賢者の魔法
ロンデニオから王都まで馬で三日は掛かるが、フォブルに乗った僕達はその日の夕方には都を歩いていた。
「ここも変ったわね」
「街を巡回する兵士の数も増えているし、ロンデニオほどではないけれど冒険者も増えているね」
僕達は街に溶け込むために、行きかう人々と同じような服装に着替えている。
「この辺りだったのだが。あった、ここだ!」
魔法関連のグッズを並べている店に入っていった。
「来たか、賢者のタマゴ。待っておったぞ」
「お久しぶりです、覚えていてくれましか」
「この五年間。お主が現れるのを待っておったのじゃ、忘れる訳がなかろう」
カウンター越しに話しかけてくるおばあさんは、にこやかに微笑んでいる。
「遅くなって申し訳ありません。本をお返しにきました」
アイテムボックスから『賢者になるための魔術書』を取り出してカウンターにおいた。
「すべての魔法を会得したのか?」
「いいえ、いいえ」
顔の前で手を振って否定した。
「なら、なぜに返しにきた」
おばあさんは怖い顔つきになっている。
「会得は出来ていませんが、コピーする事が出来ましたから」
「コピーとは何じゃ?」
「書き写す事です」
「この本を丸々書き写したと言うのか?」
おばあさんは驚いている。
「はい」
小さく頷いた。本当はホムクルンに記憶させただけだったが、今返しておかないと返す機会を失いそうなのだ。
「そうか、たしかに返して貰ったぞ。それで、妖精を二人も連れて、これからどこへ行くのじゃ?」
「おばあさんには、妖精が見えるのですか?」
隣で話しを聞いていたミリアナさんが驚いている。
「ワシは見るのは初めてじゃが、妖精の存在は先代から聞いている。膨大な魔力を消費して契約を結ぶそうじゃないか」
「どうして見えるのですか? おばあさんの先代とは誰なのですか?」
人間界に戻ってきてから、初めて妖精の存在を指摘されて驚いた。
「ワシに妖精が見えるのは、妖精の存在を信じているからだろうな。先々代の賢者様は妖精と契約をしていたらしいからな」
「先々代と言う事は……」
僕は言葉を失ってしまった。
「すまない。魔導士と言うのは嘘で、本当は死にぞこないの賢者なのだよ」
おばあさんはシワだらけの顔に苦笑を浮かべた。
「賢者様が、なぜこんなところで商売をされているのですか?」
「ワシはここで五百年近く、ワシの後継者が現れるの待っておるのじゃ」
「五百年……」
ミリアナさんと顔を見合わせて驚愕した。
「後継者でしたら、能力のある人を育成されればいいのではありませんか?」
「初めて出会った時に言っただろ、魔法は勉強をして使えるようになる物ではないと。まずこの本が理解出来る才がないようでは、賢者には絶対になれないのじゃよ。あんたにこの本が読めるか?」
おばあさんは『賢者になるための魔術書』をミリアナさんに突き出した。
「いいえ。タカヒロに見せられた事がありますが、全く読む事さえ出来ませんでした」
「そうじゃろ。この本は強力な魔力を使って作られていて、相応の魔力がないと読む事も出来ないのじゃよ。ワシの出会った人間でこの本を読めたのは、お主だけなのじゃよ」
「そうなんですか」
僕には返す言葉がなかった。
「この本を受け取ってくれないか?」
「僕は賢者になるような器ではありませんよ」
あと数年で日本に戻る僕には、本を受け取る資格がなかった。
「お主は賢者にはなれないだろから、ワシに代わってこの本が理解出来る人間を探して欲しいのじゃ。ワシにはもう時間がないので頼めないか?」
「どうして、タカヒロでは賢者になれないのですか?」
「それは、タカヒロが賢者で終わる器ではないからじゃよ、分かるだろ」
(賢者探しか。五年も本を借りっぱなしにしていたのだから、引き受けるしかないかな)
考え事をしている僕には、ミリアナさんとおばあさんの遣り取りが耳に入っていなかった。
「いいですよ、賢者になれる人を探してみます」
簡単ではないかもしれないが、困っているおばあさんをほっておけないような気になっていた。
「引き受けてくれるか、ありがとうな。それじゃ、賢者が見つかるまでお主が仮賢者としてワシから称号を受け継いでくれるか」
「仮賢者ですか? 名前だけなら受け継いでもいいですよ」
「名前だけじゃないのだ。賢者だけが使える魔法も次世代に伝えて欲しいのじゃよ」
「その魔法もこの本に記載されているのでしょうか?」
「一子相伝なので載っていない。これからそれを見せよう」
おばあさんはフラつきながら立ち上がると、年季の入った杖を手にした。
「どのような魔法なのでしょうか?」
「お主なら見れば分かるだろう。そうだこれを返しておかないとな」
おばあさんは空間に手を伸ばすと、何もないところから見覚えのあるコップを取り出した。
「これは本をお借りした時のコップですね」
「そうじゃ。そのコップをあそこの姿見に投げつけてくれないか?」
「そんな事をしたら、両方が壊れますよ」
「いいから投げるのじゃ」
おばあさんは杖で床をコツコツと突いている。
「分かりました。いきますよ」
全力でコップを投げつけた。
大きな音と共に鏡もコップも割れている筈なのに僕達が目にしたのは、姿見の前でコップを受け止めているおばあさんの姿だった。
「そんな、どうして?」
ミリアナさんは不思議そうに目をこすっている。
「これは……」
(火龍様がオシリスの剣撃を受け止めた時と同じだ。あの時は火龍様が瞬間移動をして力で剣撃を握り潰したと思っていたが、賢者のおばあさんに瞬間移動が出来てもコップを割らずに受け止めるだけの力はない筈だ)
僕は色々と考えを巡らした。
「今の魔法が分かったかな?」
「全然、分からないわ。タカヒロは?」
「ちょっと待って下さいよ」
カバンからスケッチブックを取り出すと、表紙が淡い光を放っていた。
「14ページ目は賢者の魔法か。おばあさん、今のは時を操る魔法ですよね」
「その通りじゃ。なぜ分かった」
「瞬間移動だけではコップを止める事が出来ない。コップの軌道が分かっていてこそ可能な魔法、時間の逆行ですよね」
「賢者だけが使える時の魔法じゃ。お主に扱えるかな?」
「同じ事は出来ませんが、似た事は出来ると思います」
14ページ目を開くと12時前を示す時計を描き、秒針を50秒の所に描いた。これでサインを入れたら、時間が10秒前に戻る筈なのだ。
「ミリアナ、このコップを割ってくれないか」
ガラスコップをカウンターに置くと、木の棒をミリアナさんに渡した。
「大丈夫?」
ミリアナさんは半信半疑のようだ。
「あまり力を入れなくても割れるから、静かに割ってくれよ」
破片が当たると嫌なので距離をとった。
「いくわよ」
ミリアナさんが木の棒を振り下ろすと、コップは粉々に飛び散った。
割れるのを見届けてサインを入れると、ミリアナさんは木の棒を振り上げて止まり、コップはまだ割れていなかった。
「イタ!」
カウンターを叩いたミリアナさんは、しかめっ面をしている。
「ごめん、ごめん」
離れた場所でコップを手にしている僕は、ミリアナさんに謝った。
「これ、どうなっているのよ」
「信じられないだろうけど、僕だけ10秒間過去に戻って、実際に起きた事を起きなかった事にしたのだよ」
「意味が分からないわ」
「詳しく説明するよ」
14ページ目に時計の絵を描いて解説を始めた。
「12時を原点。今の場合だとコップが割れた瞬間だね。そこから秒針を10秒戻してサインを入れると魔法が発動して、僕は10秒間で起きた事を変える事が出来るのだよ」
「そんな事が出来たら……」
「そうさ、そんな事が出来たら無敵だわさ。だけどこの魔法には大量の魔力が必要だから、使う時には気をつけることだね」
ミリアナさんの驚く顔を見て、おばあさんが満足そうに笑っている。
「五百年近く、時の魔法を使って生き永らえてこられたのですか?」
僕にはまだ時の魔法を完全には理解出来ていなかった。
「生きてきたのは、この本の呪いみたいな物なのじゃ。新たな所有者が現れない限り死ねないのじゃよ」
僕に『賢者になるための魔術書』を渡したおばあさんは、疲れ切った表情で笑顔を作っている。
「賢者になると言う事は、その事も含めて引き受けると言う事なのですね」
「そう言うことじゃ。ついでにこれも預かっておてくれないか」
おばあさんは賢者の杖を差し出してきた。
「分かりました。新しい賢者にはしっかりと伝えておきます」
「頼んだぞ」
腰を下ろしたおばあさんは安らいだ表情をしている。
「ひとつ聞かせて下さい。おばあさんは前の勇者と魔王の戦いを生き抜かれたのですよね、戦いのあと世界はどう変わりましたか?」
「見た目には平和になったぞ」
「そうですか」
「私もひとつ聞いてもいいですか?」
「何じゃな?」
「おばあさんの名前を教えて下さい」
「ワシの名前か、忘れてしもうたなぁ」
声が小さくなったおばあさんは、カウンターに凭れかかった。
「タカヒロ、ありがとうな」
おばあさんが静かに息を引き取ると、その体は光となって消えてしまった。
「長い間、お疲れさまでした」
僕とミリアナさんは、手を合わせて賢者様の労をねぎらった。