05-ネームレス・パルティータ
力量が違えば簡単に置いていかれるのだと知った。
才能があれば少なからず活躍の場はあるのだろうと思った。
努力の違いによって決定する結果があるのだと思った。
奇跡も神もなく不条理を嘆いたところで救いはないと知った。
だから彼は一つの結論として。
その半生で知り得た全てに意味はなく。
偉人も英雄もつまらない個人に過ぎないのだと悟った。
四六時中聞こえている筈の命の音を常に聞きながら聞き流しているのは自分なのだから。
休暇とは命の洗濯である。
少なくとも彼にとって日常を彩る仕事は大いに危険を伴うものであったし、休暇はそれ故の生き長らえる行為だった。休まるものは身体ばかりであり、心中は次の仕事に備えているものである。
その環境を疎ましいと思ったことはない。海兵隊という部隊にあって更に異質、そして最精鋭となる彼はその事実を誇りに思っている。数多の豪傑たちが選抜を戦い、その中で席を勝ち取ることこそが栄誉だ。彼はそういった兵たちの上に居るが、それは同時に他の者たちの力量までも背負い職務に望まなくてはならない。
勝ち抜いて此処にいるというのはそういうことだと思っている。だから、不平不満などある筈も無い。愛国心というものは勿論彼にもあるが、それ以上に支えとなるものは仲間の存在だった。
だから、その仲間が不自然な不在となれば気にならない筈はないのだ。
「リットン伍長、特別R&Rだ。しばらく部隊は動かん」
人事からそう告げられたらしい上官は特に感情を動かすこともなく指示を告げた。彼もまた淡々とその指示を受け取ったものの、昨晩からある疑念が晴れたわけではない。
いや、疑念を抱いているのは彼だけではなかった。仲間内の数名、待機状態にあった者は概ね疑問符を浮かべている。数日前の夜半に出動した部隊に加わった者が一名残らず帰還していないからだ。
無論、任務が数日のうちに片付くものでないのなら何も疑問に思うところはあるまい。だが北アイルランドの情勢が落ち着きつつある昨今、さほど急を要する任務はないと思われていた。
それに、今朝になってから基地に漂う慌しさは妙な緊張感を伴っていた。この感覚が言葉に出来ずとも、彼は感覚として知っている。中東へ出兵した部隊の死亡報告などが立て続きにあった時と同じだ。
任務内容が機密扱いなのは珍しいことではない。だが、基地内に漂う不穏な空気が彼に疑念を抱かせていた。
「―――どう思う?」
同じく休暇を貰った同僚が声をかけてきた。
「…さぁて。よくは分からんが、この空気は気に入らないな」
「他の部署に聞いてみたんだが、どーにも返答が得られなくてよ」
「余計なことを探るなということだろう。―――確かに気がかりではあるが」
「だがちょっと変な話は聞いたんだがよ、調べられねえかな」
「―――どんな内容だ」
声を潜める。どのみち彼ら二人の立ち話を聞き咎める者など居もしないが。
「いや、うちに出動命令が下った日にSA342Kが予定に無い飛行をしていたって話さ。何処かの部隊が動いたのかも知れないが、単機で飛行してたから閉口する前に噂があったらしい」
「北への任務か?」
「いや、それがこの辺りを飛び越えて西に行ったとか。ペンザンスに行ったらしいが、それ以上の詳細はわからねえ」
「―――うちの部隊と関連があるとは思えないが」
「だが何処かの部隊がヘリ一機動かしてきたってのは事実だろ。おまけに、うちに出動命令が下ったのがその直後だぜ」
確かに時間的辻褄は合うだろう。だがそうなると。
「東部から持ってきた部隊にうちの部隊を随伴させたのか…?いや、違うな。ガゼルの航続距離を考えれば往復出来ず補給を要する。それならばうちから中隊を出せば済む話だろう」
「そうもいかない事情があったのかねぇ。俺もそのへん、気になったんだが。そもそも兵員輸送にゃ向いてない機体だぜ」
「…そのガゼルは、ロンドン近郊からの飛行か?」
「多分な。中央でなんか思惑があったのかも知れねえな」
不可解な事態。その中にあって彼は比較的自由の利く休暇中だった。
「―――俺も少し調べてみよう。仲間達の安否を気にするのはやましいことではないしな」
何事も無く部隊が帰還すれば何の問題もない話だ。
だから、この危惧は彼にとって何事も無く終わって欲しいという願掛けのように思う。
ロンドンにしては珍しい晴天だった。
雲ひとつ無いと言えば語弊があるものの、霧の都と揶揄されるこの街にしては上々な天候であろう。平日の昼下がりらしい人通りを横目に見ながら、クロスはスターバックスにて人と会う約束があった。
ロンドンにおいてもこの程度の店は珍しいものではない。見慣れた看板を注意深く観察する必要などなく彼はカフェオレを味わっていた。これが休暇であるならば何とも優雅なものだが、自室で本を片手に紅茶を愉しむクロスとしては不相応であるとも言えるが。
今回の待ち合わせは、対面に座っている相手に合わせたものだ。クロスと同じくらいかやや年上と思える女性。三十に手が届くということはないだろうが、眼鏡の奥にある柔らかい双眸は落ち着いた物腰を感じさせる。
端的に言うと学者か研究者のような風貌だが、それは概ね見た目通りであると言えるだろう。
「―――それで、プレシアさん」
「はい」
プレシアと呼ばれた彼女は微笑みを忘れることなく応える。
「先日の物件については、移送に問題はなかったのですね」
「ええ。杯は無事に届けられましたよ。管理体制を移しただけで強奪される可能性が皆無ではありませんが。以前よりはマシでしょうね」
(聖杯はウェストミンスターの管理下に置かれたか)
クロスが先日にも関わった聖杯移送は無事に行われ、かねてより危惧されていた奪取は起こりえなかった。いや、正確には部隊による強襲があったのだがプレシアによって悉く葬られたのだが。
「杯については、心配はいらないと思いますよ。また何かの機会に貴方の助力を必要とするかもしれませんけど」
「僕の助力…といっても、さほどのことは…」
「いえ、貴方の助手のお嬢さんには感謝しています」
釘を刺されたか。クロスは取り乱さぬように取り繕ったものの、内心では焦っていた。プレシアが所属するセインツは悪魔狩りの精鋭部隊であり、その彼女に同居人について察知されたからである。
悪魔と呼べばその存在を語るに容易い。実際にはほんの小娘風情の悪魔をクロスが匿っていた。無論、そのように忌み嫌われた通り名で呼ばれる故の力量は持ち合わせていた悪魔だからこそクロスの助けにもなっていたのだが。
プレシアはクロスの仕事の履歴から奇妙な助手の存在を嗅ぎ取って探りを入れたのだろう。悪魔を祓う教会とは違い彼女らセインツは討伐部隊である。それらしい存在を確認したのなら次に行われる行動は剣を抜き放つことしかあるまい。
「―――貴方がどのようにして彼女に出会い、同居しているのかについて追及するつもりはありません。クロスさん、彼女についてはセインツとして討伐を先送りすることを考えています」
「…え」
だからこそ、プレシアの言葉は以外だったと言ってよい。
「討伐の無期延期です。今回の任務において彼女の助力があったのは事実ですから。その事実に加えて、目に余る人喰いをしない限り私は知らなかったことにします」
「―――む、それはつまりプレシアさんの一任ですか」
「そうですね。正直、セインツ指揮官に報告もしていないんですけど。ですから、慎ましやかな生活を営む分にはその存在について追及しません」
「そうですか…なんていうか、意外でした」
「あら、不服でしたか?」
「いえとんでもない。ありがたいです」
素直に感謝の気持ちを伝える。プレシアとしてはからかった程度のはぐらかしであろうが、つまるところ彼女には色々と見抜かれているということでもある。
「正直に言えば、彼女くらいの悪魔ならばいつでも討伐可能です。そういう意味での放置なので」
「………はあ」
「それで、彼女は今も自宅に?」
「はい。アレは引き篭もりが趣味のようなもので。まぁ僕が仕事を終えて帰宅すれば話相手になる程度のもんです」
「アスガルドは今、多忙ですか」
「それほどではないですよ。海外出張が無いだけ楽です」
本心から気楽さをアピールしてみるが、クロスは元々そういった出張の多い役柄だった。国内、特に市内から出ることなく日々を過ごせることは気楽である。
こうして奇妙な知人と密会のようなシェスタを過ごすこともあるわけだが。
時間は悠々と過ぎる。後の会話は取り留めの無いもので、特に危機迫るような話題はなかった。程なくして、プレシアが立ち上がる。
「それでは、わたしはこれで」
「はい。また何かありましたら、宜しく」
互いに笑顔のまま判れる。プレシアとは、少なくとも表面上は、友好的な関係で居られるらしい。そのことに安堵を抱くと同時に頼もしくもあった。
だが、同居人に関する危機感は拭えない。プレシアが言うように、セインツにかかれば名も無き悪魔など瞬く間に屠られるだろう。彼女が所属するセインツとはそういう部隊なのだ。
ビッグベンの秘奥、其処は悪魔よりも底が知れぬ。
危惧はただあるがままに受け止め、しかし日々の職務を忘却することなくクロスは日常へと立ち返っていった。
そして日常は闇へと追いやられる。
日が沈み静寂の闇が訪れようと、享楽を求める人間は眠りを知らないものだ。そんな彼らを尻目にクロスは慣れ親しんだ自宅へと舞い戻る。
たまには夜遊びもいいのかも知れない、仕事明けにそんなことを思うほど彼も若くはなかったが。過剰な酒が必要なほど忘れたい事柄があるわけでもなく、朝まで女に溺れるほど体力が有り余るわけでもない。
かくして、必然に従ったというべきか。クロス・ホーエンローエという男が職務に忠実ながら契約以上の仕事をこなすことはなく帰宅したのはその人柄をよく表していた。
傾きかけている古いアパートの一室。ドアを開けて部屋に入ったところで、同居人がこちらに視線を投げかけてきた。
「おや、もう帰ったのか。たまには夜遊びでもしてきたらどうだ」
相も変わらず窓辺で煙草を嗜んでいる小娘は憮然とした口ぶりながらも上機嫌のようだった。それもそうだろう、するべき事柄もなくただ怠惰を貪って佇むことが彼女の趣味であり美徳だ。
趣味。そう言うと語弊があるようにも思えるが、的外れではなかろう。クロスはそんな結論を据え置きながら考える。アレは彼女の在り方そのものであるのだから。
「まあ、そんな趣味がなくてね。人生損してるもんだと思うよ」
「酒くらいは嗜むだろうに。まぁ賭博は薦めないがね」
「へえ?なんていうかそれは意外な」
「賭けるのは身命だけにしておくものだよ、金銭を担保にするとろくなことにならん」
…長い寿命と共に歩んだ歴史の中でそういった人間も目の当たりにしたのだろうか。二十歳を越えぬような外見とは裏腹に歳を重ねた悪魔は時折妙な説法をすることがあった。
いや、本気で説き伏せるつもりもないのだろう。彼女からすれば、無様な人間をせせら笑う程度の行為に過ぎない。
「―――そういえば、夕飯食べる?」
「いや、今は特に食欲もない。栄養はまだ足りている」
「あ、そう。僕は済ませてきたからな。それじゃ今日は少し呑むか」
言いながらスコッチを取り出す。葡萄酒などのほうが彼女の好みに合うかも知れないが、それほど豊富な蔵を構えているわけもない。
つまり有り触れた安酒であり、決して秘蔵の類ではなかった。
「まあ、安酒だけどね」
「大いに結構だ。高い酒は女を口説くときに使いたまえ」
「生憎とそんな機会も無くてね」
注がれる琥珀色は芳しいということのない、分かり易いアルコールだ。普段から飲酒を好むわけではないのだが、クロスは時折これを引っ張り出して寝酒などしていた。
「ではクロス君の話し相手になるくらいには付き合おうか」
「はは、まあそれでも在り難いくらいさ」
スコッチを煽り、彼女にプレシアとの会話について聞かせた。悪魔たる名無し娘を匿った―――というよりクロスが招いたというほうが正しいのだが―――クロスについて言及されたものの処罰も対応も無いことについて彼女は安堵したようだった。
「それでは、あの女は見て見ぬ素振りか」
「みたいだね。そのまま鵜呑みにするのは危険かも知れないけど。しかしセインツと一戦交えるのは危険すぎる」
「まったく。果てない欲求と鍛錬は人間を大いに不幸にするな。あの女は既に怪物だ」
笑い飛ばしてそんなことを口走る名無し娘だが、それは冗談交じりの虚言ではない。人間の力量を遥かに凌ぎ、虚空を渡る翼を持つ彼女が自ら敵わぬ相手だと認めているのだ。
悪魔狩りとしてのセインツの存在は確固たるものだろう。その実力も、名声も、或いは意義も。何ら風評と反するところはない。
「―――しかし、君が潔くそんなことを言うとはなぁ」
「何を言う、勝てない戦に関わるほどあたしは凡愚ではないぞ。…まあ、それを言ったら天界を追放された時点で負け戦と言えなくもないが」
天界。それは御使いであった過去の彼女が仕えていた場所だ。何らかの罪によって裁きを受け、悪魔として肉体にその存在を縛られたのが今の名無し娘であることはクロスも知っているが。
「―――結局、堕落したことで御使いが悪魔と呼ばれることになったんだろう?謀反とかはなかったのか?」
「いや、織天使の大反乱には加わっていないよあたしは。あんな面倒ごとは御免被る。誰が勝ちを拾っても得るところのない不毛な喧嘩だ」
「ははあ。誰でも知ってる、御使いから悪魔へ転向した例題なんだが君とは無関係なのか。…んー、すると怠惰によって堕とされたと」
「まぁそうだね。結局、今とやっていることは変わらないから構わないが」
大罪に加えられる程度には、彼女は罪人であるらしい。しかしそんな悪鬼羅刹がこうして酒を嗜む少女とはおかしなものだが。
「―――思い出すのも億劫なほど昔の話だ。そう、それだけの時間を費やしてもなおあたしはあたしで在り続け。ただ在るべくして在るということへの不毛な疑問を抱えたまま生き長らえた」
僅かに、哂う。
それは声にすらならぬ静かな嗚咽のように。
「―――アカシックレコードは言わば一つの幻想だと思っていた」
「それは目指すものの一つというか、まあ行程ではあるけどね。例え辿り着けなくても感慨はないが。ただあたしは―――」
言葉に詰まる名無し娘というのは珍しい。少なくともクロスにとって、彼女が静かに語ることは頻繁に目にできるものではなかった。
「ふとしたことで疑問に囚われた。それは世界に対する違和感だ。この世界を一つのシステムとするならばそれは恐ろしく合理的であり、とんでもないところで何かが欠如しているようで」
「…うむう?」
「存在の土壌というものがどうしようもなく脆いのではないかという変な妄執。…いや、どうでもいい話だよ。あたしははぐれ者だからね」
―――ただ、星が死んでいくくらいの時間をかけてもあたしは生き長らえた。
それだけを付け加え、名無し娘の言葉が途切れる。彼女が抱えた疑問というのは、恐らく解答を見ることのない命題なのではないだろうか。クロスが一つの考察としてその言葉を胸中に伏せた。
虚構。彼女がもたらす砂塵にしてもそうだ。在りえないように見えて在るべく存在する。…いつしか些細な疑問が妄執に変わったとしても。恐らく生き長らえた彼女の今の姿こそが本質であったのだ。
酒が、無くなる。
空になったグラスを手の中で弄びながら、名無し娘はこちらに視線を投げかけた。
「まああたしの思惑なんてこの酒みたいに飲み干せばたかが知れているものでね。気にすることもないだろうさ」
「味気ないとは思わないけど」
そう言ってクロスもまたグラスを空ける。
「あたしとしては君の生い立ちを聞いてみたいものだが」
「…ん?特に面白いエピソードはないんだけどな」
おかわりを互いのグラスに注ぎ、少しばかり故郷の話をした。クロスは生粋のジョンブルではなくドイツ、シュツットガルドの出身である。魔術師という肩書きからして家柄に影響されがちだが、クロスの場合は独学でアスガルドへと至った。
「始めは面白半分にこっちの業界に首を突っ込んでね。楽に面白おかしく暮らせるかと思ったんだけど実際アスガルドに任官したら安月給で命の危険に晒される日々で」
「杜撰な人生設計のお陰であたしは寝床を失ったわけだな。そう考えると腹立たしい。ちょっと殴っていいか」
「いやあの遭遇は不可抗力だよどう考えても!…まあ、人生設計なんてあって無いようなモノだしね」
「もう少し丁寧に生きたらどうだ」
名無し娘からそんな言葉を受けるとはかなり心外ではあったが…しかしクロス本人が自覚するところであるので黙っておくことにする。
人間が一代限りで実践出来る魔術などたかが知れている。継承する魔術師は崇高であり始祖となろうとする魔術師は愚者としか思われない。この理不尽な矛盾を生きるのが魔術師という者だった。
「そんなクロス君に比べてあの姉上は健全な人間のようだね」
「―――まあ。姉さんは僕から見ても立派だよ。…というか、僕自身があの人に敵うものを一つも持っていないんだけど」
「成る程、姉のほうが優れた遺伝子を全て持っていってしまったということか。嘆くなクロス君、愚直である君の性質もある意味では長所になろう」
「…それってもしかしなくても褒めてないよね?」
笑みを浮かべる名無し娘が事のほか楽しげだった。
「―――でもまあ、仲良くはやってたよ。僕は頭が上がらなかったがね」
「親しい身内はいいものだぞ、クロス君」
それはそうだろう、と思いながらもクロスは話せぬ事柄について思案せずにはられなかった。姉であるエルゼとは確かに親しいが。それは家族としての親愛とは異なるものだったからだ。
あの姉には敵わない。それは能力的な問題のみならず、女性としての彼女を振り払えないからで。
「…」
だが、名無し娘には関係のない話だ。それにロンドンに来てからエルゼと会う機会も減ったのだし。つまらないコンプレックスなど今宵の酒には無縁だろう。
「そういえば君の姉は政治に関わっているのだったか?」
「うーん。官僚の秘書をしてるってくらいしか知らないけどね」
「実家を離れて同じ街に居ながら、随分と社会的地位が異なるものだ」
「………いいや、もう一杯呑んでしまえ」
何か嫌な言葉を向けられたような気がするが、残り少ないボトルを空にすべくグラスへと注ぎ込むことで忘れることにした。それを一気に飲み干し、焼ける息を愉しみつつ立ち上がる。
「さて、部屋に戻る」
「うむ。あたしはゆっくりやらせてもらうよ」
翳った夜空は眺めるほど楽しめたものでもないが。彼女は窓辺に居座ったまま微笑を返した。
「だから呑みすぎるなと言ったんだ」
酔いつぶれた男がカウンター席で潰れていた。見知った顔ではないが自分の店ゆえに放っておくことも出来ず店主が介抱している。それも僅かな時間の話だ。こうした場末の酒場で親切になり過ぎても仕方がない。
そんなやりとりを見届けてから、リットンは黒ビールを飲み干した。彼は酒に強いほうだがそれを趣味にする者ではない。こんな酒場に入り浸るほど自由な時間も無いのだ。だからこそこの場所を尋ねたのは訳があった。
「すまんな、バリー。それで何の話だったか?」
店主は初老に近い年頃だ。定年ではないにしろ軍を退役してこんな荒んだ店を開いた。本人曰く、不満はないらしい。穀潰しのような連中を疎ましいと思いながらも面倒を見ることで少なからず信頼関係を築けたからだ。
それ故に転がり込む情報も数知れない。
「ロンドン近郊の基地からSA342Kが一機飛び立った。先週の話なんだが。行き先はペンザンスまで」
「ほほう、そりゃきっと観光だな」
「部隊の詳細を知りたいんだ。今では閉口が進んできていて現役の連中から情報を引き出すのが難しい」
「そりゃお前さんがカネを積まんからだ。生真面目な奴は商売相手にならんぞ」
「…おやじさん、ちゃんと聞いてくれよ。俺は大して金持ってない」
「そりゃ冷やかしだろうが。大体な、訓練飛行かも知れないそんな情報なんぞ調べようもないわ」
「―――うちの基地の小隊が未帰還なんだ」
それを告げると、店主はグラスを片付ける作業の手を止めた。
「ふん。SBSにしてはつまらん失態じゃないか。ワシが現役だった頃はそんな腑抜けなぞ居なかったぞ」
「今だってそうさ。俺を見れば判るだろ、おやじさん。俺たちは腑抜け揃いじゃない、だから未帰還になるくらいのジョーカーがあったんだ」
「言いおるな、若造め。―――それでは何か、そのSA342Kが怪しいと踏んでおるのか」
「気がかりなだけだ。ガゼル一機が飛び立ってペンザンス行き、その直後にうちの基地に出動命令。内容は無論のこと不明だ。その上でガゼルのパイロットも飛行目的も秘匿扱いになってるらしい」
らしい、とは彼が直接確かめた情報ではない。だがロンドンにおける数少ない人脈を頼りにヘリの所属や飛行目的を探ったところそういう結論に至った。通常の訓練飛行などに分類される任務ではあるまい。
「我が国の機密はしっかりと守られておるようだな。ワシが引退してどうなるかと思っていたが、思いのほか安心できるようだ」
万年少尉だった人物が随分な大口である。
「おやじさん、なにか情報は無いか」
「くれくれと言われて容易く情報が得られる世界ではないぞ、バリー」
「金なら後払いだ」
「…まったく、礼節を知らん奴め。―――SA342Kが飛行したのは事実だ。だが基地からではないぞ。ヒースローの建設中滑走路の一部をひっそりと使ったらしい」
「―――民間空港から?そんな、仮にも武装ヘリがそんなところへ」
「だからワシのところに情報が転がりこんだんだろうが。…武装は解除しておったんだろうがな、しかしパイロットは正規の兵に違いあるまい。所属は判らんがな」
「―――飛行目的は?」
「知らん。だが同乗者が居たとのことだ。四人ばかり、軍人には見えぬ連中をな」
兵員輸送。いや、ガゼルは攻撃ヘリとして運用すべきであり戦地に兵を送り込む機体ではない。同乗するにしても四、五人が限界であろう。
だからこそ小回りの利くガゼルを調達したのか。
リットンは考察をまとめつつ、店主に先を促した。
「それで、同乗者は何者なんだ」
「知らんよ。遠目に見て軍人らしくない連中というだけだ。そもそもその情報、この店の常連の友人の隣人がヒースロー勤務で伝わってきたというだけでな」
「…物凄く他人だな」
「だが情報は間違いない。親しい者同士の口コミというわけだ。人相の詳細は判らんが、必要ならば問い合わせてやる」
「頼むよ、おやじさん」
そう言ってリットンはポンド札を多めに渡した。その額に満足したのか、店主は代わりの黒ビールを注いでこちらに出してから店の奥へと消える。
荒んだ喧騒に包まれている店内を眺めつつ、グラスが半分くらいになる頃に店主が戻ってきた。情報が得られたらしい。
「四人のうち一人は女。もう一人は男。あとの二人は性別まで識別できなかったようだな」
「そりゃどうして?」
「髪を伸ばしていてなおかつ中性的だったらしい。まあそのうち一人は長身で恐らく男だろうという話だが」
それから詳しい人相を尋ねる。遠目から見たという程度の情報ではあるが、それでも大きな進歩だった。店主とさらに話を進めて人を探せそうな情報を当たる。
その人物たちがリットンの求める情報に行き着くのか、それは定かではないが。それでも今は可能性を虱潰しにするしかなかった。
かくして、目撃情報を元に分析した結果。一人の人物像が浮かび上がる。店主と共に情報を洗いざらい確かめた結果だ。
店を出た頃には、空も白んでいたが。
「―――今から探るか」
さほど眠ってもいない。しかし今は睡魔よりも一歩踏み出す行動力のほうが勝っていた。考察は済ませた。あとはただ動くだけで事足りる。
ロンドンの地理にさほど明るくない彼だがそれでもこの早朝、人通りさえ僅かな時間に迷うことなく市内へと向かった。
それから早朝の市場で人探しをすることに半日ほど時間を費やし、得られた情報によってテムズ河の袂へと辿り着く。行き先は大英博物館。その裏手に構えられた管理組合の建物だった。
事務所や警備室もあるようだが、極端に言えば関係者以外の立ち入りを禁止されている区間である。
ヒースローで目撃された情報にある四人の同乗者。そのうちの一人である長身で眼鏡の男は別の場所でも目撃情報があった。酒場の店主と照らし合わせた情報によると、ウェストミンスター近くの桟橋で起きた通り魔事件後の現場を見物していたそうだ。
その事件自体を彼はニュース程度にしか知らなかったのだが、今回探るべき事柄とは関係あるまい。既に解決されている。
しかしその目撃情報によって、一人の男の外見的特徴が一致した。ここに勤務する人物で、該当する者が居るのだ。
シリル・マクファーレン。どのような仕事に就いているかは不明だが、人当たりのよい性格故か人付き合いが多く此処に行き着くまでさほど時間を要しなかった。個人を特定することほど困難なものもないが、今回の場合は該当する目撃例が多くあったことが幸いだ。
二時間ほど張り込み、棟から出てくる人物を確認する。外見的特徴は全て一致した。目的の人物に違いあるまい。
かの人物は特に警戒することなく普通に歩いてきている。歩みは遅くは無いが、それでも逃げられることだけを恐れてリットンは声をかけた。
尾行すべきという思案はすぐに不要と断じる。この場合はどう転んでも揺さぶりをかけておくべきと彼は決断したからだ。
「失礼、マクファーレン氏ですか」
「―――あ?そうだが」
突然背後から現れたリットンに対して慌てる素振りもなく平然と答える男。正面から見ずとも美男子と知れるが、眼鏡をかけた彼からは知的さも伺える。
「少しばかりお伺いしたいことがあります」
「…いきなり何だい、ホクロの数なら秘密だぜ」
「―――ペンザンス近郊での出来事について」
彼の理解不能なジョークをそのまま受け流してリットンは強引に話を進めた。途端、眼鏡の奥にある双眸が鋭くなる。全身が強張る、とまではいかないだろうが僅かな緊張があったのは事実だろう。
「―――アンタ誰だ」
「素性はまだ明かせない。だが少々調べ物があって尋ねてきたんだ。貴方がヒースローからガゼルに乗り込んだ人物で間違いないか?」
「…正直に答える義理もねぇよ。帰りな」
「俺の所属はSBS第二小隊だ。貴方がペンザンスの出来事に関わりを持つならば俺の意図は察してくれることと思う」
踵を返したシリルだったが、その言葉を聞いて立ち止まった。リットンの思惑は伝わったようだが、真相を明かすべきか思案している様子だった。
それもそうだろう。このシリル・マクファーレンが何者であれリットンの部隊に関わったのならば何らかの機密を抱えている。互いに素性を明かしづらい状況にあると言えた。
だが、リットンは既にシリルという個人を特定した。このことからどうにかイニシアチブを握らなくてはならない。
「ポーツマスの精鋭か…。アンタが此処にいるのは部隊の意思か?」
「いや、俺個人の調査だ。ヒースローからガゼルに乗り込んだ非戦闘員ないし民間人との情報を既に得ている。目立つ外見特徴から貴方だけを特定出来た」
「なんだ俺に惚れたのか」
「…いや、会話の意図とは全然関係ないのだが」
「わーってる。…やれやれ、まさか部隊員が嗅ぎ付けてくるとはね…」
降参と言うようにして、改めてこちらに振り向き直す。敵意はないが、やはり警戒心は解けないようだった。
「マクファーレンさんにはお聞きしたいことがある」
「だろうねぇ。まあ立ち話で堂々と言い合うことでもない。ちょっと中に行こうか」
シリルが指差して向かう先は大英博物館だった。
リットンは学生の頃に一度だけ赴いたことがあったが、生憎と芸術面での才能は無かったらしい。感嘆すれども共感すべき事柄は無く、幾つかの遺物について興味を注いだ程度の閲覧だった。
「何処で話す?」
「向こうのロビーの外れ。人通りは少しあるがあまり使われない休憩所がある」
シリルの案内でその休憩所とやらに腰を下ろすことにした。確かに人気はあるのだが、立ち止まってここを利用しようという者は居ない様子だった。
好都合である。互いの椅子を確保して会話を再会した。
「―――改めて聞いておくぜ。アンタの素性は?」
「…バリー・リットン伍長。SBS所属だ。先週に発動した命令によって出動した小隊が未帰還であることについて個人的な調査を行っている」
「オーケイ、伍長殿。俺はシリル・マクファーレン。大英博物館勤務ということになっているが実際は魔術師互助団体アスガルドに属している」
「…魔術?」
これは唐突な言葉だ。いや、聞き馴染みの無いと言うほうが正確ではある。
「伍長殿、オカルトは苦手かい?」
「いや、苦手というか聞きなれないだけだ。魔術とは?何かの符号か?」
「そのままの意味だよ。怪しい薬を作るとか透視するとか悪魔と契約するとかそういう、世間一般的なオカルト」
「―――魔術」
「おうよ。俺も魔術師の一員だがな。そもそもロンドンじゃ珍しくも無いんだぜ。魔術的教義を抱えた秘密結社なんて昔からあるからな。…まあ、魔術だけじゃ食っていけないんで物書きやら学問やらに打ち込む奴が大半だが。ってわけで魔術師ってのは職業じゃなくて肩書きみてーなもんだ」
リットンにとって奇妙な言葉のオンパレードだった。だが、そうした秘密結社の話は少なからず耳にしたことがある。とはいっても、大抵のものはシリルが語ったようにオカルト程度の認識であろうが。
「アスガルドってのはそういう組織と似たようなもんで。一応はビッグベンと博物館を隠れ蓑にしてる。とはいえ教義や信仰は比較的自由でな、アスガルドに登録している人員の大半は好き勝手に研究や学術に没頭してるぜ。だから相互扶助を目的にしてるわけだ」
「…はあ」
「そんな俺たちだが親分である議員には逆らえないんでな。俺みたいな直属の人員たちは厄介事を色々とこなさないといけねーわけだ。…そんな中で、俺と相棒に命令が下ってなあ。政府直属の超極秘って感じの特務部隊員に同行しろと」
呆気にとられる会話内容だったが、リットンはどうにか理解しようと努めた。例えこの男が妄言をわめいて煙に巻くつもりだとしても情報を手放すつもりはない。
それに。話す内容は核心に近づいているのだ。そう確信してリットンはさらに耳を傾けた。
「特務部隊とは?」
「これまたブッ飛んだ内容で申し訳ないがね、悪魔祓いの精鋭部隊だ」
「………」
リットンの理解力がそこで途絶えた。
「―――悪魔?」
「悪魔だよ。なんか暗いトコから這い出て人間をパクっと喰っちゃうようなアレだよ」
「…理解に苦しむ」
「そりゃそうだ。俺だって実際に会うまではよく判らんもんだったしな。まあこの事については飛ばそう。あんま関係ねー」
「…では、貴方たちがペンザンス方面に向かったのは」
「それは事実だよ。小さい村の教会から聖杯を回収するのが俺たちの任務だった。聖杯については知ってるか?」
「…キリストの血を受けたという杯のことか?」
「まあソレだ。もっとも大それた杯の伝説は何処かしこ溢れてるんだがな。俺たちが回収したのはそういう伝説に語られるものの一つに過ぎない。とはいえ重要な聖遺物に変わりはないんだがな」
「…ふむ。しかしそうなると、うちの基地に下った命令は一体?」
「それについては簡単。今まで所在不明だった杯が持ち出されようとしてるんで奪取しようとしたエラい人がいるってことさ。おたくの部隊が出動して俺たちに夜襲をかけてきたよ。見事に統率されて無駄のない動きだった。感服するぜ」
その賛辞は、実際にまみえて戦ったことを意味するのか。しかし。
「はっきりと言っておく。さっき言った特務部隊員の活躍でおたくの部隊は悉く戦死したよ。俺は直接確認してないが生き残りは恐らく居ない」
その言葉があまりにもあっさりと引き出されたことは、リットンにとって幸いだったのかどうか判りかねた。
作戦活動において仲間の生死を疑うことは数知れない。だがそれは彼ら精鋭の技量を疑うことではなかった。互いを頼りに作戦遂行に当たることもなく、しかし互いに行うべき一手を間違えない。精鋭たる彼らにはそれを実現するだけの力量があった。
しかし。それでも人は神に成り得ない。不敗は有り得ないのだと、彼は賢さゆえに理解していた。
「―――戦闘の推移を教えて貰えるだろうか」
「かまわねえよ。俺たちが聖杯を回収した夜のことだ。日付が変わる前か。高高度からの落下傘降下で襲撃を受けた。おたくの部隊は左右両翼から挟撃する構えだった。俺たちは古びた教会の一室に篭ったまま。一発目の銃弾は外から向けられたものだったか。…随分と乱暴な命令でも受けていたんだろう。俺らは銃を携行してないんだが持ち前のものでどうにか防いだ。程なくして特務部隊員が手持ちの武装を持って強襲。制圧までの経緯は俺も直接見ていないから判らんがな」
「―――成る程、その特務部隊…」
「仇討ちしたいか?」
こちらの言葉を遮ってまでシリルが言い出したものは、確かに核心にある問題だったのかも知れない。だがリットンにその資格があれども手段が無いのだし、何よりこの場においてシリルが問いたいことは一つだ。
断罪を求めるのか。
リットンが目の前の男に対して敵意を向けるのかを問うている。その視線を交わらせながらも、リットンは嘆息するだけに留めた。
敵意は無い。部隊は作戦命令に従い行動して作戦途上で敢無く殉職した。其処にあるべき慟哭は戦慄に変えるべきものだ。
―――不透明な政治背景によって下された機密の作戦案件。軍人であるリットンには政治を解すことは出来ずそれを突付くことは僭越でもある。
「…貴方が言うことが真実であることの証明は、あるか」
「事実関係の証明は難しいな。だが、例の特務部隊については情報を少なからず知っている。その気になれば接触することも出来るだろう」
「―――そうか」
「追及するか?」
「いや。自分たちは命令あらば戦うものだ」
「だが疑問は残るよな」
シリルの指摘を受けてリットンは押し黙った。閉口したのは彼の言を理解していたからだ。
下された命令が確かにシリルの言うように遺物奪還という現実味の無いものだったとしても。彼が信頼する精鋭の戦友たちは忠実に命令を実行したことだろう。
だが、その背景は何も見えないままだ。
基地の人間―――指示を下す者も下される者も誰もが口を閉ざしている。いや、ある意味では基地司令すら詳細を知りえないのかもしれない。名も知られていない特務部隊が動いたということが事実ならば、この件に関しての機密は官僚でもごく僅かにしか握られていない筈だった。
そもそも。
何の為にそのような古びた遺物を巡って騒乱になったのか?
「…実を言うとな、伍長殿。俺も疑問だったんだよ」
「―――と、言うと?」
「俺もアンタと同じように、命令によって仕事をこなしてお給料を貰う身分だ。つまらない疑問に突っ込んで火の粉をかぶってもつまんねぇ。…だが、例の聖杯ってのは千年以上放置されていてこの国でもその所在を知る人間は片手の指で足りるくらいらしい。あ、今回のことで俺らが知ったから両手の指くらいになったか。―――ともかく。隠蔽と言うより忘れられてた情報が今になって掘り返されたこの騒動はちょっと気にかかるんだ」
「…聖杯とは、重要であるとは判るが国家の大事に成り得るものなのか?」
「さて。持つ人間によってはそうなるのかねえ。だからさ、俺もちょっと調べていたんだ、事件の背後をな。アンタが今日此処に来てくれたことは助かったと言ってもいい」
言われ、シリルの心中を察することが出来たリットンは目の前のこの男を利用することにした。
「…共同で調べようというのか」
「ああ。実際に動いた部隊に在籍してる伍長殿にしか判らんこともあるのさ。アンタも、戦死報告ならば詳細も一緒に知りたいだろ?」
軍人が政治分野に首を突っ込むべきではない。それを理解していながらも、リットンは眼前にちらつかされた餌に惑う。
そう。そこから先の調査は彼の個人的な興味だった。
「下された命令を解き明かしてみよう。マクファーレンさん」
「シリルでいい。宜しく頼むぜ、伍長殿」
震える唇に伝う歪さ。
体温を奪ってそこに在る滑稽さ。
内に在る血流など、どうせこの場しのぎに忙しく動き回るだけで。
途方も無い自分の劣等感さえ波に飲まれて消えた。
食い尽くされていく。
貪られている自分はどう見ても敗者でしかなく、貪っている彼女はどう見ても勝者ではない。
ここは戦場にすらなり得ない。彼らは戦い交わることさえ有り得ない。
生まれたときから彼女の背中が見えて。生まれたときから彼女の背中が遠い。
だから惑い、妬み。そしてその感情を打破することも吐露することもなく食い破られたのが自分だ。
吐き出す息は塞がれる。
上がる体温は奪われる。
自分が抱えてきたものは何だったのか。在るべくして抱えてきた感情の全てを食い破られ、吸い尽くされ、そして自分には何も残らない。
だから、哂う。
彼女の背中に投げかける武器が欲しかったのに。それすら彼女に奪われたのだと。
「―――」
現実感が舞い戻る。
歪んだ夢を見ていたのか。慰める妄想に耽っていたのか。ただいずれにしても、残酷な現実は彼の双眸に再び現れてきた。目が覚めて訪れる天井は普段と何ら変わらない。
「…むう」
一体どういう辱めか。思い出すことすら億劫な事ほど突然思い返す。そうして立ち返った現実すらクロスを歓迎はしなかった。
「ソファーで寝るとは不健康者め」
「………」
目覚めると、名無し娘が隣に座っていた。
いや、クロスがソファーを全身で占拠しているのだから枕元と言うべきか。彼女は普段と違い咥え煙草ではなかったし、ましてやクロスの自室に入り込むというのは珍しいと言ってもいい。
「…なにしてんの?」
「呻き声が止まないので様子を見ていた。君の暑苦しい寝顔を見ていたら夜が明けたぞ」
「………」
自室は施錠すべきなのだろうか。いや、何事にも興味を示さないような名無し娘が気にかけてくれたことに感謝すべきなのかも知れないが。
「そのまま死ぬかも知れないと思ったが元より死人のような面構えだから判りにくかったな」
「………」
クロスは思考を放棄した。名無し娘はやはり悪魔である。
「―――起こしてくれたほうが良かったかもしれない」
「だったらそう頼め」
「…いや、うん。寝てる最中だったからね。今度あったら宜しく」
瞼を閉じる。心地よい暗闇でさえ頭痛を開放してはくれなかった。体が重いのは、珍しい気配が自室に在るからではあるまい。
白い人影。翼を広げれば何処までも飛んでいくその姿は既にもう見慣れたものだと思っていたが。出会ってまだ一年と経っていなかった。
砂漠で見出した悪魔は部屋から出て行く様子もなくクロスの枕元に腰掛けている。閉じた瞳を開けて、その華奢な手を掴んだ。
冷えた手の平。およそ血が流れているとは思えないほどに白く細い。…それは小娘らしいほど脆弱に…悪魔に相応しい所業を行える手なのだが。
「―――何か?」
「いや、冷たいものを求めて」
「ふむ」
言うや、名無し娘はこちらの手など気にせず額へと当てた。冷たい感触が伝わり、彼女の手の平によって視界は再び閉ざされる。
「熱があるのか。汗ばんでいるようだけど」
「いや、たぶん平気だよ。ちょっと夢見が悪かった」
「そうか」
ひんやりとした彼女の手はクロスの熱を奪うには十分だったが、今はそれが心地よい。こんなささやかな感触でさえ得がたいものなのだと理解しながら。
「―――イヴリーズ」
「何かな?」
「ちょっと出かけないか」
「何処に?」
「なんていうかちょっと散歩みたいな感じで」
「嫌だ面倒くさい。どのみち君は仕事だろう」
「今日は休む。今抱えてる案件ならすぐに済むものだしね」
自分でも唐突な提案だとは思う。彼女が何かしら自発的な行動をする筈は無いと理解しているし、何より興味を示すことのない人物だ。
「煙草を一服するついでだと思ってくれ」
「面倒だ」
「…たまには付き合ってくれてもいいじゃないか」
「―――ふむ」
手が離れる。
自由になる視界を鬱陶しくも感じながら瞳を見開いた途端、名無し娘の顔が迫っていた。
蒼い双眸に覗き込まれ、呼吸を止める。場合によってはこのまま処断されるような体勢にあって、クロスは彼女のその顔立ちを目の当たりにした。
中性的な美貌。いや、美しいと形容するには届かない。ソレはただ綺麗だとしか言えず、その肌はまるで死人のように白い。
「―――あたしを伴侶のように思うのか?生憎だが、君はあたしが悪魔だということを忘れているようだ」
「いいや、忘れてはいない。僕の懐事情を介せず煙草を消費する君は紛れもなく悪魔だよ」
クロスは笑う。その言葉を名無し娘がどのように受け取ったのか。
情に絆されるのは彼女らしからぬ行動であり、また有り得ない。それを肯定することは彼女の半生を否定することになる。
「―――君は喉元を掻っ切られるまで自分が危険に晒されていることを理解しないのだろうかね。つまらない感情であたしを巻き込むのはやめることだ」
「…そうかい」
立ち上がる。名無し娘はどうということもなくそれを見送った。妨げになるものなど何も無い。
「―――何となく。その手の冷たさを心地よいと感じただけさ。…じゃあ出かけてくるから」
何度と無く彼女に、お前は厄介者なのだと諭されていて、それでもその手が遠ざからなかったことを在り難いと思ったのだが。
ごく簡単に身支度を整えてクロスは部屋を出た。玄関からは名無し娘の姿も伺えないが、気にせず後にする。
どうせ戻ってくる場所だ。届く場所と届かない場所の境界線を理解し得ないままクロスは外出した。
「…つまらない」
その言葉を吐き出して名無し娘は体温が残るソファーに横になる。やはり煙草は咥えていない。この部屋が禁煙ということはないだろうが、それでも彼女が火を点けることはなかった。
部屋の主は足早に退室した。何もかも唐突で素っ気無いものだが、それで気分を害されることはない。彼女が生きてきた半生においては最低限の礼節を弁えた人間であるし何より無駄に勤勉ということが無いのだ。
怠惰と言えば、恐らくそうなのだろう。それは彼女が罰するところでもなく、僅かな共感こそ生まれるものでもある。おかしなものだった。それは、砂漠に引き篭もってきた頃には在り得ぬものだ。
あの砂漠に篭り、悪魔が行う栄養摂取である人喰いすら散漫だった頃。もはや悪魔と恐れられる概念すら彼女にとっては虚構だった。いや、それは彼女自身が望んだ結果でもある。
そうして幾万年か。それほどの時の中にあってさえ彼女はそれを退屈とも思わなかった。心は既に磨耗していたのだろう。時に紛れ込んだ人間と話をすることもあれば首を刎ねて喰らうこともあった。それも僅かな出来事だ。
そう、そんな長い年月においては些事に過ぎない。彼女にとって一日など、どれほどの価値も無い。
だが。無遠慮にも彼女を此処へ招いた家主は虚構だった悪魔を実の在る姿へと戻させている。皮肉にも、家主の招きに応じたことで彼女は自らの希求から遠ざかったのだ。
それは、疎ましいのだろうか。
あの人間は特に文武に秀でた才を持つわけでもなく、日々を死なない程度に生き延びるような小物である。彼女がとりわけ大事にする必要のない人間であり、また彼女が手を出さなければとうに死んでいた。
―――あの砂漠で紛れ込んだ人間など砂塵の一粒のようなものなのに。
気まぐれが過ぎたのだろう。こうして砂漠を離れて過ごしてみてそれを実感した。
「―――はいいろの、へやだ」
虚実定かならぬあの人間は、どうしようもなく愚か。
虚実を忘れた悪魔は、どうしようもなく惑い。
あの男に宿った熱など何とも思わない。
ただ、ソファーに残る熱を僅かに心地よいと感じて。
そして名無し娘は蒼い双眸を閉じた。
バリー・リットン伍長の協力はシリルにとって思わぬ幸運だったと言っていい。
元よりシリルは荒事に長けるという事実だけで厄介な仕事を任されることが多い男だ。本人はそれを自覚してなお疎ましいとは思っていないし、寧ろ適材適所だと感じている。面倒になるか命を惜しむ程度に嫌がることはあるが。
だからこそ、あえて火の粉を被るような真似もしてみせる。聖杯奪取を目論むロンドンの黒幕。その存在を単独で確認しておくことの必要性。
元来、アスガルドがそのような轍を踏むことは無い。彼らは調査機関でも特殊部隊でもないからだ。言わば一部の官僚の庇護を受けているような組織が先走る行動を慎むべきなのは誰でも理解し得るだろう。
だが。混乱はセインツという国家機密に相当する部隊にまで拡散している。恐らくセインツのあの女―――プレシアは職務上知り得ることとして適度な探りを入れるだろう。聖杯奪取に動いた黒幕を探るならば彼女のほうが行動は早い。
セインツやアスガルドのバックボーンとなる一部の官僚もまた事実の確認に奔走している筈だった。気がついた時には巻き込まれている危険性を鑑みれば、多少の情報収集は必要である。
「判った。この件は君に一任する」
リットンの協力について上司であるブランデルに報告を済ませたのがつい先刻。シリルはこれで正式に調査へ打ち込むことが出来る。
そして必要な情報を探りながら、別行動したリットンと落ち合う為にとある酒場へと向かっていた。店はまだ準備中のようだったが、店主が特別に通してくれた。リットンが話をつけてくれていたようだ。
誰も居ない店内で飲む物もなく、シリルは情報を整理する。そうしているうちに、リットンの影を確認した。
「シリル。待たせてすまない」
「いんや。待つのは慣れてる」
「…??まあいいか、さっそく話そう。君の言う通りに調べてきた」
言いながら腰掛けるリットンも特に飲み物を注文するつもりは無いらしい。準備中の店に邪魔をしているぶんは仕方ないが、それ故に内緒話も出来るだろう。
「出動命令の発信元は特定出来ないが、言われた通りに火器の流出を探ってみた。基地の弾薬消費量が計算上よりも多くなっている」
「ふむ」
「管理の担当者が言うには外地への移送があったとのことだが、行き先が不明。おかしなことだ、管理すべき者がその手綱を放すとは」
「情報が制限されてるんだろうぜ。ま、予想できたことではあったけどな」
「だが不透明な闇に消えた火器・弾薬は一個小隊が一週間ゲリラ戦を行えるくらいはある。もしこれが横流れなら、軍部にとってはスキャンダルだ」
リットンが基地の人間に掛け合って得た情報は、やはり不確かなものではあったが。しかしそれぞれに確証が持てないまま辻褄だけが合わさってくる情報というのが厄介なものだとシリルは実感する。
「恐らく行き先はドイツだな。中東への移送を隠れ蓑にしたとかそんなところだろ」
「シリル、やはり心当たりが?」
「まあな。イカれた武装宗教団体がちょっといい気になっちまってロンドンに喧嘩を吹っかけた事件があったのさ。裏で処理されて事なきを得たんだが」
「―――宗教団体。ドイツに?」
「ああ。その団体そのものは小物だ。だが、連中はこの国に聖杯が眠っていることを嗅ぎ付けてその上で聖杯譲渡を申請してきた。…単純に見れば変な連中に絡まれた程度の事件だが、問題は秘匿どころか忘れられていたような情報を連中が掴んだってことだな」
「成る程、情報が漏洩している。いや、故意にと言うべきか?」
「そういうことさ。ロンドンのおエライ人の誰かが情報をリークさせて、しかるべき武器も与えて決起させた。上手く連中を使い捨てるつもりだったのか知らんが、そんな情報を掘り出してくる時点で容疑者が絞られるぜ」
「―――やはり黒幕はビッグベンにあるか。それも、シリルたちの組織の後ろ盾となる人間とは別のトップ」
アスガルドやセインツに指示を下せるような人物は黒幕ではないだろう。もしそうならば、先の聖杯移送の際にセインツの一員であるプレシアが居ることを知らない筈が無い。セインツをよく知る者ならば、差し向ける手札が特殊部隊一個中隊で済むことではないことを知っているからだ。
「シリル、一つ思うのだが。聖杯とやらが奪取される可能性は?」
「今はウエストミンスターに移送されたしな。公にはされていないが、するもしないもおエライさんの気分次第だ。ある意味ではイニシアチブを握った形になる。…それに、ジョンブルならあそこに思い切って手を出すのもやりにくい話だ。壁の一つも傷つけたくないだろ」
「それは判るが。ならば、聖杯そのものは安泰と見てよいのか?」
「護り手も居ることだろうしな。黒幕とやらが次の手を打つ前にちょっとは尻尾を掴んでおくさ」
シリルの情報と分析はリットンの動きもあって確かなものになりつつある。命令系統が不明であれども、そこに介在すべき人物は大分限られることだろう。
「―――後は、聖杯そのものの重要性について確認しとくか」
「と、言うと?」
「ロンドンの魔術師の中には学者紛いの連中も多く居る。研究に没頭する奴らだが、聖杯伝説を調べてるのも居るからな。専門家の資料を参考にして、黒幕さんが聖杯を狙う動機なんかを掴めるかと思ってな」
「成る程」
「さっそくだが行ってみるとするか。俺が車を出す」
正直なところ、そんな調べ物はシリル一人で事足りることでもあるのだが。魔術師に接点の無いリットンを連れて行くのは実際に魔術師がどういうものなのかを知っておいて欲しいという思惑があった。
ともあれ、二人は準備中の酒場を後にして車に乗り込む。日は傾きかけているが構わず市内を走り続けた。
「シリルは―――どのような経緯で今の職に?」
道中、助手席のリットンがそのようなことを口にした。
「…まぁ、大した動機があったわけでもねえよ。メイザースでもあるめえし。俺の場合は、実家が複雑でな。父親は女遊びしか娯楽を知らないような奴で生みの母親は顔も知らん。お陰で兄弟関係も大いに不調で、まあ平たく言えば家中でいつ殺人が起こってもおかしくなかった。マクファーレンの家から俺が追い出されたのは12になった頃だったか。食い扶持を減らしたいつもりで修道院に入れられた。荒んだ環境で、派閥争いみたいなものがあったな。新参の俺には何だかよく判らんもんで、生き残る術を知らなかった。何だかよく判らんうちに出資者らしいエラいオッサンに身体を売って生き延びること3年。修道会が破門されたドサクサで逃げ出してロンドンの路上生活に1年」
「………」
「アスガルドのことを知ったのはその直後だ。学も金もねぇ俺だったが喧嘩慣れはしてたんである人の下で給与も何もねえ助手みたいなことをやりつつ魔術を学んで3年。今の職場に就いた」
「…中々にヘビィな人生だな」
「ま、そんな奴でも適所の仕事があるってことだぜ。そういうわけで、俺はマクファーレンの家名を疎んじてる。元々の家族も俺が生きてるのは知っているだろうが、それ以上関わろうとはしないしな。どのみち俺も興味ねぇ」
「…そうか」
「アンタは?SBSなんて中々入れねえんだろ?」
シリルが言葉を返す。身の上話すら普段と何ら変わらぬ口調だったが、リットンのほうはそれに合わせきることは出来なかった。
とはいえ、その会話に抵抗があったわけではない。
「―――かなり厳しい選抜試験だった。自分は元々は海軍に勤めていたんだが。まあ、上官との話し合いの上で試験に挑んだ。俺よりも多くの優秀な兵士が居たよ。俺は…元々泳ぎには自信があったからどうにかなった」
「頼もしい男たちじゃねーか」
「ああ、そうだな」
「アンタの憤りは尤もな感情だぜ。その誇りがあるからこそこの街で平和に酒が呑める。―――お仲間は、残念だったが」
「シリルが気にすることではない。任務は任務、俺が命令を受けていても同じように行動し同じ結果に辿り着いただろう」
だが。リットンが死ぬ役目であったなら誰かがシリルに詰め寄ることが出来ただろうか。胸中で抱く感慨を無為にすることなくシリルはこの男が尋ねてきてくれたことを感謝している。
敵として出会う羽目になってしまったが、今はその邂逅を調べ上げようという。不毛と言えばそうだろう。死者は蘇らず生者は口を閉ざす。例え黒幕が如何なる私情を以って命令を下したにしても、それを断罪することが可能であるとも限らない。
全ては不確かなままなのだ。それが見えそうになっているのは、断片的に辻褄の合う情報が集まっただけである。
だが、この二人の協力には意味がある筈だ。
「―――踊らされっぱなしってのも胸糞悪ィ話だ。遺物一つに殺し合いを強要するバカが居るならワルツでも躍らせてやるぜ」
シリルは確かな決意を口にする。
車内での会話が弾むことはなかったが、沈黙が重いことはない。寧ろ思考に集中する良い時間でもあった。やがて目的地に到着する。
訪れたのは、一件の住宅だった。
「―――ここなのか?」
「ああ。セオフィラス・ウッドゲイト氏の住居だ。今は空き家」
「…空き家?」
「数ヶ月前、ロンドンで連続通り魔事件があったのは知ってるか?四人くらい殺されたんだが」
「―――ああ、ニュース程度だが」
「あの事件の被害者の一人がウッドゲイト氏だ。空き家はそのままアスガルドの管理下に置かれてるんだがな。何しろ、いち研究者の資料やレポートがそのままになってるからな」
「知的財産ということか。その中に聖杯に関するものが?」
「ああ。氏はどうやらそっち方面の遺物について研究してたらしいからな。墓場泥棒みたいだが、ちょっと調べさせてもらおうぜ」
既に準備を済ませておいたシリルはこの家の合鍵を確保している。ブランデルに頼んで用意してもらったのだが、すぐに対応できることはありがたかった。
扉を開け放ち、生活感の薄れた室内に入り込んでも誰かが出迎える様子は無い。ここで暮らす者はもう居ないという事だろう。家財も何もかもが家主の生前と姿を同じくしているが、その姿は既に虚構だった。
日が傾いて薄闇が部屋を支配する。明かりを点けて、目的の文献を探し始めた。
「…この部屋は」
「ウッドゲイト氏の自室だろう。資料をこれだけ押し込んでたんだから相当調べてたんだな」
リットンはやや唖然としたようだが、それは無理からぬことである。広く確保された室内は半分を書籍と資材によって占領されていた。棚に収まるのは文献の他にも遺物や古美術品が見受けられる。
シリルは既に一冊の本を手にとって中身を拝見していた。聖杯に関する記述を探すが、それ自体は探すまでも無く見つかる。この部屋にある書物の大半がそれだ。
「伍長殿、ちょっと調べ物は時間かかりそうだぜ」
「ううむ…。これだけあるならもう少し整理してくれればいいものを…」
それは尤もな意見だと笑った。リットンもまた適当な本を見繕って中を確認し始める。門外漢の彼には読み解くことも難しかろうが、それについてシリルは指摘しなかった。
リットンが本を開いてから数分で、携帯電話が鳴る。彼の呼び出しらしかった。シリルのほうを一瞥して電話に対応する。
その話し声からして基地の同僚らしかったが、あえて気にせずシリルは読書に集中した。特異とも呼べる特技として、シリルは暗記に長けている。特に文章として読んだものは一句違えず記憶することが出来た。必要な情報を頭に収める作業に専念する。
こうした大量の文献も今の時代ではデータ上にシンプルにまとめられるものなのだが。それでも古い資料を探そうとなるとこの部屋は必然的に出来上がるものだ。シリルもまた暗記という手段で資料を秘匿したまま持ち出す。
頁を進めたところで、リットンの会話が止まった。電話は終わったようだ。
「シリル、すまないが一旦基地に引き上げる」
「お?撤退命令か?」
「いや、休暇撤回は言われていない。同僚からの連絡があって、直接話したいことがあるそうだ。重要な情報を掴んだらしい」
「電話は控えるべきか。当然の処置だな。今時、王室にだってプライベートはありゃしねえ。―――駅まで送るか?」
「いや、表でタクシーを拾えばいいだろう。シリルは調べ物を頼む。また連絡する」
「おう。イイ男からの連絡は大好物だ。携帯にかけてくれ」
それだけ告げるとリットンはやや早足にウッドゲイト邸を後にした。
残されたシリルは静かな環境で作業に集中する。唐突に訪れた独りの空間は、空虚でないにしても広々と感じられた。
実際に広い家だ。ウッドゲイトはそれなりに知られた魔術師としてアスガルドに登録した有望な人員でもあった。魔術師同士の抗争を引き起こしたのは彼自身なのだが、優秀ゆえに葛藤があったのだろう。そのことに理解も同情も示さないシリルだが今ではこの資料は役に立つ筈だった。
日が傾く。そういえば夕飯はどうしたものかと思案していた頃、シリルは目ぼしい書物の8冊目に突入していた。
「―――聖杯聖杯。ロクな伝説がねえな。他人の奇跡に擦り寄るのは努力じゃねえっての…おっと新ネタ」
目ぼしい情報はすかさず暗記する。必要ない情報は切り捨てる。そうしてこめかみに指を当てること数回、シリルは9冊目を探し始めた。
さすがに目が疲れてきて眼鏡を外して少し休もうかと思った矢先、外を走る車の音に気をとられる。
雑踏と呼ぶには程遠い。閑静な住宅街にあってさらに僻地でもあるここでは人通りすら疎らだ。そんな寂れた夜に走る車の音はこの家の前で止まる。
「―――?」
車種は特定できないが、降車してくる人数の数は多いことは察した。地面を踏み鳴らす人数は少なくとも三人。家の前から玄関へと移動している。
それが来客であることは理解できた。目立たないように停車した車はこの部屋の窓からは窺い知れないが、玄関へと歩み寄る男たちの姿は視認出来る。
全身が薄暗い服装で統一されている。両手に抱えるものはもはや見慣れたものだった。どう見ても、迷彩服の男たちが小銃をぶら下げている。
「―――なんで?」
思わずそんな言葉を口に出した。この場所はアスガルドの管理下におかれ、ましてやウッドゲイトの住居であることは知れ渡っているわけでもない。そもそもシリルが訪れるこの時間を狙ったかのような訪問。彼らの目的が親善訪問でないことは確かだった。
加えて、暗闇ながらも小銃には消音器を装備しているシルエットが確認できた。住宅街での作戦となれば当然の配慮だろう。だが、それ程に配慮する部隊ならば正面の三人はあまりにも容易く目に留まる存在だ。
本命は背後。そう核心したシリルは退路を決定する。この部屋の窓は却下だ。今ここから脱出すれば玄関先の連中に狙い撃ちされる。この部屋で迎え撃ち戦力を集中させてから窓の外へ出るべきだ。搦め手からも敵が迫っていることを考えれば無闇に屋内を動き回るべきでもない。
どのみち部屋の明かりで彼の存在は特定されたようなものだ。後は、ハッタリとなる魔術で初弾を防ぐのみである。
「―――It's time that a good child sleeps at home」
口ずさむ言霊は呪文の詠唱。シリルが唯一行使できる影への干渉魔術である。
「The beautiful woman is a town of capricious wonderful.It's a good adults that going out at night for pleasure is satisfied,Please if it’s possible to enjoy it」
修練を積んだ魔術師ならばこの程度の詠唱に五秒とかかるまい。シリルはその点において劣っていた。高速詠唱は戦闘を重ねる魔術師にとって必須となる技能だが。
しかし、今ならば間に合う。車の音に気付いたことは僥倖だった。
「The one to restrict you will be confined in the shadowgraph only tonight―――」
部屋に灯された明かりは十分な影を作り上げている。光があることに感謝を。影が生まれる事に歓迎を。
「Welcome to the shadow of the moon!!」
術の完成。
それと同時に、部屋の扉が蹴破られた。制圧すべく玄関口から進入した三名が射撃を加える。自動小銃のセミオートによる一斉射撃。一秒とかからぬ間に数十発の鉛弾が部屋に放たれた。突入と同時に視認した人影―――シリルを撃ち払うのは容易だっただろう。
その弾がスタンドライトの影に弾かれることがなければ。
「―――!?」
男たちが息を呑む気配が伝わる。彼らの射撃線上に何ら妨げるものは無く、しかしシリルが銃弾に倒れることはなかった。再度加えられる銃撃も、途中の空間で弾かれて部屋に散らばる。
硝煙と、小さい銃声の余韻を残して射撃は止まった。男たちはこちらを警戒しつつも囲む形へと動きつつある。無駄弾を撃つつもりはないらしい。
(どうにか間に合ったが…あんまりハッタリは効きそうにないな)
奇襲を防いだシリルだが主導権は握られたままだ。この魔術は物体の影を防壁として使う為に、空間に干渉するものなのだが。それ故に防御面でしか効果を発揮せず、また影がなければ術は意味を成さない。
襲撃者たちは魔術というトリックを知っているのかどうか―――。落ち着いてインファイトに持ち込もうという算段なのだろう。訓練された兵士ならば、スラム街の喧嘩程度にしか戦えないシリルの勝てる相手ではない。
逃げるべきだ。この場所で襲撃を受けること自体、既にアスガルドという後ろ盾が効果を失っている。ロンドンで暗躍する者はとうとうその牙を隠すことをしなくなった。
―――逃げるべきだ。戦ってどうにかなるものではない。
影の防壁は未だ有効だ。背を向けて窓に向かっても相手の射撃はシリルに届かない。その効果を確信して、逃げ出すべく足を動かそうとする。
その矢先、襲撃者たちの一人が前に出た。
「―――?」
小銃を構える。例えその黒い火器が火を吹いたところでシリルに弾丸は届かない。だが、彼が銃口の先に狙うものはシリル本人ではなかった。
デスクの脇に備えられたスタンドライトである。
「…おいちょっと」
シリルの言葉は最後まで紡がれることなく、また相手に届くこともなく虚空に消える。調律された銃声は規則正しい音と共にスタンドライトの軸を破砕した。自重に耐え切れず折れて崩れる。
その物体の、影もまた消え失せた。
「…やべ」
部屋の明かりと、それによって生まれる影が交差するようにして位置を変える。銃撃の火によってフラッシュバックするその光景は、誰の目にも止まる事はなかった。
結局クロスはその日、いつも通りに出勤して仕事をこなしていた。
怠惰な性格ながら損をする程度には生真面目であるらしい。自分の性分に軽く苦笑いするしかなく、しかし集中すべき作業は殆どこなしてしまう。
平たく言えば手ぶらになっていた。今抱えている仕事も急を要するということは無い。数日中に必要になるものだろうが、事務作業はほぼ完遂したと言っていいだろう。
なまじ、意識を仕事に集中させたいあまりか。余計なことを考えないようにした結果がこれである。はかどった仕事内容に充実感を覚えるかと言えばそうではなく、今日一日の行動はただの逃避だった。
部屋に置き去りにした名無し娘を思い返す。
出てくるときに振り返らなかった。彼女の表情などいちいち気にしても仕方が無いのだが。
繰り返される日常。だが時間だけは前に進んでいる。その最中、ふとしたことで自分の進路が妨げられる時に名無し娘が隣に居ることは、それもまた必然と呼べるのだろうか。くだらない偶然に気まぐれを重ねた結果が今の自分である筈なのに、そんなことを考えているとやがて仕事もなくなった。
アスガルドの棟を出る。作業はここまでにしよう。上役であるブランデルからの要求があればすぐに提出できる書類は揃っているのだし。
日が傾いてロンドンの霧は薄闇へと姿を変えていた。穏やかな晴天だった昨日とは裏腹に、どこか不透明な天候である。もっとも、この街では何ら珍しくも無い。
いつものことだ。日常でつまづく程度のことなどいつでも起こり得ることで、しかしそんなものはすぐに立ち直る。クロスの半生においてそれは一つの結論だった。
日常にあって常に鼓動を鳴らしている自分の胸中にあるものが僅かばかり動作不良を起こしたとしても、それはただそれだけの出来事だ。
だからこそ惑うことは無い。今もこうして歩く足取りは重くも迷いもなく帰途についている。日常のレールに沿って進めば今日得るべき安眠が其処にあるのだ。
「―――今日は酒はやめよう」
普段からアルコールを飲み慣れないクロスだったが、そんな反省じみた後悔を口にしたのは、初めてだったのではないか。
その胸中を自身で推し量ることさえ出来ないまま、彼は日暮れを迎える。どうということのない帰路にあって、彼を出迎えた姿もまたどうということのない。
煙草は其処には無い。
小柄で中性的な金髪の小娘が木陰に隠れるようにして腰を下ろしていた。
「―――なにしてんの?」
今朝と同じ問いかけをしていることに気付き苦笑するが、彼女にとってはどうでもいいことらしい。こちらへと投げかける視線に何ら変わるところはなく。
「たまには他人を待つというのもいいだろう」
―――そんな言葉を耳にするとは思いもよらず破顔する。慣れないことをするものだ。出歩くことさえ億劫な彼女には余程の遠出であったに違いあるまいが。
「煙草がきれたぞ」
「そっちですか。まあいいや、最後の一本だけど」
取り出したロスマンズを受け取る名無し娘はそのまま火を灯す。その一本を残しておいたことにさしたる思惑もなかったのだが、クロスの場合は愛煙家ということでもないからたまたま余っただけだろう。どのみち出費もかさむ。
その煙を吐き出して、名無し娘が再び視線を投げかける。座れ、という意思表示なのか。クロスは問いただすこともなくその意を汲んだ。
「…わざわざお迎えとは珍しいね」
「そうかね」
「そうだよ」
紫煙が宵闇に消えていく。指の間に挟まれたそれをこちらの口元まで導いた。
何も言わず煙を吸い込む。ゆったりと燃える火はまだ半分も進んでいない。
肺に吸い込んだものをゆっくりと吐き出して、その時間を満喫した。不思議と蟠りは無い。辺りを支配する夜の気配は何もかも包み隠すようにして日没の鐘を鳴らした。
…明かりなくば、もう彼女の表情をしっかりと伺うこともない。互いに、閉ざされたものを隔てても同じ袂に立てる。
「―――仕事は済んだかな?」
「まあ、適当に。はりきりすぎて暇になったかもね」
「勤勉なものだね。ならば余暇を謳歌すると良いさ」
同じ煙草から吐き出す煙は絡み合うようにして虚空に溶ける。樹木を背中に、並んで座る二人の影はさらに溶け込んでいることだろう。ここにある会話さえ、一時もすればどうということもなくなる。
言わば、それは名無し娘の本質でもあった。
彼女の存在そのものさえ、砂塵に消えてしまい見えなくなる程度の。
「クロス君」
唐突に呼びかけられ、名無し娘を見やる。
煙草の火はもうすぐ終わりを告げようとしていた。
「こうして星を見る夜を幾千万。だが明確な記憶に残る星の動きなどあたしは知らない。長い時を生き長らえるということは、そういうことだ。生きるべくして生きるときと意識を休めるべく長い眠りに身を委ねるとき。そうして時間を使い分けないと心が死んでしまう。
―――あたしは、寧ろそれを望んでいた」
だがそうはならなかった。
名無し娘は確かに空ろであり虚構の悪魔ではある。しかしこうして会話してみれば、確かに其処には彼女の意思が残されていた。
「しかし実感として生きていても時間は止まらないのでね。―――気まぐれに迷い込んだ愚かな人間を助けてみたが、失敗だったのかも知れないと思い始めた」
「…いや感謝はしてるんだけど」
「あたしは生き長らえる。それは君が老いて死ぬよりも先々に続く話だよ。君が半生を振り返りつつ多くの後悔と僅かな幸福をかみ締めて老衰する頃に、恐らくあたしは今と変わらぬままだ。
不毛だと思うよ、まったく。本来在り得ぬ轍ならば、あたしがこの街に留まり続ける理由なんて何一つ無い。気まぐれに気まぐれを重ね、そうして何も残らないだろう?」
「………」
彼女の視線は虚空に向けられている。だから妨げられない。それを妨げるべき理由が無い。吐き出される言葉だけをただ受け止め。
「結局あたしはどこかで君と関わったところで何ら益がないことを理解していた。その理屈の正当性は、よく理解も出来る。いずれ老いて死ぬただの一人の人間よ、あたしはいつ立ち去ればいい?」
視線が交わる。燃え尽きつつある煙草をこちらへと咥えさせ、彼女は独り立ち上がった。夜空へと羽ばたこうというのか。いつかの記憶を手繰り寄せるようにして彼女の飛翔する姿を思い出す。
追いかけても届くまい。掴むことが出来た冷たい手は、恐らく得がたいものだった。
「イヴリーズ。ちょっと昔話を聞いてくれないか」
「―――いいよ」
交わすべき視線はなく彼女の横顔を見ながら、クロスは携帯灰皿に吸殻を突っ込んだ。煙の余韻を愉しむこともなく、重たい会話の為に口を開く。
「今朝の夢のことでもあるんだけどね。―――僕の姉…エルゼは昨日話したとおり、優秀すぎる人物だった。この国に渡ってからも学び舎、政界、人生に在るべき分野において主席を指定したような姉で。…僕とは違いすぎた。背中は遠い空にあって届くとか手を伸ばすとかそんな次元じゃなかったね。
―――劣等感は抱えていた。しかし姉に対する好意もあった。
だから僕自身はそれなりに出来ることをそれなりにこなすだけで、半生過ごしてきたよ。まあ、誇るべくもないし自慢も出来ないが。姉のようになりたいとは思わなかったし、それで満足すべきだったんだろう」
「実に君らしい叙事的な解答だ」
「…まあでも、それなり挫折も経験してきたよ。そりゃ出来の悪い弟だし。ただこんな弟を持つ姉はそれを叱咤もせずに取り込むことを覚えた。―――おかしな話なんだが、何でも出来て何でも得た姉が何も持たない弟さえ欲しがったんだよ。
有体に言えば、僕はもっと昔から既に篭絡されていた。容姿も完璧に備えた姉にとっては、身体一つで僕を絡め取るのは容易だっただろうね」
ただ、それ自体には逆らえずに。
それだけを付け加えてクロスは言葉を切る。
「僕自身は自由な意思で自分の将来を刻んできたんだと思っていたが。それもどこまで正しかったのか疑わしいと最近思うようになった。姉と身体を重ね、意識すら絡め取られて実際に自分の意思があったのかどうか。…こうして今、魔術師なんて変な肩書きのコトをやってるけど、それすら姉の手管のようで」
「―――成る程、君の無意識はそういうところから来ているのか」
「…何が?」
「いや、続けてくれ」
「―――んー。まあそれくらいの昔話なんだけども。ここ数年は会うことも稀だったが…若い頃に散々刻み込まれた記憶がどうにも厄介で消えてくれない。それこそ、夢にすら現れるようにさ」
「姉を憎むようになったか?」
問われ、首を横に振る。そんな感情は微塵も無い。
「ただ、数少ない自分の意思すら飲まれたような感覚だけが残ってね。希薄と言えばいいのかな。
―――砂漠で死にかけて、変な悪魔に縋ったのは。考えてみれば現実味のない話のくせに実感のある出来事でもあったと思うよ」
「―――ああ。突然汚い人間が転がり込んできてな。挨拶と入室の順番が違うだろうと思ったもんだよ」
「なんとふてぶてしい小娘が何でこんなところにと思ったけどねえ」
互いに笑う。思えば邂逅を果たしてから既に一年近くになろうとしている。名無し娘にとってさしたる時間ではなかろうが、それでも住み慣れた砂漠から離れてこの街で暮らしたことは一つの変化に違いあるまい。
それは彼女にとって喜ばしくない変化。
それはクロスにとって喜ばしい変化。
「真新しい出来事が新鮮なんだろうね。お陰でこの一年、なんとも健全に過ごせた気がするよ」
「外界に触れることは自身の発見でもある。健全な嗜好だな」
「いや君が言っても説得力皆無だけどね」
「…それで?姉との関係を断つつもりなのか?」
「―――あー、どうだろうな。しかし操り人形程度に成り下がったところでそれが何時まで続くものか判ったものでもないし。互いに老いていくのは変わらない。自分を維持するってのに苦労するのも変な話なんだけど」
「―――そうだな」
自身を捨て去ろうとした虚構の悪魔がその言葉に頷く。
「イヴリーズ。君が言ったように、恐らくあの砂漠の廃墟で出会わなければ僕は既に死んでいただろう。だから、今此処に居るのは君という延命措置によって成り立つものだ」
「うん」
「だからなのかね、なんというか」
ここまで生き長らえたことを。
「僕がうなされて目覚めたら君が居たことを」
帰途に居た自分を出迎えたその影を。
「そこに他人の意思が介在するなんて思いたくはないんだ」
得がたいものが其処にあることにただ感謝しつつ。クロスはそんな感情を抱えるに至ったことについては何ら不思議に思わなかった。
「君の命を拾い上げたのはあたしの気まぐれだよ。誰の意思があったわけでもないさ」
「うん、だからそれに感謝してる。一度救われた命―――あ、いや。一度どころじゃないんだけども。
―――僕が老いて君が変わらないならそれでもいいし。今後も気まぐれるなら、僕がくたばるのを見届けて欲しい」
その言葉を言い終えて、名無し娘は珍しく目を丸くしていた。が、それも刹那的であってすぐに哄笑に変わる。
「あははははははははは!馬鹿か君は、回りくどい口説き方にも程があるぞ」
「―――あ、いや。だってそのまま砂漠に帰りそうだったじゃないか、今」
「独り置いていかれる子供か、それは。はははははっ、まったく、本当に斬首されるまで自分の愚かさに気付かないつもりだな!」
その笑顔は至極愉快そうに綻びる。クロスからそのような言葉を聞きだせたことが余程以外だったのだろうか。
「結局それでは伴侶と変わらぬよ、クロス君。あたしにどんな役回りを期待しているのかね?」
「…うーん、煙草咥えてるイメージしかないんだけど」
「つまらない感情にあたしを巻き込むなと言っただろう?結局君は人間として生きることが出来る、それは生殖できるということだ。何なら、相手が姉であっても構いはしない。歴史を生め、人間。あたしと関わったところで君とあたしと双方になんの益もないのさ」
「―――それは諦観?」
「都合のいい世界に対する処世術だ。気まぐれで延命できたことくらいで感謝を止めておくべきなんだよ、クロス君。あたしを手元に留めてどうしようと云う?」
「…さあ。何しろ気まぐれで今に至ったもので」
夜空の背景に溶け込むようにして佇む彼女の姿はどうしようもなくおぼろげで。例えその形が近づこうと何も感じはしない。
冷たい手の平。何度かその体温を感じることはあったが、それが彼女から差し向けられることは珍しい出来事だ。細い腕から伸びる手がクロスの首先に触れ、体温を奪われるように、その下に辿る血流を押さえつけられる。
「気まぐれに君を食い殺したとしても、その答えは変わらないのか?」
「…うーん、そういや悪魔だしなあ。それでも変わらないものもあるんだけど」
「ほう?それは?」
「君が僕の死期を見届けるという意味では」
「―――思い上がるな人間」
彼女の髪と呼吸が触れるほどに近づいていながら、彼女の視線は交わることがない。その視線も表情もクロスを見ることは無く、名無し娘は掴んだ首筋に爪を立てるようにして力む。
それは彼女が悪魔たる本領には程遠い。クロスを斬首する程度のことなど造作もないことで、彼を喰らうことなど同様に容易い筈。
だから、この爪の痛みは恐らく慟哭に過ぎなかった。
「あたしに止まり木など必要ない」
その言葉を答えとするように。彼女の姿は確かなものとして眼前に在る。
「本当に、無作法だ。クロス君、お前のような奴は悔やむまでしばき倒してやる」
殺されようとも生かされようとも。今の自分は彼女が居なければ存在し得ないことが事実ならば。それも悪くないのだろう。
クロスは自答する。悔やみたくなるほどにこの悪魔にいびられ続けて疲れて死ぬとして。笑って死ねるならば。それはある意味では望んだ結末であると思うのだ。
それは幸福と云う。
「―――帰ろうか、イヴリーズ」
掴んだ手はやはり冷たく、だがクロスを死に至らしめることも振り払って遠ざかることもなかった。
日暮れ時に喧騒を離れ、プレシアが対面したのは上司にあたる人物だった。
ナインセインツという部隊が発足されたのは数世紀も昔のことだと聞いている。その確固たり得ない歴史にはさほど興味は無く、ただ世襲制ではない精鋭部隊において現部隊長は最年少という人物だった。
尋常ならざる部隊において異常の人員。彼女よりも一回り若い部隊長は、背後に侍る一人の男を意識せずに読書に耽っていた。
「ご苦労様、プレシア」
「報告は先刻申し上げたとおりですよ。面倒なことに巻き込まれちゃいましたね」
微笑して迎え入れる人影は小柄な少女だった。貴族の洋館のように煌びやかでなおかつ古めかしいこの一室において、目劣りしないような品格を持ち合わせてはいるが。
歳相応の娘ではない。その評価をプレシアは初対面の頃から持ち合わせてはいるが、それは決して相成れないという意味ではなかった。寧ろ彼女はこの部隊長に対して好感を抱いている。
「聖杯移送。それに伴う結合儀式。まあ、どれをとってもセインツには何ら関わりの無い仕事ではあるわね」
「背後関係は調べたんでしょう?」
プレシアの問いかけに、部隊長は頷きながらも答えを示した。渡されたファイルには容疑者と思しき人物たちが記されている。
「SBSが動いている。軍部にこの作戦内容の詳細を知る者は居なかった。指示を出せるとなれば背広組でしょうね。あらかた目星はつけたから、後は情報の裏づけとそれを適正な人物へリークさせるだけ」
「―――用意周到ですねえ」
相槌を打ちつつも、プレシアはそのファイルのレポートを目で追った。情報の裏づけ、と部隊長は言うがここまで特定できていれば後は実行あるのみではないのか。
「…わたしたちに指示を与えた官僚に敵意を抱くつもりはないけれど。結果的に国内において同胞の血を流す茶番を演じさせたわけだし。それ相応の制裁を加えるつもりよ」
「聖杯の情報を握った上でわたしたちが移送するまで待っていたのは、やはり情報不足が原因でしょうか?」
「恐らくは。イングランドということまでしか所在を特定できなかったのでしょう。先立って起こったマリエンベルグ修道会からの恐喝に関しても同じことが言えるわね」
部隊長の分析は概ね正しい。プレシア自身もそれなりに推測をしてはいたが、それに裏付けられる分析結果である。
「中途半端な情報網ながらも、イングランドの封印聖杯にまで行き着いた人物。数日中には十字架の下で眠ってもらうことにするわね」
「ラヴェルナ。その情報なんですけれど」
プレシアが口を挟む。
「結果を出す前にアスガルドへリークさせたいのですけれど」
「…アスガルドへ?さては聖杯移送に使った人物?」
「はい。魔術師としては平均的なレベルと思いますが。マリエンベルグの一件を解決した人物です。今回の一件についても必要上、聖杯について知ったわけですし」
「―――何か思うところがあるのね?」
「ええ。成行きによっては、わたしたちセインツがまったく手を下すことなく解決するかもしれません」
「…まあ、どのみち官僚組に任せるつもりだったからいいけど…そうね、それじゃあ貴女に一任するわ」
「はい」
プレシアの手にあるファイルは既に閉じられている。出来ることならば、この中身の情報は誰の目にもつくことなく焼却されるべきものだ。
ただ、それは一人の男とその同居人を動かしてからである。プレシアは一つの決意と共に退室して策謀を実行に移した。
ブリクストンの夜道に、決して良い治安ではないところを二人の影が通り過ぎる。
名無し娘は普段ならば翼一つで飛んでいくところを黙って歩いていた。付き添うといえばそうなのだが、この無言から伺えるのは煙草をきらした彼女の不機嫌さであろう。
そう思っていたのだが、不思議と表情に陰りはなかった。横目で伺うクロスはそれ以上の詮索をせず、帰路を急ぐ。
夜のブリクストンは平穏とは呼べないが、それでも人間が起こすいざこざに名無し娘が屈する道理も無い。そんな身勝手な安心感を抱きつつ、辺りを伺った。
ヘリが上空を飛んでいる。灯したライトは彼ら二人をかすめることすらなく通り過ぎて行った。
「―――クロス君」
呼ばれて、振り返る。名無し娘は立ち止まっていた。
「…ん?」
「すまないがちょっと確認したいことがある」
「なにさ?突然」
「誰かの恨みを買ったような覚えはあるか?」
名無し娘はその双眸をこちらに向けながらも、クロスを見ていなかった。その目線を確信して、戸惑いながらも首を横に振る。
「―――ならば、こんな夜更けに誰かに襲われるようなことがあるとすれば、それはあたしの所為なのか」
―――何が?と問いかけるときには遅かった。
翼の開放。名無し娘の背に煌びやかな翼が現れる。それが彼女の力の源流であることをクロスは思い知っていたが。
目に付いたと思ったときには、彼女はクロスに突進してきていた。
「―――ちょ」
息が詰まる。吹き飛ばされたかと思った矢先、彼女はクロスを抱えたまま数メートルほど跳躍していた。その刹那。
輝かしいと呼ぶには遠すぎる、そんな白い閃光が通り過ぎた。
「―――な、にが」
「襲撃者だろうね。さて、あたし目当てか。人間は身の程知らずの愚か者が多くて困る」
憎まれ口を叩きながらも、彼女がクロスを庇って行動したのだということは知れた。跳躍した場所は建物の影になった路地裏であり先ほどの閃光とは射線がずれている。
「セインツは君に対して不可侵だと言ってくれたが。別の部隊があったのか」
それにしてはあの白い閃光。一本のサーチライトを向ければあのような光景が見れたかもしれない。だがそれにしてはあまりにもはっきりとした光の束であり、そして不可解な武器だった。
一定の熱量を保った衝撃波。原理は判らないが、クロスはそう分析する。その分析が正しいとすれば、恐らく魔術かそれに関する武装ではないか。
「そうか、あのバケモノ女の部隊ではないなら苦労はしない。クロス君、連中の目当てがあたしなら君を深追いすることはないさ。少し隠れているといい」
「ちょっと待った、相手も判らな―――」
クロスの言葉が途切れる。
名無し娘はその冷たい指先をクロスの額に添えていた。視線を投げかけながら、笑う。
「憎たらしい君の臓腑を抉り取るような役割はあたしのものだ。悪いが他の連中に譲るつもりも無いのでね、勝手に戦わせてもらう」
それからの彼女は振り向きもしない。虚構の悪魔として、翼を開放した。
その背中が夜空へと舞い上がるのを見届けてもなお、クロスはその場から動けなかった。
我ながら似つかわしくない言葉を吐いたものだ。
胸中で笑う彼女はしかし愉快な気分で夜空を駆っていた。邪魔するものは何も無い。空にあってなお狙う敵の射撃は正確ですらなく、虚空に消えていった。
白い閃光。彼女からしてもどのような武装なのか術なのか知りえないが、どうということはない。敵の攻撃手段はこれだけであり彼女を狙い撃つつもりだ。閃光は一直線に飛び、次弾までにおよそ五秒ほど必要としている。
これが今の段階で知りえる敵の情報。それを確かめながら、名無し娘は敵との距離を詰めた。
再び通り過ぎる閃光。だが発射地点を特定するのは宵闇にあっても難しくは無い。クロスの住居であるアパートと同様の建物。その屋上に相手は居る。
射線から考えれば先ほどまでクロスと彼女二人が歩いていた場所を狙い撃てるポジションでもある。場所は間違い在るまい。
投げかけた視線の先に、人影を視認した。
「―――独りか」
屋上に確認できる人物はただ一人だ。両腕で何かを振り上げるようにする動作を見て取れる。
その直後―――あの閃光が再び放たれた。
空にある彼女にしてみればそれを回避することは容易い。一気に距離を詰めた。
相手からしてみれば、どういう心境だろうか。夜空に舞う敵影を狙い撃たんとしていたが、その敵が急降下で迫ってくるのだから。
名無し娘の攻撃が命中するまでの時間は僅か。襲撃者の白い閃光が放たれるまでは五秒。その合間に、彼女の翼による一閃が相手の首を薙げば全てが収まる。
だが、そこに僅かな誤算が生じた。
襲撃者は射撃までのタイムラグを三秒に抑えて彼女を迎え撃ったのである。眼前まで迫ろうかという勢いで飛翔していた名無し娘は意表を突かれて失速した。
辛うじて閃光の回避には成功する。しかし同時に攻撃のタイミングを失った。放たれた翼の一撃は標的の首には至らず、胴体をひと薙ぎする程度に収まる。
―――致命傷ではない。
手ごたえからその結果を判断した名無し娘は再び上空へと離脱した。致命傷には至らずとも深い切り傷を負った襲撃者は、しかし苦しみながらも敵意を消してはいない。
再び閃光が放たれる。上空で反転する名無し娘の髪を掠めて通り過ぎた。一直線に降りるのは危険と判断してゆっくりとロールした状態から標的に向かう。
やはり怪我の所為か、次弾までの時間が先ほどよりも延びている。好機ではあった。一撃必殺を凌がれようと、この状態で彼女に敵う道理は無い。
だからこそ意外だった。襲撃者はなんの躊躇いも無く屋上から飛び降りたからである。
「―――思い切りの良い」
やや斜めの角度から襲い掛かった名無し娘からは建物が死角になって襲撃者の姿を見失った。だが問題ない、上空にあるということこそが彼女の強みだ。そのまま飛翔して地上に降りた標的を追い詰める。
建物の影を通り過ぎて飛び降りた襲撃者を視認する。それと同時に、閃光が放たれた。だが今度のそれは予測できた一撃であるが故に難なく回避する。
地上に居る襲撃者を護るものは何も無く、放たれた一撃は名無し娘を手負いにすることもない。勢いをつけて降下する彼女を止めるものは何も無くなった。
追い詰めた。ただそれだけを確信して彼女は一気に襲い掛かり翼を放つ。
異形の武装を持つ者は、しかしあっけなく首を飛ばされ。人気の無い路地裏にその鮮血を散らせた。
(名無し娘の所在とか正体とか知りえる人物なんてそう居ない筈なんだけどな)
自問するが解答は得られず、クロスはとりあえず走って名無し娘を追いかけていた。危険があるとは知りながらも、あのまま身を潜めているのは耐えられなかった。
名無し娘が自身で言ったように、彼女を討伐することを目当てとして襲い掛かったとするならば。彼女が悪魔であることを誰が何処で知ったのか。
疑問は確認すべきことだ。相手の正体が何であれ、彼女が勝利すれば多少の情報は得られよう。
慣れ親しんだ街並みを駆け足で通り過ぎ、人気の無い路地裏のさらに奥へと進む。上空に彼女の姿を確認したが、すぐに降下して見えなくなったからだ。
クロスとて警戒はしている。命の危険に晒されることなど何度と無くあったこと。懐に忍ばせた武器をいつでも取り出せる状態にして、先を急いだ。
そして、少し開いた路地裏の先に名無し娘が居る。彼女の足元には―――あえて確認するまでも無い、人間の死体が転がっていた。死後数分も経っていないだろう、鮮血の臭いが漂ってきそうである。
奥の路地はやや開いた場所で彼女はその中心に居た。背後を振り向いて、クロスに気付いた彼女はその表情を穏やかなものと変えた。
隠れていろと言ったのにしゃしゃり出てきたことについて呆れているのか。だとしても問題あるまい。彼女が落ち着いているのであれば脅威は去ったのだから。
足を進める。駆け足でも問題なくクロスと名無し娘は視線を交わらせた。
クロスは視界に入らない。
名無しはクロスを見ていた。
故にその反応にクロスは理解を示せなかった。瞬時に判断するにはあまりにも唐突であり、それは名無し娘にとっても同様であっただろう。
ただ、彼女が唐突に背後を振り向いてクロスに背を向けて。
その刹那、通り過ぎる白い閃光は確実に名無し娘の左腕を吹き飛ばしていた。
闇夜に舞う鮮血の色が判らずとも、彼女が傷を負ったことは理解出来る。
命の音が聞こえなくとも命の鼓動が常に傍にあるように。
虚構であったとしても確かに生きているイヴリーズは。
白い閃光の切っ先に身体を晒していた。




