幼女が落としたすすきみみずく
鬼子母神という神様の話を知っているかい? 「母」という字からわかるように、子供を持つ女性の神様でね。でも「鬼」という字も入っている通り、元々は鬼みたいな恐ろしい母親だったという。
いや、この言い方は少し語弊があるかな? 「鬼みたいな恐ろしい母親」といっても、自分の子供に対しては優しかった。何百人も何千人も子供がいて、それを全部溺愛していたんだが、問題は「それだけ多くの子供を育てるためには栄養が必要」と言い張って、人間の子供を捕まえて食べていたこと。
そんな彼女を諭すために、ある時えらい神様が彼女の子供の一人をさらって隠した。パニックになって探し回る彼女に対して「たくさんの中の一人が消えるだけでも、それほど悲嘆に暮れるものだ。今までお前が子供を奪った母親たちも同じ、いやそれ以上だったはず」と説くと、彼女はこれまでの行いを反省。人間の子供を食べるのは止めて、人肉と味が似ているらしいザクロで代用するようになった。そして子供を返してもらった後、安産や子育ての神様になったという。
そんな「鬼子母神」を祀るお寺が、日本にいくつか存在している。そのひとつが俺の地元にあった雑司ヶ谷鬼子母神だ。
――――――――――――
俺が生まれた家は、JR――当時の言い方ならば国鉄――の最寄駅としては山手線の目白。隣駅の池袋までならば歩いて20分か30分くらいの辺りにあった。
目白駅を出ると、目白通りという道路が山手線と交差する形で走っており、東に向かって10分ほど歩けば、千登世橋という陸橋になっている。陸橋なので下には川ではなく別の大通りがあり、それが池袋東口の駅前に通じる明治通りだ。
この千登世橋からさらに少し目白通りを歩いた北側に鬼子母神通りの入り口があり、斜めになっている道なので、そこを歩けば明治通りに抜けられる。
……と、こんな下手くそな説明では頭の中に地図も描けないだろうけど、要するに鬼子母神通りは目白通りと明治通りを繋ぐ道ということ。
名前からして鬼子母神通りは、雑司ヶ谷鬼子母神の参道に相当するのだろう。でも近所に住む俺からすれば商店街みたいなもので、毎日の買い物は鬼子母神通りで済ませるのが慣例だった。
八百屋や肉屋、子供にとってはお菓子を買う店だったパン屋とか、象の人形が店先で目立つ薬屋とか、文具よりもプラモデルが充実していた文房具屋とか、小さな洋食屋、床屋や郵便局もあった。
真ん中あたりで都電が横切っていて、線路の際には焼鳥屋や豆腐屋があったが、商店街という雰囲気はそこまで。都電を越えた辺りから、いかにも参道という感じに変わる。
道が二つに分かれていて、どちらも雑司ヶ谷鬼子母神に通じるけれど、右の方が正面入り口に至るし、ケヤキ並木にもなっているから、そちらの方がより「参道」らしかった。左の道から行く場合は裏口っぽいところのひとつから鬼子母神の境内へ入る形になるし、その「裏口」の手前にある駄菓子屋の方が印象深くて、子供の俺にとっては「駄菓子屋へ行くための道」というイメージだったのだろう。
そんな鬼子母神で行われる大きなお祭りが、10月の御会式だ。お寺の祭りなのだからそれなりの由緒があるはずだが、子供にとって重要なのは屋台がたくさん出ること。先ほどの「都電を越えて、道が二つに分かれている辺り」から正面入り口まで、そしてもちろん境内の中にも、ずらりと露店が並ぶ。それが3日も続くものだから、俺に限らず雑司ヶ谷の子供たちにとっては、毎年最も楽しみなお祭りだったはず。
今から語るのは、そんなお祭りの夜の出来事。まだ俺が小さな頃、といっても幼稚園児ではなく、もう小学生だった頃の話だ。
――――――――――――
俺の場合、お祭りの楽しみのひとつが、普段は買ってもらえないようなおもちゃを買ってもらえること。超合金とかジャンボマシンダーみたいな、ちょっと高価で、子供の目には豪華に見える玩具だ。もちろん縁日の屋台でなく普通に街のおもちゃ屋で売っている商品なわけだが、お祭りの時こそが「特別に買ってもらえる」という機会だったようだ。
焼きそばや焼きトウモロコシ、わたあめやリンゴ飴、チョコバナナなど、縁日の定番みたいな食べ物の露店も出ていたし、金魚すくいやスーパーボールすくいも何度かやったが、型抜きは確か一度で懲りたような覚えがある。
先ほど述べた「左の参道に面した裏口っぽいところ」から境内に入ってすぐの場所には、大きなテントが設置されて、いわゆる見世物小屋になっていた。毎年決まってそこにあるものだから興味も湧いたけれど、親には「子供の見るものではない」と言われて、入れてもらえなかった。
当時は「じゃあ大人になったら入ってみよう」と思ったりもしたが……。大きくなったら鬼子母神の祭りには行かなくなったし、そもそも「見世物小屋」という文化自体が廃れたからね。どこのお祭りや縁日でも、もう見る機会はないのだろう。
そんな感じで賑わうお祭りに、親や祖父母などの大人と一緒に出かけて……。
ある時、俺は人混みの中ではぐれてしまった。いわゆる迷子というやつだ。
――――――――――――
境内で出店に目をやりながら歩くうちに、ふと気づいたら一人になっていた。ほんの一瞬前まで母親に手を引かれていたはずなのに、その手の感触がいつなくなったのか、それすら自覚ないほどだった。
しかし、不思議と動揺も恐怖も感じない。もしも遠出した先で迷子になれば大いに焦るだろうけど、しょせん近所のお祭りだからね。鬼子母神は何度も遊びに来ているところで帰り道もわかっているから、家族と合流できなければ自分一人で戻ればいい。
むしろ逆に、一人になったことをポジティブに感じるくらい。「自由になった」とか「ちょっとした冒険だ」みたいな感覚だった。
まずは見世物小屋へ向かってみた。「入っちゃダメ」と言う親がいない今こそ、見世物小屋へ入るチャンス……と思ったわけだが、それは子供の浅知恵だった。よく考えてみればお金を持っていないので、見世物小屋どころか他の屋台で何か買うことも出来ない有様だ。
ならば出店を見て回っても面白くない。俺は境内を突っ切って、裏口のひとつから鬼子母神を出た。見世物小屋近くの出入り口とはちょうど反対側の、本堂の右側あたりに位置する出入り口だった。
その辺りも一応は鬼子母神の参道のはずだが、もう参道らしさは薄くて、住宅街という感じの地域だ。唯一の参道らしさは、小さな土産物屋が一軒あること。
いや「土産物屋」と呼ぶのは大袈裟だろうか。鬼子母神の名物なんて種類も少なく、そこで売っているのは郷土玩具のすすきみみずくのみ。だから俺にしてみれば、すすきみみずく屋という認識だった。
すすきみみずくというのは、その名の通りすすきで作られたみみずくの人形だ。昔々この辺りに住んでいた貧しい娘が、病いに倒れた母親の薬代が欲しくて鬼子母神に祈ったら「すすきの穂でみみずくの人形を作って、それを売って薬代にしなさい」とお告げがあり、それに従って作られたのが始まりだという。
子供や母親が登場する点が、いかにも鬼子母神関連の言い伝えっぽい。何はともあれそんな感じで、すすきみみずくが雑司ヶ谷あたりの郷土玩具となっていた。
――――――――――――
迷子になった夜の出来事に話を戻せば、郷土玩具の話は知っていたものの、だからといって今更すすきで出来たみみずく人形に心惹かれることはないし、そのお店にも興味はなかった。
そこは素通りして、俺は住宅街の裏道へ入っていく。少しゴチャゴチャした道だが、その辺りは以前に何度も色々と歩く機会があった。住宅街の先には鬼子母神とは違うお寺だか神社だかが存在しており、その境内を歩いたり灰色の塀に囲まれた墓地の横を通ったりすると、南池袋や東池袋へ抜ける近道になっているのだ。
しかしその夜は、いつもとは勝手が違っていた。以前に何度も色々と歩いた場所なのに、全く見覚えのない土地を歩いている感じだった。
夜の暗さのせいかもしれない。背後からは祭りの賑わいが聞こえてくるし、振り返れば一応、それらしき明かりも見えてくる。だから鬼子母神の方角はだいたい把握しており、道に迷ったわけではないのだが……。
みんな祭りへ行ってしまった後らしく、誰かとすれ違うことすらなかった。そんな寂しい住宅街の裏道を歩き続けるうちに、突然ひとつの人影を目にする。
街灯の影から、小さな女の子がこちらへ向かって走ってきたのだ。
「えっ?」
という声が俺の口から飛び出したのは、それだけ驚きが大きかったからだろう。
水色の服と黄色の帽子、同じく黄色の鞄を斜めにかけている姿は、明らかに幼稚園児だった。しかし幼稚園へ通う格好は、祭りの夜の住宅街には場違いで……。
動揺する俺の前で幼女は立ち止まり、小首を傾げながら声をかけてきた。
「お兄ちゃん、どうしたの? 夜遅くに一人歩きなんてダメだよ。早く帰らないと、誘拐されちゃうよ」
幼女のくせに、少し大人びた口調。しかも「お前が言うな」とツッコミを入れたくなるような発言内容だ。
「いや、君の方こそ……」
「危ないから、早く帰ろうね!」
俺の言葉を遮りながらそう言うと、幼女は再び走り出す。
その後ろ姿を確認しようと振り返った時には、既に夜の闇の中に消えていた。
「何だったんだ、今のは……」
独り言と共に視線を下げると、薄茶色の塊が視界に入る。拾い上げてみれば、郷土玩具のすすきみみずくだった。
今の幼女が落としていった物らしい。それを手にしたまま正面に向き直った途端、俺は再び驚いてしまう。
目の前に一人の男が立っていたのだ。
帽子を目深に被り、トレンチコートの襟も立てている。まるで顔を隠したいみたいで、なんだか怪しげな男だった。
突然出現したように感じてしまうけれど、実際には、俺が後ろを見ている間にスーッと近寄ってきたのだろうか。
そのように考える俺に対して、男は質問をぶつけてきた。
「おい、坊や。吉本さんの家、知らないかい?」
広い意味ではこの辺りも地元の範疇だが、俺はこの住宅街の人間ではない。だから『吉本さん』と言われてもわからなかった。
黙って首を横に振ると、男は困ったような顔をする。
「そうか。だったら……」
「それ以上はダメよ」
いきなり割り込んだのは、大人の女性の声。俺の背後から聞こえてきたので、一瞬「先ほどの女の子か?」と思ってしまう。
いや実際には「大人の女性の」という時点で幼女とは合致しないわけで、振り返って確認すれば、当然のように別人。顔の輪郭や目鼻立ちなど、あの幼稚園児とは似ても似つかない、20代か30代くらいの女の人だった。
「お前は……」
彼女を見て、トレンチコートの男が小声で呟く。
俺が再び前に向き直ると、男は不思議そうな表情を見せていたが、すぐに何かに思い至ったらしく、大きく目を見開いた。
「……そうか! 誘拐までは成功したのか! だけど結局……」
「思い出したなら、もう消えなさい。ただし成仏はさせないわ。私があなたを何度でも呪い殺してあげるから」
男と女は、俺を挟んで会話する。最後に男は、
「……チッ!」
と舌打ちひとつしてから、まるで煙か霞みたいに、スーッと姿を消してしまう。
驚いて振り返れば、ちょうど女の方も消えるところだった。今まで男がいた場所を、鬼のような形相で睨みつけながら。
驚きが増すと同時に怖くもなって、俺は走り出した。暗くて寂しい場所にこれ以上いるのは嫌だから、明るく賑やかなお祭りの方へ向かって。
――――――――――――
どこをどう走ったのか、具体的な記憶はない。気づいた時には鬼子母神の境内で、本堂の前あたりだった。
いつのまに合流したのか、親たち大人も一緒。しかも不思議なことに、
「ほら、手を離してはダメでしょう? しっかり握っていなさい」
と、あっさりした口調で言う。俺が迷子になっていた時間などなく、ただ一瞬手が離れただけ……みたいな雰囲気だった。
ならば、あれは全て夢だったのだろうか。しかし夢ではなかった証拠として、母親とは反対側の手に、郷土玩具のすすきみみずくが残っていた。
帰る途中で、大人たちに尋ねてみた。この辺りに『吉本さん』という家はあるか、と。たぶん小さな女の子がいる家だ、と。
大人たちは顔を見合わせて、なんだか嫌そうな表情をしていたが……。渋々教えてくれたのが、鬼子母神近くの『吉本さん』の家で起きた事件の話。数年前に一人娘が行方不明になったという。
幼稚園から帰る途中、母親が一瞬手を離した隙に消えてしまったらしい。「一瞬手を離した隙に」という状況から母親の不注意を責める者もいたし、しかもこの母親が後妻で問題の娘とは血の繋がりがなかったため、いっそう非難は大きくなった。
世間の風当たりが強すぎたのか、責任を重く感じ過ぎたのか、あるいは両方か。母親は結局、自殺してしまったという。
噂になっているのはその辺りまでで、それ以上の事情は不明のようだ。しかし俺が遭遇した者たちの話と照らし合わせるならば、自殺した彼女は幽霊となった後も犯人を――同じく既に亡くなっている男を――追いかけ続けているのだろう。
子供を想う母親の気持ちというのは、それだけ大きなものらしい。その意味では、鬼子母神の話にも微妙に通じる部分があると思わないかい? これが雑司ヶ谷鬼子母神の近くで起きた出来事という点に、俺は妙な感慨を覚えてしまうのさ。
(「幼女が落としたすすきみみずく」完)