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プロローグ ある夕方

 高砂阿理沙(たかさごありさ)には顔馴染みが一人居る。


「ねえねえ」


 というのは、今机の前で跪き、下方からこちらの顔を覗き込んでいる少年のことだった。友人と呼べるほど親しくはないし、かといって知り合いというには距離が近すぎる。阿理沙にとってこの関係性を表せる言葉は、「顔馴染み」しかなかった。


「ねぇってば」


 字を書く手を止めない阿理沙に、少年はまた呼びかける。


「なんですか」


 夕暮れ時の児童館。ちょうど一区切りついたところで阿理沙は鉛筆を置き、顔を少し上げた。青いベレー帽を被り、赤い鞄を肩から提げた彼は、決まって阿理沙が勉強しているときに声を掛けてくる。初めて出会ったのも、この部屋で自習しているときだった。

 放課後、児童館に来る中学生はまずいない。主に小学生を対象にしているから忘れられがちだが、法律的には中学生が利用しても一切問題はない。おかげで阿理沙は面倒臭い同級生に煩わされることなく、ここで静かな時間を過ごせていた。

 それを壊したのがこの少年であった。


「もし、この世の全てを知ることができるものがあるとしたら、それってどんなものだと思う?」


 彼はやにわに立ち上がると、机に両手をついた。


「この世の全て、というと」


 阿理沙は訊き返す。


「文字通りだよ。大昔から、今までの間に、この世界で起きてきた物事。森羅万象の全てさ」

「答え方がわかりません。あなたが訊ねているのは、方法なのか、体験なのか、物体なのか、判断できない」

「うーん。どれでもいい、かな」


 そう言われて阿理沙は、しばらく考えてみた。こうして奇妙な質問をされるのも習慣だった。そして彼の質問は、いつも捉えどころがなくて、考えても正しい答えに辿り着けなさそうなものばかりだった。心の底まで覗いてみて、頭の裏側をひっくり返してみて、けれどやっぱり思いつかなかった。


「わたしには、よくわかりません。そんなものは存在しないと思うので。存在しないものについて考えるのは、あまり意味のある行いとは思えません」


 だから彼女は、正直に思ったことを告げた。適切でない答えかもしれないが、それしか思わなかったのだから仕方ない。


「へぇ。キミはそう考えるんだね」


 ただ少年は、それを聞いてがっかりする様子は見せなかった。むしろ丸い目を輝かせて、犬のように無垢な顔で阿理沙を見つめてきた。


「たしかに、僕はあくまで仮定の話としてして君に質問したよ。君のことだし、そんな風に答えるのも無理はないさ――でも、僕は実在すると思ってる」


 彼は所在なげに、阿理沙の席の周りをぶらぶら歩いた。そして空いている机に腰を掛けると、窓の外を眺めた。運動場で遊ぶ子供達の声が窓越しに届き、射し込む夕日が彼の頬を照らした。


「根拠はあるんですか」

「本で読んだ、っていうのもあるけど、実際に見たからさ。ボクのこの目でね」


 彼はこう答えた。


「一切合切も、有象無象も。世界の全てを宿したもの――それは、『周期表』だと思う」

 阿理沙は口をつぐんだ。突飛な答えに、何を返せばいいか思いつかなかった。


「あれ、周期表は知ってるよね?」

「ええ。授業で習いましたから」


 周期表。この宇宙の全ての物体を形作る、目に見えないほど小さな粒――原子を種類ごとに分け、規則正しく並べた表。元素周期表、周期律表とも呼ばれる。ちょうどこの間、理科の授業で扱われたばかりだ。

 阿理沙は理科の教科書をめくり、見返しを開く。左右が高く、真ん中が凹んだ横長の表。表を構成するひとつひとつの箱に、一文字か二文字のアルファベットが記され、その上に番号が振られている。横には番号順に、縦には似た性質の元素が並んでいるそれは、実にシンプルに纏まっている。だが阿理沙には、その表にそれ以上の意味を見出せない。


「ボクはね。初めて周期表ってものを、元素ってものを知ったとき、すっごく心が躍ったんだ。キミはどうだい?」

「いいえ」


 授業で習ったことは授業で習ったこと。将来が決まるときに覚えているか否かで明暗を分ける可能性はあるが、それ以上の意味はない。阿理沙にとって、学校で学んだ知識とはそういうものだった。


「『原子』が実際に物体を構成し、手で触れられる粒のことを指すなら、『元素』は原子の種類を意味する。そして、この世は全て、たった百数種類しかない『元素』からできている。信じられるかい? 花も岩も、人も空気も。目に見えないほど小さな微生物から、遥か彼方の恒星まで。世界にはいろんなものが、いろんな姿形をもっている。なのにそれが全部、たったの百種類ぽっちの粒からできているんだなんて!」


 けれど彼は違った。彼は自分が知っている知識を、まるで甘い菓子を作るかのように軽やかな言葉遣いで、とても楽しげにひけらかすのであった。


「ボクとキミでさえ、見た目も声もこんなに違う。なのにその成分は、ほぼ百パーセント一緒なんだよ。ただ、原子のくっつき方がほんの少しだけ違うだけなんだ。これって、ものすごく不思議なことだと思わないかい?」


 阿理沙はほんの少しだけ、目を見開いた。

 これだ。この、世界に奥行きが生まれるような感覚。彼と話をすると、のっぺりしていたただの白いキャンバスのような知識が、生き生きと色づいていくように思えるのだ。


「言われてみれば、そうかもしれません。ですが話が見えません。世界の全てが周期表にある元素からできているとして、どうしてそれが、この世で起きたすべての物事を知ることができるもの、だと思うのですか?」


 先を促されて、少年は机から降りる。


「太古、人類は火を使うことを覚えた。火を使えば、獲物の肉を調理してより栄養価の高い食事ができたし、寒さから逃れることもできたのさ。もしも人類が火を使うことができなかったとしたら、彼らは温かい食事も、厳しい寒さの土地で暮らすこともできなかったはずだ。そうしたら、高度な文明ができることもなく、ボクたち自身やボクたちが暮らす社会が生まれることもなかった。だから火は、人類が文明を作り上げる上で非常に重要なものだったと言えるね」


 少年は興奮気味にまくし立てた。


「ところでキミも知っての通り、火、すなわち燃焼は、物質と酸素が結びつく現象のことだ。つまり人間は、酸素という元素のおかげで、文明を築くことができたんだよ。これこそ周期表が、元素が世界の歴史と深く関わっている一例さ」

「つまり、酸素の歴史を深く探っていけば、火を使い始めた大昔の人々に行きつくと言いたいのですね」

「ああ」

「ならもしかして、酸素以外もそうだと言うのですか? すべての元素が、人類の過去と結びついていると」

「そうだとも!」


 得意げに胸を張る少年。あまりここで大きな声を出さないでほしいが。


「筆記具のような日用品から燃料まで、大昔から人々の暮らしを支え、蒸気機関の普及で社会の仕組みさえも変えることとなった炭素。古代エジプト人がミイラ作りに用い、その姿を今日に伝える役目を果たしたナトリウム。古から現代まであらゆる武器の素材になり、戦争と深く関わってきた鉄。薬として重宝された一方で、歴史上の数多の殺人犯に使われ続けたヒ素。科学の新しい世界を切り拓き、文字通り世界を揺るがす大事変に繋がったラジウム。枚挙にいとまがないだろう」


 流れる水のように滔々と語っていく少年。それを聞くと、無機質だった紙面の表が、ゆっくりと色付いて熱をもっていくような気がした。


「だから元素っていうのは、周期表っていうのは世界なんだ」


 出っ張りは山に、凹みは谷に。激しくうねる海から、金属の平原と離れ小島を過ぎ、カラフルな通りを渡って高貴な宮殿に至る。この表も、見方を変えればそんな風に捉えられるかもしれない。



 けれど。




「無意味です」




 無意味だ。


 彼が広げる話も、阿理沙の想像も、生きていく上では何の意味もない。


「それを知ったところで、いったい何の役に立つんですか? 私にはわかりません」


 冷たい言葉だとは理解していた。けれど本心でもあった。世界の奥行きが生まれても、世界の形は変わらない。阿理沙にはこの行為が、ただ無駄なだけに思えた。


 しかし、少年の態度は変わらなかった。むしろ悪戯っぽくはにかんで、


「意味なんか無くたっていいのさ。楽しければ、それで」



 そして、柱時計が十七時の鐘を鳴らした。

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