1-3 嵐の前の静けさ
入学式からの二週間は、飛ぶように過ぎていった。
始めはどこか浮足立っていたクラスメイト達も、授業が始まって数日が過ぎると、休み時間にお菓子とスマホを片手に雑談に興じるくらいにはこなれてくる。
樟太郎と楓も、似たようなものだ。妖対策として、二人で毎朝早くに登校して結界を張る仕事こそあるが、それも慣れてしまえば日常だった。
まだ人の姿もまばらな通学路を歩いていると、やがて町と山の境界に来る。
土地開発された区画の端、地元の住民が好き勝手に呼んでいる山の正式名称は確か、真神山だ。
離れたところから見ると、散り際の最後の桜でほんのり紅い。
竹藪と道との間には金網フェンスが設けられていて、動物たちが町に迷い込むのを防いでいるが、しばらく歩くとそのフェンスが一か所だけ抜けて、鳥居になっている。
「お、」
いわゆる地域猫、この辺りでは有名な三毛のノラが、その鳥居の手前に座り、じっと樟太郎を見つめていた。
周囲には空になった容器が二つ、どうやら誰かがエサをやっていたようだ。
さて困った、と樟太郎は立ち止まって猫と向かい合う。
猫は嫌いではない。可愛いとすら思う。ただ不思議なことに、樟太郎はこの手の愛玩動物に好かれたことが一度としてないのだ。実際に野良猫は今、樟太郎を睨みつけてシャーシャー言っている。
「オレ、何もしてねえんだけど」
ぼやいても人間の言葉が通じるはずがなく、かといって気にせず歩いていけば余計に刺激して飛びかかられるのは目に見えている。前世で動物虐待でもしたのか、と途方に暮れた樟太郎が現実逃避にくだらない妄想をしたその時、不意に猫は威嚇をやめて鳥居の向こうをみやった。
みゃあ。
樟太郎がおそらく人生で初めて生で聞いた可愛らしい鳴き声は、まぎれもなく例の猫のものだ。
ただし、向けられたのは樟太郎ではなく、鳥居の向こうの存在である。
そこでは白い大型犬が、行儀よく座って猫を見つめていた。
どこかの飼い犬だろう、一目で上等とわかる首輪をつけている。
二匹はしばらく見つめ合っていたが、やがて猫の方が根負けしたのか、背を向けてフェンスを越え、竹藪の中に消えてしまった。
その時、
「シロ!」
凛とした声がして見ると、鳥居の向こう、石畳の階段を見慣れた女子生徒が駆け下ってくる。
呼ばれた犬が振り返って、どこか誇らしそうに一声。
「ワン! じゃないの。勝手に出ちゃダメでしょ」
その顔をぐにぐにしながら楓が叱ると、シロはくうんと尾を下げた。
「ま、まあまあ、その辺に……」
猫に限らず犬にも好かれない樟太郎にとって、シロは自分を怖がらない稀有な動物だ。そのせいでと言うべきか、助けを求めているように見えたつぶらな瞳を無視できなかった。
「おはよう常葉くん。ウチの犬が迷惑かけてない?」
律儀に挨拶から始めた楓の表情は、しかし、妙な笑顔で固まっている。
あ、これ怒ってる。余計なことを言うなと言外に伝わってきて、樟太郎は口をつぐんで首を横に振った。
楓はシロに向き直ると、その頬をつかんでぐいと伸ばす。
「勝手に、家を出ちゃ、ダメ。お散歩は、私じゃなくて、おばあちゃん。分かった?」
またも助けを求めるつぶらな瞳。
というかこの犬、なかなか大きいなと樟太郎は必死に見ないふりをしながら気を紛らわせてそんなことを思った。
座った状態で、目線を合わせるべくしゃがんだ楓と同じくらいの高さ。それでも毛並みが整っていて清潔な印象があるのは、それだけ大事にされている証拠だろう。
「分かったら、家に戻る。おばあちゃんたちが探してるよ」
さらにいくつかのお小言をもらって、シロはしゅんとして楓の元を離れた。
それでも階段を登りながら名残惜し気にこちらを振り返るので、楓が帰ったら遊んであげるからとなだめ、それで落着したようだ。
その姿が階段上のもう一つの鳥居の向こうに消えるまで見送って、楓はようやく一息ついた。
「賢いな」
樟太郎が感心して呟くと、楓はやれやれと息をつきながら、まあねと少し自慢げだ。
「長生きしてるからね。常葉くんは、何か動物飼ってるの?」
複雑な関係性であるとはいえ、初対面から二週間も経ったクラスメイトなので、その口調はすっかり砕けたものだ。
「いや、世話できるような環境じゃなくてな」
「……? なるほど」
含みのある言い方に戸惑いながらも、楓は深く追求せずに納得したようだ。
「にしても、お前ん家、神社だったんだな」
出会った時に祝詞を使っていたのと、名家の娘ということである程度想像はついていたが、ここにきて確証を得られた形だ。
いつも校門前で待ち合わせていたので、途中から通学路が一緒なのも初めて知った。
「家系的には、ね。でも今のところに住み始めたのは最近」
「そうなのか? ……ああ、確かに」
そういえばそうだった。樟太郎自身あまり覚えていないが、じつは十年前、この地域で大きな雪崩が起きている。山に近い木造建築なんかは壊滅したらしいが、幸いにも人の密集地帯は難を逃れたはずだ。ただ山中の神社はどうしようもなく、今の社は数か月前に建て直された新築である。
「立ち話もなんだし、そろそろ行くか」
樟太郎が促すと、楓は頷きかけて、何かに気づいたようにカバンを探る。
「待って。ヤギリさんに連絡入れないと」
ヤギリというのは、楓の正規の護衛役の、一人のことだ。
ハリボテ護衛の樟太郎を除く正規の人員。師匠と組んでいるのはヤギリである。
二人は昔から交流があったらしく、ヤギリは樟太郎が師匠の後継者代理であることも把握していた。
入学式の日の騒動は、本来楓を合わせた四人で顔合わせをする予定だったところを、師匠と樟太郎の到着前にカゲによる襲来を受け、ヤギリが大多数を相手取りながら楓を逃がしたというのが始まりであったらしい。
樟太郎を追い詰めたのはヤギリが取りこぼしたごく一部だというので、実際に彼が相手取ったカゲの数も推し量れるというものだ。
ともかくそんな騒動の後、正式な顔合わせで樟太郎がヤギリに抱いた印象はしかし、なんともまあ頼りなさそうな優男、である。
あの後も何度か顔は合わせたが、それでもやけに大きな丸眼鏡以外に思い出せるものも無い、平々凡々な顔立ちをしていた。
同じく優男風の師匠が妙なオーラを放っているのと比べると、その凡庸さが際立っている。何より唯一印象に残る丸眼鏡を、ヤギリ本人が人に覚えてもらうための手段だと明言したので、見た目の目立たなさは筋金入りだ。
しかし同時にそれは、彼の長所ともいえる。
丸眼鏡をはずしてしまえば印象のない彼は、だからこそ違和感なく通行人を装える。
だからこそ彼は、主に楓の登下校に陰ながら同行する形で護衛任務をこなしていた。
楓は電話で二言、三言交わすと、くすりと笑って電話を切った。
「ヤギリさんも、後からこっそりついてくるって」
「なんつーか、それだけ聞くとストーカーみたいだよな」
女子高生を尾行する成人男性、弁解の余地も無いアウトである。
「あの人も仕事なんだから、失礼なこと考えないの」
真面目くさって答える楓も、苦笑いをしているので否定できないらしい。
「でも、あの人がストーカーになるのは想像できないかな。ストーカーって、ねじ曲がってるけど一応は恋心なわけでしょ? ヤギリさん、妹さんにぞっこんだから、そういう感情無いと思う」
「それはそれで、別の意味で危ない気が……」
人はそれをシスコンと呼ぶ。
外見の印象とは裏腹に、なかなかキャラの濃い人だと樟太郎は評価を改めた。
学校の外周に張り巡らせる結界は、その規模とは裏腹に、簡易的なものだ。
使うのは、楓が愛用する紙の式神を数十枚。マンガやゲームでよく見かけるそれは、陰陽師が使うことの多い伝統的な道具である。
「本当は、神道と陰陽道って別物なんだけど」
初日、楓は物珍しく式神を眺める樟太郎に、そんなことを言った。
神社は、この国の古来の生活に根差した神道を基盤とするものだ。八百万の神々を信仰し、その祭儀を行う場所として発展したのが神社である。
一方で、陰陽道は隣の大陸から伝わった思想を、この国で独自に発展させたもの。全てのものは陰と陽に分けられ、その調和によって世界が成り立つとする考えの中に、神の存在は定義されない。
とはいえ陰陽道に限らず、大昔に伝来してきた思想や宗教の数々は、神道と融合して境目が曖昧になっているのが常だ。超常的なものなら何でもかんでも神にしてしまう神道の懐は深く、千年以上前に実在した陰陽師が神として神社に祀られてしまっている辺り、楓が式神を使うこともさほどおかしなことではないだろう。
もっとも、そのあたりに学のない樟太郎は、違和感すら覚えていなかったのだが。
「にしても、お前が自分で結界張るんだな」
「守られてばかりじゃなくて、自衛くらいはしたいからね。結界が壊されたら術者の私にも分かるから、そうじゃない時に外からの妖の侵入は心配しなくてもよくなるし」
私のわがままだから、常葉くんが私に合わせて早く来る必要は無いのに。
楓はそう言ったが、それでも樟太郎は毎日朝早くにそれを手伝った。
幼少の頃から家に居づらいのもあって、早くに登校できる口実ができてありがたいのもあったし、ハリボテ護衛なので出来る限り楓の近くに居た方が良いという判断もある。だが、実際の理由は自分にもよくわからない。
ただ、
「私、球技苦手だから早く終わってほしいんだよね。そういえば、男子って今体育で何してるの?」
「バレー。友達があっちこっちに飛ばすからフォローが大変」
「楽しそうだね」
「今の話のどこにそんな要素があったよ」
「私はボールをあっちこっちに飛ばす側の人間なので、フォローできる常葉くんは体育を十分に楽しめていると思います」
「……悪かったって。でもお前、こないだ家庭科でやけに頼りにされてたじゃねえか」
「ミシンの糸通しは任せなさい」
「何度やってもボビンが絡まるんだけどコツとかあるのか?」
「うーん、ミシンと友達になることかな」
「無理だ、今日もケンカになる」
少なくとも、楓との雑談が早起きの理由の一つになる程度に楽しみなのは事実だった。