#1 ラビット・ホール 1
身元不明線源(Orphan source)……盗難、遺棄、紛失など、何らかの原因により法令に基づく管理を受けていない、または法令に基づかずに処分された放射線源。湧き出し線源とも。
二度寝から覚めたときには、とっくに十一時を回っていた。
「んん……」
携帯電話を充電器から外して、東濃天空は上半身を起こした。
カーテンの隙間から覗く太陽光が目に入ってきて、瞼をぱちぱち開け閉めする。いい加減起きないと暑さで溶けそうだ。
布団に別れを告げて、彼女は部屋から出た。
階段を下りて茶の間に行くと、誰も居なかった。代わりに、叔母が食べた残りと思しい朝食のおかずが数品と、大きな白い封筒が置かれていた。
叔母宛だろうか。大きなあくびをしながら封筒を裏返すと、発送元の欄を見てはっと我に返った。封筒の送り主は、二週間ほど前に天空が面接を受けたばかりの倉庫会社だった。ついに来た。
心臓が小さく跳ねる。急いでテープの封をちぎって開け、中の書類を一気に引き出す。
「あー」
文面をざっと流し読みして、天空は声を漏らした。まったく手応えはなかったので、薄々勘づいてはいた。けれど、せっかく応募したのにこんな結果を突きつけられると、想像していた以上に落胆が大きかった。
畳の上へ横になり、手足を伸ばす。食欲はあまり無い。顔を洗いに洗面所へ行く気も起きない。良くないとはわかっているが、一旦横になるといつまでもだらけてしまう。ドミノ倒しのドミノのように。
そうして数分が過ぎた頃、家のインターホンが鳴り、直後に玄関が開く音がした。
「ただいまー……って、何やってんのあなた」
と、顔を覗き込んできたのは叔母だった。どうやら買い物帰りらしく、手にエコバッグを提げていた。
「竹村さん、仕事は」
「今日は休み。言ってなかったっけ」
大の字に転がる天空をよそに、竹村は台所へ行った。
彼女と一緒に暮らし始めてもう五年目になる。叔母と姪という間柄ではあるのだが、家族というには未だに他人行儀な感が抜けず、どうしても名字で呼んでしまう。
「面接結果、どうだった?」
台所から竹村が訊いてくる。
「だめー」
天空は右手を上げてぶらぶら振った。まぁ、仕方ないことだ。駄目で元々、何の肩書きも信用もない女が、一発でアルバイトに受かるほど世間は甘くないのだ。
「ねえ、やっぱりあなた、学校入ったら?」
「えー」
寝返りを打ち、テーブルの方を向く天空。
「大学とか専門とか、今から勉強すれば来年度は受けられるわよ。公務員の学校とかちょうどいいんじゃない」
「行く気ないって言ってるでしょ。学校入ったって、やりたいことなんかないんだから」
かといって、やりたくないことをやれるほど我慢強い性格でもなかった。
「それに、もし入っても続かなかったら、お金無駄にしちゃうし」
「そこは気にしなくていいの。准教授ってそんなには儲からないけど、四年は学校行けるくらいの蓄えはあるから」
「だから、途中で辞めちゃったら意味ないじゃん」
もう一度転がり、仰向けになる天空。するとちょうど、竹村が戻ってきて、
「そう言うけどあなた、もう卒業して三ヶ月じゃない。いい加減働くなり勉強するなりしてもらわなくちゃ、ただの穀潰しよ」
耳の痛い言葉に、天空は口をへの字にする。
「私だって、ずっとこのままのつもりはないよ。その内なんとかするって」
言い返すも、我ながら説得力のない言葉だと思った。そんな天空に竹村は、小さくため息をつき、
「ま、将来的にちゃんとお金稼いで自立してくれたら、なんでもいいけど」
と、今度は二階へ上がっていった。
彼女が去って、天空はようやく起き上がった。面倒臭いし、顔を洗う前に朝食を済ませてしまうか。
「ん?」
そこで初めて、テーブルの上に葉書が一枚あることに気がついた。
封筒の下に置いてあったらしく、さっきは目に入らなかった。宛名には『東濃天空様』と手書きで記されており、差出人の名はない。とりあえず裏返してみると、『十日後の朝 ここで待っています』という文言とどこかの地名、そして、子供が描いたようなあまり綺麗でない地図が載っていた。
いったい誰が送ってきたのだろう。葉書を出してくるような知り合いは、あまり広くない交友関係の中でも思い当たらない。
ひとまず葉書に書かれた地名を地図アプリで調べてみると、出てきたのは北東北の山間の小さな町、というか山の中そのもの。天空には縁もゆかりもまったくない土地だった。
天空は頭を掻いた。悪戯にしては妙に手が込んでいるし、仮にそうだとして、わざわざこんなことをして何が楽しいのだろう。それに引っかかるのは、送り主が天空の名前と住所を知っているということだ。こっちは送り主の正体など見当もつかないのに、実に不公平な話ではないか。
天井を見上げて考える。どこからどう見ても怪しいし、このまま捨ててしまうのが良いように思えた。誰だって普通はそうするだろう。
けれど。
「竹村さーん」
「なに?」
「私、旅行行く」
十日後、天空はタクシーに揺られていた。
「お客さん、里帰りですか?」
年配の運転手がミラー越しにこちらを一瞥する。朝方の曇天の下、水田地帯を走るのはこの一台のみだ。
「いえ」
「じゃあ、観光で?」
「いや観光っていうか、人に呼ばれて」
誘いに応じた理由は、外に出る口実になると思ったからだった。どうせ家に居てもやることは何もない。ならせめて、どこか遠くへ行ってみよう、と。
それに、手紙の送り主にも好奇心をくすぐられていた。彼または彼女が何の目的で天空を呼んだのかはわからない。ただ茶会に呼んだだけかもしれないし、何か良からぬことに自分を巻き込もうとしているのかもしれない。だがいずれせよ、天空は何か理由があってその人に呼ばれた。誰かに自分を求められることなんて、ずいぶん久しぶりだった。
「はあ。お友達でも住んでるんですか」
「そんなところです」
これ以上詮索されるのが面倒で、天空はそう誤魔化した。山道に入ると、体の重心が傾いて下に引っ張られるのを感じた。乗り心地は良くない。
「へぇー。そのお友達、またすごい所に住んでるんですねえ」
「どういう意味です?」
「いやあ。だって、この辺って本当に何もないからさ。昔は村があったけど、とっくに廃村になりましたし。お客さんみたいに若い女の子が来られるなんて、めったにないことなんですよ」
事前にこの地域のことを軽く調べていたが、彼の言う通り本当に何もない土地のようだった。山の端にぽつぽつと小さな集落がいくつかあるだけで、最寄りの市街からは十キロも離れており、これといった産業も観光地もない。
「あ、でも、都市伝説みたいなのはありますね」
はたと思い出したように運転手は言った。
「都市伝説?」
「ええ。戦前、この近くには大きな町があったんですが、台風の洪水で一夜にして沈んでしまった、なんて内容だったかな」
初耳だった。
「それは……都市伝説にしては変わった話ですね」
「都市伝説っていうよりは、伝説未満の怪しい話ですよ。何年か前にネットだかでその話を聞いたって人を乗せたことはあるんですがね、ずっと町内に住んでる私自身も聞いたことがなくて。そのお客さん、帰りも乗せたんですけど、特に何も見つからなかったみたいです」
ガラス越しに見通す先はどこまでも木の緑に包まれ、一車線の坂が続くのみ。人どころか動物の気配もなく、エンジン音だけが響いている。ここに大きな町があったとは到底思えないほど、茂みは深い。
それから十分ほどして、折れ曲がった標識の停留所に辿り着いた。天空は運転手に料金を払い、ボストンバッグを持って降りた。
「お客さん、本当にここで降りていいの? 本当に何にもないよ、ここ」
降り際、運転手は心配そうな面持ちで言った。天空は白いワンピースのポケットから葉書を出して確かめるが、文面にはやはり、ここで降りるように書いてあった。
「いいんです。行けばわかりますから」
しばらく車道の脇を歩いていき、やがて途中にある横道に足を踏み入れた。
「よいしょっ」
苔むした倒木を乗り越える。そこは本道と違い土が剥き出しで、車どころか人が通った形跡すらない。相当長い間、誰も立ち入っていないことが伺えた。
さあっと湿った風が吹き、背の高い木々と一緒に癖毛気味のポニーテールが震える。日は射しておらず、葉の緑が一層際立って見える。その真ん中で、どこまでもまっすぐ続く道。本当にこの先に居るのか――そんな思いがよぎった時、
「ねぇ」
突然の声に後ろを振り向くと、さっきまで何も無かった荒道の真ん中に、髪の長い少女がぽつんと立っていた。
(いつの間に……?)
歳は十くらいか。下半身は長ズボンで、上は水色の半袖シャツといういささか寒そうな出立ちで、右手をぎゅっと握りしめている。いったいどこから来たのだろう。
「招待状は読んだ?」
こちらが口を開く前に、少女は問いかけた。
「これのこと?」
天空が例の葉書を掲げてみせると、少女ははにかんだ。雲間に覗く青空のような、爽やかな笑顔だった。
「よかった。ちゃんと読んでくれたんだね」
少女はそう言うと、手品を始めるかのようにわざとらしく右手を開いた。中から出てきたのは、鎖のついた懐中時計。本体は金色で、文字盤は薄い青。遠目でも美しい造りだと分かるそれを、少女が顔の前に掲げると。
「え——」
目の前から、少女が消えた。
「は?」
思わず彼女が立っていた位置まで駆け寄り、周りを見回す。右も左も、後ろも上も、特に変わったところはない。ただ、時計と少女だけが、空間から切り抜かれたかのように綺麗さっぱり消えていた。
「でも、これを持ったまま行かれるのは都合が悪いかな」
その声にハッと後ろを向いて、天空は飛び上がりかけた。さっきまで天空が立っていた位置に、少女が例の葉書を持って立っていたからだ。
「……今、何したの?」
額が汗で濡れる。屈託のない少女の笑みが、途端に恐ろしく感じられた。
「もう必要無いし、捨てていいよね」
「ちょっと、ちゃんと答えなさいよ。あなた何者なの?」
「私が誰かなんてどうでもいい。大事なのは、私があなたを招いた理由」
するとまたもや少女は消え――一瞬の間を置かずに、天空の前まで移動した。
喉奥から「ヒュッ」と空気が漏れる。一時も目を離していなかったのに、彼女が動いたことに気づかなかった。寝ぼけて幻でも見ているのだろうか。でなければ、瞬間移動としか言いようがない。
「それ、返すから」
そう言われ、天空の思考が再び回り出すと、左手に何か冷たいものが握られているのに気付いた。
天空が恐る恐る手を開くと、そこにあるのはアンティーク調の鍵だった。色味は真鍮っぽく、持ち手はリンゴの形のような輪っかになっている。実用品というより飾り物の類らしく、先端にはエメラルド色の小さな宝石が嵌め込まれている。その緑は間違いなく、この森のどんな植物より美しい。
「これは……」
天空は眉をひそめて問いかける。
「思い出の品よ。あなたにとっての、ね」
ドザアアアッ!!!
にわかに灰色の空が真っ黒になり、大粒の雨が降り出す。あたりは昼間とは思えないほど光を失っていき、木々が、道が、少女の顔が、徐々に闇で塗り潰されていく。体に雨粒が当たる度に刺すような痛みが走り、とてつもない寒さに凍えそうになる。悲鳴を上げようとして、けれど声は出ず、徐々に息が出来なくなっていく。
完全な黒に落ち込んだとき、聞こえたのは。
『行きましょう。私達の町へ』
草の匂いで目が覚めた。
天空は、道の真ん中に一人で佇んでいた。
雨に打たれたはずの体はどこも濡れておらず、上を見れば、木の葉の隙間から曇り空が覗いている。
早鐘を打つ胸に手を当てる。何が起きたのか理解できなかった。いや、頭が受け入れることを拒否していた。ひょっとして、さっきまでの出来事は夢だったのではないかとさえ思った。最初に葉書が送られてきた頃から、ここに至るまでの道程も、あの少女も。
「……帰ろ」
急速に気味が悪くなってきて、天空は足早に道を戻り始めた。何やらとても、嫌な胸騒ぎがした。ヒヨドリがつんざくように鳴き喚き、一層冷たい風が剥き出しの腕を撫で、天空は思わず両手をポケットに突っ込んだ。
すると右手の指先が、何か硬いものに触れた。
取り出してみれば、それは、あの少女から受け取った鍵だった。
夢じゃない。
天空はしばらく呆然と立ち尽くし、そして駆け出した。
早くここから出なければ。早く帰らなければ。
置いて行かれてしまう。呑み込まれてしまう。連れて行かれてしまう。
枝葉から漏れる光がだんだん濃くなって、天空は光の先を目指した。
そうして辿り着いたのは、木の生えていない開けた場所だった。
木立の間に生じた裂け目のようなそこからは、すぐ下の景色が一望できた。手前には広大な畑が広がり、その奥には瓦屋根の家々がぽつぽつと建っている。さらに先には背の高い建物も見えるが、遠すぎてよく見えない。
はて、もう少し下らないと農地には出れないはずだが。というか、いつの間に麓まで来たのだろうか。考えても答えは出ない。けれど、引き返すのは躊躇われた。ここまで来て、元の道に戻れるかはわからない。
それに、もう戻るのが怖かった。あの森に居ると、得体の知れないものに連れ去られそうな気がしたから。
天空は、坂を下りていった。




