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かごめ青春録  作者: 夏樹螢
一章
2/9

1‐1 泡沫の夢

常葉(とこば)樟太郎(しょうたろう)、十五歳。身体的性別と性自認は共に男、人並みにマンガやゲームを楽しみ、幼少期より剣術を習い、チョコレートより餡子を好む地味に和風趣味な彼の半生は、有体に言って不幸の連続だった。


 生まれたのは妊娠七か月目。

 普通より三月も早い産気もあって病院へ行くのが間に合わず、医療従事者の介助なしに自宅で生を受ける。

 その際に事故で一時心臓が止まり、親の顔を見ぬまま保育器で医師と看護師に育てられた。


 幸いにも後遺症なく初の誕生日を迎え、自宅に戻ると発覚する謎の幻覚症状。

 言葉が出てくると彼は街中でも家の中でも人間ではない何者かの存在を訴え、無邪気に交流し始める。

 心労のあまり、母親は精神を病んだ。


 追い打ちをかけるように、小学校に入る直前、暴走トラックに巻き込まれ再び生死の淵を彷徨う。

 なんとか自身は生還したが、共に巻き込まれた父親は帰らなかった。

 母親の精神状態と自身の幻覚症状は更に酷くなった。


 ただ人生で唯一、幸運なことがあったとするならば、幻覚症状と思われていた視界を共有できる人物と出会ったことだろう。



 それは父を喪った事故の直後。無事に退院したは良いものの、家にも居づらくなって逃げてきた薄暮の公園で、独りブランコに揺られているときだった。


 陽が沈んでしまえば、そこに子供の姿は無い。

 つい先ほどまで目の前のベンチでは、色付き眼鏡の怪しい兄ちゃんが煙草を吹かしていたか、何やら電話で話しながら立ち去ってしまっていた。


 公園には、自分ひとり。

 そうはいっても、特に何も考えてはいなかった。家に帰っても母や姉が遊び相手になるわけでもないし、温かいご飯が用意されているかどうかさえ不確かで。自分がその理由の一端を担っているらしいことを自覚無しに理解していて、けれど罪悪感を持つ情緒も無く、それが樟太郎の日常だった。



 ふと隣のブランコが揺れたと思って見ると、最近ようやく他人には見えていないと気づいたカゲのようなものが、自分と同じようにぽつねんと座っていた。

 カゲといってもいろいろな形があるが、それは特に珍しい人型だった。二つの眼窩は果ての見えない穴のようで、見ていると吸い込まれてしまいそうだった。

 二人はしばらく見つめ合い、どちらからともなく、ギコギコと錆びた音を立てて小さくブランコを漕いだ。


 ちょうど樟太郎の、七歳の誕生日だった。

 カゲは眼窩と同じように暗い口腔を三日月のように歪めてわらった。

 樟太郎は家族にも、その瞬間まで自分にも忘れられていた誕生日を祝われた気分になって、弾むように大きく漕いだ。

 三日月は満月になった。


 やがてカゲはブランコを降りて、樟太郎の背後に回った。

 カゲが押すたび、樟太郎は信じられないほど高く舞い上がった。楽しくて仕方なくて、声をあげて笑って、一番高くまで揺られて、笑いながら必死にブランコの鎖にしがみついた。


 なぜか涙があふれていた。

 雫は夜の闇に散って、街灯の灯りを受けて煌めいた。

 とてもきれいだと思った。時が止まったかのように、樟太郎は一瞬の永遠の間、その雫をじっと見つめた。


 瞬間、樟太郎の体は急降下を始める。臓腑が反射で縮むような挙動をして、心臓が悲鳴を上げた。

 しかしその恐怖は、長くは続かなかった。一番下まで滑り降りた背を何者かの手が受け止め、勢いを吸い取られたように、ブランコはやわらかく動きを止める。



 振り返ると、カゲと同じように夜の闇から生まれたような着物姿の青年が、唇をきゅっと引き結んで佇んでいた。

 彼が右手に握る刀からはカゲの残りかすのような瘴気が漂っていて、ぼんやりとそれが何を意味するのか理解した。


「アレと遊ぶ子供なんて僕は初めて見たよ」


 艶のない黒髪から覗く紅い双眸が、鋭く樟太郎を睨んだ。

 吐き捨てるような口調には怒りのようなものが滲んでいて、人からそんなものを向けられたことがない樟太郎は大いに戸惑った。


 七つまでは神のうち。ずっと幻覚だとされていた妖が、もはや神でなくなった樟太郎に牙をむいたのだと気づいたのは、それからずっと後のことだ。


 彼の怒りが何に向けられていたのかなんて、当時は知るすべもないけれど。

 それが今も忘れられぬ、師匠との出会いだった。




 それから十年、辻の一件から数日。休日の恒例である朝の稽古を早々に切り上げると、山の中の静寂が汗で冷える体に沁みこんだ。


 脱ぎ捨てていたオンボロの羽織をひっかけ仰ぎ見れば、うっすらと残る霞の向こうに薄紅の木が一つ。

 もうそんな時期かと、いつのまに訪れていたらしい春である。


「一旦帰るかい?」


「いえ」


 後ろでキセルをくゆらせる師匠に答えながら、樟太郎は首にかけていたスポーツタオルを引っぺがして、竹刀の隣に置いてあるカバンに投げ入れた。

 どうせ午後から続きをやるのだから、いちいち帰るのも面倒だ。


 再び訪れた沈黙は、しかし長年の落ち着きのような、妙な安心感を孕んでいる。

 そうだ、帰るもなにも、ここだって自分の家じゃないかと半ば本気で思った。



「――そろそろ、」


 遥かへ飛んでゆく鳥を眺め、波のように揺れる草を眺め、縁側で風に吹かれて、どれくらい経っただろう。


 一瞬のようで永遠のような、まどろみの合間に見る夢のような時の中。

 都会化する町から逃れるようにぽつねんと残る山中の屋敷で、静かに響いたそれは泡を割る静かな掛け声のようだった。


 振り返ると、手中でキセルをもてあそびながら、師匠がじっとこちらを見ている。

 どこか浮世離れした彼の、最も特徴的な紅目の射抜くような視線に戸惑いながら身構えると、彼はふっと小さく笑った。


 一つ煙を吸って細く吐き出し、いや、と前に声を置く。


「そろそろ正式に階級を持たせても良いかと思って」


 ぱちん。


 樟太郎の中で、何かが割れる。それは痺れるように全身を駆け巡り、はくりと空気の塊が口から飛び出した。


 動揺のあまり揺れた瞳が、師匠の腰の刀を映す。鍔から下がる飾り紐の先、六芒星の階級印。


 祓い屋。


 人知れず夜の闇に潜む妖を斬る、裏社会の秘密職。ここで言う階級とは間違いなく、その世界に関係するものだ。


 考えたことが無いわけではない。祓い屋に教えを乞うにあたって、それは当然ともとれる将来設計だ。

 ただ、彼の指示下でその仕事の一端をも担っているというのに、樟太郎が選ぶのを後回しにしていただけで。


「それ、は、」

「というより、ずいぶん待たせたくらいだね。君も高校生になるわけだし」

 いいかげんに腹をくくるべきだろう、と。


「待っ……」


 反射のように言って、しかし続けられるはずも無く、行き場を失った感情が胎の底に渦を巻く。


「嫌? 僕としては、そろそろ十年分の指導料も、徴収したいわけだけど」

「……」


 それを言われてしまえば、何も言い返せなかった。


 言い訳だけなら、いろいろある。そもそも二人の師弟関係は、あの運命的な出会いの直後、師匠が樟太郎をこの山奥の家まで強引に連れ帰ったことで、なし崩し的に始まったのだから。

 それはもうくどいほど、カゲと呼ばれるかの妖の危険を教え込まれて。いつか死ぬぞとドスの利いた声で脅され、生き残る方法を叩きこまれ。


 けれど師匠は、それで終わらせるつもりだったはずだ。基礎的な刀の使い方と体術を、死に急ぐ少年が生きる選択肢を選べるように教えてやるだけのつもりで。

 それでも一通り教わり終えて、もう来なくていいと言われたのに、次の日も次の日も、教えを請いにやってきたのは樟太郎からだった。


 そうだ、それから今日に至るまでの稽古は全て、彼の善意に甘え続けた無償のもの。自分の無礼さを自覚し、奥歯を噛みしめ俯いた樟太郎は、しかし頭上から、こらえきれないとでもいうように喉の奥からこみあげてくるような笑い声を聞いた。


 師匠だった。


 笑いすぎて零れたらしい涙を拭い、彼は誤解を解くよう首を振る。


「冗談、冗談。稽古代のかわりに正式な祓い屋になれ、なんてぼったくりだよ。だって高すぎる」


自分以外の人間一人分の人生なんて重すぎて僕には持てないし、と師匠は手で払うような仕草をした。


「ただ下世話なことを言うとね、上の連中は僕に後継者を望んでいるらしい。阿呆と間抜けが雁首揃えて我こそはってやかましいんだよ」


 それは現時点での唯一の弟子を安心させるための微笑みか、阿呆たちへの嘲笑か。

 あるいは、どちらでもないのかもしれない。


「……つまり?」

「一年、時間が欲しい」


 まとめられても理解が追い付かない樟太郎に、師匠は続ける。


「知っての通り、祓い屋になるには成人しているのが第一条件。ただ例外として、高校生は研修生の扱いでこっちの世界に関われる。だから今までの稽古代のつもりで、研修生になって僕に一年くらい時間をくれって話。終わったら好きにやめてもらって良いからさ」


 それはまさか、例の雁首とやらを全部まとめて切り落とす時間じゃないでしょうね。

 ともすれば失礼ともとれる疑惑を胸の内に押し込めつつ、樟太郎はほっと張り詰めていた息を吐いて安堵した。


 つまり後継者の身代わりだ。一年間、自分が彼の後継者であるふりをする。その間に師匠は、阿呆でも間抜けでもない実の後継者を、自分の目で探すのだろう。


 選ばれるのはきっと、自分で自分の人生の責任をとって師匠に転嫁しない、芯の強い若者だ。


「選抜にはそれくらいかかりますか」

「だね」


 師匠は樟太郎を、期待の眼差しでもって見つめている。


 それくらいならば引き受けよう。どうせ、特にやりたいことが見つからずに悩む年頃である。一年くらいふらふらしたって、大したことでもあるまい。


 むき出しになった傷口を、再び泡に包まれる幻想。


 そういえば師匠はまだ三十にもならない若者なのに、何をそう急かされているのだろうと、まどろみの中でふと思っては流れていった。

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