
「なっ……お前……!」
腰で結んだつなぎ服に、白いシャツから覗く筋肉質な両腕。あまり整えられていない黒髪に無精髭、そしてなにより、ウミネコのように力強く鋭い目。
「えぇーっ! 稲見さん!?」
稲見雷破。怪物に襲われていた天空の命を救った、目つきと口の悪い廻元者の男。そんな彼が、椅子にだらんと座って煙草をふかしていたのだ。
「どうして!? えっ、ここに住んでるの!?」
「それはこっちの台詞だ! ってか、なんて格好してやがるんだお前」
テーブルに手を突いて身を乗り出す天空に、雷破は顔をしかめて顔を逸らした。
「格好?」
「服、ちゃんと着とけ」
「……あっ」
指摘されて確認すると、寝ていたときにずれたのか、いつの間にか浴衣の衿が開いていた。「ご、ごめんなさい!」と慌てて直す。
「ったく気ぃつけろよ……で、なんでお前がここに居るんだ?」
天空は彼に、ここまでやって来た経緯を大まかに話した。ただ、自分があの力を手に入れたということは伏せた。あまり言いふらすなと三船に忠告されていたからだ。
「だから言ったろ、ただの人間が外に出ようなんて無茶だってな。あいつに止められたのは相当運が良いぞ、お前」
雷破は煙をもくもくと吐いた。
「稲見さん、三船さんのこと知ってるんですか」
「前にちょっとな」
石住と三船だけでなく、三船と稲見にも繋がりがあったとは。まったく狭い世間だ。
「にしても、逮捕されなかったってのは驚きだな。あいつだったらその辺は厳しそうだが」
「さあ。ただ偉い人たちが話し合って、私の扱いを決めたって言ってました」
「扱い?」
「ええ。なんでも私、身元不明人? らしいです」
「……まあ間違っちゃいねぇか。だが、わざわざそんな肩書き与えるなんざ、お上の連中が考えてることはさっぱりわからんな。っつーか、預け先なんて別にここじゃなくてもいいだろうが」
雷破は天井を仰いだ。紙巻き煙草の煙が、さながら蜘蛛の糸のように立ち昇っていた。
「仕方ないじゃないですか。私を住まわせてもいいって言ってくれたの、播磨さんだけなんですから」
三船によれば、住居探しにはかなり苦労したらしい。町中のアパートや寮に片っ端から電話を掛けて、唯一承諾したのが播磨ということだった。
「ここは空き部屋ばっかりだからな。あの人はずっと入居者探してるから、お前を受け入れたんだろ、きっと。あと、ああ見えて家賃にはうるせぇぞ」
「そうなんですか?」
結構親しみやすそうに見えたが。
「前に俺の家賃が遅れたとき、払うまで飯抜きにされてよ。んで問い詰められたとき、給料が遅れてるから払えないって説明したら、わざわざ俺の職場を見つけ出して殴り込みに来たんだよ。鬼みてぇなうちの親分、あの人の前じゃたじたじだったぜ」
含み笑いをしながら打ち明ける雷破。彼もこんな顔をするなんて、意外だ。
「あらー? なにか言ったかしら」
裏庭から伸びやかな声がして、雷破は煙草を落としかけた。
「いや! なんでもねぇっすよ!」
彼は引きつった笑いで瞬時に応じ、灰皿に煙草を押し付ける。
(怖……)
播磨のいる所で下手な話はしない方が良いようだ。どこまで筒抜けかわかったものではない。
「それにしても、なんか嫌だな。身元不明人って」
「あ?」
天空が愚痴を零すと、彼は首を捻った。
「だって、普通それって死んだ人に使う言葉でしょ。なんか生きてるのに死んだことにされたみたいで」
身元を特定できないから身元不明。理屈はわかるが、抵抗感はあった。まるで自分が見えないものとして扱われているようで、気分が良くなかった。
「ただの肩書きなんざ気にするだけ無駄だ。それよりお前、これからどうすんだ」
彼はさして興味も無さげに訊いてくる。
「まずお金を稼ごうと思います。それから今度こそ、この町を出ます」
天空の宣言に、雷破は鋭い目を細めた。
「驚いたな、まだ諦めてなかったのか。また考えなしに密航でもする気か」
「違いますって。ちゃんとお金を稼いで、どれだけ時間がかかってでも帰ります」
「ほお。お前をこの町に連れてきたガキのお願いとやらは、もう済んだのか?」
「……もういいんです。きっとここは、私の居場所じゃないから」
天空はこの四日間のことを思い返す。外に帰ってもやることなんてないだろう。ただ無意味に、空っぽに、いつもの日々を続けるだけだ。だけど、こんな場所に閉じ込められるのは自由を縛られているのと変わらない。金を稼ぐというのは、天空にとって自由を取り戻すための戦いなのだ。
「そうかい。ま、せいぜいくたばらねぇようにな」
と、彼は席を立つ。
「あと、ぜってぇ面倒ごとは起こすんじゃねぇぞ。うるさくしてもただじゃおかねぇ」
最後にこちらを一瞥して、雷破は食堂を出て行った。
何気なく、部屋の隅に置かれた姿見の前に移動する。そこには鏡面と向き合う自分が映っている。浴衣姿で濡れた髪を下ろし、鎖骨を露わにして。和服を着たことはほとんど無いから、なんだか新鮮な気分だ。
「まさか私って……可愛い?」
鏡の自分に問うように天空は言った。これまで自分の容姿はあまり気にしたことはなかったけれど、播磨は可愛いと褒めてくれた。以前遭遇した荒くれ者も、見た目は悪くないと言っていた。
それになにより、自分の素肌を目にしたときの雷破の反応。ひょっとすると、これは使えるかもしれない。
(よし)
着替えて町に繰り出そう。腹を決めた彼女は、自室に戻った。
一週間後。
「あーん……なんでぇ……?」
食卓の上に顎を乗せ、天空は一人嘆いた。夜に浮かれる庭の虫が歌声を披露しているが、彼女の心には響かなかった。
「どけ。飯置くのに邪魔だ」
雷破に窘められて姿勢を正すが、数秒も保たずに背中が丸まる。彼は無視して味噌汁の茶碗をテーブルに置く。
「そらちゃん、お仕事探しは順調?」
播磨の質問に天空は頭を振った。
「いろんなところの面接受けましたけど、ぜーんぶ駄目でした。服屋も蕎麦屋も、製氷所も掃除屋も。どこなら受かるのって感じで」
「あらまあ」
七日間、一日たりとも就職活動を休んではいないが、雇うと言ってくれたところはただの一つも無い。もう逆に仕事の方が来てほしい。
「今日の工事会社の人なんて酷かったんですよ。誰でも履歴書無しで即日面接っていうから来たのに、一目見るなり門前払いですもん」
今のところ書類無しで手っ取り早く面接できるところに絞っているが、成果はゼロだ。履歴書を書こうにも何を書けばいいかで引っ掛かる。資格も職歴も無いのはもちろん、卒業した学校は当然すべて外界にあるから、素直に書いても面接官に首を傾げられるだけだろう。
「当たり前だろ。土建で欲しがられんのは力のある男だ。お前はどっから見ても女だし、体力だって高が知れてんだろ」
「体力なら自信ありますよ。ろくにご飯も食べずに丸一日歩き通したことがあるって知ってますよね?」
町に迷い込んだ初日は、とにかくトラブル続きで食事をとる暇などなかった。倒れなかったのが不思議なくらいだ。もしかするとあの鍵がくれた不思議な力も関係しているのかもしれないが、二人にそれを打ち明けるのはやめておいた。
「だとしても、雇われたからって誰でもすぐできる仕事じゃねえ。何年も下積みしねぇと無理だ。大方、ハシボソで暇してるような男衆を集める算段だったんじゃねぇか」
「じゃあ、始めから用なしだったってことですか?」
「そういうことだ」
天空はがっくりと肩を落とした。一縷の望みにかけて応募したが、やはり無謀だったか。
「凹むなあ。こうたくさん不採用を突きつけられると、社会に必要ないって言われてるみたい」
「人の役に立つかどうかより、お前はまず金を稼ぎたいんじゃなかったのか」
「そうですけど、それはそれとして役には立ちたいですよ」
天空は唇を尖らせる。
「わからねぇな。なんでそう思う」
漬物の載った皿を食卓の真ん中に置き、雷破は天空の斜め向かいに座る。
「なんでって……そう教わったからとしか」
あの言葉を聞いたのは、十一歳か十二歳の頃だったと思う。
たしか学校の宿題だった。自分の将来の夢について考えて、作文にしましょうといった類の。
白紙の作文用紙とにらめっこをし続けて、ついに途方に暮れて天井を仰いだ天空に、父はこう説いたのだ。
「人にはそれぞれ、自分だけの道がある」
「道?」
「そうだ。生まれも育ちも、何をして何をしないかも、人それぞれ違う。だけど、自分が納得できるように生きるには、自分に合った道を見つけるしかない。お前にもそれを見つけてほしいって、父さんは思ってる」
そう言って、頭をひと撫でしてくれた。
あのとき自分は、彼に何と返したのだっけ。
「どっちだって一緒よ。需要があるところにお仕事が生まれて、お仕事があるところにお金が生まれるもの。社会では人の役に立つことと、お金を稼ぐことは同じなのよ」
配膳を終えた播磨は天空の隣に座り、真っ先に挨拶をして箸を取った。天空と雷破もそれに続いた。
「ところで、そらちゃんってどのくらいのお金がほしいの? 生活できるくらい? それとももっとたくさん?」
と、播磨。
「ものすっごく稼ぎたいってわけじゃないんですけど、三十万円貯めなきゃいけなくて」
「三十万ねぇ。もしかして『外』に行きたいの?」
「はい」
自分が外の世界から来たということは、播磨には話していない。これも三船に言いつけられたことだ。
「そっか。それなら……もし抵抗がなかったらなんだけど、夜のお仕事はどう? 町で女の子が大きなお金を稼ぐなら、それが一番近道だし。カフェーとか短い間に結構稼げるって、若い子たちには評判よ」
「いや、やめた方がいいっすよ。ああいう店はヤクザが仕切ってるとこも多いっすから。下手すりゃ、ろくでもない連中に目ぇ付けられちまう」
播磨の提案に雷破が口を挟んだ。ヤクザというと外の世界では廃れている印象が強いが、この町ではまだ根を張っているらしいというのは、一週間の内に聞き及んでいた。それらしい人物を目撃してはいないが、ヤクザでなくとも櫻井のような連中が徒党を組んだり、阿漕なことであぶく銭を稼いだりしているのだろう。
「カフェーなら真っ先に応募しましたよ」
「ええっ!?」
「はあ!? お前……マジか!?」
天空がさらっと告白すると、二人はほぼ同時に声を上げた。
「だって、そういう仕事は稼げるってよく聞きますし、私可愛いみたいだから、ひょっとしていけるんじゃないかなあって」
「ばっ、おま……けど、まだ職探ししてるってことは、結局受かんなかったんだな」
「いや、一発で受かりましたけど」
「嘘だろ!?」
口をあんぐりさせる雷破。
「受かりましたけど……」
「けど?」
「なんか……私って可愛いけど、動きは遅いし面白い話もできないみたいで……明日から来なくていいって言われて……」
「可愛いってのは否定しねぇのかよ」
外界ではとかく舐められがちだが、あの手の店で働く人間というのは接客のプロフェッショナルなのだ。ぼったくり店の経験程度で本職には勝てないのだと、天空は思い知らされたのだった。
「はぁ、思い出したらまた気持ちが沈んできましたよ……」
「じめじめした空気出してんじゃねぇよ。飯がまずくなっちうまう」
「……あ。そういえば、ちょっと前から商店街で人を募集してる所があったっけ」
播磨がまたとない話を振ったのは、天空が陰気なオーラを抑え切れなくなってきたときだった。
「えっ! 本当ですか!? それってどこです!?」
箸を止めて食いついた天空。なりふり構ってなどいられなかった。職に繋がる情報は、どんなものでも逃さない心積もりだった。
「商店街の端っこのビル。たしか、林さんって人の会社」




