1-4 疑惑の怪談
言うことを聞かないミシンと格闘した、次の授業。
午前の最後の授業は、はっきり言って家庭科以上に地獄だった。
その予兆は、既にあった。授業内容が中学時代とは比べ物にならないほど難しくなったとは前々から思っていたし、たまに先生が暗号を言っているのではないかと疑ったことは数知れず。
とはいえ樟太郎は、中学時代もけして勉強が得意な生徒ではなかったが、不得意でもなかった。
はずなのに。
「あーあー、やらかしたな」
中学時代からの友人である正輝が、魂が抜けてしまったように固まって白化した樟太郎の手元を覗き込み、ドンマイと肩を叩く。
二人そろって眺めるのは、五十点満点の小テスト。合格点は四十点、しかし返却された答案用紙の右上には、一本線の数字が二つ。
これでぞろ目だと喜べたら、少しは気分も楽だろうか。
「まずいよなぁ……」
独りごとのつもりで呟くと、それでも正輝は応じてくれた。
「まずいな。非常にまずい。明日再テストやるらしいけど大丈夫か?」
「……」
大丈夫じゃない。
全然、全く、これっぽっちも。
中学時代から脳が退化したわけでもあるまいに、いったいこれはどういうことだろう。
その時、教室の端で、おおっと大きな声がした。
「なるほど、それで出てきた値をaにぶち込んだらxが出て来るのか。ん、でもそれだとcが分からなくなるぞ?」
「霧香ちゃん、手の下」
「……そうか最初に求めてたのか‼」
クラスの大半の女子が集まった、にぎやかな勉強会。
中心にいる先生役は楓で、大声を上げている生徒役の筆頭は確か、影元霧香という名前だったか。
遠目からでも目立つ青みがかった濃いグレーの髪は、ほぼ間違いなく染めたもの。一方で素顔は化粧っけの無い素朴なものだ。目つきは鋭いが悪くはなく、逆に凛々しさを強調している。見た目の印象通りに男勝りで快活な性格の姉御肌で、ポニーテールがむしろかっこいいと、一部の女子から男子顔負けの人気を集めているスポーツ少女である。
まだ入学して間もないというのに、彼女を恋のライバル視する男子生徒が何人もいるともっぱらの噂だ。
一方の楓も、そのお嬢様然とした立ち振る舞いや、学業の優秀さも相まって、霧香と並ぶ人気者の地位を確立している。樟太郎をはじめ男子にはさっぱり分からない感覚だが、二人が並ぶと尊い、らしい。
分からないところを分からないとはっきり大声で言える霧香が、しょっちゅう楓に教えを乞う。人気者二人の絡みのおかげで、この女子会のような勉強会は恒例になっていた。
「お前も、玉城さんに聞いてみたら良いんじゃないか?」
まさか樟太郎と楓の関係を知るはずもない正輝が、そんな提案をする。
「あのな正輝。オレにあの女子の群れの中つっこんで行けと? 完全アウェーじゃねえか」
というか気まずい。そういう欲もでてくる思春期男子には無理難題だ。
二人きりになれるタイミングを見つけて一対一で楓を頼るのもアリだが、仮にも護衛役がそんなことして良いのかと気が引けてしまう。それに祓い屋の仕事を抜きにすれば、彼女とはプライベートな親交も無く、あくまでただのクラスメイトなのだし。
毎朝の交流で親交は深まっているだろうが、いやでもしかし、
「気にしすぎだろ。そういや隣のクラスにクッソ頭いい男子居るらしいぜ」
「面識ない奴に教えを請われる方も迷惑だろ」
というかお前が教えてくれるって線は無いのか。目で問いかけると、彼はそっと視線をそらした。
「……まさかだけどお前、」
「ああそうさ、お前より点数悪いよ教えられるわけあるか‼」
どうすんだよ……と、教室の片隅で男二人が天井を仰いだ。
「あ? それで、なんでアタシなんだよ。素直に楓に聞きゃあいいじゃねぇか」
終礼後、怪訝そうに眉をひそめた霧香から、樟太郎も正輝も視線をそらす。
折衷案。
……とはさすがに口には出せず、いや、まあ、とお茶を濁す。
「ほら、同じ説明を何回もするのは玉城さんがキツイかなって。その点、影元は自分の復習にもなるし、一石二鳥だろ」
正輝がもっともらしい言い訳で押し通した。
本音としては、女子の中で一番話しかけやすいのがお前だったとか、そんなところだ。
「別に、これから部活だったら構わないんだけど」
「いや、アタシ帰宅部。……いいぜ、勉強会。ソイツの言う通り、確かに復習は大事だからな」
樟太郎が気を遣うも、霧香はあっけらかんと返した。
素直というか真面目というか、なんとも気持ちのいい性格をしている。女子に人気が出るのも納得だ。
「それで、どこからやるんだ? 一番から?」
霧香はカバンから例の小テストを取り出し、目を走らせる。
その時、クラスの一人が霧香を呼んだ。
「影元さん、友達来てる」
「今行く、ありがとう」
悪いな、と席を外す霧香の視線の先、扉の所で待っていたのは、見覚えのない女子生徒だ。上靴の色から同級生とわかる。
霧香とは正反対に小柄で、身振り手振りを交えて話す様子は、どこか小動物を思わせた。
「わかった、わかった。一緒に帰ってやるから待ってろ」
話の最後に霧香が頭をなでると、彼女は小さく頷く。話が終わって戻ってきた霧香は、どこか呆れ顔だ。
「どうかしたのか?」
樟太郎が尋ねると、霧香は首を振る。
「大したことじゃねぇけど、隣のクラスで怪談話が流行ってるらしいんだ。アイツそういうの弱いからさ、委員会の後、暗い道を一人で帰りたくないんだと」
祓い屋という立場上、そういった類のものに敏感になっている樟太郎は微かに身じろぎする。
その隣で、何も知らない正輝が大きく身を乗り出した。
「え、どんなの⁉」
心なしか、彼の目が輝いているような。
対照的に、霧香は少しげんなりとした様子だ。
「トイレの個室に引きずり込まれるとか、誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえてくるとか、全身真っ黒の人影が誰かを待ってるらしいとか、そんなんだよ」
樟太郎は今度こそ、ピシリと音を立てる勢いで固まった。
……なんだって?
換気のため開けていた窓からひんやりとした風が吹きこんだ。
否応なしに脳裏をよぎるのは、人型のカゲの姿。
少しばかり引っかかるのは、気のせいだろうか。それとも。
促されるように、樟太郎は視線だけで楓を探した。
左斜め前、彼女の席には居ない。が……見つけた。ロッカーの前。
運よくまだ教室に残っていたようだ。
念が通じたのか、楓はこちらを振り返る。
何かあったらしい、そう感づいた彼女は何気なさを装ってやって来て、霧香の肩に手を置いた。
「ねえねえ、何の話してるの? 私も混ぜてよ」
いかにも自然な物言いだった。
霧香はただでさえげんなりとしていた顔を一層面倒くさそうにして、お前もかよ、とぼやく。
「そんなに聞きたいか、怖い話」
「あ、やっぱりその話? 怪談好きとしては、そういうの逃せないんだよね〜」
楓は演技か本心か、いつもより声を高くして言った。
同じく怪談好きの正輝が肯定するように何度も頷いて、楓にグッドサインを送る。そして、反応の薄い樟太郎を肘でつついた。
「樟太郎は、あんま好きじゃないんだっけ」
「いや、別に……好きでも嫌いでも無いけど」
カゲだの妖だのと隣り合わせで生きてきた樟太郎にとって、怪談話は一種の日常である。
好きか嫌いかで語るなら、好ましくないとは答えられるだろう。ただ怪談話を嫌いというのは一般的に怖がりの意見であり、樟太郎の実情にはそぐわない。
もちろんそんなことは露知らず、曲解した正輝は企み顔でニヤついた。
「ほ〜ん、樟太郎、怖いんだ。素直になって良いんだぞ〜〜」
まるで樟太郎の、一生分のからかいネタを見つけたようなテンションだった。
「怖かねえよ」
「怖がりはみんなそう言うんだ〜〜」
「オレが水を飲まない酔っ払いみたいに言うな」
何が面白いのか、聞いていた楓がくすりと笑う。
いったい何に笑っているんだと、樟太郎は一瞬楓を睨んだ。
そんな樟太郎のつれない態度に、そうだ、と正輝は手を打った。
「今から肝試し行こうぜ、怖がりじゃないなら来れるだろ」
「は、今から!?」
反応したのは霧香だ。
勉強会はどうする。元来真面目な性格らしい彼女は、かえって正輝の唐突な発想についていけないらしい。
「良いじゃない、行こうよ!」
しかしそんな彼女を黙らせたのは、成績優秀な優等生であるはずの楓。
完全に場を整えてしまい、樟太郎にアイコンタクトを取ってくる。
妖を引き寄せる体質で、そんなことして良いのか?
そんな心配とは裏腹に、楓は知らぬ顔だ。
「……そうだな、分かった。受けて立つぞ、肝試し」
らちが明かないし、このまま正輝に怖がりのレッテルを張られるのも、まあ、しゃくではあるし。
友達に遅れそうだと連絡入れねぇと、そうぼやく霧香もやはりついてくる気らしかった。
とはいえ。
「という訳なんですけど、やっぱマズいですよね、止めた方が……」
出発の直前にトイレと嘘をつき、やってきた人気のない個室で、樟太郎は声を潜めてスマートフォンに話しかける。
電話の相手は無論、師匠だ。
先ほどはほとんど勢いで承諾してしまったものの、いざ行こうとなると懸念事項が多すぎる。
楓の体質に、妖の存在を知らない一般人二名。
仮に怪談話が本当だとしたら、万が一もあり得る話だ。
トイレの個室に引きずり込まれるのも、誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえてくるのも、はっきり言えばありきたりな怪談話。ところが。
廊下で待ち構えている黒い人影は、ありそうであまり聞かない話だ。
追いかけてくるのではなく、待っている。
そのリアルさがかえって、不気味な生々しさを演出している。
『まあ、ぼくもその意見には同意するけれど……』
師匠は事のあらましを聞くと、まずそう言った。
『学校の七不思議って、大体が本とかマンガの受け売りで。廊下の怪談で有名なのはテケテケとかかなあ。カゲっていうのは確かに引っかかるけど……』
でも、と一度そこで言葉を切る。
『良いんじゃない、行ってくれば』
「は……⁉」
正気か、とは師匠相手にまさか言えないけれど。
樟太郎は衝動的に、似たようなことを思った。
「いや、だからさっきも言った通り、危ないって話をしてるんですよ。オレと玉城だけならともかく、何も知らない一般人が二人も、」
『君の懸念はもちろん、分かるんだけどね』
師匠は樟太郎の言葉を遮り、淡々と続ける。
『そもそも学校には、楓ちゃんが毎朝結界を張ってあるし……だからもし妖が出てくるとしたら、それは校内にもともと居た存在だ。入学式の後にヤギリくんと僕で一掃したから、この短期間で人に害をなせるほど成長した個体は無いと思うよ』
「な、なるほど……」
じゃあ大丈夫、なのか?
ひとまず師匠のお墨付きもいただいたので、樟太郎はそれで納得することにした。