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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

砂山

作者: 鍋島五尺

 「先生、砂山のパラドックスってご存知ですか。きっと聡明な弁護士先生ですからご存知ですよね。ふふふふ。」


 山中は不気味な笑みをガラス越しに浮かべていた。本来私情を挟むのは厳禁だが、私はどうにもこの男を好きになれそうにない。この人を小馬鹿にするような微笑み。虫唾が走る。反省など知らないとでも言いたげに嬉しそうに笑っている。もちろん砂山のパラドックスはよく知っている。高校時代、勉強もそっちのけでその手の問題を調べるのに熱中していた。思考実験とでも言うのだろうか。

 私の不快感はきっとわかりやすいくらいに表情に出ていたのだろう。山中は更に口角を上げ、にっこりと笑いながら続けた。


「テーブルの上に一つの砂山を想像するんです。たくさんの砂が積み上がった砂山。砂は衛生的によくないって言うんならお砂糖でも塩でも大丈夫です。その砂山を、薄い板を使って少しずつ削っていく。一回、もう一回っていう風にです。そうすると段々砂山は小さくなっていく。ふふ、ふふふ。そうしてどんどん減っていって、最期の一粒になった時。机の上のそれはまだ砂山と呼べるのか。もし呼べないとしたら、いつから砂山は砂山じゃなくなってしまったのか。そういう問題。ですよね、せーんせい。」

「その通りだ。もちろん知っている。」

「やだなあ先生。今のは担当殿へのご説明。先生がご存知なことくらいわかりますよ。うっふふふふ。」


 山中は更に大きく笑う。山中の後ろに座る警官がこちらを振り向き、何か言いたげに睨んでいる。

「何がおかしいんだい、山中くん。」

「いやあね、俺もそれと一緒なんです。」

「それは、どういうことなのかな。」

 そう私が質問すると、山中は更に大きく笑い始めた。まるで笑気ガスを吸い込んだ兵士のように。警官が机をバンと叩く。それを聴いた山中がさらに大きな声で笑い、ついには椅子から落ちて床を笑い転げ回り始めた。警官が面会の終了を告げて立ち上がり、山中の両手を引っ張り上げる。山中は吊り上げられながらも笑い続け、そのまま扉の向こうへ引きずられていった。



 十分な面会時間が取れたとは全く思えないがそのまま座っていても仕方ないので、私は事務所に帰って山中について調べることにした。

 山中守、32歳。男性。出身は神奈川県鎌倉市。小学校へ入るタイミングと同時に川崎市へ移住している。経歴からはごくごく普通の人生を歩んでいるように見える。だが彼は今、殺人事件の被告として起訴されている。そして彼は現行犯逮捕されているのだ。つまり、彼が殺人を行ったという事実はほとんど事実と言って差し支えないだろう。では、何故。被害者は山中の勤務する企業の上司だった。しかし山中の勤務態度は極めて良好で、被害者との関係もかなり良かったとわかっている。動機が全くわからない。山中は逮捕されてからずっと黙秘を続けている。殺人容疑に対して黙秘権を行使することは賢い判断とは言い難い。狂人のふりをするのなら心神喪失の線で攻めるということで理解できる。だが山中の受け答えは常人のするそれなのだ。

 私には全く糸口が掴めなかった。明日もう一度面会に行ったとして、山中が素直に動機を話すとはとても思えない。どうせまた今日と同じような態度なのだろう。ならば外堀から埋めて行くのがいい。そう思った私は山中の両親宅へ向かうことにした。川崎までは車で30分ほどだった。近所のコインパーキングに車を停め、住所を手がかりに街を歩く。その家はすぐに見つかった。しかし、奇妙なことが一つあった。表札に書かれた名前。「町田」。山中じゃない。だが住所はここで間違いない。妙な違和感に苛まれながらも私はインターホンを押した。


「ごめんください、山中様のお宅はこちらで宜しかったでしょうか。」

「山中ですか?えっと、どういったご用件で。」

「突然申し訳ございません。私は山中守さんの弁護をしております、東京弁護士会所属の渡邊です。守さんのことについてお尋ねしたいことがありましてお伺いしました。」

「ああ、守くんの…。今参りますので少々お待ちいただけますか。」

「はい。」


 すぐに玄関のドアが開いた。しかし、そこに立っていたのは40代くらいの女性だった。山中の母は既に還暦を迎えているはずだった。この家は山中の両親の家ではないのだろうか。表札も然り、何か食い違っているような気がする。

 その女性は私を居間へ案内し、状況を説明し始めた。

「私は山中さん、守くんのお母さんの友人でして、町田幸恵と申します。きっと、守くんのご両親を訪ねていらっしゃったんですよね。じゃあ、ご夫婦の現状もご存知ないんですか。」

「ええ、私は山中ご夫妻がここにお住まいだと聞きまして伺った次第です。」

「実は山中夫妻はもうかなり前に行方不明になってしまったんです。3年位前でしょうか。急にふっと姿を消してしまって。それからしばらくして、もう諦めようってことになったらしくて。この家を旧友の私が管理しつつお借りすることになったんです。」

「そうだったんですね。全く知りませんでした。じゃあ今もご夫妻の行方は。」

「はい。わかりません。夫婦で鎌倉旅行に行ったきり帰っていないそうです。」

「でも守さんはこのお宅にはお住まいになられなかったんですか。」

「ええ、守くんは仕事を始めてからは鎌倉に一人暮らしをしていて、山中さん達は守くんの様子を見に行くついでに一泊温泉にでも、ということで鎌倉旅行に行ったそうなんです。でも、守くんは連絡も来てないって。それにもうすぐ遠くへ引っ越すからこの家には住まないって言ってたみたいです。」

「遠くに引っ越す、ですか。転職とかですかね。」

「さあ、そこまでは私もわからないんです。ごめんなさい、お力になれなくて。」

「そうですか。貴重なお時間をいただきありがとうございました。」

「いえ、本当に何もお手伝いできなくてすみません。もし、もし山中さんの消息が掴めたらご連絡いただけませんか。私本当に心配で。」

「もちろんです。その時は必ず伺います。」


 私は山中家、もとい町田家をでた後も、得体の知れない違和感を拭えないでいた。山中両親の失踪。鎌倉。遠くへ引っ越す。何か掴めそうな気がする。だが私は何かとてつもなく恐ろしいものに手を入れようとしているのではないか。そんな不安が拭えない。


 私はその足で鎌倉に向かった。山中の住んでいたアパートの場所は事前に送られてきた書類で知っていた。駅からはかなり離れており、すぐ裏手に山肌がある古いアパートだった。金属製の階段を一段登るたびに靴が当たる音が響く。かすかにギシギシと柱の軋む音がする。202号室が山中の住んでいた部屋だ。予想とは裏腹に鍵はかかっていなかった。どうせ開かないだろうと体重をかけていたので勢いよくドアが開く。上り框につま先をぶつけて前のめりに転びそうになる。そして床に手をついて気がついた。何の匂いだ。腐臭のような。もう家宅捜索が入っているはずだ、死体がありましたなんてオチは認めない。私の妄想を裏切るように匂いの正体はすぐにわかった。風呂場にゴミ袋が山のように積まれている。こんな量のゴミを何ヶ月も放置していれば臭いに決まってる。

 私はゆっくりと台所のそばを歩き、ドアを開けて部屋に入る。正直、どうやって表現したらいいのかわからない。一見、普通の部屋だった。しかしおかしいのだ。部屋の中心に小さなテレビが置かれている。動かした形跡はない。机やテレビ台もない。テレビがそのまま置いてあるのだ。他の家具は全く一般的な配置と呼べる何の変哲もないものだった。私は部屋を物色している最中、ちゃぶ台の上にテレビのリモコンが置かれているのに気がついた。そしてリモコンの下には家族写真が置かれていた。写真に写る山上の両親の頭上に、それぞれ一本ずつ矢印が書かれている。私は写真をよく観察したのち、リモコンをテレビに向けた。電源が点くと地上波の番組が流れた。私は、ここに手がかりがあることをなぜかその時知っていた。リモコンに「録画視聴」の文字。私の指は気付くとそれを押していた。


 録画された番組も普通のものだった。バラエティの特番やドラマ。私はそのリストをどんどん過去のものへ戻していった。3年前。そう、山中の両親が失踪した時期のもの。それを探していた。

 結果から言えば、予感は的中した。そこには20XX-05-21とだけ題された黒いサムネイルのビデオが入っていた。とても暗い映像で場所はわからなかった。内容は、山中が眠っている両親の手足を結束バンドで縛るものだった。山中は終始小さくあの笑い声をあげていた。楽しくて楽しくて仕方がないかのように。悍ましく、最悪な気分だったが、これではっきりした。山中は自らの手で両親を失踪させ、そして何らかの理由で上司を殺害している。これは本当にまずいかもしれない。私は戦慄していた。そのためだろうか、ゆっくりと部屋のドアが開いたことに気が付かなかった。

 急に部屋の電気が点き、心臓が止まるんじゃないかと思った。ドアのすぐそばには30代くらいの青年が立っていた。

「誰だ!」

「いや、えっと、あなたこそ…どなたですか。」

「ああ、すみません。気が動転してしまって。私は山中守さんの弁護をしているものです。あなたは。」

「あ、山中くんの、知り合いというか。同僚です、はい。」

「同僚の方ですか。それで、どうしてここに。」

「あの、この近くに住んでいて、それでたまたま通りかかったら玄関のドアが空いていたので…。」

「そうでしたか、すみません。」

「いや、こちらこそすみません…」


 青年は村西と名乗り、私に職場での彼のことを教えてくれた。曰く、もともと山中は爽やかな好青年といった感じだったが、ちょうど3年前。やはりといった感じだが、その頃から彼は急に傍若無人になったそうだ。

「山中、その頃から急に変なことを言い始めて。『俺は人生のプレイ方法がやっと分かったんだ。これからが俺の人生なんだ』って。人の車を蹴ったりすることもよくありました。それで、砂山のパラドックスについて何度も何度も話すんです。そしてその後は決まって狂ったように笑うんです。僕は山中がああなる前はよく飲みに行ったりしていたので、本当に心配で。課長が殺されて、それで山中がやったって聞いた時は信じられませんでした。というか、いつか人でも殺しそうなほどおかしくなったとは思っていたけれど、まさか本当にやるとは思ってなくて。」



 面会の予定を取り付けるのに少し苦労した。きっと前回のことや留置所内での態度が問題に挙げられているのだろう。仕方がない。私は私の仕事をしよう。


「やあ、山中くん。数日空いてしまってすまなかった。元気だったかい。」

「こんにちは先生。ふふ、先生は結構顔に出るタイプだね。」

「何の話かな。」

「見たんでしょ、あれ。」

「君にとって不利になるかもしれないけど、いいのかい。」

「構わないよ。それで、先生はどう思った?」

「山中くんは前回、俺も砂山のパラドックスと同じだ、って言ったよね。その意味がわかったような気がする。」


 山中は一瞬表情を曇らせたが、またすぐにいつもの不気味な笑顔を取り戻した。


「…続きをまず聞きたいな。」

「わかった。これはあくまで私の仮説だ。山中くん、君はまず3年前、何らかの理由でご両親を殺害した。もしかしたら実際に殺してはいないのかもしれないけれど、社会的に抹殺した。どんな動機かはついにわからなかった。誰も君とご両親の間のことはあまり知らなかったからね。でも君はやったんだ。そして、それから何かが吹っ切れた。きっとこう考えたんじゃないかな。砂山のパラドックスは、最後の一粒になっても砂山のままだと。つまり、一粒の罪も、山ほどの罪も本質的には変わらない。だから何をしても、もう自分には関係ない。それで君は自由に振る舞うようになった。今回の事件もその延長線上にあると私は考えている。どうだろうか。」


「うん、うん。いい感じ。もっとガリ勉っぽい人だと思ってたけど、舐めてたね。渡辺先生はすごく頭の切れる人だ。尊敬するよ。でも、本質がちょっと違う。砂山のパラドックスについてはその通りだ。俺は、残されたたった一粒の砂でさえ砂山だと思ったんだ。だって、それはグラデーションのようなもので、そこに砂があるか、それともないか。それだけの話じゃないかと思った。ところで先生、先生の出身はどの辺り。」

「私は新潟が故郷だが、それがどうかしたの。」

「そっか、じゃああんまり関東のことはわからないかな。きっともう知ってると思うけど、俺は小学生の頃に川崎に引っ越したんだ。あの頃はまだ親父の事業がうまく行ってなくてうちは貧乏だった。それでお世辞にも治安がいいとは言えない地域に住むことになったんだ。川崎市自体、治安の良い街じゃない。10歳になったばっかのガキがなんでもないことみたいに万引きやホームレスのいじめをするんだ。俺も友達と一緒にそんなことばっかりやった。でも叱られるのは面倒だったからバレないようにやったよ。成長していくうちに悪いことをしたら面倒ごとが増えることに気がついて、悪い遊びはやめた。うまいこといい子に振る舞ったよ。大人になってからもそうだ。でも、ある時砂山のパラドックスを聞いて、俺は絶望した。それはさっき先生が言った通りさ。グラデーションなんだ。そこに砂があるか、それともないか。それだけなんだよ。一回でもやったら何度やったって変わんないんだ。綺麗な人間のふりをしていたけど、俺は全然綺麗じゃなかった。だからもういいやって思ったんだ。だからまず俺をあんな場所で育てた両親を殺した。そこからは、先生も知る通りさ。課長は息が臭かったから殺した。別に反省も後悔もしてないよ。俺の人生は最初っからこうなんだから。」



 翌日、山中が自殺した。朝方担当が巡回していると、廊下まで血が流れてきていたそうだ。両手首を大きく噛み切り、動脈血が流れ出したことによる失血性ショック。彼にとって砂山の存在はあまりに大きすぎたのかもしれない。だが私には山中がなぜそうしたのか、結局今もわからない。


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