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Venefica  作者: 神代彩
6/6

06-broke up with Ophelia

遠い道のりは心を殺した。

辿り着いた海岸は心を生んだ。

どれ程の荒野も、砂塵も、雪原も。ただ世界が続いていることを其処に示し続け。

そして至る一つの果てに、何ら答えは用意されていない。

生くる者に救いはあるのか。

死にゆく者に嘆きがあるのか。

心が死に絶え身体が生きることを放棄するまでその旅は終わらない。


故にその海岸は命の果て。

死んだ心が得るのはせめてもの結末。

眠る未来になんら幸福が無いとしても。




雨が降っていた。

闇夜に流れる水滴の数などをどうやっても推し量れず、また面倒にも感じて彼女はその景色をただ眺めるだけに留めた。吐き出す紫煙は夜空と相反するようにして溶け込んでいく。

家主が未だ帰宅していない。その部屋に一人残ったまま、窓辺でいつものように煙草を咥えていたが。

星の機嫌さえ伺えない。この街はよくも霧と雲に覆われている。そのことを恨めしいとは感じなかったが、飛ぶには少しばかり風情に欠けるか。灰になった煙草を灰皿へと押し付けて、彼女は立ち上がった。

流れる金髪はその存在を誇張することもなく薄暗い室内に同化している。傍目から見てもその姿は綺麗でありながら、その存在は目を疑うほどおぼろげだった。

立ち上がって歩く先は家主の私室だ。職務で必要に応じて書籍を購入しているのか、多くの知識に囲まれているもののそのどれもが彼女にとって興味のない事柄である。ただその光景の珍しさについては新鮮だと感じながら、部屋の隅に置かれたソファーに腰を下ろした。

家主が留守の間にこの部屋に入り込むことは彼女にとって珍しいと言っていい。無用心にも施錠していない家主を諌めることもないが、だからといって無断で入室することはなかったのだが。

それすら、どうということのない思い付きだ。

家主は街で起きていた事件を解決しその事後処理に追われているようだが、それに少なからず関わった彼女はここで怠惰を貪っている。外界のことになど興味は無い。

だからこそ、ここに座ったことさえ詮無きことだ。それは自覚している。

しかしそれ故に何かの意図を感じるのか。それに自答せずにいる。

煙草を咥えていない自分の姿というものもまた珍しいことだと哂いながら、薄暗い室内で無為に時間を過ごしていること。この日常は自分の本心から望んだものではなかったことは確かだが、気まぐれゆえの行動によって導かれた一つの結果である。

ならばそれでいいだろう。

そこに明確な意図があることを嫌い、此処が選択によって導き出された結末でないことを願うなら。今此処にある結果を愛することさえ出来る。

そうして少し眠る。今はただ宵闇に抱かれているだけで。この夜が明けるよりも早く、手に入れた日常へと立ち返るのだから。




『―――やはりイングランドに眠っていると考えられる』

『貴殿の研究が正しかったことが証明できるな。だが裏づける証左が得られん』

『…封印場所の特定までは難しい。聖遺物に少なからず知識を抱えている名門の魔術師に協力を求めるつもりだ』

『協力?あまり計画を露見させてもらっては困るな。得られる情報か資料があるのならば得た上で謀殺すれば良い』

『…だが、それでは』

『在野から変わった殺し屋を雇い入れた。折角だ、使ってみるのもよいだろう』

『―――判った。聖杯の所在について情報を特定できれば後は行動に移すだけだな』

『そのつもりだ』

彼女はその会話に参加していない。

部屋から漏れる明かりと密談は聞き留めながらも聞き流さなくてはならない類。だが、ここで彼女が主を諌めていればどうなっていたことだろう。


亡骸もなくただ朽ちていくのを待つばかりの邸宅は、今はまだ崩壊の片鱗もうかがうことは出来ない。家主を失って何を思うことも無く佇んでいるにしても、ここはすでに虚構だった。

レーンは独り此処に残り遺品の整理をしていた。家主であり、彼女の師であり恋人だったセオフィラス・ウッドゲイトはすでに死去している。清算し切れぬ感情を押し殺してなお彼女を行動せしめたのは、つまらない後片付けだった。

魔術師であり、聖遺物研究者であったウッドゲイトは生前から数多の資料をかき集めていた。いや、研究という一つの行動に基づくならばこの部屋に眠る数々の書籍は必然的に集まるものだろう。ここに積み重なったそれらは研究成果でもあり、生きた道標でもある。

欠片を拾い集めるようにして彼女は淡々と整理をこなした。ウッドゲイトが死んでから既に一週間になろうとしているが、未だアスガルドの手はこの邸宅に伸びていない。死亡した魔術師の研究成果は生きた化石であり、何らかの干渉を行うものと思っていたのだが。

レーンのその思惑は概ねでは正しかったが、どのみち邪魔が入らないことは彼女にとって僥倖である。早急に必要となる資料をまとめ、ウッドゲイトの成果を人目につかないように封じなくてはならない。

無残にも殺され、志半ばでろくに継承もできなかった研究成果は他人に委ねたくはなかった。それはウッドゲイト本人というよりも彼女の意思である。

それはあまりにも愛しい仕草であり、愚かしいほどの未練だ。

「―――」

一心に整理を繰り返していた所為か、少しばかり疲れた身体で立ち上がる。来客のようだった。

家主は既に死亡している。だが、尋ね人がそれを知っているかどうかは別だ。ウッドゲイトは生前に多くの人士と交流していた。

何の疑いも持たずに彼女は玄関の施錠を外した。アスガルドの人員が派遣されてきたらどうするかと思案したが、師弟と言えばそれでいいだろう。彼女はそのときまでもそのように考えていて。

開いた扉から黒い円が見えた時にすら、己の最期を認識することはなかった。

消音器の銃声はただの一発で女の額に風穴を開ける。崩れ落ちる人影を支えるものはなにもなく、その音を最期に玄関の扉は閉められた。

入ってきた男たちは二人。うち一人の手には自動拳銃が握られていた。

「―――ウッドゲイトの女か。以前にも会ったことがあったな」

「殺してよかったのか?」

「構わんさ。そういう指示だし、なによりこの家を漁られることは避けたい。今後ここにアスガルドの管理者が入ろうと我々の手で監視することが決まっているからな」

二人の男たちは服装も背丈もまるで合っていなかったが、足取りだけは一致していた。この邸宅にて迷うことなくウッドゲイトの私室へと向かう。

そこは、家主が生前に行った研究成果がまとめられているのであり。そして遺品が眠る場所でもある。

「…そもそも何でウッドゲイトは死んだんだ?」

「さあな。例の、アジアから雇い入れた殺し屋にやられたみたいだが。そいつもお上にやられて斬首刑らしい」

「…状況は良いと言えるのか。そもそも、あの修道会を唆して本当に聖杯の在り処が判るものかどうか」

「シュタットガルドからの指示だ。仕方あるまい」

遺品を探る。ウッドゲイトの部屋は整理されているとは言いがたいが、物の所在についてははっきりしているようだった。目的の棚の一番下、金庫を開封する。

金庫を開ける番号など男たちも知っている。彼らとウッドゲイトはそういう意味で情報を共有する関係にあった。

「―――これがそうなのか」

中から取り出されたのは、六本の棒切れだった。その形状を比喩するならばペーパーナイフだが、それにしては少しばかり刃渡りが大きい。両手で持つには手に余る代物だが、やはりその用途はペーパーナイフとしてのものではないだろう。

片手に持ってもその重さは見た目どおりに軽く、白く光るそれがどのような材質であるのかは彼らにも判らなかった。

知っているのは、これがウッドゲイトの研究成果の一つであることだけだ。

「…試作といったところか。以前から話だけは聞いていたんだがな」

「これが武器なのか?まるで玩具だ、子供が振り回す程度のものじゃないか」

「せめて儀式に使う程度、と言うべきだ。概念法論によって武装するならばこれは手っ取り早い筈だ、ウッドゲイトがそう結論付けたのだからな」

「しかし…まさかこれで刺し殺せというわけではあるまい?」

「使用方法については調べる余地があるがな…奴は是をクラウソナスと呼んでいた。量産化には至らなかったが、ここにある六本は我々の矛になる筈だ」




身体が崩れるという感覚を、彼女は久々に味わっていた。

訪れるのは痛みよりも衝撃だ。其れに勝る戦慄もありはせず、ただ伏兵の所在を視認することに努めた。

突如として背後から襲い掛かった白い閃光は名無し娘の左腕を吹き飛ばしていた。虚空を舞う鮮血もその怪我からすれば大した量ではなく、やはり熱量をもった一撃であることが知れた。傷口が焼けているからだ。

振り返ってその一撃を受けたことは幸いと呼べただろうか。あのまま背後からその攻撃を受けていれば彼女とて無事では済まなかっただろう。そこまで考えて、名無し娘は自答する。伏兵の存在を嗅ぎ付けられなかった自身の不徳でしかない。

だが、本来は飛翔して敵を討つ彼女が地に留まったまま体勢を崩されたことは致命的でもあった。それが僅か数秒足らずの時間であれ、敵が再度あの閃光を放つとなればそれは正面からの一撃となる。

やがて訪れるその白。迫り来る閃光はその光を視認するよりは遅く、音を聞くよりは速い。正面から彼女を狙いに来た。

翼を開放する。いま飛翔したとて間に合わず、最悪の場合このまま片足までも破壊される。悪魔である彼女にとってそれが致命傷に至らずとも、眼前の敵を排除できぬまま傷を増やすことは敗北に成り得る。

まして、その相手が人間風情などと。

風を起こす。咆哮を上げる。それは悪魔と呼ばれるに相応しい、およそ生物と呼べる存在が本能から恐れおののくほどの戦慄だった。沸き起こる風は彼女から放たれたもの。背中に抱えた四翼がその存在を大きく叫んでいる。

銃弾の軌跡すら逸らすほどの風力。それは局地的な大気の流動だった。範囲を狭めたことでその動きを強烈なものへと変えた風はなんら憚ることなく外界へと放たれる。

そして、白い閃光はその進路を変えることもなく彼女の脇腹を貫いた。

「―――」

今度こそ崩れ落ちる。膝が生きていることについては感謝すべきかも知れなかった。空を飛び人間の首を刎ねる悪魔が、決して小さくない傷を負ってもなお支えとなるものが残されたのならば。

その僅かな救いをへし折ることこそ、慈悲には遠く及ばない冷酷な判決だった。


断罪するならば、せめて言葉を求めて。


存在を穿つならば、何も思い出さぬように。


優しく殺めることなど、彼女自身にも出来ぬ行いだ。せめて苦しまずに首を刎ねたところで、明確に表されたその殺意に裁量を求めるなどどうして出来ようか。

だからこの攻撃は正しい。番えた矢は射るより他に無く、交えた敵を迷い無く穿つことは優先すべきことである。名無し娘のような悪鬼の類を相手にしてなお揺るがない追撃こそ、明確な悪魔狩りの意思によって振り下ろされた断罪の剣に他ならない。

その白さは、ただ穢れを祓うのみに非ず。

確固たる殺意のもとに放たれた避けがたい一撃である。


故に慈悲は無い。

戦場に神が居ないように、彼女を憐れむ者など何処にも在りはしない。再び放たれた白い閃光は彼女の中心を狙うようにして飛来し―――


その閃光はクロスの目にもはっきりと見て取れた。

その光が光そのままの攻撃ではないことは感謝すべきだった。速度は光とは呼べないものの、過ぎ去っていくその一撃は確実に名無し娘を窮地に追い込み、そしてそしてその半身を二つに割った。

下腹部に受けた二度の閃光は彼女を壊れた人形に貶めるには十分だったのだろう。あまりにも呆気なく破壊され、支えを失った上半身は鮮血とともに地に転がった。

無残、と呼べばよかったのだろうか。

「―――」

言葉は出てこない。彼女に呼びかけることも、まして救い出すことなど今のクロスに出来よう筈はなかった。どうにか視認できるとはいえ、見えてからでは避けるに遅すぎるあの白い閃光。名無し娘をここまで愚弄したその狙撃にどうやって立ち向かえるのか。

防ぐ手立ても無い。万策を張り巡らせてもなお足りぬその窮地において。

立ち尽くしたまま、名無し娘と視線が合った。

あの白い肌が変色するようなその行程。苦悶の表情などさして問題でもないようにして彼女はこちらに目線を投げかける。

震えている唇。それは決してクロスの耳元まで届かぬ言葉の表れ。あの悪魔にしては、傍若無人である筈の彼女にしては、およそらしくない強張った面持ちで。


来る、な。


小さい唇はそんな言葉を紡いでいる。

どうにか理解できるほどの動きは僅かそれだけの言葉の為に。成す術無く立ち尽くしているクロスに向けられた、ただそれだけの為に。

路地裏から名無し娘の位置まで凡そ十歩程度か。しかし狙撃の方角から見ればクロスの位置は死角になっている。彼女の言葉は忠告としては的確だろう。

だが元より足はおろか全身が動かない。怖れて震えるだけならばそれも良いだろう。身の程を弁えるという意味では正しい在り方だ。だが今のクロスを脅かしている感情は異なるものだった。

目の前に在る光景が一体何の冗談なのか。

名無し娘が如何なる振る舞いをしたとて、アレはその存在が億劫になるような悪魔である。本人にその自覚も誇りもなかったとして、しかしその事実は変わらない。空を駆け、容易く人間の首を刎ね飛ばし、返り血一つ浴びない死神。

その姿を神々しいとも疎ましいとも感じなかった。砂漠で出会ったその悪魔は気まぐれのままにクロスを手助けし、彼はその気まぐれを返すように親交を求めた。

だからこそあの悪魔の在り方も強さも知っている。こんなにも容易く、醜態を晒すようなことが在り得るものか。

「―――」

理解することに努めるならば容易い。ここに起こった事実を受け入れて考えるならば、彼女の言に従うことが道理。わざわざ敵の死角から這い出て狙撃の的にされるよりは、ここで成行きを見守るべきだ。

成行き。恐らくはそれが正しい。路上を染める名無し娘の血流が錆びた鉄の色になるまで、彼女の肌の冷たさがより一層深まるまで、朽ちてその唇の動きさえ無くなるまで、クロスがここで見届けてしまえば。

「―――うん」

彼は生き長らえる。未だ正体の見えぬ襲撃者たち。それらに対応するにしてもクロスが単身でどうにかできるものではない。

それ故にここから踏み出すことは道理に背く不合理。何ら省みることなき背反の道だ。

来るな。

踏み出すな。

その姿を、人目に晒さぬまま立ち去ってしまえば。

それはまったくどうしようもない問題だった。

クロスに退路など在りはしない。当然だ。その道理を以って説くならば、彼の退路は名無し娘によって築かれた一夜の砦。彼女と出会わなければとうに消えていた命は、その役割を何ら必要とせずただ前に向かうしかない。

たまたま助かったその一時の命などを。翼を失ったあの娘を置き去りにして延命するだけならば。それは在るべき退路の前提を欠いたのだ。

あの血溜まりに目を伏せて救われる命など求めはしない。何を救えず、其処に何ら救いが無いとしても。此処に退路は在りはしない。

踏み出す。路地裏から飛び出して同時に懐からガラス管を取り出した。満たされた中身は液体。

「If blessing is here, It reaches many reposes at last!」

単純な自律詠唱。僅かな文言によって放たれた術はガラス管を砕き、液体は霧状のまま噴出する。

放たれた擬似的な霧は、完全に視界を遮るほどの効果を発揮することはないだろう。小さいガラス管に閉じ込められた液体の量などたかが知れている。それでも策を講じておくべきだった。駆け抜けて名無し娘のところまで辿り着く。

「―――が」

「とりあえず、運ぶからな」

半身を失ってなお生き長らえているのは悪魔と呼ばれるに相応しい頑丈さだが、そこが限界でもあるだろう。名無し娘は此処に至って慢心創痍となった。

失った下半身―――もはや残骸だが―――は置き去りに、名無し娘を半ば引きずるような形で反対側の路地裏へと転がり込む。その間、襲撃者の射撃は無かった。彼女を仕留めたと思って移動したか。

いずれにしても危険ではある。早々に立ち去るべきだ。だがその前に。

「―――敵に姿を晒すな」

「射撃は無かった。問題ないさ」

何も響かない澱んだ声色。名無し娘はその小さい唇をもってして細々と呟くのが精一杯のようだ。血が逆流しているのか。喉に上がってきた赤は死臭すら感じさせる。

「…結果論だな、愚か者め―――ゴホッ、ぁー、…まさかこんな醜態を晒すとはな」

「―――移動、したほうがいいか」

「…ああ、あたしは置いて行け。…もう役に立たんぞ」

認めているのは、ただ訪れる死期の始まり。

僅かな諦観と僅かな憤慨をもって彼女の鼓動は終わろうとしていた。

「―――」

クロスの両腕もまた血に染まっていた。あまり馴染み深くはないその感触は、本来クロス自身が負うべきものだった筈。数多の危機を肩代わりしてもらい、そして今ここで下された結末は。

…どちらかと言えば自然な流れだ。彼女は始めから虚構の存在として君臨していたのだし、クロスはその虚構に縋って命を得た。

朽ち果てるならば、それが本来の道理。

「…おかしな顔をするな。あたしに血があることがそんなに不思議か?」

「…元からこんな顔です」

「はははは、そうか…そうだったな……間の抜けた出来の悪い男の顔だ」

言葉は途切れ気味に、呼吸は乱れ気味に、それでも気持ちは正しく伝わらない。

「―――クロス君」

「なに?」

「この傷では、さすがに、助からん。―――言っておくと…あの白い光線は意識体へ向けられる武装…つまりあたしのような悪魔の類に対抗できる得物だろう」

「…砂漠で出会ったときに戦ったときのような?」

「―――そう、厄介なことに…傷の再生を阻む効果を持つ。そういう概念法論を持ち…立ち向―――。あぁ、つまり…アレを持つ者は君のような魔術師とやらに近いのかも、しれないな」

悪魔に対抗できる概念を持つ武装。それは魔術一つで体現できるものではない。いや、不可能ではないにしても名無し娘を瀕死に追い込むほどの傷を与える攻撃を魔術で体現するならば魔術書一冊分の詠唱を必要とする。それを短縮するには継承によって魔術を相伝するしか無く、所謂名門と呼ばれる者に限られるだろう。

だが、初めから概念法論をまとった武具があるのならば話は別だ。正しい使用方法を理解した上でその力を行使するならば必要な事柄は知識のみである。

それを用意することが可能で、なおかつ名無し娘を疎んじる者となると―――襲撃者の素性はおおよそ限られることになるのだが。

彼女が命を削って得た情報。それはただそれだけの事柄だ。今知り得たところで、この流血を止める術など―――。

「…今此処で何を言うべきなのか、判らないが」

「はははは、ならばさっさと逃げるべきだろう」

これ以上強くなりはしない血の臭いは死臭にしか感じず、しかし忌まわしい耳はどこまでも彼女の言葉を留めてしまう。

砂漠に埋没した悪意の塊。

世界に興味を欠いた虚構の士。

悪魔と呼ぶには泰然としており、街で暮らすには人間味も無い。

だがその悪魔が、

―――面倒だし鬱陶しいし、何の関係もないが。『何も無い』ところに転がり込んできたお前の粗末な偶然さを生き長らえさせてあげるよ。

その言葉に寄り添うようにして生きたクロスを見捨てることは無く。

今此処で果てない命など無いことを知らしめていた。

「君に助けてもらえて良かった。拾った命は、きっと得難いものだっただろうから」

不変であるようにさえ見えた悪魔と過ごした日々でさえ。

「―――そうか」

彼女はどうということもないと云うように哂う。

「まあ、君にとってはどうでもいい日々だっただろうけど」

「…そうだな」

赤く染まった手は感じるべき体温すら遠のいてしまう。どうしようもない。例えこの終幕が一つの答えとしても。

クロスが言うべき言葉が伝わるはずも無い。

だから哂う。砂漠の悪魔は弱々しくもその手をクロスの頬に当てた。

「君にとっては酷い幻想、あたしにとってはとんだ茶番。だから忘れてもいい。得がたい命ならば…他に使い道もあろうしな。…ただ、死体を残すほどの醜態は演じたくも、ないが」

「―――?」

彼女が少しばかり言葉を呟いたかと思いきや、力なきその手を自らの喉元へと導いた。鋭い爪先を喉笛へと突き出して。

声が止まる。だがその表情が苦痛に歪むこともなく、彼女は自らの首が不要だと言わんばかりにその動作を終えた。

それが如何なる効果をもたらすのか。推察するよりも早くクロスは理解した。彼女の半身が、末端から砂に変わり崩れつつあったからだ。

これは、己を殺す動作。

人間の街に自分の亡骸を残すことを嫌った悪魔の最期の処方。

「イヴリーズ、是は」

「―――ああ、そういえば約束は、果たせなかったか」

か細い声色は余計に消え失せてしまいそうなほど小さく、確かな死期を前にして彼女はその瞳を開ける努力もしなかった。

ただ、どうしようもなくささやかな言葉だけが届いてくる。

「君の死に顔は、ついぞ拝めなかったな」

崩れ逝く身体は乾いた砂に変わり。

「…こんなところで朽ち果てることを悔いているのか。…ははは、我ながら愚かしい。あと数十年、生きられたら」

その砂がせめて添い遂げられたなら。

「得難い命を謳歌できた君の死に様を哂ってやれたのにな」

最期に彼女を空へ解き放って死ぬことが出来たのに。

想いは正しく伝わらず、願いは何ら叶う事は無く。ただ未練を残すようにその言葉が突き刺さる。

やがて朽ち果てるならば。この砂と共に溶けてしまえばよかったろうに。

「―――いや、どうせ僕の人生なんてロクなものじゃないさ」

それでも憶えておく。

彼女が囁くように、この砂を忘れてしまうなどありえない。

己の最期を見届けて欲しいという我侭を押し付けた自分に戒めなくてはならないのだ。

「―――そうだな、それもそうか…ああ、だがしかし」


―――本当に心残りだ。


心底愉しみにしていたことを奪われたように恨めしげに、だが穏やかな微笑は眠りを慈しむように。

瞳を閉じて視線すら返すことなく砂に解ける彼女の姿。

最期に届いたその言葉さえ、現実味のないものとして虚空へと消えていく。

だが、覚えている。

手元に残った砂など風に晒されて消えていくだけだ。

それでも忘れることは無い。

クロスが今此処に生きていることを。今日まで生き長らえたことを。ただの幸運ではないことを。共に居ることを願ったその営みを。

全て忘れることなく立ち上がる。

その手に掴んでいた砂は隙間を逃れるように地面に零れ落ちていった。それを慈しむこともなく、僅かな悲しみの片鱗を見せぬまま彼は歩き出す。

―――跡に残る砂もやがて消える。

逝くべき道になんら救いが無いとしても。




「戻ったか、リットン」

基地の宿舎は慌しさも無く、一部隊が全滅したわりには動きが無かった。

もっともその情報を握っているのはリットンだけだ。ロンドンでの調査は成果があったと言っていいが、背後関係についての追究は出来ていない。

これ以上踏み込んで調査すべきではないことは判っていたが。引き際を感じさせる頃合になって同僚から呼び出された。こうして日暮れ時になって基地に帰還したわけだが。

「何かあったのか?」

「おうよ、例の弾薬保管の不透明な部分についてちょっとな」

宿舎の談話室。今は彼ら二人だけだが、いつ誰かが入ってくるとも知れない。会話は密やかに進められた。

「―――基地の弾薬が横流しされているというやつだな」

「移送、って建前らしいけどな。…まあ、調べていたらけっこう怪しい展開になってきたんでお前を呼び戻したんだ。あんまり派手に動き回るとヤバいかも知れないからな」

「…どういうことだ?」

同僚は決して気の小さい男ではなかったが、このときばかりは周囲に気を配っているようだった。

「…中東への移出ということではなかったのか?」

「行き先は国内だ。ロンドンだよ。どういうわけか基地への補給を再度中央へ送り返している」

「…ロンドンに?それは妙だ、武器弾薬が必要だとしてもうちから供出する必要など無いぞ」

「そりゃそうさ。移送の手間を考えても合理的じゃねえ。だが、持ち出された量と輸送部隊の裏づけからロンドンに行ったのはほぼ確実。其処から先の足取りは判らんがな」

「―――」

不可解な話だった。基地の弾薬が不透明な動きをしていたとしても、それがロンドンに輸送されること自体が理解しがたい。中央にも軍施設は在るのだし、必要ならばそちらを動かすほうが容易いだろう。

あえて推察するならば。

「この基地とロンドンの受取人との間に何かあるな」

「?っても司令すら事態を把握できていないらしいぞ。未だ上の連中は情報確認に大慌てだぜ?」

「だからだよ。正当なものとは別の命令系統がこの基地に在るとしたらどうだ」

「―――ああ、成る程な」

中央との繋がりを持つ人物。もしそれが居るならば、その指令は国のトップに立つ背広組の一員から発せられたことになる。

それも、独自の命令によって。

「調べてみる必要がある。司令に打診してみよう」

リットンが立ち上がる。基地の上層部と掛け合うにはそれなりの証左が無ければならない上に彼は下士官だ。階級を考えるならば難しい判断だが、道を正す為の具申を躊躇うべきではない。

「…うまくいくか?それが事実なら基地そのものが弾劾されるようなもんだ」

「行動しないわけにもいかないだろう。俺たちは命令で動く人間だが、世界で一番戦争が嫌いだ」

「まァ、そうだな」




夜が明ける。

かつてこの国はこの朝日が常に自分の傍にあるものと誇っていたが。或いはそれは、人々から夢見の闇さえ奪ったのか。

照り返す陽光の中で現実に立ち返るクロスは、一晩身を潜めてからアパートへと戻った。辺りに人影は疎らではあるものの、彼を付け狙うよな人物は見当たらない。

昨晩の襲撃は、確かに名無し娘を狙ったものだったと言えるだろうが―――。

(目撃者である僕を見過ごすのはどういうわけだ?)

疑問は氷解しない、眠気は通り過ぎて憤慨している。立ち向かうべき相手が何者なのか判らず、クロスはロンドンの魔術師として次の一手を講じなければならない。

慣れた道筋に慣れた螺旋階段。足音を軽く響かせながら自室を目指す。まずはアスガルド…ブランデルに報告して襲撃者を探るべきか。そのように思案していたところで、クロスは施錠が開けられていることに気付いた。

「―――」

踏み込んだ人物が居る。そのことに戦慄を覚えることもなく、冷徹に徹した闘志は次なる判断を下した。

扉を開け放つ。視界に入る人影は無く、静謐な空間が彼を出迎えた。

部屋は荒らされてもいない様子。まして何者かが潜んでいる気配も無い。警戒心を保ちながらも、クロスは室内へと入った。

「―――よう、戻ったか」

窓辺で座り込んでいる人物。眼鏡がひび割れているが。

「シリル?」

肩口からの出血と、幾つかの擦り傷程度の軽症が見受けられたが。部屋に転がり込んでいたのは間違いなくシリルだった。

「………どうやって入った?」

「え?いやそれよかちょっと怪我の具合とか先に聞くべきじゃねえ?」

「そんなことは凄くどうでもいい」

「なんでだよー。冷てえなあ、そういうのが最近の流行なのか?俺がどれくらい真摯な愛を説いても無駄だからなー。せっかく合鍵まで用意したってのに」

「…合鍵?」

「おう、こっそり作った」

今度から指紋照合でも導入すべきか。

クロスは己の身に迫っていた危険について今更ながら実感したが、とりあえずそれは後日検討することにする。

「…で、どこで転んだのさ」

「転んでこんな傷が出来るかよ。弾は貫通してるぜ」

言われて気付く。シリルの肩の傷は銃創だ。大口径ではないようだが。

「…実はな、例の聖杯移送での襲撃者―――あれSBSだったんだが」

「ああ、あのときの特殊部隊か」

「おうよ。その部隊員から打診があって、指令を出した背後関係を探りたいってことらしいんでな。どうもきな臭いんでブランデルの指示を仰いで俺が調べてたってわけさ。ウッドゲイトの邸宅をな」

「ははあ。かの御仁はホーリーグレイルについては詳しかったのか?」

「ああ、それらしい資料がたんまりとあったからな。なんか情報がないもんかと思って調べてたんだが。日が暮れてから襲撃されてなあ。四人くらいだっけか」

「…ウッドゲイト氏の自宅で?」

「ああ。建物自体はアスガルドの管理下にあるんだが。どうしたもんか、あの家自体が監視下に置かれてたのかも知れねえな」

「…しかし、それにしては大胆な襲撃じゃないか。アスガルドの職員が大人数で押しかけたらそれだけの人間を闇討ちすることになる」

「…んー、さあな。相手が何者か判らんが。まあ、俺がそんな具合だったんでクロスのほうを心配して駆けつけたって訳だぜ!」

「ふーん」

シリルが何か言っていたが、それは気にしないことにしておく。

しかし彼まで襲われていたのは想定外だった。いや、名無し娘が狙われるのとシリルが襲われることを同列に考えることは出来ない。そもそも同一の狙いではないだろうし。

「………」

だが、先ほどまでの疑問が再度浮上する。

名無し娘を襲った襲撃者たちは彼女の存在をどこで知りえたのか。悪魔であることを知っているのはクロスとシリル、或いはセインツに属するプレシアくらいだが。そもそも出会った人物などその程度の筈で。

「そういやクロス、あのクソ悪魔はどーしたんだ?」

思案している傍からそんなことを尋ねられ、

「ああ、ちょっとこっちも襲撃されて。死んだ」

淡々とそんな答えを返した。

「…死んだ?あの悪魔が?」

「うん。どうも魔術的な武装を持ち出してきたみたいでね。襲撃者が何者なのか判らないからアスガルドに出頭するつもりだ」

あまりに素っ気無い回答故か、或いは名無し娘が死ぬことなど予期していなかったからか。シリルにしては大いに困惑した様子だった。だがそれもすぐに変わる。

「―――クロスまで狙いをつけてきたのなら襲撃の動機は聖杯にあるんじゃねえか。セインツに打診すべきだ。いや、ウェストミンスターでもいい。聖杯奪取を目論んだ連中がなんか企んでるのは明白だぜ」

「それでも、まずはアスガルドに向かうべきだろうさ。どのみちセインツに接触するにしても、まずは段取りが―――」

「あの」

この場になかった声色を聞き留めて、二人は身構えつつも振り返った。玄関先に立っていたのは、穏やかな物腰のまま散歩でも楽しんでいたような女性。

「―――プレシアさん」

つい今しがた話題にしたセインツに属する人物である現代の錬金術師。先日にも聖杯の事後について話を聞いたばかりだった。

「少し用事があったのでお邪魔させて頂こうと思ったんですけど。…既にお困り事があったようですね?」

シリルの傷の具合を伺ったのか、穏やかながら視線は何も見逃さない。それにしても、あの螺旋階段を音も無く登ってくるというのも大した芸当に思えるのだが。

それは住み慣れたつもりでいるクロスにとって意外な来客だと言っていい。あの階段を踏み鳴らす音は静かにしているつもりでも五月蝿く、故に合図になったのだが。

「少し厄介事がありまして。お茶も出せませんが」

「構いません、わたしも手ぶらで来たものですから」

「というか、僕の住所は教えてありましたっけ?」

「いえ、ブランデル氏に伺いました」

納得である。いや、こんな早朝から訪問できる程に準備を整えることが出来る程度にはブランデルを上手く使っているということだが。

「…シリルさんは、怪我を?」

「ちょっと転んだみたいです」

「クロスー、大怪我だぜよこれ介抱してもらわんと」

「彼はこう見えてもジョンブル魂の入った紳士なのでこの程度の傷でゴチャゴチャ言いませんし」

「おうよ、どう見てもかすり傷だぜ!」

「…出血が酷いようですが」

苦笑しているプレシアはともかく、単純明快なシリルは未だ死ぬ素振りも無い。かなり本気で手当てなど不要と思っていたクロスだったが。

「わたしが治療しましょう」

「貴女が?…もしかして治療魔術?」

「うーん、少し違いますけどね」

言いながらもプレシアは傅いてシリルの怪我の具合を確認する。

怪我や病魔の治療。魔術の歴史を重ねる上で数多の魔術師がそれを実践しようとしたがついぞ欧州で認められることが無かった秘儀である。治癒を施すのは神の導き手だけであり、それに干渉することを良しとしなかった倫理から、それは外道の処方とされた。

それは近代に至っても変わらない。どのみち生命に関与する魔術は必要となる概念法論も膨大であり、一人の術者では体現不可能であるのが通説だった。

「わたしの治療法は体に刻み付けるような術です。少しばかり痛みますけど、我慢してくださいね」

「むむう。クロスに看病されたかったが仕方ねーな」

シリルの肩口に刻まれた銃創。それに対してプレシアは取り出した小瓶から藍色の液体を振りまく。傷口に対して結ばれる十字に、数節ほどの詠唱。

それが終わったと理解したのは、彼女が立ち上がったからであり。シリルのほうに起こった変化と言えば。

「…アレ?痛い?いや寒い?……やっぱ痛えええええええええええええ!」

先刻までとは打って変わって痛みに転がりまわるだけだった。

「……?治ったんですか?コレ」

「はい、完治しましたよ」

「その割には五月蝿くなったんですけど」

「わたしの治療法は、治す傷に関わる全ての痛みを体現することと引き換えに完治させることですから。どのような傷でも病でも治療可能ですが、まあ身体が耐えられるかどうかは判りませんよね」

「…成る程。まあシリルなら大丈夫だろうけど。これも錬金の成果なんですか?」

「受け継いだ術には違いないですけど。仮想万能薬です。わたしはエリクシルと呼んでいますが」

「…一つ伺いますが。プレシアさんはコレを自前で試したことはありますか?」

「まさか。わたしはこれでも健康に気を使ってるんですよ?」

魅了されるほどの微笑みを返す彼女を見やって、クロスはこの話題を言及すべきではないことを理解した。

床を転がりまわって悶絶している男はとりあえず放って置くことにする。詮無きことだ。

「…それで、プレシアさん。用事というのは?」

「ええ、実はお知らせしたいことがありまして」



床に転がったままのシリルを放置したまま、二人の会談はクロスの私室にて行われた。

特に理由はない。しかし帰宅したばかりのクロスにとって必要となる武装を準備することは重要であると言えた。アスガルドへ向かうか否か、それ以前にまた襲われる可能性も否定できない。

「―――お伝えしたいことは、このファイルにあります」

プレシアがバッグから取り出したものは綺麗にファイリングされた資料。厚みの程は知れており、受け取ったのがシリルならば十分程度で丸暗記できる程度のものだった。それを受け取り、視線を落とす。

「…これは?」

「セインツの独自調査によって明らかになった、聖杯奪取を目論む容疑者のピックアップです。わたしの上司でもあるセインツ総長が調べ上げました」

「―――僅かな期間で。セインツは情報収集能力も侮れませんね」

「しかし、今回はそれほど自慢も出来ないんですよ。わたしたちのバックボーンとなるトップの官僚たちが信用できなくなりましたから。だから独自調査なんです。そして狙い通りに容疑者の絞込みに成功しました。恐らくほぼ確定の情報だと思ってください」

言われながらもページをめくるクロスの手に戸惑いはない。

変化があったのはそれから数ページ後のことだった。ファイルに記載された事柄と人物を確認したところで、全身が硬直する感覚を覚える。

錯覚ではないだろう。呼吸さえ止まるような自身の身体は、しかし怯えているのでもなく毅然としていた。

プレシアは黙ったままだ。いや、沈黙の変わりに眼鏡越しの視線だけをこちらに投げかけている。この沈黙は彼女にしてみれば回答を突きつけるための武器なのだろうが。

身体は極めて冷静に。そして忘れていた呼吸を取り戻す。吐き出した息は音を聞かせることも無いほど静謐に。

怯えも震えもなかった。これはただの戦慄である。

「…これを僕に見せたのは、貴女の独断ですか?」

「明察ですね、その通りです。既にセインツは、わたしとSBSが交戦せざるを得なかった事態を生み出した連中を粛清すべく動いています。検挙は時間の問題ですが、わたしとしての個人的思惑からクロスさんにお知らせしたいと思ってセインツの行動を止めました」

「そうですか」

淡々と、しかし確実に会話を交わす。

名無し娘が討伐され、心身ともに拠るべき存在を失ったかのようだったが。それは一握りの事象でしかないようだ。

やはり発端は聖杯を巡る騒乱にある。

「クロスさん。もし行動を誤れば貴方にも被疑がかかります。どうか迂闊な行動は控えていただくようにと思いまして」

「それが、セインツの思惑ですか?」

「わたし個人の意思ですよ」

プレシアのその言葉に澱みはなく、向けられた双眸に陰りもない。

「―――ありがとうございます」

それは素直な言葉だ。一つの仕事を供にしただけであったが、彼女がもたらしたこの情報は崩れ落ちる断崖からクロスを踏み留めさせるものに違いあるまい。

「そういえばクロスさん。同居人はどうしました?」

「死にました。昨晩、複数と思われる者から襲撃を受けて」

昨晩にあった経緯を話す。何者かによる待伏せ、襲撃。魔術的な武装による狙撃であり、名無し娘によって襲撃者一名を殺害。しかしその後、別の位置から狙撃され名無し娘が討死。

言葉にするにはあまりにも短い経緯だが、セインツという特異な組織に関与し魔術の洞察にも深いプレシアはその襲撃者が気になったようだった。

「白い光線。熱量を保っているのですか?」

「傷口が焼けていました。一定の熱をもった衝撃波と見るべきですが、一筋に集束されていて強力なものだと思います。」

「…魔術で体現できないことはないでしょうが、無作法に拡散しない衝撃波となると中々難しい概念法論ですね。ロンドンでも同等の魔術を行使できるのは数名でしょう」

「―――では、あの武装は?これまで見たことはありませんし」

「特定の条件で発動する魔術兵装と見るべきです。襲撃者が悪魔の類ならば納得もできますが、相手は人間でしょう。何らかの武装を抱えています。それは厳密に言えば術者を伴う魔術ではありませんね」

魔術兵装。つまり魔術的な効果を及ぼす為の兵器ないし武具ということになる。

悪魔を穿つ、という概念法論に特化した特殊な剣が生まれたように。何らかの概念法論を加えられて強力な武装が作られたとするならば納得できる。

だが、それらは極めて厳重に管理されるべきものだ。特にこの国における魔術の軍事転用は古くから禁忌とされており、容易く魔術的効果を及ぼす武装などは手に触れることも適わぬほど厳しく取り扱われるのが常だ。

「…アスガルドでもそのような武装を取り扱うことは稀です。このファイルにある容疑者たちにそれが出来るでしょうか?」

「ファイリングされた者たちは本来、魔術師とは無縁でしょうね。しかし今回に限っては、聖杯という聖遺物を巡って争う為に研究者として魔術師を味方に取り込んでいます。最期の頁に書いてありますよ」

言われて、途中読みだったファイルをめくる。クロスが手を止めて視線を落とした先には、覚えのある名が刻まれていた。

「セオフィラス・ウッドゲイト」

「数ヶ月前のロンドンにおける魔術師連続殺害事件、その被害者の一人ですね。こればかりは当人が死人になっていて情報確認に戸惑いましたが、ウッドゲイトの助手をしていた女が私室に書き残しをしていました。…こちらの女性も既に行方不明ですが、重要な情報を残してくれたのです」

かの魔術師がホーリーグレイルの研究者だったことはクロスも知っていることだ。同時に、数々の遺物についての知識人であったことも承知している。

「彼が簒奪グループに加わっていたということですか」

「知識人となる魔術師は貴重ですからね。それに、アスガルドにも深く関わる人物ならば魔術的な遺物を手にする機会もあるでしょう」

「―――」

かのウッドゲイトは在野の殺し屋を雇い入れてロンドン市内の名門魔術師を暗殺しその研究成果を奪取した疑いがある。もっとも、そのウッドゲイト自身が殺し屋に裏切られ帰らぬ人となったわけだが。

彼が死亡する以前に黒幕グループに聖杯などの情報を流していたのなら、奪取の為の何らかの手段を講じるだろう。情報が不確かならば、確定するだけの策を弄するか。

いずれにせよ敵方はウッドゲイトという魔術師によってイングランドに聖杯が存在する事実を確認した。

(官僚組が聖杯移送を指示するまで直接奪いに行かなかったのは…イヴリーズが推察したように保管場所がこの国の何処かまで特定できなかったからか?ならば修道会そのものが捨て駒だ…いやしかし、使い捨てるつもりだったにせよ接触するにはそれ相応の人物が必要になる…よな)

胸中で疑惑を膨らませつつ推察してみれば、プレシアから受け取ったこのファイルは極めて重要な証左であろう。クロスには一つの確信があったし、その確信があればこそ他の推理も進むというものだ。

どちらにせよ、クロスが次に動けば全てが集束する。それを確信して、一つの自負とともにプレシアに向き直った。

「お願いがあります、プレシアさん」

「お金以外でしたら聞きます」

「…僕が―――そうですね、三日以内にこのファイルに記載された首謀者に接触し事件の背後関係を確認した上で捕縛を試みたいと思います」

「成る程」

「セインツ及び、官僚組からの法的拘束はそれまで延期してもらいたいのですが」

「アスガルドに指令を出した覚えはありませんよ?」

「判っています、これは志願です」

「…そうですね、ならば明日の夜。日付変更をタイムリミットとさせてください。それ以上は待てません」

プレシアが出した時間的条件は厳しいものである。実質二日程か。

「判りました、その条件で構いません」

「期限を過ぎれば直ちに検挙に踏み切ります」

「いいですよ、どのみち失敗したところで出来損ないの魔術師一人失うだけですしね」

そんな軽口を叩いて見せて、クロスは必要となる物を机の引き出しから取り出した。こうなっては時間が惜しい。直ちに行動すべきだろう。

「クロスさん。一つ注意しておくことがあります」

「なんですか?」

「如何なる組織人員に拘らず、人材は換え難い貴重なものです。特に、ロンドンにあって魔術師たる者がこれに背くことは諌めます」

そんなことを言われ、途端にクロスは動きを止めて彼女を見やった。

プレシアの双眸はおよそ乱れることを知らないように真っ直ぐこちらを見据えてくる。心中までも暴こうとする刺々しさは無いものの、向けられるその視線は刃か冷水か。

我に返るとはこういうことも言うのか。

穏やかではいられなくなった胸の内にまで深く食い込む言葉は確かに届いている。

「どのような死地に赴こうと諦観することが無きように。それは恐らく」

プレシアの諫言を聞き留めて、その視線から逃れるように。

しかし確かな言葉を受け取ったままで。

「―――ご忠告、感謝します」

クロスは短い言葉でそれだけを告げると、早々と退室していった。


それは恐らく。


あの悪魔でさえ死に抗ったように。




僅かなノックの音。

それに呼応するかのように意識が覚醒したことを確かめて、バスカヴィルは顔を上げた。少しばかり居眠りしていたようだ。

「どうぞ、入りなさい」

来客の知らせは聞いている。予定のない午前中の僅かな時間。その間に会談を求めてきた人物は知名度で言えば誰とも知れぬ者だった。

執務室の扉が開く。

「おはようございます、バスカヴィル議員」

「うん、おはよう」

入ってきた人物に対して挨拶を返す。

部屋を訪れたのは二十歳そこそこの小柄な娘だった。長い金髪に澄んだ藍色の瞳は少なからず大人びた印象を与えるのだが、身長と声色は少女のものを残している。

全身にまとった黒色に統一された喪服のような格好がどうにも場違いな印象を与えているが。

「突然押しかけてすみません」

「いやあ、構わないよ。少し時間が空いていたからねえ。どんな用向きかな?ラヴェルナさん」

彼女はラヴェルナ・ベドフォード。その名を知らずとも家名ならば耳にしたことがある者は大勢居よう。その推察に違わず、彼女はこの国において誉れ高い貴族の一員である。

その名門出自を裏付けるように重要なポストに就いていた。未だ若輩としか見えない彼女が務めているのはナインセインツという悪魔狩りの特殊部隊、その総長である。

この娘をたかが小娘程度と侮ることは、少なくともバスカヴィルには在り得ぬ認識だった。彼女は既にトップレベルの魔術師であり貴族でもあり、そして官僚でもある。

「今日は一つ、お話したいことがあります」

「うん、なにかな」

この娘がこんな風に切り出して持ち出す話など、油断ならないものに違いないのだ。

「マリエンベルグと名乗る修道会による聖杯奪取についてです」

「ふむ?数ヶ月前の恐喝事件かね?この国に封印された聖杯を要求していたなあ」

「はい。かの修道会はソロモンの悪魔を召還・使役しこれによって議員暗殺を実行した上で聖杯の委譲を求めてきました。これに対し我がセインツに出動命令が下りましたが」

「うんうん覚えているよ。先行したアスガルドの諜報員がうまく悪魔を言いくるめてくれたようで事件は収まったのだったね」

「はい。ですが、これによって聖杯の存在が漏洩したことに対する危機感が高まりました。貴方を含む僅かな官僚たちで聖杯移送が決定されましたね」

「そうだよ。無事にウェストミンスターまで運ばれたそうじゃないか?」

「はい。その移送作業の人員に我がセインツのプレシア・ハイデンベルグが斡旋されたことはご存知ではありませんね?」

ラヴェルナのその言葉を受けてバスカヴィルは少しばかり驚いたようだ。セインツといえば悪魔狩りの精鋭部隊。よもやそのような雑用に狩り出されることなどあろう筈も無い。

「それは知らなかったなあ。何故セインツが?」

「聖杯の性質上、適切な人員が必要でした。その上で聖杯奪取に動く勢力があればこれを撃退するだけの実力も必要」

「成る程なあ。それならばセインツを手配するのは妥当だ。無事に運び出されたのも納得できることだね」

見事な仕事ぶりを賞賛したようだったが、ラヴェルナが向ける視線は決して穏やかなものではない。バスカヴィルはその態度が気にかかり、言葉を止めた。

「聖杯奪取に動いた部隊がありました。SBSから二個小隊が出動しています。プレシア・ハイデンベルグはこれを撃滅しました。突然の出動の上に部隊全滅ということで指揮系統を含め混乱になっています」

「…SBSを動かせるとなると、聖杯奪取を目論む者が官僚に居るのかね?」

「出動させる権限を持っているのは僅かな者だけです。それを調べ上げるのにさほど時間も苦労もかかりませんでした。国防省に事実関係を確認済みです」



「シリルか?リットンだ。少し情報を掴んだ」

『おー。ご苦労さんだったな。俺のほうも色々ドタバタしたぜ』

「…?何かあったのか?」

『いやー。まあこっちのほうは気にしないでくれ。それより情報を聞かせてくれよ』

基地からの電話越しに聞くシリルの声色は明るくないが、それはリットンにしてみれば図りきれぬものだ。どのみち慌しい基地内ではどれだけの時間会話できるかわかったものではない。会話を先に進めた。

「ああ、構わない。実は、基地から流出というか―――不自然に移送された武器弾薬は最初に予想したように国外に持ち去られたわけではなくロンドンに向けられていたようだ」

『…こっちに?どういうこった?』

「地方基地に配備された武器を中央に戻すような二度手間はあり得ない。そこで少し調べてみると、事務屋に風采の上がらない士官殿がいるんだが、コイツはイイトコの御曹司でね。父親は国防省副総長」

『ホワイトホールのお偉いさんってわけだ。で?そいつが武器を持ち出してたのか?』

「記録を改竄してまでな。たまたまあった人脈を使って私用に使える武器を集めたというところだろうが」

『するってえと…あー、すまん伍長殿。移送された小銃ってFALとかもあったりするか?』

シリルが口ごもってそんなことを尋ねてきた。

「?ああ。そうだが…」

『成る程なー…。するとそういう人脈をうまく使って武器を調達してたってわけだ』

「そうなるな。俺のほうも基地司令を含め上官に打診して、ロンドンと我が隊は少しばかり混乱しそうだが」

『ははは、そうなるだろうな。表沙汰にできないまでも、国防省の人事は荒れるだろうぜ。何らかの形での更迭は免れねえもんな』

「ああ。…シリルのほうで何か判ったことはあるか?」

『いんや、伍長殿の知らせで色々と情報が固まってきたな。あと数日中に真相は明らかになると思うぜ』

そんな明るい口ぶりからは考えれないほど軽やかに、リットンが望んでいた黒幕は明らかになりつつあるらしい。

「…そうなのか?」

『ああ。心配するなよ伍長殿。落ち着いたら連絡して、真相をしっかり報告させてもらうからよ』

「ああ、そうだな」

そうなれば旧知のバーで飲む酒も美味いことだろう。

なんにせよ事件が明らかになれば、如何なる命令によって動いた兵たちの死にも少しは素直に悼むことが出来る。どちらにせよ、事件を探る過程で知りえた国防省の汚職は拭いがたいのだ。

「報告を、待っている。俺のほうもしばらく基地内で忙しくなりそうだ」

『ああ、いい知らせを届けるようにするぜ』

その言葉を最期に電話を切る。

達成感に浸る暇もない。リットンが上官に具申した今回の事件調査は未だ途上にあるのだ。後はただ、互いにやるべきことをやるだけだ。



バスカヴィルに告げられた事実は簡潔であり、そして無残であった。

国防省にまで及んだ聖杯奪取計画。その立案と実行に拘った人物のリストアップ。ラヴェルナが提示した人名はその悉くがバスカヴィルと面識のある人物だった。

その中核に居るのが、こともあろうにバスカヴィルの秘書である。

「…やれやれ、困ったことだね。ラヴェルナさん、私にも嫌疑をかけているのだろう?」

「それは現時点では確定事項ではありません。ですが、少なからず疑いの目が行くでしょう。失脚する可能性も十分在り得ます」

「困ったものだ…いや、自分の部下の素行すら管理できなかった私の不徳ではあるがね」

少しばかり項垂れてみせるバスカヴィルだが、実際に彼にはさほど嫌疑がかかっているわけではない。少なくともラヴェルナ自身は彼の秘書こそ問題の人物だと確信していた。

「ラヴェルナさん、うちのが重要参考人だとする根拠はなんだね?こう言ってはなんだが、さほど高官たちと接触しているとは思えなんだ」

「重要となるのは彼女がシュタットガルドの出自であることです。彼女の祖父は一代限りではありますが欧州各地に修道会への寄付や投資を行っていました。その資金の流れは現代に至るまでにネットワークとなって細分化されています。マリエンベルグを繋げる線を想像することは容易ですね。

我が国内で重要となる国防省高官との接触についてですが、これは貴方の予想通り密談そのものが少ないでしょう。重要なのは高官たちが貴方のほうに面会に訪れるということです」

「つまり、私との会談の前後で接触していた、と。そういうことだなあ。やれやれ、そうなると私が秘書として抜擢する以前からの計画ということかね?」

「恐らくは」

ラヴェルナが言葉を切る。

彼女が告げた案件は非常に重苦しく、バスカヴィルの午後からの予定を全てキャンセルしなければならない程のものだった。聖杯の成否に関わらずこの事件が公になれば彼の失脚は免れまい。

「しかし、長いことセインツに協力してきた私に秘して聖杯移送にプレシアさんを抜擢したことは…既にうちの秘書に目星をつけていたのかね?」

「そうですね。それに、貴方の疑惑を晴らす為でもありました。―――セインツが実行員となれば、SBSの小隊規模を動員する程度では済まないでしょう?」

「ふむう、そうだなあ。私が黒幕ならばセインツを退かせる為の政治的交渉に入るところだ。そうか、そういう意味では黒幕はセインツ程度に国家中枢にあって―――」

「聖杯移送の際にセインツの動向を知りえない。焦点は其処でしたね。まあ、そのあたりは私の独断によるところもありますが。貴方と貴方の秘書との関係を乖離させて情報を洗い出すのに少し手間はかかりました」

犯行を炙り出す程度の権謀。そして絞られた焦点の中にいる人物が修道会に少なからず関わりがあるのなら。そこから詰めるだけで事足りる。

「秘書を、拘束します」

「そうなるだろうなあ。構わんが、先日から暇を出している。本人の希望でね。国外には出ていないと思うが…急いだほうがいいだろうなあ」

「承知しています。その間、貴方には少しばかり監視がつくかも知れませんが」

「うんうん、それで余計な疑いが晴れるのであれば大歓迎だよ。―――午後からの仕事はキャンセルする」

少しばかりの特別休暇だね、と自虐めいた笑みを浮かべる上院議員は手早く電話を取り上げて予定の中止を手配した。

形式だけは、この男を疑ってかからねばならない。秘書が特に重要人物であるという事実はほぼ間違いないのだが。それでもバスカヴィル自身が計画に加わっていればセインツの動向を容易に知り得、事態はさらに混迷していただろう。

それ故に最期までその疑いを持ち続けなくてはならない。それが冤罪を避ける為の手段である。

だか、この事件について解決に貢献したとなれば小娘程度と舐められているラヴェルナのほうはその地位を確固たるものに変えることが出来る。特にこのロンドンにおいて、聖遺物を私欲の為に利用しようとするような所業があるのならば。これを諌めることはプロテスタントである彼女としても意義のあるものだ。

解決のための布石は既に打った。人事を一任したプレシアがどう動くかまでは把握できていないが、それも問題ないだろう。一の手が不発ならば二の手三の手が既にあるのだから。

この地にあって双眸は遠くを見るが如く。ラヴェルナの采配は首謀者たちを追い詰める段階へと進められた。




僅かなまどろみの中から覚醒する。

今其処にある安眠は二度と手に入らぬものだと諭し、多くの快眠を貪る者は怠惰であると奮い立ったかつての偉人たちの教えなど此処でなんら役立つことはなく。彼女は爽快とは言いがたい覚醒によって現実に立ち返った。

揺れる車内。車はロンドン郊外を走り続けている。あと数十分もすればダートフォードに入るだろう。

僅かな嘆息。それを寝息と聞き流さなかった運転席の男が口を開いた。

「…お疲れのようですね」

「少しばかり奔走したものだからね。…諜報の動きが思ったよりも速い」

「国防省ですか。トップの一員を押さえておけばどうにかなる筈だったのでは?」

「独自の権限を持つ機関が動いたんでしょう。考え難いけど、セインツが乗り出したのは事実のようね」

苦々しくもその事実を認める。そもそもSBSを投入し十分に聖杯を奪取できる状況を作り出したにも関らず部隊全滅の一報がもたらされたこと自体が異変だ。向こうが聖杯奪取の動きを察知していたとしても一矢報いることなく粉砕されるとは信じがたい事実である。

「…あまりこういうことは言いたくないのですが」

「なにかしら?」

「我が修道士たちもこの状況を良く思っていません。予定通りならばとうに聖杯を手に入れていたでしょう。―――貴女の権限も剥奪されかねない状況では、EU圏を脱出することを優先すべきでは」

「そうして聖杯から遠ざかるのかしら?確かに国防省の味方は少なからず検挙され身動きがとれなくなるでしょうね。しかしわたしはこの状況を見逃すつもりはないわよ」

「…というと?」

「彼らがわたしたちの勢力を一掃する一手を遅らせたのは僥倖。残された人数全てを投入して聖杯を奪い取る」

「しかし!武装は兎も角、監視の目を逃れた我らを当局が追跡してくることは必至ではないですか」

「政府の協力者へのパイプはまだ閉ざされていない。情報を引き出せるうちに引き出して、諜報の網を掻い潜ることも出来る」

「…本当に?」

「ええ。わたしはまだ諦めるつもりもないわ。踏み止まりなさい」

「―――判りました。もとより、我らはこの計画に賭けています」

運転手はそれで納得したのか―――或いはせざるを得なかっただけか。少なくとも未だ修道会は彼女の思惑通りに活動してくれるようだ。その様子を内心でほくそ笑んで彼女は落ち着きを払う。

実際のところ、彼ら修道会が全員検挙されようと彼女の知ったことではない。こうして宥めて行動を共にしているのも全ては目的の為に他ならないのだが。聖杯という一つの結果さえあれば修道会自体の存亡など興味のない事柄だった。

兵隊は手駒である。

栄光と信仰の果てに聖杯を求める彼ら修道会を利用してその兵力をそのまま使用したのは、やはり当局の目を欺くための欺瞞工作という色合いが強い。国家への圧力によって聖杯が奪取できるのならばそれで良し、失敗したとしても封印された聖杯を移送しようと考えるのが道理である。

そもそもこの聖杯、今では遠い昔に殆ど忘却する形で封じられた遺物である。この時代、この国においてその所在を知る人間は十人と居なかっただろう。

移送作業が行われればその封印場所が特定出来る。後は制圧部隊を動かし聖杯を奪取するだけで事足りた。それでも修道会の兵を温存したのは、事後に備えてというわけではなく当局の監視があったからだが。

今ではそれが幸いしている。彼女の手元に残された兵力は百人前後ほど。妄信的な兵隊にはそれ相応の武装を与えているのだし、これをもって聖杯奪取に動けばいい。

手駒を全て失おうと聖杯を奪えば彼女の勝利は確定するのだから。

「―――そういえば、クラウソナスは試したのね?」

「はい。修道士一名を失いましたが、六本とも健在です。使用方法、威力共に確認済みですよ」

「標的にと指示した人物は?」

「討ちました。少しばかり苦戦したようですが、問題ありませんでしたよ」

その報告に満足して頷く。

与えた武装も十分な性能を発揮したようだ。

「しかし、あの女は何者だったんです?まさか本当に悪魔というわけじゃないでしょう」

「さあ?どうかしら。少なくとも、ソロモンの魔人を味方につけたって言っていたヴルツブルグを出し抜く程度には非凡だったんでしょう」

彼女の言葉に、車を運転する修道士は苦々しく表情を歪めた。彼らの本拠地とも言える街の同志たちが一掃されたことは忌まわしい出来事であろう。彼女にとっては、偉大なるソロモン王の悪魔を召喚したなどという逸話はさほど興味ない事柄だが。

しかしそんな味方をつけていてもなお本拠地の同志たちは敗れ去った。その事実だけを確かなものとするのならば。やはり彼女が標的とした人物は異能だったということだろう。

それも、排除出来たのならばやはり彼女にとって好ましい展開となる。

「そうね、どうせならば貴方たちが作り出した好機に乗ってみるのもいいでしょう」




そうして生み出される奔流に逆らうことを、クロスは理解し得ない。

これまで同様の人生を考えるならば流れに乗ったまま保身を考えれば済むことだ。彼が望んだ楽観という一つの諦めこそが今の立ち位置を築いている。

ましてそれが姉ならば、抗いようのない奔流ではないか。

―――クロスの携帯電話に着信するその名。

『忙しかったかしら?』

聞き覚えのある馴染み深いその声色。

「―――いいや、平気だよ。何か用事でも?」

エルゼからの電話に対し、クロスは労することもなく平静を保ったまま返答する。戸惑いも何もない。いや、あの姉に対し平静を保ったままということこそがクロスにとっての異常ではあるのだが。

昼下がりの霧の都は相変わらずの天候であったが、それは気にしていなかった。クロスが軽い荷のまま街を奔走していたのはやるべきことに備えての下準備だったのだが。

様式を整え、昨晩の襲撃ポイントまで戻ってきていた頃合を見計らったかのような電話である。…そのような遠謀のやり取りも彼女らしい運びであるが。

『少し頼みたいことがあるのだけど。お仕事は忙しいのかしら?』

「いま休暇中だから構わないよ。何かあったかな?」

『口頭で説明するのは難しそうね。会って話したいのだけど』

そのように告げてエルゼが提案する会合場所は…不可思議にもロンドンでは無い。郊外に構えられた邸宅である。

クロスとしては疑心を抱かずにはいられなかったが、そうも言っていられないだろう。この会合は必然である。

「夜になりそうだけど、必ず行くよ。それでいいかな?」

『ええ、待ってるわね』

―――これだけを聞くならさほどのことはないありふれた会話だった。これが、ありふれた日常にある会話ならばどれほど救われたことか。

電話を切る。そうして戻ってきた静寂を心地よく感じながらクロスは辺りを見渡した。昨晩の喧騒など伺うことさえ出来ず、名無し娘が葬った敵兵の亡骸も見当たらない。

「………」

思えば、昨晩から道を踏み外し続けている。それでも元の鞘に納まろうという気がないのは、やはりそれを望んでいないからか。どのみちプレシアからもたらされた情報によってクロスは部外者では無くなった。それを踏まえ、辺りを改めて観察する。

死体が無い。その事実は、何者かが移送したことを意味している。名無し娘を討ち取った襲撃者たちが複数ならばそれも頷ける結果だが、クロスが身を潜めて物陰から様子を伺っていても見通せないうちに死体を含めて撤収したらしい。

目撃者である筈のクロスを何故見逃したのか。その疑問はこの際置いておいてもいい。首謀者の事を思えば納得出来ないわけではない。

問題は、一人分の死体を担いで迅速に撤収するその作業。大の男が数人がかりとするならば頷けないことではないのだが。さて、その数名とやらが全員あの武装を持ち合わせていると仮定してみればクロスは如何にして対応すべきだろうか。

直撃すれば名無し娘とて成す術無く葬られるほどの威力だ。クロスが受ければどうなるか考えるまでも無いことである。

そのシンプルで確実な推察によって勝機を見出すならば。名無し娘よりも強力なカードを切る他あるまい。

クロスが取り出したものは幾つかの羽根と角、それに血清―――これは複数の動物のものでありアスガルドの備品でもある。一様に魔術儀式と名が付くものはどういうわけか大抵こういった触媒が必要となるのだが。実のところそのような認識の半分などは魔術を正しく理解しない者の言による虚聞であろう。

だが、その虚聞にしても。存在自体が偽りながら信じられた偽りの為に信じられた結果をもたらす魔術も存在する。そのような虚構の術の為に体裁を整えてやらねばならないのも事実だった。

次に取り出す一枚の羊皮紙。古き時代から伝説として語り継がれた魔術書の写本である。

「―――」

呪文は必要ではない。元よりクロスは知識程度にしかヘブライ語を理解し得ない。それでも必要あらばと解読した写本の内容は極めて簡潔に儀式の様式を伝えるのみに留まっていた。

捧げられるものは触媒であり供物。

唱えるべきものは呪文ではなく希求。

粗末な儀式によって唱えられる名は未だ忘れ去られることのない栄光の魔人。

希うべき一つの結末はクロスの手を嘲笑う奔流に抗う為。

闇夜と嵐を称えよう。完成した儀式は言霊を以って成立せず、静謐という答えのもとに辺りの空間を支配した。

そうして佇むこと数十分。

「―――何も起きないか」

沈黙を破るのはクロス自身だったが、それは溜息交じりということではない。伝説の中の伝説と言うべき大魔術でありながらあまりにも粗末な内容はまさに虚構と呼ぶに相応しかったが。

それでも結果を出すことが出来れば何ら困るところではない。

「応じてやったぞ、クロスよ」

灰色の空から降り立った人物が背後から語りかけてきた。その姿は振り返らずとも見知っている。

「…しかし随分とお粗末な召喚だよなあ。今までこんな物が伝説として語り継がれていたなんてね」

「はははは、故に遊興だな。その紙切れ一枚で私を服従させることが出来ると信じているようなめでたい人間も面白きものだ」

ゆっくりと振り返る。

路地裏の陰りに潜むようにして佇んでいたのは、かつてマリエンベルグ修道会が引き起こした騒乱の際に相対した悪魔だった。

ソロモンに仕えた魔人に数えられる、大海公フォカロル。名無し娘よりも高位に属する者である。

銀色の髪と深い藍色の瞳。不敵な微笑に不遜な態度。だが逆らうことは出来ない。打つべき手を誤ればクロスはここで屍と化す。

「…とりあえず、召喚に応じてくれて礼を言うよ」

「なに、構わん。別れてからさほど時間は過ぎていないだろうが、それもよかろう。して、どのような遊興を用意した?趣向を聞かせてもらおう」

…伺うに、この悪魔は相当に酔狂を好む性質であるようだ。クロスに召喚儀礼の写本を握らせたのも、退屈しのぎになる余興目当てであるのだから。

「悪魔である君に全て説明するには少し言葉が足りないが…この国でとある遺物を巡って騒動が起きた」

「ほう?」

聖杯のことを含め、簡潔に説明する。名無し娘もそれなりに知識に優れていたがそれはフォカロルも同じことであるらしい。聖なる杯の伝承について彼はすんなり理解した。ただ、それを巡って争う人間の思考は判りかねる様子であったが。

「―――つまらぬ争いだな。偉人は偉人として捉えておけばいいものを、そのような小物にまで縋って自らの成果を誇張したいものか」

「…いや、そう言われると」

「ふん。しかしクロスよ、貴様の友人はどうした?あの悪魔は雑兵ながら戦慣れしていただろう」

心底つまらなそうにこちらを見返してくる悪魔。だが、それに怖気づくことはなかった。

「―――ああ、彼女は死んだ。昨日の夜、此処でね」

今日になってその言葉を告げたのは何回目だったか。しかし、これまで平静に構えてきたクロスは一つの嘆息と共にその事実を告げる。

その僅かな表情の陰りを、フォカロルはどう見たのか。

「ほう。人間相手に情けないことだ」

「相手は複数、しかも悪魔に対抗できるような武装を抱えていたよ」

「兵装の優劣は戦局を分ける決定打にはならん。私の同胞の言葉を借りれば、其処には何らかの油断があったのだ」

油断。それも確かに事実だろう。大海公の指摘は正しい。

だがそれは、クロスを後背に抱えていたという事実に基づくものだ。油断があったのなら、それは彼が此処に居たからであり。

その敗北を。名無し娘の死を。自らが被るべき血潮をここで断罪したいのか。クロスは類稀な悪魔に対しながらも怯むことなく言葉を続けた。

「…相手方もそれなりに厄介ということさ。だからこそ君を召喚した。戦力として」

「やれやれ、華が無い戦だな。―――しかしクロスよ」

「何かな」

「事の経緯を聞くに、聖杯とやらを運び出す作業に加わった貴様は、成る程関係者であることに違いないが。いくら襲撃を受けたとしても事が国家という枠にまで及ぼうとするならば魔術師風情に過ぎぬ貴様がここまで出っ張る必要もあるまい?」

その指摘も、恐らく正しいのだろう。

プレシアが言っていたようにセインツが中心となって諜報を動かした時点で首謀者の一斉検挙は不可能な事ではない。だがそれでも、プレシアの個人的な思惑によってクロスにもたらされた情報は彼を関係者たらしめている。

とはいえ、それも欺瞞に過ぎず。

「そうだな。僕が身体を張って仕事する必要もないわけだ。だから、この戦いは私怨だよ」

何ら戸惑うことなくその答えを口にしていた。

言われ、破顔しさらに哄笑が響く。フォカロルとしてはその答えこそ満足できるものだったらしい。

「はははははは、成る程な!面白きものだ!」

「…不満か?」

「いいや、満足だ。やはり貴様は逸材だな、クロスよ。お前は正しい、その嘆きの裏に秘めたるものこそ正しい原動であろう」

顔をほころばせ楽しげに哂う悪魔は、しかし悪魔特有の禍々しさも感じない。心底愉快なのだろう。

「よかろう、お前の望みを叶えよう。その敵勢力、一掃してみせようではないか」

「あー…うん、ありがたいけど。なんだか気に入られ方が納得しづらいなあ」

「気にせずともよい。私の愉しみなど私にしか正確に測りえぬものだ」

「―――あと言っておくけど、首謀者には手出し無用ということで頼むよ」

「いいだろう、その程度の弔いは必要であろうしな」

話はついた。クロスが引き込んだ味方は、味方につけることが可能であるという意味でおよそ考え得るうちの最強に値する悪魔である。

「それではクロスよ、夜半まで少し暇を貰うぞ」

「…え?構わないけど、どうしてさ?」

「なに、貴様の心意気に感銘を受けたのでな。少しばかり趣向をこらしてみてもいいだろう。我らのような者の姿を人間に見せ付けるよい機会だ」

なにやら企んでいる様子だが、クロスの思惑を台無しにするような趣向ではないのだろう。どのみちこの悪魔を完全に飼い慣らすことなど敵わず、言うなれば放し飼いで使うのが正しいと言える。

「それじゃあ、今夜。郊外のとある屋敷まで来て欲しい。詳しい場所は―――」

人間社会での地理など説明しづらいクロスだったが、距離や方角だけを告げるとフォカロルは―――後は貴様の呆けた姿を探せばよいだけだ―――などとのたまった。

なんとも不遜な態度だが、今は頼もしく思える。

「では、夜に」

「うむ。忘れ難い夜に変えてやろう」




「ラヴェルナ、お疲れ様」

プレシアが現れる。既にロンドンを包む闇は深いものへと色を変えていたが、穏やかな夜風に身体を晒している彼女は普段と何ら変わりは無い。

「首相に話はつけた。国防省の被疑者の摘発に着手、残るはあの女だけね」

背後から声をかけてきたプレシアに対し、振り返るまでも無くラヴェルナが答える。その答えは既に用意されたものであり、彼女として振るえるだけの采配を終えた後ということだ。

プレシアはその佇まいを確かめて声をかけた。彼女たちにとってこの一件は既に事後処理へとステップを移している。

「そちらのほうも次第に片付くと思いますよ」

「プレシア、貴女が打った手筈で被疑者と修道会残党を摘発できるのね?」

「抵抗があればこれを一掃することも止む無し、というところですけどね。わたしが下した一手は現時点で望ましい解決だと踏んだものです。仕損じたところで、ラヴェルナが二手を手配済みでしょう?」

その問いかけに対する答えは無い。だが沈黙こそが回答であると理解した上でプレシアもそれ以上の言葉を続けなかった。

夜は次第に更けていく。

「―――例のシュタットガルドの一家。どうやら謀略を企てたのはあの女の独断ということのようね」

「調べはついたんですね?」

「十分にね。持ち前の秀才ぶりを発揮してうまいことマリエンベルグまでけし掛けたあたりは賞賛に値するわ。聖杯移送でプレシアを向かわせなければ連中の作戦は成功していただろうし」

「わたしは伏兵扱いですね。これでも苦労してるんですよ?」

「判ってる。感謝してるのよ?」

二人の女が穏やかに笑う。

「…それでは、後は成行きを見守りましょうか」

「ええ。プレシア、お茶にしましょう」




目的地までなんの障害も無い。

こんな旅などさしたる遍路にもなりはせず、ただあるがままに辿り着いた結果だけを受け入れている。障害が無いのは、障害が無いように選択した結果であるように。

流されて辿り着いただけならば、或いは逆らえぬ行程があったとも言えるだろうが。彼の場合はその流れを自ら良しとしたのだ。結果にあるものが堕落であれ、それを擁護することなど出来はしない。

此処に立っているのは、自ら選択した結果だ。

これまで容易に流され、障害のない平坦さを求めて生きてきたが。そんな自堕落さを棚上げして最悪の結果を導こうとしている。

だからクロスは悪魔に答えた。この選択は私怨であると。

「―――」

息を吐く。夜風は冷たさを保ち、昼の陽光が過ぎ去りし栄華だと知らしめていた。雪はまだ見えないが、そんな景色も珍しくなくなるだろう。

ただ、今夜あるべき光景は今夜のみに留めなければならない。眼前に構えられた屋敷を目の当たりにして、溜息一つなくその門を潜った。

庭先もかなりの広さがあり、郊外に構えられたこの邸宅の敷地面積が窺い知れる。そもそも屋敷や土地が誰のものなのかさえクロスは知らされて居なかった。ただ、屋敷の背後にそびえる倉庫群ほうが興味を引いた。

日が暮れて、しかし留まることの無い人の動きが確かな気配と共に伝わってくる。闇夜に潜むという割には人数も多く居るようで、それらが運送業でないのなら、或いはクロスに関りのある集団ということになるが。

いずれにせよ正面の屋敷に目を向けるべきだ。辺りに民家は疎らであり、その中にそびえる邸宅こそ異質ではあったが。そんな目立つ構えをしていながら住人が何者なのか伺いしれなかった。

だが、ここに立ってそのおぼろげな疑問に僅かな回答が得られた。

「いらっしゃい、クロス」

正門から出迎えたのは姉であるエルゼだ。傍らに佇む男は険しい表情のまま彼女の一歩後ろから付き従っている。言うなれば―――例えば恋人のような類ではなく従者と言うべきか―――ともかく、この場においてイニシアチブを握るのはエルゼであろう。背後に居る男が何者であれ我先にという感は無い。

「久しぶり、かな」

「それほど経ってはいないわよ」

「まあそうだね…この屋敷は?」

「わたしと協力関係にある組織の持ち物よ。…ああ、正確に言うとお祖父様から受け継いだネットワークの関係なんだけど」

祖父が金融業を営み、その商売で得た人脈で派閥を築いていたことは知っているが。クロスにとってそれは祖父自身が語っていた悪魔の伝説と同じくらいどうでもいい話だ。財産も含め、その人脈に食い付く形で継承したのはエルゼなのだから。

「まあ、なにはともあれ来てくれて嬉しいわ。中で話しましょうか」

言いながら、屋敷へと導こうとする彼女。その動作に何ら余所余所しいこともないが。

クロスはあえて足を止めていた。余計な語らいなど必要無い。

「―――積み重ねた人脈を駆使して一体何の謀を?」

立ち止まったままのクロスから発せられた言葉は追及でも何でもなく、ただの確認に過ぎないものだった。

だがエルゼは振り返る。

「何の話かしら?」

「マリエンベルグとの繋がりがあると聞いたよ。それから考えれば、彼らの悲願である聖杯が目的かと思いつく」

エルゼはクロスが聖杯に関わったことを知るまい。平静を保ちえる彼女を見ていれば自ずとわかることだ。

「―――聖杯?」

「僕がコーンウォールに封じられた杯をウェストミンスターまで移送した。その職務上、マリエンベルグが聖杯奪取を目論んでいたことを知りえたよ」

視線を周囲へと泳がせる。エルゼに付き従う形で控える男はもとより、屋敷の周囲からも人の気配が伺える。

はっきりとした人数は知れないが―――。

「そう、クロスが関わっていたのね」

「そうだよ。聖杯を奪取しようと襲撃してきた部隊は返り討ちにしてね。本来ならば、あそこで聖杯を奪い取れる算段だったんだと思うけど」

視線をエルゼのほうに戻す。彼女は未だ平静を保ったままだが穏やかに微笑むのは何らかの打算によるものか。

それを肯定するように、言葉を続ける。

「それじゃあ、クロス。貴方の協力があればもっと簡単に終わっていたのかもしれないわね」

「僕が聖杯簒奪を実行すると?」

「今からでも遅くないでしょう?」

「確かに、今回のことでウェストミンスターと少なからずパイプが出来たけどね」

彼女の言葉を肯定する。クロスとしては保管場所を特定できていなくとも奪い取れる可能性はあるだろう。

「まあ、そのあたりの話も含めて相談したいことがあるのよ。クロス、貴方の協力が必要だからね」

「―――聖杯移送には、セインツが関わった」

屋敷の中に招こうとしているエルゼの言葉を切る。踵を返そうとする彼女はそこで足止めされた。

「機密保持の為に移送にはセインツが抜擢された。その上で彼らは諜報を動かし聖杯奪取を目論む者を一斉検挙する狙いだよ」

「…そうだったとしても、クロスが協力してくれればロンドンに対する手はあるわよ?」

「―――そうだね。姉さんならそれくらいやってのけるだろうさ。しかし、そうなるとそれなりの兵力に加えて武装も必要になるよ。特に、悪魔も倒せるくらいの武器が」

ああ、とエルゼが頷く。

その微笑が、何を意味するのか。その声色が、クロスの何を理解したか。

「そうね、それくらいなら既に用意してあるわよ」

最後に、テスト済み、と言葉を付け加えて。姉の言葉はそこで途切れる。

見据えた彼女の微笑みは未だ崩れることもなく、クロスがどう抗おうとも抗いきれないことを理解しているかのようだった。いや、恐らくその理解は正しいのだ。これまでの半生においてクロスが姉の意に反したことなどただの一度たりとも無く。彼女もそれを理解した上で弟を愛している。

愛している。愛でている。その感覚は、相手よりも自分が明らかに優位であることを決定付けているからこそのものだった。合理的な愛情。幼き日より、姉に対して何ら勝るところがなかったクロスにはこれ以上なく承知している事実だ。

だからその微笑は変わらない。不動の勝者である姉に対し反抗して、セインツにここの屋敷という隠れ家を密告することもない。

脊髄にまで入り込まんとするような力関係。クロスはそれを理解している。己にどんな感情が噴出しようとこの関係を覆すことがこの数十年間適わなかったのだ。

だから、この場において勝利を得るのはクロスではない。

手駒にならぬまま手を貸すことを良しとした悪魔だけである。

「フォカロル!」

クロスがその名を叫ぶ。突如として現れた男は、背中にあるその翼を隠すこともなく翻らせた。突然現れたようで、この闇夜に潜んでいたようにも見える。

エルゼはその人影をどう受け取ったことだろうか。クロスの背後に立った銀髪の男は、およそ人間とは思えぬ冷たい眼光を放っていた。

だが、その名にエルゼよりも背後にいた男のほうが反応する。

「…フォカロル?ソロモンの魔人ではないのか?」

男の発した言葉にエルゼが反応することもなく、ましてやクロスにとってはどうでもいい話である。この名に過剰に反応するとなれば、それはこの悪魔を一度召還しておきながら裏切られた修道会に他ならない。

「―――問答は終わりか?クロス」

「問題無い。聖杯奪取を目論んだ者として修道会一派をまとめて葬る」

銀髪の悪魔を従えることは適わないが、少なくとも今このときだけはクロスにとっての味方である。

ただ、相手からしてみればその主従を見て取ることになるだろう。禍々しい気配を放つ人物を振り返ることなく付き従えさせているのは紛れも無くクロスである。

「…これは、どういうことなのかしら?クロス」

「セインツが動いたということは、僕がここを訪れなくとも近いうちに黒幕一派は壊滅するだろう。それでも、僕としては好ましくないからね」

「それは、」

「だから僕がこの事件を収束させることにしたよ。僕では姉さんに抗うことは出来ないから、少しばかり助っ人を頼んでね」

背後に控える男がそれだ、ということは語らずとも知れるだろう。銀髪の悪魔に気おされたわけではないだろうが、エルゼは先ほどまでの余裕を失っていた。

それでもこの場の主導権を奪われぬように努める。クロスがよく知る姉ならばそのように振舞う筈。だからこそ次の一手もある意味では想像に容易い。

「…悪魔を従えてきたというわけかしら?―――貴方がヴルツブルグで出会ったときに篭絡したということね」

言いながらもエルゼは悪魔が動き出すよりも先に背後の男に目線を送る。それだけで、彼もまたエルゼが言わんとしていることを理解したようだった。携帯電話を取り出し、程なくして周囲の気配が増す。

クロスはそれを視認することもなく、合図によって包囲されたのだと察した。もとより少なからず警戒されていた訪問だったということだ。

「クロス、その悪魔を従えたままわたしに協力してくれないのかしら?」

「無理だね。…どのみちここに募った戦力すべてをもってしてもセインツには敵うまいさ」

言いながらもクロスはプレシアのことを思い出す。彼女一人でさえあの力量であるナインセインツならば、或いはフォカロルすら打ち破るかも知れない。

それに、賽は投げられたのだ。

例え振り下ろす刃が愛憎によるものとしても。

「…それじゃあ、その主従ごと葬るしかないわね。―――クラウソナスを」

エルゼが再び背後の男に指示する。新たに現れた複数の男たちは一様に短剣のようなものを持ち合わせていた。暗闇の中では視認しづらいが、光り輝く白刃といった風貌はなく刃であるのかさえ疑わしいような代物だが。

あれが名無し娘を葬り去った魔術兵装だとすれば厄介である。加えて、周囲にも人影。この包囲網の中でフォカロルがどう戦うか―――。

「どうも先ほどから耳障りな言葉が途絶えんのだが」

銀髪の悪魔が唐突に口を開く。

明らかに苛立ちを含んだような声色。先ほどまでと放つ気配が変わっていることに気づいたクロスはこのときになって視線を背後へと向けた。

「あの女、事もあろうにこの凡庸な男と私を主従とぬかしたか」

「…凡庸って、いや否定できないんだけどそんなきっぱりと」

「耳障りなことはまだあるぞ、クロスよ。どうにも貴様らの関係を見ていると力関係が保たれているように見えるが」

「―――まあそれについても否定しないけど」

フォカロルはその客観的な感想を肯定されてさらに不機嫌となったようだった。その敵意がこちらに向けられないことを祈るばかりだが。

クロスのその思惑は杞憂であったらしい。悪魔の視線は正面の敵に向けられている。

「まあいい。クロスよ、辺りに潜む全ての人間を屠ればいいのだろう?」

「…姉は残しておいてくれると助かる。最後に話がある」

「面倒なことだ。だがよかろう、これも遊興ついでだ」

フォカロルがクロスの前に歩み出る。得意の武器を未だ取り出していないが、この状況でいかに立ち向かうのか。

「―――貴方がソロモンの魔人?」

「かの王に従ったのかと問われればそうだと答えよう」

「クロスと契約を交わしたのかしら。…出来れば私に従ってほしいのだけど、それは無理なのね」

「あの男がそれを拒んでいる以上はな。どのみち貴様に鞍替えしたのでは遊興の意味を成さん」

「残念ね。…名高い悪魔に立ち向かうのは少しばかり苦労しそう、」

「一つ言っておこう、女。クロスを従え、背後の連中を従え、その程度では何を得ることも叶わぬ。この遊興の場において最終的に生き残るのはクロスただ一人ではあるが、なに、我らの存在を見せ付けるには格好の戦だ」

エルゼの言葉を塞ぐ銀髪の悪魔。その言葉の意味を、エルゼがこの場で理解することは適わず。

故に進退は確定する。

「従者、家畜、下僕。そんなもの一つで他者より勝ったつもりになる愚かさを思い知れ、人間!我らの行動原理につまらぬ契約など当てはまることはない!」


「この身が生きながらえるならば結束も盟友も常に此処に在る!」


悪魔の怒声は一つの咆哮として。

放たれる気配は夜を深めるものとして。

人は誰しもその存在に圧倒されるばかりである。

敵わぬ故に光に逃避し、理解しえぬ故に恐怖と名づけた。忌み嫌い畏れ崇め祭り、そのうちのどれ一つも彼らの加護を受けることはなく。

ヒトはそれを悪魔と呼んだ。

如何なる信仰も、如何なる忌避も。彼らが断を下すとなればその本性をあらわに襲い掛かるだろう。

かくして悪魔は集う。

ソロモン王とそこに集った悪魔たち。かつての結束を顕現させるように、屋敷の周囲は禍々しい気配で溢れていた。

「…フォカロル、これは」

クロスですら唖然とするような光景だった。ただ立ち尽くすだけで圧倒される。彼にとっての幸運は、これら全ては敵ではないことだ。

屋敷の周囲にはエルゼが配置した修道士たちが武器を携えている。が、その頭上には何十体もの人影が浮かんでいた。

数えることさえ躊躇う。その間に、一人の人影が降り立ってきた。大柄な体躯に蓄えた髭が目立つ。

「久しいな、フォカロル。つまらぬ余興を盛り上げようとする趣向らしいではないか」

「ご足労感謝します。人間を相手にするには大掛かりすぎますが」

「なぁに、遊びも全力でやるくらいが丁度よかろう。身体を動かす良い機会だ」

そこまで言って、髭面の大男はこちらに視線を投げかけた。

「ふむ、この貧相な男が貴様の連れというわけか?」

「…貧相て」

「圧倒的に頼りない人間ですが少々親睦がありましてね」

貶されていることは間違いないのだが、この場で弁論することも適わない。とりあえずクロスはこの男のことを聞くことにした。

「フォカロル、彼は?」

「ん?何だ知らんのか?」

知るわけないだろう、悪魔に知り合いなど多く居てたまるものか。そんな言葉を飲み込んでフォカロルの紹介に耳を傾ける。

「この方はバール殿といって、我らの纏め役だ。冥府の大公にも数えられている」

「…むう、フォカロルより上位ってことなのか。にしては聞いた覚えが…」

「人間の間ではベルゼブブと呼んだほうが通じるか」

言われ、卒倒しかけたクロスは何とか体を持ち直した。

ソロモンの魔人の筆頭。かのルシフェルとも繋がりがあると言われる冥府の大公。知名度で言ってもフォカロルより間違いなく上だろう。

そのクロスの驚嘆を愉快に受け取ったのか、大柄の男は豪快に笑い飛ばした。

「バール・バエル・ベルゼブブと云う。フォカロルはもとより、我らソロモンの魔人の間には血の結束があってな。召集の激があれば応じるのが常なのだ。そう気張ることはないぞ、貧相な人間」

そう言って笑い飛ばす悪魔だったが、そんな説明を受けようとなんだろうとクロスが立ち尽くすしかないことに変わりは無い。

もっとも、それはエルゼ達にしてみても同じことだろう。

突如として現れた悪魔の大群。フォカロル一人に戸惑っていた彼らがその優位性を省みることなく狼狽しているのが目についた。

「さて、フォカロルよ。今宵の主催は貴様だぞ。どのように振舞えばよいものか?」

「周囲の人間を、あの女以外は皆殺しということで」

「ふむ、暴れすぎて天界の者に見つかるのも厄介だ。手加減して暴れることにしよう」

彼らのその相談に怯えがきたのか。エルゼの指示を待つことなく背後の男たちが飛び出してきた。手に携えた短剣のようなものを振りかぶる。

「フォカロル!正面!」

クロスが叫ぶが、修道士が振り下ろした短剣から白い閃光が放たれたのはほぼ同時だった。名無し娘を屠ったあの一撃だ。一直線に向かうその先にはフォカロルとバールが居る。

直撃すれば彼らとて負傷するだろう。クロスならば一撃のもとに絶命するかも知れない。いずれにせよ発射に気づいてから回避するには遅すぎた。

故に、バールは避けなかった。

轟音が一つ。空気を裂くようにして彼らに襲い掛かった白い閃光はバールが腕を一振りしただけでその軌道を変え―――夜空に消えた。

「…え?」

巨体に握られたる武器は剣が一振りだけだった。その一振りで、名無し娘が防ぐことも適わなかった一撃を弾いたのだ。

「我が腐剣ベリアルを抜かせたことは褒めてやるぞ人間よ。だがこの白刃、生者を穿つことに長けた自慢の一振りでな。特に熱を帯びるものは大敵と心得るがいい」

フォカロルは不動のままだった。その対応は、バールにあの閃光が届かないことを承知しているからか。

格が違いすぎる。その様を見せ付けられ、クロスは言葉を失うばかりだった。

「そもそも、傍目に見ても小胆ぶりが伺える陣構えではないか。攻城戦は攻め手の包囲によっても判るように守り手は逆包囲を旨とすべきものだ。この屋敷に如何ほどの戦力を蓄えたか知らんが、俺ならば外に遊軍を配置するところだぞ」

剣を携えたまま一歩踏み出すその巨体。誰が見ても壮健ぶりは分かるところだが、この男から漂ってくる雰囲気は指揮官のそれだ。

巨躯でありながら不動を以って司令塔と成る。数多の悪鬼・魔人の筆頭に立つとはこういうことか。

「フォカロル、今宵は貴様が采を揮え」

「承知しました」

銀髪の悪魔に下知したままの巨漢はそのまま眼前の敵を見据えている。

彼ら修道士は動けまい。悪魔に対する唯一と言っていい切り札がこうも容易く防がれたのだ。即座に転進すべき事態である。

それが適わぬのは。あまりの事態に理解が及んでいないからだ。

「我ら六芒の精鋭に告げる!従い従えることしか知らぬ愚者共にその結束を見せつけよ!喰らい尽くせ!」

天に昇るほどの咆哮。発せられた幾重もの覇気は殺意にすら程遠い。ここは既に戦場であり、彼らはその包囲をもってして最上の陣と成した。

その渦中に囚われた人間など、どれほど奮戦しようと抗えまい。


かくして。

戦にすら成り得ぬ殺戮が始まった。


白い閃光が放たれるも何ら命中することなく闇の空へと消えていく。上空から襲い掛かる悪魔の群れはそれぞれに武器を構えた。長柄のものが目立つが、そのどれもが人間の首を刎ねるどころか半身を吹き飛ばした。

降り立った影は複数。乱戦になるほどの距離に迫られ、彼らが宝刀として抱えていた武器はその効果を失った。閃光を再び放とうと腕を振るうも、掲げた右腕が切り飛ばされて消え去る。

悲鳴と呼べば生易しいほどの絶叫は絶望の淵に立たされたものよりもただ狂っていると言ったほうが正しいのだろう。正面の男たちが叫んだのか、或いは周囲の者なのか。あらゆるところで断末魔と鮮血が舞い上がる。

両腕両足を失った修道士が持ち上げられたまま地面へと叩きつけられた。バターを塗りたくるようにして容易く全壊し、宝刀を持つ者はその悉くが葬られる。最後に残った男もまた閃光を放とうとしたところで身体が二つに分かれた。

地面に転がる躯が人間であったのかどうかすら判らぬほどに変形し、面影を探すことすら容易ではなかった。

悲鳴と断末魔に紛れて聞こえる銃声もまたすぐに途切れる。小銃を抱えて敵を撃とうとした者はまだ善戦したほうであろう。その鉛弾が悪鬼を貫くことなく銃身が砕かれ、その残骸に紛れて臓物が混じる。

そこで絶命できた者は幸運であり。

さらに不運な者は自分の臓器を目の当たりにすることになる。

繰り返される絶叫と銃声。だがそんなものは長く続くまい。彼らの戦力比は言うに及ばず、例えこの場にセインツが居たとしても討伐は容易ではなかっただろう。

故に、この殺戮はすぐに終わることだ。彼らとて手加減をした上でこの惨劇を演じている。

その最中、フォカロルとバールは動かぬまま佇んでいた。

「―――驚愕のあまり声も出ないか、クロスよ」

フォカロルのその問いかけは答えを聞かぬ類のものだった。心底愉快そうに視線を投げかけるこの悪魔はこちらの反応を楽しんでいるのだろう。

遊興の出し物としてはあまりにも盛大過ぎるこの状況。言葉を失うと言えばその通りだが、それ以上にクロスはこの悪魔の真意を量りかねていた。

「…なんていうか、本気出しすぎな感じがあるんだけど」

「全力ではないぞ」

「いやそうなのかも知れないけど、これだけ動員ってのは…」

「驚いただろう?少しばかり趣向を凝らしてみた。貴様は幸運だぞ、クロス。我らの戦いぶりを目の当たりにできるのだからな」

確かにこれだけの悪魔と居合わせながら生きながらえる人間など稀少だろう。彼らが敵でなかった幸運に感謝しつつ、クロスはフォカロルを促した。

「…じゃあ、ちょっと姉と話してくる」

「背後は私が守ろう。バール殿、此処はお任せします」

「うむ、心得た」

巨漢の司令官に一礼してフォカロルはクロスの背後に従った。エルゼの姿は先ほどから見えないが、悪魔たちが一斉に襲い掛かったあたりで邸内に逃げ込んだようだ。彼女自身が何らかの武装を持ち合わせている可能性は十分にありえることだが、背後に控える悪魔がその使用を許す筈も無い。

夥しい躯と鮮血の臭いを歩いて踏み越える。何か柔らかいものを踏んだ気がするが、深く気に留めないことにした。すれ違う悪魔の数を数えることのように詮無きことだ。

邸内は僅かな灯りが灯されているが、その幾つかは外からの襲撃によって存在を失っていた。割られた窓硝子の砕片がその攻撃を物語っている。

その邸内。ロビーとも呼べる場所にエルゼは蹲ったままだった。床に辿る血痕が彼女の負傷を知らせていたが。

流れ弾でも受けたのか。右足首を押さえたまま彼女は動かない。

「―――クロス」

「あと数分も持たない、かな?…僕もこんな状況になるとは思ってなかったけど」

「今すぐこの蛮行を止めなさい、その悪魔は貴方が連れてきたんでしょう」

「僕にこの状況を止めることが出来なければする意思も無いよ。正直なところ、聖杯がどうなろうと僕自身はどうでも良かったんだけど」

ただ、失ったものはあった。

「選び取った結末すら姉さんに用意されたのでは少しも報われない」

「―――そう。必要の無いものを省いたわたしの所為だと?」

「どんな意図があって襲撃したのかは知らないけどね」

「―――協力者の一人にアスガルドの魔術師が居たのよ。その人物が神器のレプリカを作り出したとか何とか…粗末な武器らしいけど、その威力の程を確かめる必要があったからね」

ただそれは、名無し娘が実際に悪魔であろうとなかろうと構わぬようにも受け取れたが。

「ブルツブルグの修道会本部を容易く平らげてみせた貴方に何らかの切り札があるのだと思い当たった」

「…実際にあの武器は悪魔を倒せるくらいには効果を発揮したわけだね」

それも、既に終わった話だ。

彼女が頼みにしていた武器は担い手を失ったまま何処かへ吹き飛んでいる。

そうして話を聞くことで、確かめるべき必然性はかえって薄らいだようにも思えてきた。どう繕ってもエルゼにとってクロスは駒だったに違いないのだ。

「…しかし、何故聖杯を求めたのかな?」

「お祖父様が御伽噺のように教えてくれたことが、調べてみると真実味のある仮説だったからね、この国にあることは薄々判っていたわ。マリエンベルグを従えることも容易くなり或いは資金源にも成り得る財宝に違いないもの」

それは教義を抱える者にとって古き起源の宝物に違いない。マリエンベルグのような弱小の修道会がその聖杯を抱え持つにしても、或いはバチカンに返上するにしても。その権勢は大いに盛り上がる。それは彼らのパトロンとなっていたクロスの祖父―――そして祖父の遺産を受け継いだエルゼにとっても意義のあることだったのだろう。

その杯が真実ならば。

数多の混乱を押しのけてさえ捧げるべき祈りがある。

「―――祖父さんの御伽噺かあ。…僕が聞いた砂漠の悪魔の伝説とは趣が異なるね」

「…?何の話?」

「いいや、何でもないさ。お互いに、ささやかで下らない幻想に振り回されてここに至ったというだけでね」

ただ、終わりにさせて貰う。

その言葉だけを告げてクロスは彼女に歩み寄った。足の怪我は立ち上がって疾走出来るほどに浅いものではあるまい。エルゼは自分の死期を悟ることもないまま睨み付けているだけだ。

「退きなさい、クロス」

「無理だよ」

「貴方にわたしを殺すことはできない。それはわたしも同様のことよ。これまでもそうだったように。だから、」

「うん、困ったことにそうなんだ。だからその汚れ作業すら満足に行えない」

吐いた言葉はただ淡々と。

貫く針は無慈悲に闇を裂く。

その動作に何ら断罪は無く、クロスは此処で失った全ての血を己の罪と定めた。


背後にあったフォカロルは素早い動作でクロスを越え、その手に持った針をエルゼの胸に突き刺していた。


悪い夢を見ているようだが、そんな言葉で逃避できるほど生易しくは無い。どのみち悪夢というならばもっと以前の夜から続いていることだ。ただそんなことを思い立つほどに覚醒しつつあると言えば、この夢に対して少しばかりの朝陽を導くことが出来るらしい。

姉は何が起こったのかを理解する前にその命を封じられた。フォカロルが持つ武装は命の動静を逆転させる作用を持つ。少なくとも、彼が再びこの針でエルゼの心臓を突き刺すことが無ければ目覚めは二度と無い。

物静かなまま、姉は躯へと姿を変えた。

「―――これで良いのだな、クロス。今一度貫けば蘇ろうが」

「いや、いいよ。最後につまらない作業を押し付けてしまって、すまない」

そんな言葉を向けられたことが意外だっただろうか。フォカロルはやや破顔してみせた。よもや忌まわしい悪魔に礼を言う人間が居るとも思わなかったのか。

「気に病むな、クロス。生くる者は全て罪深き故に裏切りを躊躇わず、欲深き故に情を捨てきれぬものだ。お前が何ら手を下すことがなかろうと、この夜にもたらした結末はお前だけのものなのだからな」

銀髪の悪魔が言う言葉に頷いて返す。その全てを肯定しよう。その全てを受け入れよう。自身で何も出来ずとも、自己はこの結末を望んだのだ。

「ああ、まったく。誰の為にもならない終わりを導いて何がしたかったのやらね。―――憶えていよう、何も忘れることがないように」

言いながら、クロスは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そのままフォカロルに返上する。これはもう、必要の無いものだ。

「…外も終わったようだ。短い宴だったが、お前は良き友人だったぞ」

この悪魔にしては最高とも呼べる賛辞だ。その微笑は穏やかとは言いがたいものだったが、素直に受け入れておくことにする。

夥しい惨状にあってクロスは未だ生き長らえた。その事はただの幸運に非ず、得がたい絆によって築かれたものだと確かめつつ。踵を返す銀髪の悪魔を見送る。


歪な月夜はこれで終わる。

一刻にも満たないほどの僅かな時間、悪鬼に溢れたこの屋敷はそれらが立ち去りし後に骸の山を残した。

誰も知ることのない、知る必要のない話である。





「―――仔細はそのように。アスガルドのクロス・ホーエンローエが如何なる手段を用いたにせよマリエンベルグ修道士は全滅。首謀者と思しきエルゼ・ホーエンローエの死亡も確認しました」

予期せぬ来客を招きいれたブランデルは穏やかとは言いがたい面持ちでその報告に耳を傾けた。

聖杯という、興味はあれど期待はしない遺物を移送したあたりから市内でも暗躍するグループがあったことには気付いている。私的に探りを入れていたものの、それらは総じてマリエンベルグという一つの修道会から端を発していた。

「うちのクロスを拘束する必要はありますかな?」

「国防省は勘ぐっていますが、わたしはクロスさんが今回の事件に関与しているとは考えていません。例え何らかの手段によって修道士たちを虐殺したとしても、わたしたちとしては得るべき情報も得た公算が大きいのです」

悪魔狩り部隊としての面目を保ちつつ静観する狙いがあるのか。セインツの一員であるプレシアは思ったよりも強かであるようだ。ブランデルは厄介な来客については文句を言わず、ただあるがままを思索する。

プレシアはそのまま言葉を続ける。

「首相には既にあるがままを報告してあります。被疑者を捕らえることは出来ませんでしたが国防省の汚職を内密に処分できたことは彼らにとっても僥倖でしょう」

「そのあたりが、国防省との交渉カードになるわけですな。では、この件はこれで終わりと」

「はい。しばらく治安維持の名目で慌しくはなるでしょうが。それもアスガルドにとっては関係の無い話ですね」

この事件に関しては、アスガルドは少なからずの関与をしたもののそれは事件の背後に立つという意味合いではなかった。寧ろ巻き込まれた公算が強い。

その渦中にあった一人の魔術師がよもや生還したことは、望外の出来事であったが。

「ところでクロスさんは?」

「今は暇を出しています。なに、少しばかり張り詰めた出来事が続いたようですしね」

「優秀な人材です。大切になさってください」

プレシアがそのような言葉を紡いだことは、意外ではないにしてもやや驚きだった。このエリートから見ても優秀と呼べるほどに、クロスは評価されているらしい。その言葉が単なる世辞でないのだと思いつつ、静かに頷いてみせる。

正直なところ、ブランデルから見て今回の騒動はそれほど重い意味があるわけではない。自身の部下が危険に晒されたり厄介な来客が続いたりした程度である。一つの組織の一つの管理職に過ぎない彼は、終わった事だと言われればそのように振舞うしかない。

例えセインツが背後でどのように策謀を巡らせていたとしても。

「―――今日は晴れそうですね」

プレシアからそんな言葉が漏れる。

霧の都は、晴々とした昼下がりを迎えようとしていた。



「…そんなに休めるもんじゃないってのなあ」

平日の昼下がりにすることもなく街をぶらついていたのは、無論のこと目的があってのことではない。図らずも事件解決に貢献したクロスが受けるべき追及はセインツの取り成しによって解消されてしまった。暇を出された彼の現状は厄介払いされたようなものだろう。

悪魔を呼び出した夜が明けて、その昼下がり。当然のように眠たい体は何故か休息を求めたがらず、こうして外の空気に晒されている。

シリルの怪我はプレシアの施しによって治癒されたもののしばし療養することとなったようだった。見舞いをせがまれたが疲れていると言って断った。こういうときには便利な言い訳だとも思う。次に会ったときに少しばかり心配した振りをしておけばいいだろう。

プレシアのほうには、あるがままを報告した。呼び出した悪魔とその悪魔が集めた部隊の詳細についても質問されたが、クロスにとってあの悪魔は親しい他人である。判りかねるところは明言を避けた。それでもセインツにとって益のある情報だったらしく、彼女はやや上機嫌のままだ。

そして、クロスだけが暇を持て余している。

素直に帰宅して疲れを癒すべきなのだろうが、睡魔と陽光がどれだけ身体に襲い掛かろうと何ら欲求も無かった。結局、肩を並べて歩くことのほうが稀だった同居人がその時間の殆どを家中にて過ごしていたからか。あの部屋に戻ることが億劫になるのは、そんな程度の理由なのかも知れない。

「…まあ自分の部屋なんだけども」

気にしても仕方の無いことだ。訪れる終わりに何ら救いが無いとしても。それを止めることなど出来なかった。ならばその終わりを実感するしかない。

やがて帰途につくクロスは決して軽くない足取りで住み慣れたアパートに辿りついた。無音にならない螺旋階段を登っていき、これまでの記憶を辿るようにして帰宅する。

部屋の中に入り、窓を開け放った。

変わるところなど何も無い。これまで通りの部屋であり何ら違いもありはせず、質素だが雑然としている住まいは彼の箱庭だった。

珍しく晴れた街並みから漂ってくる微風に煽られているうちに、なんの抵抗も無くこの窓が開いたことに気付く。よくよく考えれば、この窓辺を占領していた人物が居たのだった。

光景としても違っているものがあるとすれば、漂う紫煙が無いことくらいで―――。

「…あれ?」

窓辺のテーブルには煙草の箱が置かれたままだ。シリルが置いていったのかとも思ったが、銘柄が違うのでそれはないだろう。

ここに煙草を置き忘れていく人物がいるとすれば、それはここに居た一人の悪魔だけだった。

クロスが好んでいたロスマンズ。テーブルには、一本だけそれが残されている。

「―――」

何故この一本を残したのか。

どうしてここに残されているのか。

その真意を確認することも既に適わず、ただ何かを忘れたようにしてここに残ったのか。


白状しよう。

自分はどうしようもなく愚かだった。


彼女がどうしようもなく愚かだと気付けなかったからだ。


言葉を失い、思考も停止する。

ただその一本の煙草に火をつけて、思い切り吸い込んだ煙をゆったりと吐き出した。考えなければいい。今はただ全ての感慨を無くし、ただその味と景色を堪能しておくことにする。

窓辺には再び紫煙が漂う。やがて霧散する煙を自分の心境になぞらえるように。そうして消えてなくなれば、この僅かな感傷などやがて無くなるだろう。

ただ憶えている。

これからどう生き長らえようと、クロスの胸中からその記憶が無くなることはないだろう。だからせめてこの煙草が燃え尽きるまで、その思考を止めておくことにする。



思い出すまで僅か数分。

その未来に何ら救いが無いとしても。



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