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#2 タウン・ウィズ・ノーネーム 6

 客間の古びた革のソファーに全身を預け、天空はぼうっと天井を見つめていた。弱々しい電球の放つ光が、部屋の灰色の壁をほのかに照らしている。

 櫻井に寝床として宛てがわれたのは、ハシボソから離れた場所にある寂れた建物だった。

 表に看板は出ていないが、普段は飲食店として使われているらしい。その根拠に、室内には酒瓶の入った棚とカウンター、数組の簡素なスツールやソファ、テーブルが用意されている。


「仕事って、何するんですか?」


 天空が訊ねたとき、櫻井はこう言った。


「俺が切り盛りしてるカフェーの女給だよ。ちょうど一人抜けて困ってんだ」

「カフェー? 喫茶店のことですか?」

「ん……? お、おお。でも、安心しな。うちはそっちの方はやってねぇからよ。何かあっても用心棒がいるから、任せとけ」


 そうして天空は、いまいち釈然としないままあれよあれよとここへ連れて来られたのだった。

 店には先に一人、黒と赤の派手な着物を着て、長い髪を後ろで結った女が居た。櫻井が事情を話し、天空が二人に自己紹介をすると、女は「ま、せいぜい気楽にやりなさい」とだけ告げて外へ出て行ってしまった。


「天空よ。仕事っつっても、たいしたことはねぇ。お前は客に飲み物運んで、俺らの言う通りにすりゃあいい。あいつもじきに戻ってくる」


 それからしばらくして、三人の男達――天空を襲おうとした連中が店にやって来た。櫻井曰く用心棒とのことで、最初は天空も警戒したが、今度の彼らはこちらにてんで興味も示さず、櫻井と一緒に奥の部屋に行ったきり、ずっと籠もったままだった。

 一人残された天空は、店内を端から端まで見た後、それにも飽きてソファで昼寝をしていた。ここに来て数時間、そろそろ退屈で死にそうになってきた頃、ちょうど奥の部屋から櫻井が出てきた。


「おい、そろそろ準備しろ」

「あ、はい」


 天空は立ち上がった。準備といっても正直どうすればいいかわからなかったが、とりあえずよれたエプロンを直し、カウンターの中に行った。


「……あの。本当に、言われたことだけすればいいんですか」


 天空は櫻井の顔を窺いつつ、もう一度訊く。彼はなにやらカウンターの上にグラスを並べ、布でひとつひとつ磨いている。


「ま、最初だしな。余計なことしなけりゃいい。今日は首尾よく動くってより、お前にそれなりの心構えがあるかを見せてもらう」


 彼は天空を見ずに答えた。あの愛嬌のある笑みはなく、一仕事に臨む前の男の面持ちだった。


「はぁ……?」


 それからややあって、ドアベルが鈍く鳴いた。


「ほら、入っちゃって」

「ど、どうも……」


 先程の着物の女が、若い男を伴って入店してくる。男の方はワイシャツに黒のズボンを履いたおとなしそうな人物で、落ち着きなく店内を見回している。女は入り口から一番離れた席に座るなり、「ウイスキー二つ!」と威勢よく言う。「あいよ」と、櫻井は棚から琥珀色の液体が入った瓶を取り、二杯のグラスに注いで盆の上に置く。


「運びな」

「は、はい」


 両手で盆を持った天空は、二人の席まで行くと、「お待たせしました」なんて言葉を使って二人の前にグラスを置いた。女と男はさっそくそれを持って乾杯した。


「——へぇ、ウイスキーってこんな味なんだ。なんていうかすごく……酒っぽいというか」

「慣れさ慣れ。飲んでりゃだんだん馴染んでくるさ」


 酒を一口含みそんな言葉を交わす男女。 男の方はともかく、女の方はここの従業員のはずだろうに、なぜ客のように振る舞っているのだろう。疑問を抱きつつ戻ろうとしたところ、


「あ、待って待って」


 と、女にエプロンの端を掴まれた。


「どうせならさ、あんたも一緒に話さない?」

「え? でも私、飲めませんよ?」

「いいじゃん。二人より三人の方が楽しいし、お兄さんもそうでしょ?」


 女の言葉に、青年は「え、ええ、まあ」とぎこちなく頷いた。困って櫻井に目配せすると、彼は行けと言うように顎を振るだけだった。たしかに、指示には従えと言われていた。


「じゃ、じゃあ、ご一緒させてもらいます」

「そうこなくちゃね。じゃ、お兄さんの隣座っちゃって」


 言われるままに、天空は渋々席に着いた。


「良かったねぇお兄さん、美女二人に囲まれて。両手に花って感じ」

 女が不敵に笑む。彼女と天空に挟まれて、青年はひどく緊張しているようだ。天空も天空で、なにか口の中が妙に乾いてくる。

「い、いやあ、光栄です。まさかこんな場所にお店があったなんて、全然知りませんでした。通勤途中に通りかかってるのに」

「あら、お兄さん、この辺りに住んでるの? 綺麗な服だし、てっきり栄路の方だと思ってた」

「たしかに、職場は栄路なんですけど、住んでるのは秋沙で」


 そう言うと、青年は酒を一口あおった。少量のはずなのに、頬がだいぶ紅潮して見えた。


「へぇ~。栄路で働いてるってことは、やっぱり研究所とか? それともアカデミー?」

「いやいや! そんな大層なところじゃないですよ。カワマルの洋服屋で」

「それでも十分立派じゃないの! ねぇそらちゃん」

「え? あ、あー、えっと、ソウデスネ」


 突然話を振られてしどろもどろになる天空。話の流れに一切ついて行けず、自分がここに居るのが場違に思えてしかたない。というかそらちゃんってなんだ。

 そんな風に二人の会話は続き、天空は話を振られる度に気のない返事を重ねた。いくらか追加注文も入ったが、その内帰る流れになって、天空はようやくこのつまらない役目から解放されると期待した。


 その矢先のことである。


「お会計、併せて十八万円です」

「はいはい、十八万ですね……えっ、十八万!?」


 レジに立つ櫻井が放った言葉に、青年は目玉が飛び出そうなほど瞳を見開いた。


「ちょっと冗談やめてくださいよ! いつそんなに頼んだっていうんですか!?」

「二人分の酒代が合計で七千円、つまみが三千円、慰謝料が十七万円で、合計十八万です」

「い、慰謝料!?」

「あんた、うちの給仕と話してるときに脚を触ったろう? 困るんだよなぁ。うちは健全な店だから、そういうサービスは禁止なんだよ」


 とんでもない指摘に、天空の口から「えっ」と声が漏れる。なにせ彼女には、脚を触られた憶えなど一つだってないのだから。


「はぁ!? 僕、触ってなんていませんよ! ねぇ、そうですよね!?」


 青年は必死の表情で天空に助けを求めた。予想外の展開に狼狽する天空は、ただ無言で激しく首を縦に振るしかできなかった。


「どうした~? お金払えないの?」


 そこへ女が加わってきて、男の肩に腕を回した。


「だってそんな大金、今は持ってないし、ていうかそもそも、慰謝料を払わなきゃならない謂れなんてないし!」

「んー、でもさあ、あたしの方からはそらちゃんの側は見えなかったんだしぃ。本当に触ってなかったかはわからないよね~」

「そ、そんな!」

「それにぃ、カフェーの店員って、たしかお客からお金貰ってそういう接待するんだよねぇ。もしそらちゃんがお店に隠れて接待してたらぁ、触られてないっていう言い分も嘘かもしれないよぉ」

「えっ、私も悪いの!?」


 急に矛先を向けられ、天空は跳ね起きるように立ち上がった。櫻井も女も訳のわからないことを言って、何がしたいんだ。触られた記憶なんて本当に無いし、青年から金を貰ったことだって無い。なにもかもでたらめだ。


「給仕は俺からきっちり説教しとくとして、やったことの責任は取ってくれなきゃな」


 すると櫻井は店の奥に向かって、


「おう! 仕事だ!」


 そう大声で呼びかけると、間もなく奥の部屋から荒くれ者たちが入場してきた。彼らは昼間天空にしたのと同じように、手際よく青年を取り囲んだ。今度は櫻井と一緒に。


「な、なんですかあなたたち!?」

「さぁて、どうする? おとなしく払うってんなら無事に帰してやってもいい。だが、断るんならそれなりに痛い目に遭うぜ」


 出口に立ち塞がりながら櫻井は言った。彼の仲間にはバットを持つ者も居た。


「でも、今は持ち合わせが……!」


 青年は青い顔で慌てふためく。さながら肉食獣に包囲される小鹿のようだ。


「安心しな。俺らもそこまで鬼じゃねえ。ひとまず手持ちの分だけ払って、残りは日を改めてってことで。期日はそうだなぁ、三日でどうだい。それを過ぎたら……わかってるよなぁ?」

「み、み、三日ですって!? か、勘弁してください! そんなすぐに用意なんて――」


 そこまで言った青年の胸倉を、櫻井は片手で掴み上げた。


「あぁ!? 町一番の百貨店勤めの男がその程度の金も用意できねぇってのか!? 手前で働いた不埒はきっちり償え!! それが社会の道理ってもんだろうが!!!」


 唾のかかる距離で激しく迫る櫻井。いよいよ青年の口から嗚咽が漏れ始める。


 団子屋で見せた愛嬌のある笑顔からは想像もつかない豹変ぶりに、天空は肩を震わせた。他方、着物の女は青年のことなど知らん顔で、いつの間にどこからか取り出した煙管を退屈そうにふかしていた。どうしてそう平然としていられるのだろう。この場で起こっているのは明らかに一方的な脅迫で、怒声を浴びせ続けられている彼にはなんの罪も無いというのに。どうしてこんな――




(あ……そっか……)




 そこまで考えて、天空はようやく気がついた。

 そしてふつふつと、胸の奥から熱水のような気持ちが沸き上がってきた。


 なおも櫻井は青年を脅し、手下たちはにやけている。こちらのことは視界にもない。

 天空は無言で酒が入っていたグラスを持つと、壁に向かって投げつけた。




 パリンッ。




 短く高い音が場を制し、部屋中の視線が天空に集まった。


「……そういうことだったんですね。私をここに連れてきたのは」


 俯いたまま口にする。


「これってぼったくりってやつですよね。こんなことさせるために――こんなことに加担させるつもりで、私を使ったんですか?」


 ゆっくり顔を上げて、まっすぐ櫻井の目を見た。彼は答えなかった。


「あなたが助けてくれたとき、あなたにお団子を貰ったとき――私、本当に嬉しかったんですよ。見ず知らずの誰かに、居てもいいよって言われたの、本当に久しぶりで。だから櫻井さんのこと、信頼したのに…………本気で信じたのに……!」


 本気で、ただの親切だと思っていた。一回助けられたくらいで、居場所をくれるなんて言葉を本気で信じてしまった。なんて自分は馬鹿なんだろう。


「だからどうした」


 だが、天空が吐き出した心の内を、櫻井は冷たく跳ね除けた。


「まさかお前、俺らがまともな稼ぎ口で生きてると思ってたのか? だとしたらとんだお花畑だ」


 彼は青年をカウンターの方に突き飛ばし、次は天空に迫る。


「今日お前に給仕をさせたのは、お前がハシボソの住人になれるかどうかを試すためだ。生きるためならなんだってする。盗みもするし奪いもする。そんくらいの覚悟がなきゃ、世間のゴミ捨て場で生き抜くことなんかできやしねぇ。もし、お前が素直に俺らに協力するんなら、喜んでお前を迎え入れてやる。だが邪魔したら、お前はもう俺らの養分でしかねぇ」


 やはり最初から、櫻井は自分をただ利用する気でいたのだ。あのとき助けたのも偶然、使えそうだと思ったから。もし駄目でも、手下がやろうとしたようにどこかへ売り飛ばせば金になる。そういう算段だったのだろう。


「結局人ってのはな、どこまで行っても役に立つか立たないかだ。こんな底辺の世界でもな。使える奴はとことん使った方がいい。だが使えない奴や、足を引っ張ることしかできねぇ奴は、肥やしにした方がマシだ。要は『価値』を示せるかどうかなんだよ。わかるか?」


 価値。世界に居ても許されるかどうかを決める指標。ここで反抗することをやめれば、自分には価値があるということなのか。

 天空は青年に目を向ける。手下たちに後ろ手で取り押さえられている彼の顔は、今にも崩れそうなほど不安と恐怖に満ち満ちている。頼れる術も無く、一人で罠に落とされた善良な人間。彼を見捨てさえすれば、自分は櫻井に認められる。受け入れてもらえる。




 そんな価値に、何の意味がある?




「そんなの…………ただのろくでなしよ……!!!」




 天空は櫻井の脇を抜けた。手下の方に向かいながら、手近なスツールを持ち上げた。


「おらぁっ!!!」


 ゆっくり降ろした一発は緩慢で、簡単に避けられた。だが、手下を怯ませるには十分だ。片割れが体を逸らした隙に、青年は拘束を脱した。


「逃げて!」


 出口はがら空きだ。青年は頷きもせずドアを蹴り開け、店を走り去る。ほっと息をついたのも束の間。


「なに晒してんだ!!」

「ぐはッ!!!」


 後ろ髪を誰かに掴まれた天空は、坊主頭の手下に腹を蹴りつけられる。腸がひしゃげ、胃が潰れる。


「せっかく目ぇかけてやったのによ。それがお前の答えか」


 背後から回ってきた櫻井に顔を覗き込まれる。もうその瞳に暖かさはない。ドブネズミを見る目で天空を見下している。こんな人にどうして期待していたんだ、自分は。


「……私は、あんたの仲間にはならない。肥やしなんかにもなるつもりはない。誰かを踏みにじらないといけない生き方なんて、まっぴら御免だから……!」


 自分に何ができるかわからない。けれど、だったらせめて良い人ではありたい。心まで腐った自分なんて、本当に無価値だ。


「そうかい……だったらよ、もう後悔しても遅ェからな!!!!」


 握り締めた拳が迫り、天空は目を伏せた――そのときだった。


「――うっ!?」


 ポケットの中がカッと熱くなり、青白い光が部屋いっぱいに放たれる。

 男らが目をやられている内に、天空の拘束が解かれた。


(これって……あのときの……!?)


 物狂いに襲われたとき、突如巻き起こった煌めきと同じだ。

 ただ、今度はそれだけで終わらなかった。深海のような、宇宙のような輝きは止むことなく、それどころかますます強まっているようにさえ思えた。

 ポケットに手を突っ込み、あの鍵を手に持つ。鍵を取り巻くように、光の円環が廻っている。嵌め込まれたエメラルド色の宝石が、青い耀の奔流を生み出している。

 その核を瞳の中心に据えると、天空のビジョンに何かが飛び込んできた。


 穏やかな夏の日差し。立ち昇る白い煙。馬を引く女。狂喜乱舞する群衆。目を埋め尽くす白光。


 膨大な、無数の、脈絡のない映像が、一秒にも満たず次から次に切り替わる。


 それは誰かが視た景色だった。誰かが感じた世界だった。そのすべてに東濃天空は居た。そのすべてを彼女は憶えていた。



 そして天空は、円環に包まれた。

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