0 薄暮の辻
良い子にしていないと鬼が来るぞ。
早く寝ないとお化けが出るぞ。
なんて子供に言い聞かせる大人たちだって、まさかそんな化け物を信じているわけではあるまい。
子供を躾けるための、古来より伝わる全世界共通の嘘八百。さんざ怖がっていた子供たちも、親になれば同じ方便を繰り返す。
……なんて、言いきれたらどれだけ良かったろうと、樟太郎は塀に背をつけながらそんなことを思った。
平凡な、というにはどこか雑さを感じさせる少年だ。それはボサボサのまま大した手入れもされていないであろう生来の茶髪から来る印象かもしれないし、ファッション性を感じさせないくたびれたパーカーから来る印象かもしれない。どこか浮世離れした雰囲気は、手に持った細長い袋によるものか。
既に日の沈んだ午後八時、住宅街の十字路の手前。樟太郎の目の前を通り過ぎた親子は呑気に妖怪の話をしていて、それによると夜更かしして町を歩いている子供も、親と一緒であれば化け物には襲われないらしかった。
(まあ、十中八九見えてねえんだろうが)
でなければ、それほど楽観的に彼らを語れまい。
樟太郎は手首に巻いた麻縄を軽く引っ張った。紐のような見た目に似合わず、強度は十分。準備は万全だ。ならば。
塀から背を離し、手に持っていた細長い荷物から中身を取り出して、親子の後に続く。
どうやら少し勘の良いらしい子供がこちらを振り返るが、感じた気配とは裏腹に誰もいないように見える夜道に首をかしげ、前を向き直った。
親子は十字路に入っていく。細い道で電灯も少ない。彼らにとってこれ以上ない、格好の狩場だ。
子供の手を引いて少し先を歩く母親の足が、躊躇いなく交差地点に踏み込んだ。
「……?」
声は無く、けれど僅かに戸惑う様子が、後方からでもはっきりと分かった。何かがいつもと違うような気がする。そんな違和感を抱えながらも、気のせいだろうと、また一歩、
今だ。思うが早いか樟太郎は地面を思い切り蹴って、弾丸のように飛び出した。その瞬間、否、親子の体が交差地点に入った瞬間。無垢な二人の目の前、地面から生えるように黒いカゲのようなものが現れ、大きくぱっくりと口を開ける。
それはまるで、虚空に浮かんだ半透明の風船のような。
夜の闇にも紛れぬ黒々とした本体の中に、既存の色では形容しきれぬ不気味な口腔。親子は何も知らず、今まさにその中へ入らんとしていて。
しかし。
飛び出した樟太郎は彼らの進行方向、交差地点の先に着地し、立ち上がりながら背後を振り返る。
そこにいたはずのカゲは残滓を振りまきながらも消滅していて、その残滓も見る間に薄くなっていった。
キン、と金属音が聞こえたかは定かでないが、母親の足が初めて、不意に止まった。
「……あら?」
自分でもなぜ立ち止まったのか分からないという様子で、母親が困惑の声を上げる。
「お母さん?」
手を繋いでいた子供が、母親を見上げて困惑の声を上げた。やはり勘が良いらしい、その顔には怯えの表情が浮かんでいる。
「……ううん、何でもない。疲れてるのかも」
やあねえ、もう。小さくぼやいて、母親は眉間を揉む。そのまま親子は何事も無かったかのように、十字路を曲がって歩き去った。
その様子を横目で見ながら、樟太郎は手にした日本刀を細長い刀袋にしまう。ポケットから取り出した剥き身のスマートフォンは、ワンコールも待たないうちに相手とつながった。
「もしもし。例の辻の、カゲの件ですけど……はい。話通り、まだ不完全でしたから……」
ストラップにして刀袋にかけていた万能ナイフのカッターで麻縄を切ると、強制的にその効果が切れる。
すれ違った犬の散歩の老人と会釈を交わすと、彼は電話を切って帰路を歩き始めた。