04-アイリッシュファンタジア
類稀な力というものは、果たして本当に稀なものだろうか?
例えば湖の上を歩いてみせる程の奇跡があったとして、その偉業は誰にも分かりやすい形としてしか伝わらない。理解することが第一の前提でありその理解があってこそ周囲の人間は偉業を知る。
分かり辛ければ何も得ず、ましてや自ずから知ろうとは思わないだろう。周囲の人間が日々の生活に埋没し、偉人に対して興味を抱かなければ物語はそこで終わるのだ。
しかし、分かりやすい形で誰の目にも偉業と映るならば。それはまさに類稀な力として称えられ偉業と称されるに相応しい。
評価を下すのは他人である。
如何に修行を積んだとて名の知れぬ高僧は名無しのまま果てるのが道理。
もし高僧に出世欲があるならば修行の果てに身に着けた奇跡を実践するだけで事足りる。
世捨て人となったならば世間は彼に希望通りの境遇を与えるだろう。
だからこそ偉業とは。誰しもが傾注するものでなければならず。誰しもが納得し得る状況で正確に理解に努めなければならない。世に伝えられる多くの偉人たちは後世に名を残した事実を裏付けるように、他人が理解の及ぶ偉業を達成できた人間だ。
その概念は未だ消えず。
他人が評価した偉業とやらの産物は偉人の思惑とは何ら関わりのないところでも動き続ける。あるときは国が滅ぶ程の金銀に変わり。あるときは殺戮の動機と成り果てた。
或いは、兵器として。
だから彼女は笑う。人が生み出したものなど所詮は人を生かすことと殺すことしか出来ないのだと。
―――本が閉じられる。
群れることも殺すことも適わず、彼の成果は何処へ向かうのだろう。
死すことも生きることも適わず、彼は何処の墓標で眠るのだろう。
それは名無しの荒野を辿る。数多の人間が導く数え歌。
捨てることも忘れることも適わず、彼らはナニを求めるのだろう。
「よう、クロス」
入り口で待ち受けた同僚はこちらに向かって軽く手を振った。質素な私服を好むようだが、長身な為か似合うものを選んだように見受けられる。
頻繁に仕事を共にしてそれなりに親交のある男だが、風変わりなところもあった。
「おはよう、シリル。なんかブランデルに呼び出されたんだけど」
「おう、俺も同じさ。まさか俺とクロスの仲を仲介しようってわけでもないと思うがな」
この眼鏡が同性愛者で、自分が好かれているという事実は、とりあえず置いておくことにする。
そもそも彼にとっての宗教観からそんな奇行に走るとも思えなかったのだが、そのあたりは彼らしく簡潔に答えをまとめた。曰く、愛は神を超える。
やや頭痛がする。そんな思惑をさて置いて、仕事仲間としての彼らは概ね問題なかった。シリルは性格こそ大雑把だが仕事は性格で記憶力も良い。クロスがこの殺伐とした職場で頼れる数少ない人間でもある。
彼ら二人は今、博物館に居た。といっても一般客と同様に盗掘同然で持ち帰った展示品を眺める趣味はなく、寧ろ彼らのお役目はそれら展示品に絡んでくるものだった。
博物館の外周から裏手に抜け、小さい事務錬を訪れる。職員しか用のない一画の、さらに奥である。大の男二人が平日の朝方にこんな場所を訪れているのだがさして不審に思う人間は誰も居なかった。
ここの警備員たちは直接関わりが無くとも、この博物館が表向きな展示施設だけではないことを承知していた。
その認識は理解ではない。だからこそクロス達も彼らに挨拶を交わすことはなく、不干渉を保ったままで事務錬を移動した。
やがて辿り着いた奥の部屋で、先頭を歩いていたシリルがノックする。入室の許可はすぐに下りた。
「失礼しまっす。クロスも一緒です」
「おはようございます」
「うむ、お早う。まずは掛けてくれ」
部屋は応接室のような作りをしているが、どちらかと言えば書斎と呼べるだろうか。個人的なデスクにしては機能的過ぎ、生活を営むにしては質素過ぎた。
その部屋に用意されているソファーに腰掛けるよう促され、二人はそれに従った。部屋の主は気難しい面持ちのままデスクワークをこなしている。
何も不機嫌なわけではなかろう。アイバー・ブランデルが元より気難しい顔の持ち主であることは承知していた。
「―――すまないな、朝から立て込んでいた。まずはこの資料を見てくれ」
シリルが手渡された資料を受け取る。クリップ止めされた束はさほど頁数があるわけでもないが、厄介な代物と見受けることができた。それは彼らが所属する組織が記したものではなかったからだ。
「なんスかこりゃ。『コーンウォールの封印解除』とは」
「…アスガルドの書類じゃないですね」
「そういうことだ。私としても昨夜から頭痛が治まらんよ」
そう言って、ブランデルは煙草を一本取り出して火をつけた。二人にも勧められたが遠慮しておく。
咥えたロスマンズの煙を漂わせ、さらになお嘆息した。
「…寝てないんですか」
「ああ、寝ていない」
「最近はそういう厄介な仕事も多いですね」
「仕事が怖いのではない。帰宅できずにいる状況に対する妻の小言が怖いのだ」
それは既婚者らしい悩みだが、どうやら酒を嗜めない夜に対する愚痴でもあるらしい。妻の小言を聞き流す間にハーフボトルを空けるというのがブランデルの口癖だった。
「まあ私の私生活などどうでもよかろう。本題に入る。君たち二人は我がアスガルドにおいて、特に派閥争いに巻き込まれることのないフリーの人材だ」
「まぁそうっスね」
「それに関しては、間違いなく」
彼ら二人は面倒な人付き合いを避ける傾向にあった。組織としては孤立しやすい状態にあるが直接の上司であるブランデルとの関係は良好であると言って良い。
「そこで君たちを選抜した。今回の仕事についてのあらましを説明しておこう。君たちも聖杯については知っているな?」
「アルトリウスっスか?」
「聖人の血を受けたアレですか」
シリルとクロスが違った見解を示したが、それらは同時に正しい意見でもあった。聖杯は聖遺物として扱われるものであり、彼の聖人の血を受けた杯として知られている。
人類の王の筆頭候補。そんな偉人の血を受けたとあらば間違いなく信仰の頂点にあるべき遺物であり、とんでもない概念法論を伴うことになる。
「その聖杯の封印を解く。その上で保管場所を変えるとのことだ。どうもこれまでの封印場所が危ぶまれているらしい」
「…封印て、まさか本物の聖杯などあったんですか?」
現存する聖杯はいくつか存在する。それも真作だと考えうるものはごく僅かだが、幾つも点在しているのだ。
そのうちのどれが本物か。答える人間が居る訳もなし。
「そうだ。私としても半信半疑だが、その聖杯がコーンウォールに封印されている。君たちはその封を解き移送する作業を補佐することだ。そして、作業上知りえた情報は口外せぬほうが良かろう」
「―――あのう」
クロスが質問を投げかける。ブランデルですら狼狽するこの事態は、いや困惑と言うべき事態。アスガルドでない指令書は、
「これは、どこからの指示ですか?」
「―――ナインセインツだ」
人類が火を掲げ鉄で武装し幾年か。
幾らかの文明は彼らを守護しうる城壁になり得たが、それでも人々は何かに恐怖する。
人間とは怖がりなものだ、と誰かが笑った。それも事実だろう。だが人ではない何かがこの文明の最中に入り込み悪行を働くことも事実である。
些細な悪戯に始まり。
悪夢で締め上げ。
誰かを淫らに誘い。
嬲っては死に至らしめる。
悪魔だと、誰かは囁く。理解できぬ闇に対処するには、名前を付ける他なく。
そんな名前とは別段関係なく、悪魔と呼ばれた其れは悪魔らしく振舞った。
幾年か。幾度となく何処の土地だろうと黒い影は消えることが無く。それらが人々の安寧に害なすならば駆除すべきという猛者たちも現れる。
そして、その武勇は頂点に達した。
教会が悪魔祓いという意味合いでの祓除組織を構えてから千年以上後のこと。悪魔と呼ばれる異形に大して非力でしかない人間が人間として振舞うべくその力を輝かせ続ける、祓除の精鋭部隊。
九人の猛者たちを、ナインセインツと呼んだ。
「…セインツからの指示書」
ロンドンの、特にビッグベンの権力を同列で行使できる祓除部隊であるが。その構成員は謎に包まれたままで特に世に知られることはない。
それでも、その異常な部隊は憶測の部分も含めて様々な噂で知られていた。
アスガルドもまたビッグベンの後援によって成り立つ魔術師相互補助の組織であるが、それら魔術師たちの研究成果がセインツに貢献しているのではという見方もあった。
どのみち、魔術と謳ってみても結局彼らは世の中から逸れた学者風情である。そんな研究成果をセインツが欲するとも思えなかったが。
だからと言って、セインツの独自性と絶対性は揺るがない。彼らが何らかの悪魔を狩るというのなら必ず成果を上げるだろう。
「…ということは、何かしら悪魔に関わるものと?」
「そういうわけではないらしいがな。この真実の聖杯とやらを封印するように指示したのはビッグベンのとあるトップだ。何代も前の人物だが。しかし、何代か前のセインツを実行員にしたことで聖杯の機密性は保たれたというころだろう。ロンドンでさえ五人とその在り処を知らなかった伝説だ」
「―――それを今になって蒸し返そうとは…?」
「その点についての詳細は聞いていないが、政治的思惑が働いているようだ。だからこそ派閥の目がない君たちを指名した」
アスガルドが所詮、権力とは無縁の組織とはいえビッグベンと繋がる人物も居るだろう。あくまで聖杯の機密性を保ちたいという思惑か。
「それで、僕とシリルがコーンウォールまで行けばいいんですか?」
「いや、セインツの一人と行動を共にしてもらう。明日の朝、指定の場所まで行けば名高いセインツと面会ということだ」
それはさして身に余る光栄ということもない。だが外部からの指示によって動くことは稀である。クロスにとっても厄介な一件となりそうだった。
一心不乱に資料を読みふけっているシリルにとってもそれは同じだろう。ブランデルとの会話が面倒というわけではなく、今の彼は資料を丸暗記している最中だった。
コーンウォール。イングランド最西端の地である。
結局、明日の出張に備えての準備を行った上で今日の仕事は事務整理だけで済んだ。クロスにとっては楽なほうの仕事に分類されるが、それも明日からの日程を思えば一喜一憂していられることではない。
かくして、日暮れ時にアパートへと戻ることが出来たクロスは螺旋階段を登って自室へと辿り着いた。疲労感はないのだが、足取りは軽くない。
「…ただいま」
部屋に入って、窓辺で煙草を咥えている娘に声をかける。奇妙な因縁から同居するに至った人物であるが、その対応は素っ気無いものだ。
「―――クロス君、今日はまた随分と張りがないな」
「ちょっとね。明日から出張さ。国内だけど。…面倒な仕事になりそうだよ」
荷物を部屋に放り投げておき、くつろげる状態で適当にソファーを陣取った。娘から煙草を一本貰い、火をつける。
「君の性分も大したものだね。それで、今回はどんな厄介ごとを引き当てたのかな?」
夕闇に紛れて微笑む金髪の娘は、それだけで人にはない中性的な綺麗さを醸し出した。見た目、二十に届かぬような容貌では美しいと形容するに足らぬものがあるが。そもそもこの娘は人間ではないのだし。
「君に会ってからそんなことばっかりだけどねぇ」
クロスが中東で仕事をこなしていた際に出会ったのは、人の形をした悪魔であり。奇妙な出会いから親睦を深めたのか、なし崩しにこうして共に暮らすように至って半年ほどが過ぎていた。
悪魔。そういう言葉が当てはまるほど娘は人間離れしていた。飛翔することなど当たり前であるし、人間くらい容易く屠る。
それでも無闇な殺戮を好まないあたりが、クロスの部屋に居座っている彼女の状態を表していた。名前を捨てて世を捨てた彼女は、暮らす場所など何処でもよかったのだ。
そしてその思惑は、なんとなしにこの悪魔を話し相手にしてみたいと思ったクロスには丁度良いものだった。
今日もまた、仕事内容について軽く話してみる。名無し娘とて興味本位で話を振ったのだろうし、会話そのものにはさして意味が無い。
恐らく何らかの暇つぶしか。ささやかな談笑。
「聖杯」
「そう、偉い人の晩餐に使っただの血を受けただのと言われてる遺物だよ。興味ないだろ?」
「まったく無い」
「…だろうね」
「しかし、そういったものは君らが好みそうな遺物ではあるんだろうな?そんな概念法論はそうそうあるものでもないだろう」
「うん。教義という意味でも重要度は高すぎる。一体どんな思惑が絡んでこの仕事が回ってきたのか分からないけど」
それは雲の上の話だ。真実定かならぬ聖杯伝説が政治的カードに成り得るというのも滑稽な話だが、教会ならその話を見逃すまい。
「―――さて、適当に夕飯済ませますかねぇ。食べる?」
「いや結構だ」
辞退する名無し娘のことは考えずに済むということで、クロスは食べれそうなものを探した。さして食欲の沸くメニューでもなかろうが、簡単に済ませることにする。
戸棚を漁っていたところで、折角ならばお茶だけでも入れていくかと思い立ってお湯を沸かす。名無し娘のような怠け者でも茶の味は認めてくれているらしい。
「―――クロス君」
「ん?」
「ちょっと有耶無耶になりそうだったが、その聖杯とやらを封じた部隊」
「あぁ、セインツだ」
「うん。祓除部隊とするとあたしらのような者と戦うことが仕事だろうけど、そんな作業に繰り出したのは何故だろうね」
「…さあ?ただセインツは存在自体が霧隠れしててね。聖杯の機密性を保つための実行部隊としてセインツが起用されたんじゃないかと」
「そうすると聖杯とやらを表立って飾り立てることは出来なかったわけだ」
そう言われ、名無し娘の考察を反芻する。やましい遺物ではないのだから隠す必要性は感じられないように思えるのも確かだった。ただ、教会のような組織には交渉カードにも成りえるわけで、それを抱え込むことも必要だったのか。
しかし、それを命令したのはビッグベンの―――つまり政治家ないし官僚ということになるが。
「厄介事に好かれているようだな、クロス君」
「…なんでだよ。確かにヘンな仕事だけど以前のように悪魔退治なんかしないし」
「見えない思惑に振り回されることはそれ以上に危険だ。状況を把握できていないにも関わらず懐に引き込まれている」
「…なんか陰謀があるってことかい?」
「人間たちの思惑は知ったことではないがね。あたしが気になったのはそのセインツとやらが実行員になっているあたりだ。そう考えれば、恐らく聖杯は疎まれたのだろう」
「…?疎まれたって、」
名無し娘は答えない。その沈黙は、回答を渋っているというより確証を持てずにいるといったように見受けられた。もとより主体性のない人物だ。彼女が答えに窮したところで行き詰る話でもない。
とはいえ、答えようの無い言葉というものが新鮮だが。
「―――クロス君、あたしにもその不味い食事を振舞ってくれるか」
唐突に話が巻き戻り、クロスは食事を所望されたことを理解するのに時間を要した。
「…え?それは構わないけど…どうしたんだよ」
「あたしも付き合おう。聖杯とやらを見届ける」
「………は?」
「しばしここを離れることになりそうだし、今のうちに味わっておくのも悪くないだろう?」
付き合おう、とは共にコーンウォールまで来るということなのか。それこそ理解しがたい。何事にも興味をそそられることのない名無し娘である。例えこの国が核戦争でも引き起こそうが平然と出て行くだろう。
「…どういうこと?」
「言った筈だよクロス君、一度厄介事を引き入れた者は死ぬまで厄介者だ。折角得た屋根くらい世話するのも必要だろう」
この部屋の、主であるクロスの護衛をしようと。名無し娘はそう言っている。
そんなことを口にしながらも彼女の表情はまるで変わらない。得がたい屋根ならばもう少し感慨深くあってもいいだろうに。たまたま訪れた此処にもう少し居座ろうという、それだけの思惑なのか。
揺れる紫煙に答えは無く、無表情のままの名無し娘がこちらを見返した。
「―――意外か?」
「いや、まぁね」
「この正直者。もう少し素直に感謝してみせろ」
「君だってもう少しくらい謙虚になってくれよな。イヴリーズ」
今となっては、その名を呼ぶ人間などクロスくらいなものだろう。それすら何の感慨もなくただ過ぎ去っていく言葉だ。名に意味もなく、故に名は無い。
だがこの悪魔には意味があった。名も忘れ去られたような状態で砂漠を放浪し、得られるか定かではない答えを求めるはぐれ者。
今はその姿を由々しく思う。気まぐれではない彼女の行動にただ従うだけで。クロスはその姿を頼もしく思えた。
乾いた風に打たれながら夜明けの空を見るたびに、夜を越えたのだと実感する。そのことに何ら意味はない。感じ取ることがなくとも日は巡り夜は明ける。ただこうして世界がその姿を保ったまま闇夜を抜けたのだと思えば、今ある朝日もまた得難いと呼べなくはない。
ロンドンを二分するテムズ河はその静かな流れとは裏腹に冷たさを宿す時節になっているらしい。無論、河に飛び込んで体温を奪われたわけではないが季節は日中の温度を閉じる時期になってきている。やがて雪も降るだろう。
それでもこの土地が比較的過ごしやすく肥沃で温暖なものだと思えばこの寒気はどうということのないものだった。さらに北にて生活する者も居る。古い時代からこのあたりの島々や海域は凍らぬ海を求めて争ったのだ。
そういう意味でイングランドは豊かな土地だった。誰かが攻めずともここに国は興ったであろうしロンドンも建っただろう。テムズ河の両岸に並ぶ街並みは一通りの必然の上に成り立つものだった。
近代の歴史において。その必然を通過した上で完成した制度のもと、セインツという組織もまた必然性に基盤を置いた。
「―――で、待ち合わせの時間なわけだけど」
クロスが呟く。シリルもまた隣に肩を並べているがその時間に気付かなかったわけではない。
悪魔狩りを生業とするセインツは、九人という構成人数に反して各地を飛び回る多忙な部隊であることは聞いているが、この早朝を待ち合わせ時間に指定したのは向こうだった。遅参はあまり考えたくないが。
「―――クロスさぁ」
「なんだよ」
「助手扱いでコイツ連れてくってのはいいのか悪いのか知らねぇけどさ」
シリルが気に留めているのはやはり名無し娘の存在だった。憮然とした佇まいで煙草を咥えているあたりはいつもと何ら変わらぬ彼女だが。
「相席するのがセインツじゃ、ちょっとマズいんじゃねーか」
「分かってるよ。悪魔ということは控えておくさ」
「バレなきゃいーけどな…ってまぁ俺としちゃ害虫が一匹減るんでいいけど」
「ほう、最近のドブネズミにはあたしを害虫扱いする気概があったか」
…いがみ合うこの二人のことはさておいて。悪魔狩りで知られるセインツの人間に名無し娘の正体を悟られるのは好ましいとは言えない。その危険を冒しても彼女の同伴を許したのは、まぁある種の保険ではある。
砂漠で出会ったときのように、彼女が護衛になってくれれば頼もしいものだ。
とはいえ。
シリル相手に罵りを加える彼女の横顔を眺めながらその姿を再確認する。荒野に討ち捨てられた名無しの魔女。世捨て人となりあらゆる物への関心を無くしたとは本人が言っていたことだ。
事実、クロスの生死など彼女にとってはどうでもいい事柄なのだろう。それも本人が言っていたことであるし。ただこの旅に追従すると申し出た彼女は。
いや、全ては同一の人物であり同一の心象だ。さしたる意味などあろう筈もないし、自分たちは交わらない線上にあるただの同居人である。クロスは心中でそう結論付け、時間を再確認した。
その動作が必要ないことに気付く。人気のない早朝の街外れで一人の女性が近づいてきていた。
女性にしては長身だが、均整のとれた体つきをしている。伸ばした髪が風で揺れるのを押さえながら、しかし表情は穏やかに保っていた。眼鏡越しに見える青い双眸からもそれは伺える。
歳はクロスらとそう離れていないだろう。しかし姿かたちからも垣間見える雰囲気は大人びて、そして儚げでもあった。
「―――お待たせしました」
「いえ、ええと。セインツの方ですか」
澄んだ声色に戸惑いながらクロスが尋ねる。静かに頷き、彼女が名高いセインツの一員であることが確認できた。
「プレシア、とお呼びください。セインツ第九位にあたります」
「クロス・ホーエンローエです。アスガルドでブランデルのもと、遺物調査を担っています。こちらはシリル・マクファーレン。それと、」
「…あれ?確か二人とお聞きしましたが」
「ええ、こっちのは僕の助手で」
「分かりました。さっそくですが移動します。色々と面倒かと思いますが、宜しくお願いしますね」
会釈する。微笑んだプレシアはこちらの助手の存在を疑うこともなく通り過ぎた。問題ないらしいが。
後姿からも、これがセインツの人間とは窺い知れない。何らかの武装を持っていて当然という人間が、ごく普通の市民を装っている。
「―――なんだろう、役割分担でもあるんだろうか」
荒事にならないで済むのならばそれに越したことも無い。そう結論付けてクロス達は彼女の後を追った。
だが特権階級と呼べるセインツは確かにその通りだった。
ヒースロー空港のターミナル5に用意された一機のヘリに乗り込む。民間機ではない。陸軍のものを接収したのだろう。
「―――コレってチートじゃねえ?」
「なんか言った?」
「なんでもねえ」
離陸間際、ローター音に紛れてシリルが呟いていたが。少なくとも軍部へ要請できる程度に特権を備えているのがセインツだった。国内に限ったこととはいえ、随分と出し惜しみをしない性分である。
「ガゼルなんて初めて乗ったぞ。せめぇなオイ。クロスもっと近寄れよ」
「やだ暑苦しい」
「狭いですけど、しばらく辛抱してくださいね」
プレシアは慣れた様子だった。よく見れば操縦士と副操縦士とも顔見知りらしく、程度は分からずとも始めての接収ではないことが伺えるが。
「…にしても、セインツは普段からこういうのを使っているんですか」
「まぁ、そうですね。人目を忍ぶということもありますけれど。協力を仰ぐ場合、一番早く動ける人間は常備軍くらいです」
「確かに早いですが…」
「プレシア女史!ペンザンスまででいいのか?」
操縦士が呼びかける。
「いえ、さらに西へお願いします」
「了解だ。しかし往復できる燃料はないからな、手配頼むぞ」
離陸する。軍用機が離発着するのは問題にならないのかという疑問もあったが。ともあれこの機体ならば列車の旅路よりも早く目的地に到着するだろう。
「プレシアさん。今回の仕事についてですが」
「詳細は聞いていませんか?」
「―――ブランデルが知っている程度の情報しか与えられていません。僕らはそういう立場の人間です」
「では、現地に着いてからお話しましょう」
言いながら、プレシアは鞄から取り出した一冊の本を読み出した。無駄な装丁は無く、年数を感じさせる書物だが何語で書かれているものなのかも分からない。
曇った情報は未だ霧中にあるようで、少なくとも空の旅を終えるまでクロスは向かいに座って不機嫌そうに外を眺めている二人を見ているしかなかった。
コーンウォールの南方、リザード半島モウガンという小さい村がある。避寒地として知られるコーンウォールでも特に暖かい地方だが、実際に足を踏み入れてみるとそれは実感できた。
「来るのは始めてだなぁ」
「クロスは遊び歩いてねーからな。なに、これから俺と忘れられない思い出を、」
「良い田舎だ。枯れない花を愛でる霧の都とは一味違うよね」
「聞いてっかオーイ」
ヘリを国防の施設にて収納させ、後は車の移動となった。交通の便では不便と言わざるを得ない場所であったがクロスの心証は悪くない。ペンザンスに留まるよりは旅に出たという気持ちになる。
昼下がりに迎えたこの村の光景は、河川の清流と丘陵に遮られて一望出来ずに居る。古い建物も目に付くがそれは人気の無いものではなかった。人々の慎ましやかな生活がにじみ出ている。
四人が歩いてた場所はそんな長閑な風景から離れても居ない丘だった。目に付く古びた建物は教会の類が目立ったが、無人となっても形を残す神の家は彼らを咎めることなく迎え入れる。
何時頃に建築されたものだろう。クロスは歴史に疎いわけではないが、少なくともこの教会が近代になって築かれたものではないことは知れた。戦火による傷跡が伺える。
「―――聖杯が封じてあるというのは、ここですか?」
クロスが本題を切り出した。辺りに彼ら以外の人影はない。プレシアとしても何ら憚ることはないだろう。
「そうです。この教会はノルドの王がこの辺りの実権を握った折に建てられたと聞きますが。此処に地下室がありまして」
プレシアが南京錠を外す。極秘のうちに封じられた聖杯にしては杜撰な管理体制だが…それ故にこの放置ぶりは正当であるとも言えた。
忘却によってその存在を葬ることは概念法論を学ぶ魔術師にとっては知れた方法である。
かくして。忘れ去られる筈だった教会の扉が開かれる。神は其処におらずとも、この空気だけは変わらないものかと実感した。
「―――かなり古いですね」
「聖杯の歴史に比べれば浅いものです。イングランドにキリスト布教が本格化するのは後の話ですから」
「まぁ、それは確かに。この教会もそうして建てられたものですか」
頭上を仰ぎ、クロスが嘆息する。
その間も歩みは止めずプレシアが言葉を続けた。
「実は聖杯をこの地に持ち込んだ人間もノルドなんです」
「―――え?」
「というより、彼らは聖杯の重要性にさほど気付いてはいなかったのでしょう。始めはただの遺物として。そして各地を荒らしまわった彼らが行き着いた土地としてここに聖杯が留まったんです」
「…ということは、ここを封印の場所に選んだというわけではなく。たまたまここにあった聖杯をそのまま封じたわけですか」
「そうですね、封印したのも数世紀前の話ですけど」
「…あの、一般的に聖杯というと。現存するものが数点、今日まで保管されてきているわけですが」
「はい、そうです」
「ここの聖杯が機密の上で封印されているのは何故です?」
「…うーん」
クロスの問いかけに対して、プレシアは返答に窮したようだった。聡明さを醸し出す美貌からは想像できないその仕草はどちらかと言えば幼さを感じさせるもので少なからず驚いてしまう。
つまりは。彼女としてもその真意を図りかねるということだろうか。
「まぁそれは実物を見たほうが説明しやすいかと。わたしの主観でしか説明できませんが」
「?というと、貴女も全貌を知っているわけではないのですか」
「本来ならわたしがここに居ること自体が場違いですもの」
微笑みながらそんなことを言う。プレシアはセインツという特別な部署にいながら、その特権はあくまで職務上の必要性に限られるということか。
考えてみれば当然の話だが。悪魔狩りの部隊がここに派遣されるほうが違和感のある話ではある。
彼女はゆっくりと歩いていき、奥の部屋に行き当たる。またも施錠されて塞がれているが、この先が件の地下室とやらだろうか。
「ここが地下室の入り口ですか」
「この部屋は食堂です。地下室はこちらに」
言われ、プレシアの隣に歩み寄る。施錠された扉から僅かに離れた壁に僅かな凹みがあった。一見して、古びた壁が崩れた程度にしか見えないものだったが丁度手で持ち上げるような溝がある。
「持ち上げてください。ぐっ、と」
「…はあ」
溝に手を当てる。そのまま力を込めて思い切り上へと持ち上げたが―――思いのほか軽々と壁が上へスライドした。
「―――なんですかこれは。…石材が空洞になってる」
「分かりやすい隠し部屋だなオイ。クロス、ちょっと待ってろ何かでつっかえさせる」
シリルが駆け出して、奥から椅子を一脚持ち出した。それを扉にあてがって開放させる。かくして、奥に広がる地下室は暗闇ながらも客を招き入れる状態となった。
「…うーん地下室だ」
「地下室だな。こんな程度のトリック、剣で突付いて見つかるってのな」
「…なんの話?とりあえずプレシアさん、明かりはありますか」
「はい」
プレシアから懐中電灯を受け取り、暗がりの中へと降りていく。階段はやや緩やかに、しかし長くなく地下室はさほど深い掘りをしていない。恐らく物置程度にこしらえたものなのだろうが、数百年開かれることの無かった扉の奥はあまりにも。
「…臭い」
「時代を感じるな。…プレシアさんよ、なんか奥に着いたぜ」
地下室はさほど広くなく、四方に棚が置かれ部屋の真ん中に机が置かれているだけだった。彼ら四人が入れば人数的には一杯という状態だ。
「…ちょっと臭いますね」
「そうだぞ、臭いぞクソ小娘」
「黙れ外道」
シリルと名無し娘のやり取りはさて置いて、鼻を押さえながらプレシアが降り立った。
「とりあえず、これが聖杯です。わたしも実物を見るのは始めてですが」
「…?どれ?」
クロスが聞き返す。プレシアが何かを取り出した様子もなく机の上に何かが置かれているわけでもない。
いやそもそも、この部屋に重要なものを保管するというのは。
「ですから、回りにあるものです」
四方に張り巡らされた棚くらいしか置き場所はなく。
故に聖杯は現存した。
「―――これが聖杯?」
「ええ」
「全部?」
懐中電灯で照らされた棚には、無数の杯が陳列していた。保管というよりはもっと粗雑な管理に思えるが、そうでもしなければこの棚に収まりきらない数である。
ざっと数えて―――四十ほど。
どれもが同一の形も大きさもしていないが、年代物であることは窺い知れる。手にとって確認したわけではないがこうして保存してある杯が歴の始め頃のものだとすれば。
「これら全て、聖杯であるという概念法論を満たしています。ノルドが各地から略奪した上でこの地にたまたま集まった宝物に杯がこれだけありました。後世の人間がこれを見つけ、錬金術師によってこれが正当な杯であることを立証したのです」
「あのう、ちょっと待ってくださいよ。これら全てが聖杯だとするのなら、聖人の血を受けた伝説というのは」
「それは事実だと思いますけど、個々の聖杯にその事実があるのか分かりません。これら聖杯たちはあくまで信仰上の概念法論を一身に受けたもの。その成れの果てにこうして集まりました。これら一つ一つがかの時代のものであることは間違いなく、それ故に聖杯伝説を語るならばどれを持ち出しても聖杯足り得ます」
語りながらプレシアが杯を一つ持ち出して机の上に置く。聖遺物としての存在を感じ取ることは難しくとも、価値はありそうに見えた。
「他者が付与する意味によって形成される概念法論か。熱心な信徒さんたちがそれぞれの地域で聖杯を伝説として語り、或いは実際に崇めたってわけだ」
シリルが腕組みしつつ、プレシアの説明に理解を示した。その理論ならばクロスは無論のこと、魔術師たる人間ならば誰でも知っていることだ。
人間は認識によって世界に立ち世界を知覚する。全てに名前を付け意味を与え理解を及ぼそうとする。多くの人間が同時に生きながら異なる知覚を持ち共通の概念の中で暮らしている。故に存在には意味があり。自己主張によって意味は成立しない。
この遺物もまた信仰という共通概念によって生み出された、添付された意味であろう。例え真の杯ではないという事実があろうと、真の杯であると信じられた概念によって裏打ちされてここに至ったのだ。
だが、これほど知られた聖遺物がこれほど多数に及ぶことは知られていない。
「これが聖杯封印の真相ですか」
「わたしは詳しく知りませんけど。ロンドンは多重化した聖杯を危惧したのでしょう。例えこれら全てが世界中に分散してもそれら全ては真の聖杯です。正当な遺物はあくまで正当なものを保てれば良かった」
「―――それなら破壊してしまえば良かったのに」
「それを躊躇うあたりが実直な信教であり、同時にしがらみでもあったのでしょうね」
かくして、破壊も利用も出来ないまま聖杯はこの地で忘却という消滅手段を取られた。それは概ね成功していたのだろう。事実として、ビッグベンでも機密扱いだったのだから。あと数百年もすればこの存在自体がどうでもいいものとして。古びた教会が後に残るだけだ。
「そんな聖杯を今になって、何故開封しようと?」
「外圧によって恐喝があったんです。マリエンベルグという修道会が議員暗殺を梃子に聖杯譲渡を示唆してきまして」
マリエンベルグ。その名を聞いてクロスとシリルは視線を合わせた。ほんの数週間前にクロスが解決した事件である。
「本来ならばかの修道会に赴いて掌握するのはわたしの役割でした。貴方が、マリエンベルグの手先となっていた悪魔を説得して事態を収めてくれたそうですね」
「ええ、まぁ」
そうだった。クロスは件の修道会についてそのように報告書をまとめたのだ。実際のところ、説得したというには語弊があるのだが…完全に間違ってはいないので誤魔化すことにする。
「マリエンベルグがどのように聖杯の情報を得たのかは不明です。が、かの修道会が幹部を失い事実上崩壊したことで武装組織であることが教会に露見しました。その上でバチカンの諜報員が動いたのでしょう、聖杯の存在についても漏洩したものと」
「…教会から圧力が」
「はい。とはいえ教会としても聖杯が多重化することは好ましくないようですので。ウエストミンスターの直轄に保管場所を移します」
「ってことは、これを全て運び出すわけですか…」
「いえ。わたしがここに一晩ほど留まって結合します。わたしが派遣されたのはその為なんですけどね」
言われ、クロスはその言葉の意味を理解し損ねた。
「結合…?」
「錬金術として。多重化した物質を一つにまとめます。わたしならば解析から結合まで行えます」
「―――錬金術師」
「はい」
錬金術は一般的に鉄から金を作るというような印象を持たれているが、それは極端に穿った見識である。彼らは存在する物質、物象に干渉して概念法論を書き換える術者だ。科学的に言えば化学もこれに当たるが、錬金術は概念という見地から各々の作業を行う。
「わたしはプレシア・トリテミウス・ハイデンベルグ。太祖の名において一晩で終わらせてみせます」
「思わぬ話になってきたもんだなぁ」
日が暮れ、教会の食堂を陣とって軽い食事を済ませていた。といっても携帯食料の類で簡単に済ませたものであり、例えるならそれは名無し娘が好んで食すような類の代物ではない。現に彼女は一口も食さずに煙草を咥えて窓辺に佇んでいる。
本当に彼女は何処へ行ってもこうした佇まいなのか。改めて彼女の在り方を実感しつつ、クロスは不味い食事を終えた。
特にどうということはない。プレシアが聖杯を結合する儀式とやらを終えるまで自分たちにやるべきことがないだけだ。
「考えてみればまァ、世界中に聖杯なんて名前が付くものは腐るほどあるわけで。何を意味するものかなんてものが当てにならねぇ話だもんな」
「シリル、この話はそれだけじゃないだろ。これまでは聖杯がそうあったかも知れないが、少なくともプレシアさんが儀式を終えれば聖杯は真実になる」
「…まぁ、合計46個の聖杯の集合体だ。ちょっとしたモンだろうな。しかし、あのお姉ちゃんがヨハネスの直系とは」
「トリテミウス。詳しくは知らないが、それでも名の知れた魔術師だ」
「ああ。おまけに暗号理論にも長けていて、魔術的見地から概念法論の解析が優れていたんじゃないかってのが後世の評価だ。あの女が直系としてヨハネスの概念法論を継承したんなら、まぁセインツに数えられるってのは納得できる話」
それについてはシリルに賛同する。クロスとしてもプレシアの外見から到底セインツという戦闘部隊に関わるようには見えなかったのだが。これで彼女が実力者であることは理解できた。出来上がる聖杯を見ればその確信も増すだろう。
「しかし、クロスよぅ…」
「なにさ?」
「今回の話はちょっとヤバいかもな」
「聖杯のことが?」
「いや、それもそうなんだが。実態がはっきりしないまでも、マリエンベルグに情報を漏らした連中が居るんじゃないか。これだけ秘匿され忘れかけてた遺物を掘り返そうってんだ、修道会連中が自分で突き止めたとは考えにくい」
「―――ビッグベンに内通者が居たということか?」
クロスの声が強張る。シリルの指摘は確かに筋が通ったものだ。マリエンベルグは武装こそしていたものの、実質的には名の知れないいち修道会に過ぎなかった。どれほど諜報を行っていたか知れている。
だが彼らはコーンウォールに封じられた聖杯があることを知った上でロンドンに圧力をかけてきた。議員暗殺という分かりやすい形で。
「しかし、此処に封じてあるという情報は誰しもが知っているわけじゃないだろう」
「そこだよクロス。ビッグベン―――というよりアスガルドやセインツの後ろ盾となる元老…まぁ誰も名前すら知らないが…。コイツと他数名しか知りえないような情報が田舎の武装宗教屋に知られたというのはマズい話だぜ。此処の聖杯を掘り起こして何らかの利益があるか知らんが、トップの連中が一枚岩じゃないことは確かだな」
「確かに、此処の聖杯を封じた実行員に何代も前のセインツが関わっていたという話だったな。なら、いまアスガルドのバックに居る者がその所在を知りえない話ではないけど。しかし、こんなものを話題にするのは教会連中くらいだよ。政敵を狙うなら別の方法で失脚させるほうが容易い」
「ブランデルは政治的思惑がどうたら、とか言ってたけどな。いまプレシアや俺らが此処に居る以上、セインツやアスガルドとしては聖杯を保護する考え。だがそうじゃない連中も居るってことだ。…嫌だねぇ、暗殺されるのなんかゴメンだぜ俺は」
「―――どうにも分からない。そもそも聖杯の場所を知っていてわざわざ修道会を唆す意味が分からない」
クロスが疑問を口にするが、それに答える者はいなかった。シリルも押し黙って考え込んでいるようだが、どちらかと言えば眠気を抑えつつ茶を啜っているだけのように思える。
「―――ふむ。一つ助言したいのだが」
そんな様子を見かねた、というわけではないだろうが。窓辺で黙ったままの名無し娘が開口した。
「なんだ、クソ悪魔」
「控えろクソ眼鏡」
「ええと、何かな?」
シリルは放置して名無し娘に向き直る。煙草は咥えていなかった。丁度切れたようだ。
「黒幕が誰であろうと、セインツやら君らに真っ向から立ち向かうことをしない。その辺りの政治的思惑は知ったことではないが。もしかするとこの国に聖杯があるという情報しか知らなかったのかも知れないね」
「―――あぁ?」
「と、言うと?」
「この国にあることは知っていたが場所は特定できなかった。だから揺さぶりをかけた。ところがその手段が失敗している。そんな奴が黒幕ならば、聖杯を封印から解こうとするこの状況を逃すとは思えない。そうではないか?」
「…それはそうだな。そうなるとこの場所を突き止められる恐れが―――」
「うん、それなんだが。先刻から妙なことに上空を飛び回るモノがある」
「―――は?」
「大型機というやつか?あたしの能力で視認するのは無理だがそんな気配がある。ちょっとした空気の振れでね、まぁ些細な事かと思って黙っていたが」
「ちょっと待てやビッチ。上空で旋回中の機体?」
「イヴリーズ、どんな機体だ」
「だから視認できないと言ってるだろう―――あ、だが少し見えてきた。人が降りてくるぞ、複数だ。そうか、あれが落下傘というやつだな。風に流されずにこちらに」
落下傘。地上では確認し辛い高度からの降下。そんなことをする部隊は限られる。
「―――クロス、地下に行って姉ちゃんに連絡してきてくれ」
「…了解。ブランデルにも連絡を」
「ダメだ、傍受されたらブランデルの旦那にも害が及ぶぜ。落下傘部隊を動かせる連中なんて知れてるだろうさ」
今朝の空港での出来事を思い出す。軍用のヘリを徴用したプレシアのように、ごく一部の人間が下した指令だろう。
クロスは部屋から駆け出して地下室へ向かった。距離はたかが知れている。
「プレシアさん!空挺部隊らしき影を捉えました!逃げれますか!」
暗がりに叫んだ。地下室に明かりはあるようだが、プレシアの姿は確認できない。返事も無いのでクロスは仕方なくその階段を降りて行く。
「プレシアさ―――」
「はい、お待たせしました」
彼女は先刻までと何ら変わらぬ表情で部屋から出てきた。クロスの声は届いたのだろうが、特に狼狽することはない。
「聖杯の完成までもう少しかかります。それまで襲撃部隊を抑えてもらえますか」
部屋から妙な空気が溢れ出ていた。先刻までのかび臭さとは違う、明らかな薬品の臭いである。
「いや、僕らだけでここを死守するにしても。相手は恐らく特殊部隊ですよ。こんなボロ教会一つ制圧するのは容易いことです!」
「今回の任務で貴方がたをサポートに指名した理由は、マリエンベルグ修道会の一件を収めてくださっただけではありませんよ?クロスさん」
「は、」
「貴方の助手。彼女の助力があればソロモンの悪魔を説得するより容易いでしょう」
眼鏡越しに、プレシアがこちらを見据えてくる。いや、見据えたのは心中か。さして身長差が無いことがここでハンデになってしまっている。
目を背けられない。
「貴方と、そして貴方の助手が如何な性質であるのか確かめたい思惑もあります。あくまでわたし個人の意見ですけど。とりあえず、ちゃんと立ち回らないと皆殺しにされますよ?」
美しい微笑を残して彼女は地下室へと戻っていく。その背中に一声もかけることが出来ないまま、クロスは階段を登るしかなかった。
「―――だいぶ近づいてきた。ふむ、地上まであと三十秒程かね」
「…あの女ァ、俺らをハメたんじゃねーのかよ」
「いや分からない、だがイヴリーズについては看破されたも同然だ」
「あと二十秒」
「どーすんだよクロス。俺の術を使っても四方全域をカバーすんのは無理だぜ」
「分かってるよ。しかし、そうなると…」
「あと十秒。クロス君、良かっただろう?あたしが居たほうが」
言われ、未だ窓辺に座り込んでいる名無し娘に向き直った。
「そもそもてめえが来なけりゃバレなかっただろうが!」
「何を言う。大海公を退けた功績が疑われるのは当然のことだ。クロス君一人にそんな才腕があるか?」
「…いやさりげに酷いこと言ってない?」
「あたしがここに来ようが来なかろうがクロス君には疑惑があったのさ。あたしが居なければとっくに死んでいたような男だ、それが生き長らえる道理はないね」
「ひめさま、ご慈悲をください」
冷徹に言葉を投げかける彼女に耐えかねて、クロスが頭を下げていた。その姿は哀しげではあったが。
「さて。連中は地上に着いた。落下傘を畳んで集結中と見えるな。クロス君、指示を出したまえ」
「―――え?」
「何を呆けている、厄介者が。こうした事態に備えてあたしが付き添ったのだろうが。どうすべきなのか指示を出せ」
煙草を咥えていない名無し娘が立ち上がった。窓は開き、そこから漏れる明かりを襲撃者たちも視認したことだろう。その窓辺から、飛び立とうとする悪魔がいるとは知りえないだろうが。
「…イヴリーズ」
「うん」
「外の連中を仕留めてくれ。但し、先制攻撃は控えるように。敵性を確認したら構うことはない」
「真面目な指示だな」
僅かに笑い、彼女は踵を返して窓辺から飛び立った。音も無く、ただ空気だけが揺れて部屋に残る。
それが収まったところで、シリルがバリケードを構築し始めた。といっても、部屋の机や椅子やらを扉の前に設置するだけだが。
「―――さてと。連中は何処の部隊だろうね」
「さあな。北に備える部隊を引っ張ってくるのが一番手っ取り早いだろうが。そうなると勝ち目は薄いぜ」
「外は心配ないだろうけど。部屋の明かり、消しとくべきだったか」
「構わねぇよ。ちょっと自己主張しちまったが、なに、連中からすれば闇夜なんか関係ないだろうぜ。知らないうちにスコープで恥ずかしい穴まで盗み見られてるもんさ」
「―――暗殺は嫌だなぁ」
「嫌だぜ」
村に街灯など殆どなく、明るい月夜である点を除けばまさに闇夜だったと言っていい。そんな状況下でも素早く的確に行動する彼らは技術も装備も一流と呼べるだろう。
古くなって放置されたままの教会を強襲、制圧することが彼らに課せられた任務であったが。人気の無い村の一画での作戦としては楽な部類だった。
目的の教会に明かりを確認する。無人となっている筈だから、やはり内部に人間がいるのだろう。生死問わず制圧するように指示されている。相手が何人いるかここから察知できないが、熱源を確認することは出来た。
「二人ないし三人というところかと。地下室があるとの情報もありますが、確認できません」
「三手に分かれるぞ。そう広い建物ではない。一気に制圧する。銃弾で主がお目覚めになるよりも早く片付けて撤収するぞ」
教会に鉛弾を撃ち込むことを躊躇わず、部隊は進軍を始めた。包囲網と呼べないまでも、挟撃できる態勢を整える。並みの相手ならば静かに事を成して制圧できるだろう。
布陣を整える。指示から行動までさほど時間を要さず、彼らの仕事振りは完璧だった。ただそこに、一人の娘が現れるまでは。
「―――?」
何処から現れたのか。いや、少なくとも見据えた周囲に人影は無かった筈。だが彼女はこうして眼前に現れてこちらを視認した。
笑みさえ浮かべたその娘を、ただ訳も無く不吉だと感じ。
職務上必要である機密性を保つ上で拘束すべきと判断し采配を振るう。MP5サブマシンガンで武装した兵が左右に展開して棒立ちの娘へ向かった。
だからこそ。その不吉は現実のものとして君臨する。
彼らが動いたその軌跡によって、少なくとも娘の裁量はここに確定する。
翼が放たれた。
風となってそれは通り過ぎ。近寄ってきた一人の兵の首を刎ねる。娘の背後には不吉を象徴するかのように展開する翼があった。
「足掻いて見せろ、雑兵ども」
飛び立つ。宙を駆け回る娘の姿を確認し、しかし彼らは躊躇することなく行動へと踏み切った。
人の伝説というものは不思議である。
それ自体の存在が半信半疑でありながら、謳いあげる伝説はあたかも実像を照らし出すかのように振舞う。それは期待なのか、伝説の読み手たちはその存在を自身のものとして置き換え、ときには伝説に挑むことさえ躊躇しない。
如何な聖人の奇跡とて。それが周囲の人間に納得し得る奇跡でなければ偉業ではなかっただろう。如何な伝説とて、遠き彼方へと誘うようにして語られていなければ奇跡をもたらさないだろう。
数多の人間の王たちでさえ、ときにその伝説に挑み敗れ。それ故にその伝説の大きさを計り、その偉業を成そうとする。
最初に奇跡を生み出した者が何者なのか。奇跡を求める人間が何を成すのか。
プレシアは読み上げた術の詠唱を終え。最終工程を終了したことを確認した。積み上げた機材と薬品は聖杯を再構築する為のものだが、それは既に終了している。
「―――如何な奇跡があったにせよ。いま貴方に出来ることは混乱を招くことだけです」
彼女の手には杯が在る。
銀色に、しかし煌びやかではないその杯は先ほどまでこの部屋の棚を占めていた幾つもの杯に酷似していた。ただ、それらの杯が全て消え失せており。
集大成と言うべきか、彼女の手にある杯はそれら全てが含まれていた。
概念法論の解析、物質及び概念の再構築。それらの行程全てを彼女はこの短時間にこなしたのである。これで多重化していた聖杯は全て一つにまとまり、現存している杯の中では真実味のある遺物となったことだろう。
少なくとも、複数の聖杯の拡散は防げた。後はこれをウエストミンスターに届けるだけであるが。
本来の彼女の任務としてはそれで終了である。外に襲撃者があるようだが、大したことはあるまい。特殊部隊ならば、成る程、クロスとシリルを拘束するに容易だっただろうが。
聖杯を奪取せんと目論んだ人物が何者であれ、プレシアは確信する。この襲撃は失敗である。こちらの切り札を読みきれず部隊を動かしたことは、逆にその黒幕の痕跡を残した。出動された部隊、それに指令を下した人物、そしてその背後。諜報を動かせば数日で答えは出る。
だが、それはセインツたるプレシアの仕事ではない。セインツはあくまで悪魔狩りを主体とする部隊であり、今回のような配役は寧ろ異例である。バックボーンがどうなろうと、政治的介入する権限を持ち合わせていない。
だが、仕事上知りえる情報を制限することは困難であり。
プレシア自身が動かずとも人を動かすことは容易だった。
「とりあえず、襲撃者の一人でも捕虜にとりましょうか」
踵を返す。かくして、散らばった機材をそのままに一流の魔術師が地下室から這い出た。
「Shadow of the moon!!」
シリルが術を放つ。とはいえ彼の術は防壁を成す影を生み出すだけで攻撃的なものではない。部屋の明かりから生まれた影を実体あるものとして相手の銃弾を防いだ。
「クロス!奴ら踏み込んでくるぜ!用意しておけ!」
「オーケー」
言われるまでも無く武器はクロスの手にある。
襲撃者たちは作戦上必要だからか、消音器によって銃声は僅かだが拳銃程度の武装ではない。外から窓越しに銃弾が飛んできたが、狙いはまだ浅かった。正確なものはシリルによって防がれている。
狙撃手も居るだろう、その懸念から窓辺付近には近寄っていないが。教会内部から扉を突破されるのも時間の問題だった。とはいえ、暗がりの森へと踏み出せば暗視できる向こうに分がある。
「連中、空中で迎撃すべきだったな!空挺部隊は人間も戦車もロボットも降下中に叩くってのがベストだろ!」
「ロボットはどうなのか知らないけど、まぁそうだよね」
「あー、スナイパーを先に殺っとけってヘボ悪魔に言っとくべきだったな。迂闊に立ち上がったりもできねー」
「居るかな?スナイパー」
「居るだろ。確かめる頃にはハートを撃ち抜かれて恋に落ちちまうぜ。ま、俺のハートは既に撃ち抜かれてんだけどな!」
「よしちょっとシリル外に出てみて」
「無理だ!死ぬ!」
会話を遮るように、銃撃が再度襲い掛かった。シリルの術は防御一辺倒だがそれ故に簡単には突破できない。サブマシンガン程度ではこの影を貫くには足りず。
―――外の連中は援護射撃を露払いとして、手榴弾を投げ込んできた。
「…あ」
「やべ」
爆発。その閃光によって影はかき消され、襲い来る砕片は彼ら二人を巻き込み。
部屋の明かりまで吹き飛ばされ、暗闇が訪れた。
「いてぇ…とりあえず耳がいてえ」
「…術の詠唱を終えておいてよかった。…ぜんぶ使っちゃったけど」
クロスの魔術は水を流動させることだけだが、普段から水を詰めたガラス管を携帯している。水圧銃として使用可能なこれを咄嗟に抜き放ち、爆発の被害を抑えた。
だが、無効化したわけではない。バリケードに隠れ術を行使してなお彼らは無傷ではなかった。
「シリル、ここはもうダメだ。森へ出よう」
「足はどうにか無事だが肩がやべえ。逃げるしか出来ねーぞ」
シリルのほうが出血は酷かった。致命傷ではないにしてもすぐに止血できる程ではない。いずれにせよこの部屋を破棄して外へ脱出するしかないが、今出れば狙い撃ちだろう。
だから、せめて声だけでも外に出すことにした。
「イヴリーズ!!狙撃手と森からこちらを狙ってる奴を排除してくれ!」
上空に居るであろう悪魔に向けて、救援を頼んだ。
「ええい、少しは働けというのだ。あの甲斐性なしが…!」
飛翔する彼女の耳にもクロスの声は届いていたが、そう自由に動ける状況ではなかった。雑兵風情と思っていたこの襲撃部隊だが、思いのほか正確な射撃を繰り返しており彼女としても油断ならない状況だった。
如何な悪魔であれ、身体に依存して生き長らえた身であれば無粋な銃弾によってでもダメージとなり得る。戦闘が始まってから彼女が屠ったのは僅か三名。技量のある部隊と交戦した場合、名無し娘の一撃離脱は通じにくくなった。
いや、彼女自身でも少なからず驚いている。砂漠に引き篭もっている間にも人間の兵はこれほど見事な戦をするようになったのかと。
考えを改める。彼らは雑兵ではない。だからこそ、彼女とて手加減する気もなかった。
飛び回りながら確認する。狙撃手とやらがどれか判別が難しいが、彼女が撹乱している所為か布陣はやや乱れ始めた。この解れを見逃すことはない。
地上に降り立つ。森の中に姿を潜め、その隙に手に砂粒を乗せた。静かに意識を解き放ち、彼女の手の平から溢れ出る砂流は砂塵となって膨れ上がる。
「森を一つ食わせて貰うぞ」
溢れ出る砂の嵐は止まらない。かくして、大きさだけをひたすらに鍛え上げながら砂塵は身を潜めているであろう狙撃手を飲み込んだ。
人間の区別などつかない名無し娘にとって、クロスが言う狙撃手とやらがどれであるのか明確な判断はない。だが教会を裏手から狙う影からそれらしいのを察しただけだ。吹き荒れる砂塵は容易に森を飲み込み小さい砂漠を作り出していく。
だがそれでも銃弾は止まない。暗闇を飛翔する彼女の姿を捉えてか、的確に援護して襲いにくい状況を作り上げていた。名無し娘にとってはやり辛い相手だ。
ふと教会を見やる。窓から二人の魔術師が脱出してきたところだった。名無し娘が暴れまわっているのを好機と見たのだろうが、敵を全て排除できたわけではない。
「―――夜目が利くわけでもあるまいに…!」
無茶ではある。
クロスの行動然り、それを諌めんとする名無し娘もまた然りだ。教会を狙う影を捉え、上空がからその首を狙う。
だがそんな彼女の姿を確認した上で援護射撃が襲い来る。構うことは無い。どうにか掻い潜り、あの首をそぎ落とさなければ鉛弾に曝されるのはお人好しの厄介者だけだ。
飛来する弾丸。掠めるだけで過ぎるものはまだ良い。無作法に彼女の脇腹を突き抜けた一発はどうにも耐え難かった。
無粋だ。痛みは的確にその敵を知らせてくれるのだが、そんな感覚すら彼女にとってはどうでも良く。
狙撃手の首を刎ねることが出来て満足だった。
鮮血が舞い、それ以上に砂煙が舞い上がって辺りを覆い隠す。その最中にクロスとシリルを招き入れた。森と砂が入り混じったこの場所を見渡せる狙撃手はもう居ないだろうが、敵が全滅したわけではない。
「―――イヴリーズ。怪我が」
「問題ない。急所は逸れている。ところであの女はどうした?」
「―――どうしたんだろう」
咄嗟に振り返るものの、煙によって視界を遮られたうえ教会には既に連中が突入しているだろう。プレシアがどう脱出するとしても、正面の扉を開くしかない。
そう、それしか道は無い。食堂に通じる扉はクロスたちがバリケードを築いて塞いでいるし。裏口と呼べる出口はなかった筈。
ただ。再度の爆音によって煙がかき乱され、人影を視認したときにその定石は崩壊したことになるのだが。
「おい、なんか出てきたぞ」
シリルが指摘するが、それは誰が見ても明らかだ。教会の壁を内部から粉砕すれば、このような登場の仕方が出来るのかも知れない。
つまりそのような行為を行ったということだ。
砂煙はやや収まりかけている。名無し娘がそうさせたのだろうが、お陰でその人影を確認しやすくなった。現れた人物はやはりプレシアであるが。
無傷である。そればかりか何処に敵が潜んでいようかという状況で悠々と歩いてきていた。その余裕は何に裏付けられたものなのか。
それを考えているうちにクロスは、教会の壁を打ち崩したものが何であるのか分からないままであることに気付いた。彼女の手には武装らしき武装は無い。
ただ、背後に付き従う異質な大男があるだけで。
「って、ええええええ」
「クロスさんご苦労様でした。おかげさまで聖杯が仕上がりましたよ」
歩調も悠長なら口調ものんびりとしたものだ。こちらまで一発の被弾もなく歩いてきていたが、寧ろ目線を引くのはその事実ではない。
背後の人物である。
「どなたですか」
「これですか?わたしの自信作です」
プレシアがやや嬉しそうに紹介する。背後の人物は挨拶するわけでもなくプレシアに追従しているだけだったが、伺うべき表情が見当たらない。顔がないのだ。男だと推察できるのは筋肉質であり大柄であるという点だけだが、さらけ出した素肌に生殖器も見当たらない。
つまりは、筋肉質なひとがたである。
「つまりこれは…噂に聞くアレですか」
「はい、ホムンクルスです」
錬金術は物質の変化を辿る術でもある。その過程で、人工生命体を生み出そうという試みを始めたのは随分と昔の話だ。一般的にホムンクルスと呼ばれる人工のヒトガタ。錬金術を語る上で知りえる知識ではあるが実践できる術者はごく僅かと言われていた。
ましてや。実際に生み出されたヒトガタを拝見してみれば、その術の異質さは十分に感じられる。
実際に見たのはクロスも始めてた。いや、恐らくロンドンの魔術師の殆どが知りえない技術だろう。異質な人影はプレシアに付き従い、命令を待っているように見える。
「…プレシアさん」
「はい?」
「最初からコレを出してくれればよかったような気も…」
「そうしたいんですが、自律は難しくて独立起動できないんです。わたしが現場で律することが必要でして」
プレシアの言は理解できる。術者を伴わない術の成立は確認作業も行えず困難であることは確かだ。
「―――それで、ここにはもう用はありませんよね」
「帰還する前に少し事情を把握しておきます。お待ちいただけますか」
プレシアがおもむろに振り返り、襲撃者たちのほうへと向き直った。途端、彼女に従っていたホムンクルスが腕を振るう。
素早い反応。人工の生命というと鈍重なイメージがあったがそれは間違った認識だった。ヒトガタは、少なくとも一般人の運動速度を凌駕している。そんな素振りを二、三度と繰り返して止まった。
「…まだ撃ってきます。こちらの姿はしっかり捉えているようですね」
何気ない彼女の呟きはクロスの耳にも届く。それを聞き届けて、ヒトガタの動きが飛来した弾丸を叩き落とす為のものなのだと理解した。
いや、理解が及ぶ範疇の話ではない。だが現に主従ともに健在という事実がそれを肯定している。
「では、行ってらっしゃい」
「…え?」
プレシアが小瓶を放り投げる。いや、ばら撒くと言った方が適切か。彼女がいつの間にか手にしていた数センチサイズの小瓶を幾つも虚空にばら撒いていた。
地面に落ちて割れる。瓶の強度自体も大したものではなかったのだろうか、仕掛けがあったのかも知れないが。ともあれ瓶は割れ、中に入っていた溶液が膨れ上がった。
パンを焼き上げたような感覚だろうか。クロスはその光景を見ながらそんな感想を抱いたが、実際にはそのように見た目の良いものではなかった。
肥大するものは生物としての筋肉である。血管が剥き出しになり、それらがさらに肥大化してやがてヒトガタへとかたち作られていった。
「うおー…」
隣でシリルが感嘆しているが、それは単に驚きの感情ではあるまい。人体模型がリアル差だけを増したような代物が十数体も出来上がる様を見せ付けられれば驚きを通り越して一歩引き下がってしまう。
人工の兵隊は数十秒で生誕し、主人の合図によって敵陣へと一気に侵攻した。一斉に駆け出すヒトガタの速度もまた尋常なものでは非ず、これに対応するのは至難であろう。
かくしてプレシアの袂に残ったヒトガタは最初の一体のみ。彼女は走り去ったヒトガタを見届けてこちらに向き直った。
「わたしは周辺制圧と移動手段を検討する為に少し出かけてきますので。皆さんは教会のほうで休んでいてください」
「はあ…」
かくして、プレシアは教会から出てきたときと同様に軽い足取りで襲撃者たちへと向かっていった。とても戦う者の足取りではない。例えるならば兵を束ねる指揮官のそれであろうか。
「…あの女ァ…最初から自分で全部片付ければよかったんじゃねーか…俺ら空気だろこれは」
シリルが愚痴をこぼすが、その意見は正論であろう。いや、だからこそ。
「―――僕ら…というよりイヴリーズについて確かめたいところがあったんだろう。セインツの本業は悪魔狩りだしね」
「いい感じに使われただけだったなぁ。どうよ、アホ悪魔。あの女を闇討ちしてみたくねぇ?」
なにやらシリルが物騒なことを言い出した。
―――が。
「それは無理だろう。恐らくあたしではあの女を殺せない」
「…は?」
「…あ?」
異口同音にクロスとシリルが聞き返す。だが名無し娘は視線をこちらに合わせはしなかった。
「無頼の徒であるあたしに、あれほど組織化された兵隊は相手にし辛くてね。あれくらいの動きと速さは人間の比ではないだろう」
「砂嵐を使っても?」
「さて。あの女が悪魔狩りを生業としているならそれしきで何とかなるとも思えないしな。錬金術とやらを専門としているなら、他にも出すものがあるんじゃないか」
あたしは詳しく知らないが、と名無し娘が付け足す。だがクロスにとっても思い当たる節はあった。ホムンクルスを実働できるほどの術者ならば、さらに手駒を抱えている可能性はあるだろう。
やがて、悲鳴が上がる。いや断末魔か。その叫びに一瞬だけ目線を向けて、逸らした。どのみち聞こえるものに意味はない。動いているのは無慈悲な兵隊、動かしているのは実利に伴う司令官だ。
「…これがセインツってヤツか。悪魔狩りする実力は十分あるってことだな」
「みたいだね。出来れば忘れたい」
「まぁ敵じゃなくて良かったってことにしようぜ。ちょっと教会戻って止血するわ」
シリルが歩き出す。肩の出血は酷くはないようだが、すぐに止まるものでもないだろう。クロスはそれに従おうとして、足を止める。
名無し娘は未だプレシアが去った後を見つめていた。思わぬ実力者に感慨深いものがあるのだろうか、煙草を咥えていない彼女のそんな姿は珍しくもある。
「…怪我、大丈夫?」
「誰かさんが忙しないものでいらぬ負傷をしたが」
「すみませんごめんなさい私が悪かったです」
「まぁ問題ない。君の街に居る実力者の力が分かったのは一つの収穫でもある」
「―――いやまぁ、アレについては僕も知りえない情報だったけど」
セインツの存在自体が秘匿されてきた要因となんとなしに悟った。アレは危惧されてしかるべき力量だ。それが九人居るとすれば、異質というだけでは済まないだろうが。
「―――なんにせよ、あたしのことを感づかれたのは事実だ」
「…セインツが、君が相手にできないような人間だとすると。要求を呑まざるを得なくなるか」
名無し娘は悪魔であり、セインツは悪魔狩りを行う。彼女の正体に気付いたプレシアが何らかの手段を打ってもおかしいことではないが、今すぐどうにかなるということではないだろう。
だが、今回の名無し娘に限らず。彼女が幾度となくクロスを救ったのは事実だ。彼女自身が言ったとおり、助力がなければクロスは生き長らえなかっただろう。
「あたしにどのような対処をとるか、まぁ出来れば一戦交えるようなことは避けたいのだがね。…すまないなクロス君」
「え?どうしたのさ」
「分相応に砂漠で過ごしていれば良かったという話さ。あたしは掘り出される者でもないのだし。君が厄介事で死ねばそれまで、あたしに何ら関係のない事だ」
こちらに振り返る名無し娘は、これまでと何ら変わらない姿だ。ただその表情に、自嘲めいた笑みを認めたのは。それはクロスの錯覚に過ぎないものか。
「いや、君を連れ出したのは僕のほうだ。それ自体も僕自身の延命措置だったなら、君に非はないだろ」
「だとしても、厄介事は無くならないものだ。不思議なジレンマだな、クロス君。君にとっての最善は、果たしてどちらだったろうな?」
彼女を連れ出すか否か、その選択肢のことを言っているのか。
それに懺悔する気もないし、それは互いに理解している筈だろうに。
「無駄だ。つまらない怠惰に時間を任せてきたというのに気まぐれが過ぎた」
こんなところで名無し娘はそんな言葉を紡ぐもので。
「数多の悪魔と親睦を深めたらしいソロモン王も同じ心境だったかも知れないけどね。厄介なものだと思っても手放したくない絆があったんだろう」
故にクロスは言い返す。どれだけの言葉が名無し娘に届かずとも、彼女を迎え入れたことは厄介事でも何でもない。
互いに気まぐれであり、そしてそれ故の親しみだ。
「やれやれ、君に嫁が付かないわけだ。仕方のない男だな」
「う…まぁそれは言わない方向で」
言いながら、煙草を取り出して彼女に勧めた。火を付け、いつものように紫煙を吐き出す彼女は満足げに微笑む。
「しかしセインツとやらにどう対処するかは今後の動き次第だな」
「なんとかするさ。同居人にまであれこれ言われたくないからね」
「頼もしいことだな」
咥え煙草のままクロスの前を通り過ぎ、彼女も教会へと向かう。衣類に滲んだ血の跡は、クロス自身が負うべきものだったと自覚していたが。
彼女が悪魔である故に人間より早く癒える傷だとしても、その血を忘れぬようにする。恐らく、それもまた絆というのだろう。
かくして。コーンウォールにおける封印聖杯はウェストミンスターに委譲されることとなり。公にされないまでも、管理機関を移すこととなって容易に手が出せる代物ではなくなった。
その過程を繰り返す。
クロスたちが教会に戻り、一休みする頃になって。
襲撃者たちは一人残らず惨劇の主役を演じ終えていた。
「―――は」
残った最後の一人は、辺り一面をなるべく視界に入れないようにしながら、それでもなお正面の敵を見据えていた。
周囲に人影は、多数ある。だがそれは全て敵兵と言っていい。異形とも呼べるヒトガタの大男たちがこちらを取り囲む形で停止していた。もっとも、彼らが動き出すことがあれば―――恐らくこの距離ならば一秒足らずで―――彼の息の根を止めているだろう。
だから、この時間は猶予なのだ。死刑が確定するまでの、僅かな空白。
それをかみ締めながら、それでも無くなった左腕からの流血を見てどのみち十数分で絶命する自分を再認識する。
終わりだ。この異形の兵隊によって、軍でもトップエリートたる彼らが数分持たず制圧された。
「お聞きしたいことがあります。わたしには万能薬とも言える治療術がありますので、真摯に対応してくだされば救命してさしあげることが出来ます、理解してください」
「…な、んだと」
「あなた方の所属及び作戦目的、そして何処からの指令か」
彼はここに来て迷っていた。特殊部隊という役柄では秘匿作戦など珍しくも無いが、それでも作戦内容を口外することは出来ない。例え捕虜になろうと拷問を受けようとそれは変わらぬ掟だ。それ故に彼らは国家の大事と成り得る作戦の遂行に当たることが出来る。
だが。ここで絶望していた兵の前に、救済の十字架がちらついて見えた。この怪我を治療できるなど胡散臭いものだが、得体の知れない兵隊を駆使するような相手である。どんな奇術があるのか理解できたものではない。
揺らぐことは無理からぬことである。彼もまた一人の人間であり、この状況で突きつけられた条件としては破格だ。だが、眼前の敵に全てを暴露することを躊躇われたあたりが彼をギリギリの境地で兵として保たせている。
例え死すとも。
「怪我が増えますよ?」
言うや否や、眼前の女が如何なる指示を出したのか。異形の兵がその腕力をもって彼の右腕を引き抜いた。
突然のことに絶叫する。単純に痛みだけではない。
鋭利な刃で切断されるならば理解も出来る。銃弾を撃ち込まれ肉が削げ落ちるのもまだ分かろう。だが引きちぎるとは如何なる出来事なのか。
僅かに残った骨が彼の右腕と胴体を繋げていたが、それも容易に折られ。彼は両腕を無くした形となった。
出血量は増す。だが彼の腕を抜いたヒトガタはその傷口を無理矢理に押さえ込んだ。ここで失血死しない為の措置か。
あまりに粗暴、粗雑。そして残酷である。彼にとっての十字架は既に血まみれだった。
「回答できますか?」
「―――」
だが彼は開口しない。女はしばらく待っていたようだが、やがて嘆息した。僅かに片手を挙げる仕草をして、傍らのヒトガタが動く。
待て、と言いかけて動きを止めようとしたが遅かった。彼が所属を名乗ろうとした瞬間には、ヒトガタの拳が腹部へと叩き込まれ。
そして一人の兵が息絶える。
彼が最後まで見るのを躊躇った―――先に逝った仲間たちの遺体は同様にして叩きつけられるか殴られて変形しているかのどちらかだ。戦ったとも呼べるものではない惨劇の真ん中に、指揮官たる女が佇んでいる。
最後の敵兵を殺し終え、彼女は嘆息した。
思った以上に秘匿された作戦であり、しかも末端である兵が実情を把握できていない。セインツである彼女の存在を知っていればもう少し凝った襲撃を仕掛けただろう。
だが、特殊部隊の一隊を丸々失った損失は必ず浮き出てくる痕跡だ。これは、聖杯を奪取しようと考えた黒幕を仕留める為の布石である。
「死体を回収して、それから現場の証拠隠滅―――今夜は徹夜かぁ」
ヒトガタに指示を出すプレシアが小さく欠伸を漏らしていた。




