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Venefica  作者: 神代彩
3/6

03-オリエントデビル

いつからか、故郷と呼べる風景を失い。

齟齬を発生させながらもかつての自分という存在と折り合いをつけてきた。長い時間の最中、ただひたすら放浪してみれば自分がいつ生まれたのかさえ疑わしくなろう。

事実、忘れている。あたしに向けられる感情は感嘆か畏怖か狂喜でしかなく。そのいずれもあたし自身には何ら関わりがない。地上に降り立ったって数千年か。そろそろ発狂しても不思議はなかった。

この身体に囚われた魂を心と呼ぶならば、それは太陽を見送り月へ視線を向けているうちに磨耗する。言葉を発することもなく。誰かの感情に触れることもない。

世界はただ在るべくその姿を保ち。あたしは同様にその存在を保ち続けた。

このつまらない自答か、或いは妄執の果てに。見出すものがなかろうと特に感慨もない。それさえも興味のないことのように振舞う。

そう、つまり。あたしは道を踏み外したのだ。




扉が開く。

退室したのは若い男だけだ。この部屋の主が言いつけた仕事をこなすだけならば秘書と呼べるのかも知れないが、果たしてそれは正解かどうか。

特にこれといって特筆すべきことのない室内は清楚と言えばそうだが、それ以上に簡潔だった。無駄がないということが美徳とするならばここは模範とすべき管理職のデスクであろう。紳士的な対応の出来る男が座っていればもう少し評価は上だったか。

それも、彼女にとってはどうでもいいことだが。

眉間に皺を寄せた中年の男はブランデルと云ったか。ファーストネームは忘れた。だが確認の必要はなかろう。こうした場所では彼の存在は役職で呼ばれるものだ。

「―――厄介なことになりましたな。上院議員の不審な死に方」

「隠蔽は済ませました。マスコミが騒ぐでしょうが、当局は事故死としか判断を下しません」

「それについては心配しておりませんよ。ただ、この事件に関して我々アスガルドに下知をなさるとは」

厄介事を持ち込んだことを疎んじているのか。ブランデルは眉を潜めて密やかに嘆息した。その動作を見つめて彼女は微笑する。

愛想笑いではない。寧ろそれは嘲笑の意味を込めたものだ。それが相手に伝わるか否かはどうでもよかったが。

「所謂、魔術と呼ばれる所業に関してはこちらに尋ねるべきかと思いましたが」

「その判断は間違いではありませんが。余程の難事件ならばセインツを動員すべきことでもありましょう。もっとも、彼らは」

「出払っています。仕方のないことですわ」

ロンドンにあって、ビッグベンの庇護下に置かれた祓除の為の精鋭部隊があったがそれは既に出動中だった。それを彼女もブランデルも承知している。だからこそこの会談が実現したわけだが。

「こちらからの要求はお伝えした通りです」

「遺物の奪還。或いは破壊。ただ、あえて条件を提示するならば外交のテーブルで折り合いをつけたいところですが」

「無論、平和的手段で解決すればそれに越したことはありませんよ」

用意されたような台詞を連ねる。彼女は手段を問わない。必要なものは望んだ結果だけである。

ブランデルとしてもそれを苦慮したのだろう。彼は元より魔術師相互扶助組織であるアスガルドの外交官のようなものだ。対外組織との対話及び交渉を担っている。

それ故に、本来ならば外交の次に用意されるべき武力手段の裁可を下すことは越権と成りかねなかった。

それを含めて厄介なことは。

「全ての外交的問題はわたしが引き受けます。問題なく任務にあたってください」

アスガルドより上位の意志によってこれが決定事項となっているからだった。

「―――まずは私のほうで交渉を開始します。それ以前にも、捜査員を現地へと送り込みましょう」

「捜査員はどなたかしら?」

それを知ってどうしようというのか。ブランデルには彼女の意図を図りかねたが、それもまた彼女にとってはどうでもいいことだ。

「この事件以前に関わっている捜査員で、クロス・ホーエンローエを任務に当てます。―――そちらのご要望ということもありましたしね」

「ええ、感謝します。詳しい捜査概要を話し合いたいのですが、これ以上は時間がありませんので」

彼女がその気ならば質問などいつでも出来よう。それだけの権力が彼女には与えられている。逆に考えれば、それでも今この場で確認しておきたかったことがそれだったのか。その問答を不審に思うことこそないが、少し気にかかるところではあった。

彼女のその表情を垣間見ることが出来ればそれは当然とも言える。文句のつけようもない美貌にあって冷たさを取り除くその微笑は、恐らく実生活とは離れたものを見ているのだ。

ブランデルがその答えに行き着くこともなく疑問を流し。

彼女が用件は終えたと言わんばかりに立ち上がる。

「では、これで」

「ええ。良い結果を報告できるように善処致しましょう」




その日は雨で、だが珍しいということのない天候だった。

特に感動に値する事実は今のところ揃っておらず、例えば今日の紅茶は何にしようだとかそんなことを考えているうちは真新しい発見というものはないのだろう。クロスは暮らし慣れた部屋で適当な読書を試みていた。

この場合、適当と言うのは乱雑ということではない。だが彼にとって書物を漁ることは研究でも娯楽でもなく、ただ単に必要であるか否かという問題だった。不必要ならば眼を通すことはなく、故に一面的な解説や後書きには特に興味もない。

彼が私事をこなす為に設けた一室は今や書物とノートパソコンくらいしか目立つものがない。この部屋にあって生活観を見出すよりも価値観を模索するほうが先だろう。例えば、簡単な文具が手の届く範囲にしかないことは彼にとっては一つの工夫であるのだが。

部屋の持ち主にしか合理的に機能しないこのシステムの評価はあえて保留するとして、クロスは立ち上がった足でキッチンに向かった。ドゥルーリーを取り出す。

ついでに、窓辺の席を占拠している同居人に声をかけた。

「お茶飲む?」

「いや結構。何日か前に淹れたアレなら欲しいところだが」

金髪の少女らしき姿。幼く見えても中身は人間のソレとは異なるのだが。

窓辺で咥え煙草のまままどろんでいることだけは変わらぬ姿だった。ここに来て既に一ヶ月程になるだろうが、彼女がこうした日々以外を望むことはついぞ在り得なかった。つまり、本当に望んでいないのだろう。

変わったものだと思いながらもこうして話し相手になるぶんには丁度良い。なにしろ彼女は人間ではなく。

「この前のお茶って…アレは貰い物だったからもうないよ。今度買って来るから」

本来ならば茶の好みなど口にすることもなかったであろう悪魔と呼べる代物だった。

遠い中東の砂漠で口伝によってのみ語られた砂塵の悪魔。名すら既に失われ、本人も名無しと名乗ったのが目の前の少女である。その姿とは裏腹に不遜な態度をとるのは生きながらえた年数故か。

軽く数千年。よくも生きたものだと実感する。

彼女にとってはその生に価値はなく、ひたすらに虚構であることを良しとするらしいが。その真意についてはクロスも計りかねた。

だが、ヒトと邂逅を果たす悪魔の存在は稀であり。親交を持つことはさらに稀であろう。数千年を生きた名無し娘の知識は計り知れず、クロスにとってはこの上ない話し相手となっていた。

今日とて、決められた時間のお茶ではないにしろこうして声をかけている。

彼女はさほど好みではないらしいアールグレイだがとりあえず二人分を用意した。窓辺で雨を眺め、紫煙を漂わせている名無し娘が僅かに反応を示す。

「―――ご苦労なことだね」

「いえいえ。大したことができませんので」

「あたしに茶を恵んで、今日は何の話かなぁ?」

「別に。まぁ折角居るんだし、いいじゃん」

クロスも椅子に腰掛ける。煙草には手をつけなかったが、この部屋での喫煙数は既に名無し娘の独壇場である。そもそも喫煙を好む悪魔など聞いたことがなかったが。

本人曰く、何かしら薬物を投与していれば考え事をするに丁度良いとのことだった。なまじ人間ではないだけに健康に留意する必要もないのか、少しばかりは羨ましい話ではある。

「―――感慨深いとは言わないが。よもやこうして雨音にまどろみながら茶を嗜めるとは思わなかった。おかしなものだと思うよ。あたしは世捨てのモノであるのにな」

「虚構であることを目指したんだっけ?」

虚構の砂漠、名無しの砂塵。彼女が悪魔として立ち振る舞うならばそういう二つ名が相応しかろう。外界との交わりを絶ってただひたすらに自己を希薄にするかのような生き方は山篭りの高僧のようでもある。その言葉が似つかわしくないのは、彼女のそれは修行などでは断じてない。

悟りが欲しいと言えばそうなのだろう。だが得られる悟りは彼女自身から与えられるものでもなく、故に虚構であることは自身の存在を変えることに他ならない。

それは哀しいことなのではないかと、何となしにクロスは思うのだが。

「そう、か。クロス君には未だあたしの生い立ちを説明していなかったか。さて、それも何処から語ればいいものかな」

「…故郷の話とか?」

「最近少し記憶が混濁してきたよ。当然か。他の連中のように眠りで時間を誤魔化すこともなかったし。…あたしの故郷は君たち人間がよく知る通り」

悪魔と一言に言っても、彼女は本来ならば天にある御使いだった筈である。眼前の仏頂面を眺めてみれば、こういうものも威厳と呼べるのだろうかと思えるが。

それが神話や伝承やらに伝え聞くとおりならば、彼女は堕落して地に追放された為に悪魔と呼ばれるに至ったのだろう。

「あたしに科せられた罪状は怠惰。だが実際は、思想の齟齬によるものだったのだろう。あたしは自身の疑問を解消したいままに振る舞い、望みどおりのことを追究するための時間を与えられた。気が遠くなるほどの」

「追放ってことね。主は寛大だったということだ」

「全く。お陰でこうして生き長らえた。…順番が少し食い違うが、あたしの記憶の混濁に関係あるか分からんがその疑問が発生したのが何時からだったか覚えていなくてね。そのあたりも含めて疑問だ」

「―――中々に難解な感じがするけど。一体どんなことを考えてたんだ?」

「世界の起源を」

言われ、思考を停止させるクロス。

「…?えっと、主に仕えてたんだろ?」

「まぁそうだね」

「世界の創造ということなら、事実は既にあるんじゃ?」

「あたしが実際に立ち会ったわけでもなし。そもそも、事実として成立しているのはあたしの記憶に拠るものだ。だから言った通り、記憶が混濁としていると」

彼女の言は理解できる。だがそれは、例えば自身の誕生に立ち会っていないと言うような不毛な意見のように思える。いや、存在意義という意味でのイデオロギーが過去幾度となく繰り返されてきたことを考えれば当然の疑問かも知れないが。

それで世を捨てたのか。クロスが常識の範疇で考えるには情報が足りないように思える。

「分からない、という顔だなクロス君。いいさ、所詮あたしははぐれ者だ。だがたまには思うことがあってもいい。当たり前のように存在したものが途方もないペテンなのではということをね」

「…それは、世界のことを言ってるのか?」

「あたしたちのような者のことさ。…まぁいい。クロス君、アカシャという概念を知っているか?」

問われる。名無し娘が話題を次に移したということはこの話はここで終わりということか。いや、ならば質問を投げかけることはしまい。かといってこの問答はクロスの力量を推し量るものでは当然なかった。

「―――なんだっけ?」

だから無知を露呈したところで問題はない。

「君ら人間ではアカシックレコードなどと呼ばれているが」

「…あぁ、それなら少しくらいは。情報集合体だっけ」

「世界の起源から終わりまで、森羅万象を取り込んだ情報。途方もない概念だ。まぁ、世界が実体として存在する以上どこかにシナリオが用意されていても不思議はないが」

システムと言い換えるべきか、と彼女は思案する。

「…で、君は其処に至りたいのかい?イヴリーズ」

「さて。辿り着けなくても悔やむことはないがね。至ったとしてもこの世界に存在することは叶うまいし、そうなればあたし一人の自己満足でしかない」

「難解だね。虚構であることに関係あるのかい?」

「自己が希薄になるほどに追い詰めてみれば状況は変わるかと思ったんだがね。まぁこうして茶など飲んでいてはそれも意味がないか」

それもいいさ、と彼女は紅茶を飲み干す。

無為に日々を過ごすこの悪魔は、例えば世間から恐れられるような悪魔のイメージとしてあるようにヒトを喰らうようなことはなかった。だからこそクロスもこの奇妙な同居人を得たわけだが、彼女が自ら語るような状況というのは何とも人間味がある。

まったく、これで畏怖すべき悪魔なのだったら人間のほうが余程恐ろしいのではないか。苦笑ながら、クロスも茶を飲み干した。そのまま立ち上がる。

「―――さて、忙しないけど仕事済ませておくよ」

「あぁ、労働は尊いものだからな。励みたまえ」

新たな煙草に火を付けた彼女に鼓舞され、言い表しにくい感覚を覚えながらもクロスは自室へと戻っていった。



結局、作業は片付かないまま日暮れ時を迎えていた。

雨は一日中降り続いたらしい。それが豪雨と呼べる代物ではない為、さほど気にかけていなかった。その気になれば傘など必要なかろうし、もとよりこの街で傘などそう見かけない。

少しばかりの立ちくらみを覚えたあたりで、作業を切り上げる決心をつけたクロスは文献から眼を離した。過去の資料を遡る作業などコンピュータに任せればいいものを。

キッチンに出向く。名無し娘は相変わらずの姿だったが、昼間と違う点は扉を開けるなりこちらに視線を投げかけたことだ。珍しいと言えば珍しいが。

「クロス君、誰か来たようだが」

来客があったらしい。いや、訪れるのはこれからか。人知では計りようのない名無し娘ならば事前に来客を察知しても不思議ではないが。

「また、あのやかましい人間かな?」

「シリルのこと…?アイツならしばらく多忙だからこんなとこ来る余裕ないと思うよ。さて、こんな時間に訪問とは誰だろうね」

思い当たるのは仕事関係だけだが、厳密に言えば招きたくもない。直接住まいに尋ねてくる仕事仲間などろくな人物がいなかった。

「まぁ、いいか…」

程なく来客の合図。出迎えるべく玄関の扉を開ける。

「久しぶり」

唐突に。懐かしい顔が現れて唖然とする。

誰が見ても綺麗だと判断を下せるような美貌は分かりやすく、ただ万人に愛される為のものでないことを誇示している。これは野生の花だ。

だが少なくとも、クロスにとってその蜜が麻薬であるのだが。

その脳が麻薬に犯されるくらいに暮らしを共にした人物。

「―――姉さん。突然だね」

「住所の調べはついてるのよ?まぁアポなしのほうが逃げられずに済みそうだしね」

「いや、別に逃げてるわけじゃ…」

「分かってるって、冗談よ。入っていい?」

そうは言いつつも、姉の言動は確認をとるためのものではない。その無作法さをクロスは心地よいと感じていたし、突然の来訪に僅かながら心が躍ったのだが。

「ああ…って、ちょっと待って」

その姉の足を止めるよりも早く、部屋の奥でくつろいでいた悪魔と遭遇する。

軽やかな足取りの彼女が立ち止まった。それもそうである、見た目は二十歳前程度の少女がくわえ煙草でくつろいでいたら何事かと思うものだ。

ましてやクロスは未婚である。

「―――こんばんは」

だが冷静に笑顔で挨拶を交わすあたりが、この姉と弟の違いだった。

「…挨拶は結構。あたしのことは気にかけずともいい」

「んー、でも気になるものだしね。クロス、紹介してくれないのかしら?」

こちらに振り返る。その笑顔に陰りがないあたりをどう察するべきか。

「えーと…複雑な事情があったんだけど、当てがないならしばらく屋根がわりにここを使ってくれと僕が申し入れて」

「まぁ」

「つまりルームメイト。たぶん」

「ふむふむ…」

口元に手をやってなにやら考え込む姉を眺めながら、名無し娘のほうを伺う。客人にとやかく言うつもりもないらしい彼女は無関係を装って普段と変わらぬ有様だった。そのあたりはありがたくもあるのだが。

その悪魔に怖いもの知らずで近寄っていく姉が一人。

「ねね、居候ちゃん。クロスって下手じゃなかった?」

とんでもない質問を仕掛けていた。

「ちょっと姉さ…」

「―――なんの話かな?」

「うーん、何となく弟の成長っぷりを確認してみたいものでしょ?あ、それ以前に寝相悪いかもねー。どうだった?」

「ちょっと姉さん黙っ…」

「―――寝相は悪くないが無防備だな」

「なんか答えてるし!?」

「なるほどねー」

妙に納得して、姉は引き下がった。くるりとこちらへ振り返り、満面の笑みを向けてくる。

「それで?この娘の名前は?」


結局、名無し娘の紹介などろくに出来なかったのだが。

姉の興味は別のところにいってしまったようだった。



「ふむ、名無しちゃんでいいか。名前ないっていうのは戦災か何か?」

「あー…近いかな?」

「クロスじゃ頼りないかも知れないけど、まぁ不法滞在は見逃してあげるわよ。取り締まるのはわたしじゃないしね」

そうは言いつつもこの姉が弟のことを目にかけているのだろう。クロスとしてもそれは知っており、出来のいい姉に感謝しつつも敬愛している。

「―――というわけで、これは僕の姉。エルゼ」

「よろしくねー」

「…ふむ。随分と仲睦まじいようだね」

「クロスも昔は可愛かったのよー。黙って私の後ろついてくるような子だったんだから」

「………ふむ」

ちらりとこちらを一瞥する名無しの悪魔。その眼差しの異質さに気付いたクロスは、彼女に近寄って姉に聞こえない程度に耳打ちする。

「何ですか姫様そのような意味深な目線」

「………いやなに、クロス君があたしに手を出さない理由が同性愛者かと思ったが、よもや近親相姦の類であったとはね。邪魔をした。あたしは席を外しているから」

「だからちょっと待て!」

窓から飛び立とうとした悪魔を制止する。そのやり取りを面白そうに眺めている姉が居たりするのだが、それは気にしないでおく。

「姉さんは…まぁ、頭が上がらないんだよ。他の人間関係とはちょっと系統が違うだろ…。というか姫様アレですか押し倒されたいんですか」

「悪魔まで孕ませようというのか、甲斐性なしの分際で」

「だから誤解を増やすなこの悪魔!」

両肩を掴んで揺さぶってみるが力のない悪魔は煙草を咥えたまま揺られているだけだった。本当、どうしてこの名無し娘を拾ってしまったのか。

「もう終わり?なんか分からないけど仲いいのね」

お陰様で姉に笑われる日まで訪れようとは。

「…いい、気にしないで。とりあえず姉さんが尋ねてきたのは色々と予想外だったよ」

「ええ、お久しぶりね」

ソファの座り心地はお気に召さないかも知れないが、この安物ではそうだろう。もっともエルゼがそのようなことで不満を漏らすとも考え難いが。

何故といえば、やはりこの姉は出来た人物だからだ。

「…お茶入れる?」

「大丈夫、来る前に少し食べてきたし。話がしたかっただけなのよ。住まいを見に来たのは実はついでなの」

「―――話。なにかあった?」

「お仕事絡みよ。実を言うとね、明日にでもなれば貴方の上役からお呼びがかかると思うわ」

上役。仮の役職である大英博物館はここでは関係なく、エルゼはアスガルドのことを言っているのだろう。彼女はある政治家の秘書として働いているが、必要上組織のことは知っている。

「結論から言おうかしら。先日、セービン上院議員が自殺したニュースは知っている?」

「うん、まあ。詳細は知らないけど」

「自殺したことにしてもらったわ。正直、今回の死亡はシナリオ通りに行われた殺人なのよ。議員殺害の数日前に国防へ外圧があった。それを聞き入れない場合のシナリオに沿って議員が棺桶入りというわけね」

「…一体どういう外圧?」

「それだけは機密だから答えられないわ。ただ、圧力をかけた組織ははっきりしている。名乗ったからね。緋色と十字の修道会。マリエンベルグ」

途端、クロスは狼狽のあまり椅子から立ち上がった。

「貴方は知っているわよね?クロス。中東から引き上げた古代遺産を巡ってひと悶着起こしたのがアスガルド。その現場に居たのが貴方なのだから」

「―――奴ら、いったい何をしたんだ」

「この話の面白いところはこれからよ。実を言うと、圧力があった時点でわたしたちは入国審査を洗い出して連中の滞在拠点を突き止めた。さすがに拘束することはしなかったけれど、監視状態にはあった。議員も、その日はオフで安全な場所で安全に暮らしてたわけ。それでも死は唐突に」

「―――死因は…」

「未だに不明よ。心不全のようだけど。使用人曰く、風が吹いたら主人が倒れていた、とか。ゴーン・ウィズ・ザ・ウインドってところかしら」

「そんなに色恋沙汰があるわけでもなさそうだけど」

「戦争じみた話だったら万国共通よ。そういうわけで、議員はまるで呪い殺されたかのような有様。加えて、マリエンベルグという修道会が最近になってとある古代遺産を手に入れているのよ」

言わずとも分かる。それを奪取したのはクロス本人であるのだから。

「ねえクロス。あの写本は本当にソロモンの鍵なのかしら?」

だからエルゼも渋ったりせずに疑問を投げかけてくる。こうなってしまえば、答えざるを得ないが。

「…恐らく。だけど効果の程は知らないよ。試したわけでもないし」

「そうね。けれど事態は甘くはないわ。資金稼ぎに遺産を売却してしまったアスガルドは今回の一件で政治的に失脚しかねない。まぁ、組織的改変と呼べなくもないけれど」

「―――写本を奪還すればそれも回避できるってこと?」

「奪還出来なくてもいいけれど、そのほうが面子は保てるでしょう?」

「悪魔狩りならセインツの出番じゃないか?彼らのほうがそっち方面に長けた部隊だろうし」

「生憎、セインツは出払っているのよ。そういうわけだから、写本に関わった人間ということでクロスにも仕事が回ってくると思うわ」

エルゼが持ってきた話は職務の命令ではなく、事前通達だった。その意図を図りかねたが、直接話しておきたかったのだろうか。

「―――厄介なことになったなぁ」

「わたしもね、こんな外圧は初めてよ。けれど屈するわけにはいかないし。だからクロスには期待してるわね」

エルゼの微笑に偽りはなかろうが、この任務はつまるところアスガルドの不手際を追及された為のものだろう。例えそれが結果論であるとしても、その結果こそが問題なのだから。

「明日になれば分かるか。ドイツまで発てるように準備はしておくよ」

「そうね。わたしはこちらに残るけれど、何かあれば連絡して。公私どちらの用件でも構わないから」

「了解。やってみるよ」

「お願いね。…じゃあ、わたしは帰るから」

「送ろうか?」

「いらないわよ。明日に備えておきなさいな」

気軽な言葉と共にエルゼが部屋から出て行く。入ってきたとき同様の軽い足取りだが、その背中は幾分と重く見える。

影が重なったような錯覚。この姉の後姿ならば何時だろうと違いに気付く。クロスは昔から、これを見て育ったのだから。

「クロス、死んでは駄目よ」

振り返り、最後にそんな言葉を残して立ち去る。その微笑に後押しされるようにして、彼もまた自室へと立ち戻った。不安に思うことなどあろう筈もないのだし。

事態は混乱の中にあるようだが、自分は課せられた職務に励むだけである。


「…無防備ではなく無意識だったか。難儀なことだ」

名無し娘の呟きは誰に聞きとがめられもしなかった。




翌日、上役のブランデルから告げられた内容はエルゼの説明と合致していた。

先日、アスガルドがマリエンベルグと名乗る修道会へと売却した古代遺産の奪回。その遺産こそが古代イスラエル王ソロモンが残した魔術書とされる代物であり、悪魔召還の大全である。

ただ、以前この遺産を入手してアスガルドまで持ち帰ったクロスはその際に知り合った名無し娘からある逸話を聞いていた。曰く、ソロモン王に悪魔召還の術はなく、彼に付き従った七十二の魔人は忠義を以って仕えたのだと。

そのような真実を知る由もない後世の人間たちは、あるがままにソロモンの伝説を脚色し、そして伝説に伝説を作り上げた。それがソロモンの秘術、ソロモンの鍵と呼ばれる書物である。言うなればオリジナルの存在しない贋作。伝説を再現する為だけに設けられた概念法論の末路だった。

「かといって、それが伝説通りの力を持つなら脅威には違いない」

重要なものは過去の真実よりも現在の事実である。クロスに一任された任務は修道会よりその書物を奪還することだった。対話による交渉で片付けばそれに越したことはないが、それならばブランデルが何らかの工作を講じているだろう。それでも解決しないことは即ち、交渉テーブルは無意味になったということだ。

クロスが向かう先。修道会の名と同様のものを関している地方都市。かつてマリエンベルグと呼ばれていた要塞、今はブルツブルグという街並みである。

マイン河を眺めながらのどかな風景が続く。ここの生活は都会的というには程遠いが、なにも浮世離れした街ではない。

クロスの故郷はここより遠いが、それでも国に帰ってみて空気の違いを確かめる。霧の都とは違った趣と美しさを実感したものだ。フランクフルトから一時間程度の旅だったが、仕事でなければもう少し満喫もできただろう。

「とりあえず、和平交渉からはじめるべきなんだろうけど」

躁鬱に関わらず、街並みは平穏そのものだった。

ブランデルが対話交渉を試みているかも知れないが、ならばこそ下手に動くことは出来ない。まずは相手の拠点を確認した上で指示を待つべきだろう。

もっとも、クロスには件の修道騎士団の拠点が何処であるのか察しはついていたが。

上を見上げる。薄っすらとした蒼穹の空ではなく街を眺めるような丘にそびえる古城を見やった。歴史に追いやられた古い要塞。そして、修道会の名にあるとおり、その要塞こそがマリエンベルグだった。

修道騎士にとって無視できない意味を含むこの建築物から近く、或いはその姿を一望できる場所に拠点を構えている。クロスはそう読んだ。妄信的な宗教家の考えは万国共通、祈りという不合理の為に合理的な環境を作り上げる。

「これでも昔は僕も熱心なもんだったんだけどね」

教会に通うことも稀になった。戦場に神がいないことを理解したからか。或いは、祈りを無為にしたくないからこそか。

背中に受ける視線に答えるように、クロスはやや嘆息する。

街に入ってからいつしか、彼の背後には尾行者がついていた。クロスにとっては国家的事情を知り得ないが、修道会はビッグベンに圧力を掛けた。この都は既に臨戦態勢ということであろう。

不審な外来者を監視すること。クロスはもとよりこの国の生まれであるから、諜報員としては適切な配置ではあったが。しかし修道会も周到に監視体制にあるらしい。一日と経過しないうちに尾行がついた以上、空港でもチェックがあったと見るべきか。

「さて、祈ってみるかどうするべきか」

思案する。尾行は二人。確認できる範囲では、そのくらいだろう。相手の出方が分からない以上は行動を起こすことも出来ない。

要は、出方次第である。

道を折れて、狭い路地裏を抜ける。マイン河からは遠ざかるルートへ歩き、適当なところで丘を目指して進んだ。

背後にある気配。それが錯覚でないことを確かめながら通りの建物の影に身を潜める。

日陰に入ると同時に懐へと手をやる。武装は考えうる限りで十分に備えていたが、修道騎士に名を連ねる者ならば戦いの心得はあるだろう。

事実、クロスは連中と一度戦っている。

足音が近づく。それが通りすがりの者であればよかったが、生憎とクロスは招かれざる客である。追手がその足を緩める筈もない。

影から伺うその姿はやはり男二人ほど。こちらの姿を見失ってやや早足になったようだが、それを逆手に取る。

決断から行動までの時間は数秒足らず。

相手が通り過ぎる寸前に相手に掴みかかった。

「ぅわ!」

突然現れたクロスの腕に驚愕したのか、男が一歩下がる。だが、この好機を逃すクロスではない。目の前の男の首めがけて掌を打ちつけた。衝撃を受けて地面を転がるその男から視線を外し、後ろについていたもう一人の男に相対する。

外見はさほど変わった印象を受けない。安っぽい服装には違いないが、街に溶け込む為にはこのくらいが程よいところだろうか。だが、その腰つきはおよそ戦闘に長けているとは言いがたかった。

フェイントの右手の勢いを殺さず、そのまま脇腹へと肘を入れた。悶絶して前かがみになる男の髪を掴んでそのまま壁に叩きつける。

所要時間は数秒足らず。決断からここに至るまでに如何ほどの呼吸が許されたことだろう。

だが。

(容易すぎる)

戦闘に不慣れな連中だった。半端な程度にしか格闘に慣れていないクロスが容易に組み伏せることが出来たのだからそれは間違いあるまい。

「付回してもらってご苦労さん。さて、お前たちは何者かな?」

「…!」

「強すぎたか?まぁ喋らないと反対側にも肘入れるよ」

「ちょ…っとまて!」

呼吸を整える男。激痛に顔を歪めながらも追加オーダーは断りたかったようだ。

「頼まれたんだ…修道士が、アンタを、見張るようにと」

「―――頼まれた」

「嘘じゃないぞ…、ちょっとした、金くれるってんで引き受けた、だけだ」

素人同然の追尾をつけたのはこういう訳か。例えばこうした手段で相手の様子を伺うことも出来るわけで。

「―――やられた」

建物の影から様子を伺う。辺りに人気はない。夕暮れに向かう僅かな静寂にあって、クロスが先ほどまで感じていた尾行の気配が消えていた。

目の前の二人以外に何か居たような違和感だけを残して。

(囮にかかったのは僕のほうか…。これで素性を明かしてしまったな)




シリル・マクファーレンが帰宅して嘆息一つ残したのは日が暮れてからのことだった。

「…疲れたぜ」

そう言葉を残しても答えが返ってくるわけでもなく、ましてやそれを期待してのことではない。意味のない行為ではあったが、一日の作業が夢ではないことを確認することは出来る。

もとより、身体に残る疲労感がそれを見事に肯定してくれているわけだが。

アスガルドに属するシリルの役割は魔術師扶助の為の人事、或いは調査にある。それ故に内部監査の色が強い職務だが、在野の魔術師が持ち込む事件も片付けなければならない。状態は極めて人材不足だった。

現在のところ担当する事件は一つ。それは既に解決されているものだが事後処理の為に奔走することとなった。ウェールズまで日帰り旅行というわけだ。こうしてロンドンまで舞い戻り、明日の朝までには報告書をまとめなければならない。

曰く、ロンドンにおける魔術師連続殺人事件についての概要。

これはシリルとクロスによって一応の解決を見た事件である。アスガルドに属する魔術師が他者の研究成果を狙い在野から暗殺者を雇い入れた。これが発端となり暴走を始めた暗殺者は依頼主もろとも魔術師数名を屠り、ロンドンは僅かばかりながら騒ぎとなった。

この一連の事件における被害者の一人、レンフィールド家の前当主について調査をまとめたのが今日の作業だったわけだが。

「隠棲してたんならこんな都市部から離れればよかったものを…困った爺さんだ」

お陰で一足早く天に召したわけだが、レンフィールド家は生粋の魔術師による家系である。隠居した前当主とはいえ社会的影響力はあったことだろう。

現当主は今回の事件について、落着という見解を示した。後はアスガルドの承諾を得れば本件は解決であるが。

「―――クロスは帰ってるかなー」

深夜というわけではないし、顔を見せに行ってもいいだろう。そう結論付けると彼の行動は早かった。およそ仕事明けとは思えないほどに。

今回の顛末について相談したいという思惑もあったのだが、それは口実でもある。シリルにとってクロスは恋愛対象にあるのだから当然だった。

信徒らしからぬ言動だが、彼にとっては愛は説くものではなく気付くものだ。もっとも、その愛とやらがクロスに通じたことは今のところないのだが。

そんな事実とは裏腹に愛車に乗り込んで夜のロンドンを走る。クロスの住居があるブリクストンはこの時間ともなれば決して治安の良い街ではないが、それは問題ない。シリルも多少ながら荒事に長けた男であった。

ラジオでリリー・アレンが流れる。曲が終わる頃になってようやく目的地に着いた。古いアパートの二階。クロスの住居があるところだ。

螺旋階段を上がる。夜の静けさとは裏腹な音が響いてしまうがこれは仕方がない。クロス曰く、来客が分かりやすいとのことだったが実に環境に適応した意見である。

「クロスー♪いるかー?」

ドアをノックする。この一室は基本的に施錠されていない。どういうわけかクロスにはそういう癖があるのだが、シリルにとっては立ち入り自由な空間と言える。

「入るぞー?」

一声かける。中からの応答はないが、肯定するようにしてドアは呆気なく開いた。

軋んだ音を立てるがすぐに閉じる。クロスの気配はなく、出迎える者は誰も居ない。いるとすれば。

窓辺で煙草を咥えたまままどろんでいる少女だけだった。

「…オイ、ポンコツ悪魔」

「―――」

「聞けやコラ。クロスは外出か?ん?」

「―――なんだ、騒がしいのが来たな」

こちらのことは眼中にないと言わんばかりの対応だった。慇懃無礼などとは程遠いこの少女が数千年を生き抜いた悪魔であることはシリルも知っている。愛でるべきクロスの住まいに居座り続けていることも、当然知っていた。

「クロス君なら出かけたよ。朝早くにね」

「―――なんだ、なら来る必要なかったな。ウザイ面を見ただけで徒労に終わったぜ畜生」

「それは結構だ」

心底面白いと言うようにして少女が笑う。どこか嘲る笑みにすっかり気分を悪くしたシリルは早々に立ち去ろうと考えた。クロスが不在であればここに居ても仕方がない。

―――訪ねる前に連絡すればよかったか。

突然の訪問を好むシリルだったが今回は失敗だったようだ。

「んで、クロスはいつ帰るって?」

「さて。大陸まで行くそうだから数日は留守なんじゃないかな」

「何処行ったんだよ」

「あたしが国名なんぞ覚えているはずもなかろうが。人間の国境など世紀毎に移り変わって馬鹿馬鹿しくなる。―――あぁ、だが確かクロス君の生まれの国だとは聞いたか」

クロスの生まれはドイツだ。それはシリルもよく知っている。しかし、この数日はクロスに出張任務はなかった筈だ。とすれば飛び込みの仕事ということになるか。

「行き先がドイツだからクロスにお呼びがかかったってトコか。どんな仕事やら」

「―――あぁ、なんでも以前にソロモンの遺品を巡って争った連中のところへ潜るとかどうとか」

独り言のつもりだったその言葉に、回答があるとは思わなかった。

「…なんだって?ソロモンのってことは、例の写本―――まさかクロスはマリエンベルグ行きか?」

「あぁ、そうだそうだそんな名前だった。連中からその写本を取り戻すらしい。事情は知らんし、知ったことではないが」

名無し娘から与えられた回答はシリルにとって意外とも言えるものだった。いや、驚愕と言ってもいい。よもやこのタイミングでクロスが現地に派遣されるとは。

「―――ヤベェな。これは」

シリルは今日得たレンフィールド家の論考から一つの情報をまとめたところだった。だがそれは、明日の朝にアスガルドに提出されるべきもので。

一歩遅かった。アスガルドへ情報を伝えるのが遅かったのだ。

「―――あの写本はホンモノだぜ…?」

既に日が暮れたその室内にあって、シリルの独り言は今度こそ回答を得られることもなく虚空に消えた。

やがて、名無し娘の紫煙に巻かれて消えていく。




「そうですか、交渉は決裂と」

『ああ。セインツの派遣を検討するとのことだが、今すぐには無理だな。アスガルドとしては独自に解決したいところだが』

イリジウム電話でブランデルから経過を説明されたクロスだったが、独自の解決とは現地でどうにかするということだ。やはり、クロスに一任されることとなった。

「セインツの到着まではどれくらいですか?」

『早くて二日というところか。第九位の派遣を急ぐと通達があった』

「彼らの力量ならば解決は難しくはないでしょう。…まぁ今は僕がやるしかないわけですが」

『情報収集だけでも構わん。上も我々も気にしているのは面子だけだ』

安いホテルの一室で会話を続ける。ベッドの寝心地は知れているが粗野な環境には慣れていた。問題はない。

日が暮れてしばらく経つ。監視の目があるかも知れないが、街中で人目を省みず襲い来ることはなさそうだった。

「連中は、ビッグベンにどういう圧力を掛けたんです?」

『詳細は私とて知らされていない。全ては議員たちの一握りが知っているということだろうな』

それと、エルゼだろう。姉の顔を思い出しながら機密に守られた一件について考察してみた。そもそも修道会に過ぎぬ団体が国家政府を脅かすこと自体がおかしい。目的もそうだが、並の手段では在り得ぬ話だった。

だがそこに、言葉どおり悪魔の力がある。

「明日、修道会と思しき場所に潜入を試みます」

『場所を特定したのか?』

「いえ。ですが、尾行者たちを買収して逆手にとりました。明日には何らかの情報がもたらされるでしょう。罠であれ」

『―――ふむ、危険だが迅速な行動だ。分かった、定時報告を待つぞ』

「了解です」

電話を切る。

静寂に取り残され、窓辺から外の様子を伺った。不審なところなどまるで見当たらない夜の街並み。

―――丘の上には聳え立つ要塞。

賛美歌は既に聞こえないというのに。

「厄介な集団だなぁ」


「その通りだ。面白くもない」


突然の声に振り返る。部屋のドアは開いていた。いつの間にか長身の男が部屋の中心まで歩いてきている。

銀髪に、碧眼。いや、夜の海に似たダークブルー。

「―――修道士か」

懐からすぐさま、ガラス管を取り出す。満たされた液体を確認し、すぐに呪文の詠唱に入る。クロスが扱える魔術は水に関するものだけで、ことさら流動というものに拘っている。

それ故に、こうしたものが武器になり得たのだが。

だがそれさえ心もとない。目の前の人物はクロスよりも格段に上だろう。全ての技量が、いや存在そのものが凌駕されていると言える。

本能から来る直感に従うことは出来ずとも、それを警告だと理解することは可能だ。この人物には敵わないと、十分に理解している。

「私をあのような連中と同じように考えるな、無粋だ。この誉れが分からんとは、所詮人間ということか」

「―――?」

紡がれる呪文を止める。今、何を言ったか?

「そうか、召還された悪魔というのはお前のことだったか」

「そうとも。闇討ちすればそれで終わりなのだが勿体なくてな。喜べ、私は苦痛を与えることには長けていない。すぐ終わらせてやろう」

長身の男が腕を振るう。その手には裁縫針を身長ほどに長くしたようなものが握られていた。槍といえばそう見えるが、それにしても細身過ぎる。あれでは振り回すことも叶うまい。

だが、それはただの侮りだ。目の前の男が伝え聞く魔人の一派ならばその力量は計り知れない。悪魔が持つ力というものをクロスは目の当たりにした。その悪魔は彼の自室で煙草を咥えているだけだが、お陰でこのような状況でも彼自身の判断力を曇らせることはない。

逃げる。その一手しかあるまい。

「逃がしはせんぞ、人間。私の翼は速度自慢でな、速さだけならば遅れはとらん。お前の足では限界があろうよ」

「―――ああ、なるほどね」

名無し娘を思い出す。彼女の助力あらば、この男を排除することも叶っただろうか。咥え煙草の胡散臭い悪魔を思い出しながら、ふとしたことを口にした。

「…かのソロモン王に惚れこんでいたという悪魔の一人か。名前をお聞きしたいね」

クロスのその言葉を聞き留め、男は歩み寄りを止めた。

表情が少しばかり強張る。その白い肌に皺が寄ることはなかったが、この変化は寧ろ感嘆であろう。

「―――少しは我々のことを知っているようだな?」

「ほんの少しだけさ。だから寧ろ気がかりでね。かの名高い悪魔に名を連ねているならば、どうしてありもしない召還儀礼に応じたのかと」

「―――ははははは!そうか!お前はアレが贋作だと知っていたか!」

悪魔が哄笑する。その愉悦は先ほどまででは窺い知れぬものだった。

「よかろう、名乗ろう。私の名はフォカロル。序列41位。風と海に在りし獣の名だ」



古く、神話の時代に語られた物語。

天より追放された御使いは数多いれども、その実態全てが把握されているわけではなかった。野に放たれたケモノは数多、その力量をもって地上に名を残した者もまた数多。

よもや人間の王に仕えることとなった、水域の魔人。ただそれだけの名でしか、クロスはこの悪魔を知らない。

いや、知っているのはソロモンの魔人というだけの話だ。知名度で言えば序列1位のベルゼブブのほうが高かろう。

(砂漠に住み着いたうちの姫様とは違った感じだな…)

澄んだ印象を受けるその人物からは、さほど冷酷さを感じない。佇むだけで絵になるこの悪魔は、果たしてどれほどの力量か。

「あの召還の術がまやかしであることは私も承知していたが」

銀髪の悪魔が続ける。

「呼び出されたものは仕方がない。まぁ、応じたのは興味半分であったのだがな」

「それでは、ソロモン王のときとは違い忠義によるものではないんだな」

うっすらと笑うフォカロル。今までの状況を簡単に覆せるという点において、この男は紛れもなく悪魔であろう。

その手に握られた針のような槍もまた、必殺の類ではないだろうか。ここに至って、クロスの退路は無きに等しい。

背後の窓が唯一の逃走ルートだったが、果たして飛び降りる程の時間が許されるだろうか。

「だが、かつての主君と我ら魔人の契約について知っている者が居るとはな、少なからず驚いているぞ。大抵の人間は、我らと主が怪しげな術によって契約したと思っているようだからな」

「僕も最近までは知らなかったことさ。―――いや、器だけで悪魔を従えたソロモンの偉業に敬意を表すべきか」

「―――我が主君は王に向いていなかったのだ」

銀髪が物静かに語る。

先ほどまでの饒舌ぶりとは明らかに違う雰囲気を感じ取り、クロスはこの悪魔が未だソロモンを慕っていることを悟った。

「だが、我らと邂逅を果たしたことで主は王たりえる人物となった。奇妙な縁だったが、あの半生は忘れられん」

その昔話に興味が全く無いわけではなかったが、しかしいま気にすべき問題はそこではない。フォカロルもそれを理解しているようだった。

「こんなところで昔を思い出させられるとはな。面白い余興だ」

手にした針もろとも、踵を返し部屋から立ち去ろうとする。

「…?」

「ここでお前を討つことが連中の望みのようだが、気が変わった。生き長らえさせてやろう、写本の真実を知る者よ。連中が巣食っているのは丘の袂、青い屋根の屋敷だ」

「―――何故、そんな気まぐれを」

「気まぐれ故にだ。人間よ、お前の名を聞いておく」

ここで雌雄を決することがないのならば―――それが戦いと呼べるような代物ではないにしろ―――クロスには大助かりであるが。

「クロス・ホーエンローエ。島国の魔術師」

「よかろう、クロスとやら。お前が辿り着くのを余興の最後としよう」

背中を見せてそのまま立ち去る。後姿はあまりにも隙だらけで、そしておぞましい。部屋に静寂が戻ってからクロスは初めて自身の汗と動悸を自覚した。

「―――助かったのか、それともただの延命措置か」

答えを要しない。相手にホンモノの悪魔が居るとなれば、途中退場は許されないものとなった。




バスカヴィル上院議員は恰幅の良さと相成って物腰の穏やかな人物であるというのが定評である。

その分かりやすい評価を一面だけに当てるならば、秘書という立場にあるエルゼとしても納得のいくものだった。例えば彼が国家機密に深く関わっているものだとかそれ故の情報操作から隠蔽までも指示していることは公にされていない以上、評価に値しない事柄である。議員本人も、エルゼもまたそのことに不満を抱いては居なかった。

執務室―――というより応接室のような意味合いの部屋だったが―――にて応対している議員は総勢五名。護衛となる人物を連れ立ってはいるのだろうがこの部屋に限りそれは辞退してもらっている。国家規模の対外政策を強いられながら命の危険に晒される多くの議員ならば当然のことではあったが、その分かりやすい怯えは此処では必要ない。

現にバスカヴィルは護衛を連れることはない。それが彼の定評に繋がる行動でもあるのだが、こればかりは賛否両論というところか。

彼らはそれぞれに役職を与えられた官僚であるが、こうしてバスカヴィルの執務室まで出向いて密議を行うのはそれなりに理由あってのことだった。

言うまでも無く、外圧による脅迫。それに伴う議員の暗殺を解決する為であるが。

解決策は特殊部隊派遣ということに変わりは無く、議論は打ち止められた。バスカヴィルは適当な理由で彼らを締め出し、僅かに嘆息する。

「セインツは、どうなったかね?」

「現在、任務続行中です。カスティリヤより帰還を急がせますか?」

「事を仕損じることはあってはいかんなあ。実働部隊から数名だけでも割くことは可能だったね」

「第九位の即時転進は促しました。マリエンベルグ到着に一日半を要します。但し、相手方の戦力によっては人員不足は否めませんね」

「アスガルドの諜報員からの連絡は?」

「定時報告では、相手方の拠点を特定するとの旨を受けたと」

「時間との戦いだなあ。はてさて、他に人員を動かすことは必要かね?」

初老の議員はこのときになって視線を投げかけてきた。駒を進めるべきかを問うている。

「専門外の部隊は避けるべきです。覚悟が伴いません」

「明察だ。セインツに頼むしかあるまいなあ」

イギリス議会の最高機密であるナイン・セインツは神・悪魔に関わらずヒトに害意ある魍魎を排斥するための精鋭部隊である。もとより魔術師扶助の組織であるアスガルドを、大英博物館という隠れ蓑を用意してまで飼い続けるこの国ならではと言えるが。

その最高機密の部隊に対して命令権を持つ数少ない人物がこのバスカヴィルだった。

「この一件はアスガルドの責任問題でもあるが、それ以上に機密保持に努めなければならない。そのあたりは、よろしく頼むよ」

「心得てます」

微笑みかける。事件解決に確信のあるエルゼはその笑顔に淀みはなかろう。それを見て取ったバスカヴィルもまた、他の政治問題に向き合うために職務に戻る。

秘書であるエルゼもまた、次の職務の為に一度退室した。彼女としても多忙な身である。それをさし引いても、今回の事件は解決するだろう。それだけの手を打ったのだから。

廊下を歩きながら、携帯電話を取り出した。履歴にない番号を速やかに打ち込む。

「―――エルゼです。用件は済みました」




「―――それでは、修道会の内部はこういった構成だな?」

「ああ、そんな感じだ。奥のほうは分からないが、俺たちが報告に行ったときに見てきたことは全てだ」

夜が明けてからのクロスの行動は迅速とは言いがたかった。昨日の尾行者二人組を買収して修道会を探らせたのだが、この報告を受けていたからである。

この二人組は結局のところ金によって動かされた民間人に過ぎず、クロスが出所確かな報酬をちらつかせることで容易に寝返った。

罠である可能性も考慮していたが、それでも内部の状況が分かれば潜り込むことも可能だろう。何よりも優先すべきは情報だ。

(やはりセインツの到着を待つべきなんだろうが…修道会側の脅迫によって次の被害が出る前に写本を押さえることを考えれば)

クロスが単独で乗り込むしかない。

例の悪魔―――フォカロルとやらは写本の力によって従属しているとはとても考えられなかったが、少なくとも修道会に協力するつもりはあるらしい。写本が伝え聞く程に真価を発揮したならばフォカロルの意思など無関係に従えることが出来ただろうが。

それが出来なかった。修道会がそれをどう受け取ったか分からないが、悪魔召還に際してあの写本を手放す筈もない。修道会幹部が握っているのが道理。

「修道会の幹部連中は何処にいるか分かるか?」

「うーん…謁見出来る部屋というのが此処にあると、聞いたが…確かめたわけじゃないしなぁ」

男が見取り図を指差す。

「何人くらいの信徒を見かけた?」

「十人前後かな。実際にどれくらいかは知らないぜ」

それは承知だ。だが表立って警備に割く人数がその規模だとすると街に配備されていると考えるのが自然だろう。

正直なところ、クロスの居場所が特定されているのだからこの安宿を出たら捕捉されるだろう。

「―――よし、状況は掴んだ。あんたたち二人はそのまま、僕を尾行するフリを続けてくれよ」

「あぁ…わかった、が」

「何か問題があるか?」

「いや…なんていうか、修道会が大それた問題を抱えるってのがよく分からなくてな…一体どんな事件なんだ?」

素直な疑問を口にするものだ。クロスとてその事件の全貌を知る筈もないし、寧ろ聞きたいくらいである。

いや、或いは。

「それを知ろうとするなら、余計に行かないとね」

立ち上がる。話はそれで終わりだ。二人組にはこれまで通りに振舞ってもらい、クロスは単独での潜入を試みる。

装備を確認し、定時報告を兼ねてブランデルに連絡を入れておくことにした。これより後はどのみちないだろう。

電話を取り出し、ふと窓の外から街を眺めてみると。

「―――?」

妙な人影が何人かちらついた。まずその歩き方に癖があり、警戒心を持っている強張った感が伺えた。視界が遮られるが、向こうの通りにも居るようだ。人影だけ確認出来るが、それらはこの近辺を警戒中といった動きをしている。

修道会の連中と考えれば、クロスはまさに監視状態と言うことも出来るが。

「―――妙だな。人数割きすぎじゃないか?」

何しろ、通りに面した窓辺から確認出来るだけでそれらしい人影が二十人程である。仮に彼ら全てが修道会だとすると、本部にはごく少数の警備しかいないことになるのだ。

「―――この前の中東の一戦で戦闘員の人数は減らしたらしいしな」

他人事のように呟くが、その原因はクロスにもある。…敵の戦闘員を大いに討ち取った果敢な功績を残したのがクロス本人ではないのは、言うまでも無いことだが。

「―――今になって考えれば、あの戦闘もなまじ無駄ではなかったな」

名無し娘によってもたらされた幸運はこうして今日までクロスを生き長らえさせた。その恩恵を疎んじることはなく、敬意を払って紫煙にまかれる生活を共にしたのだが。

突如、見覚えのある姿が飛来するのが見えた。

人影が空に舞うことなど在りえない。それも単身である。人間が生身で飛ぶことが出来ないのは、自分の襟首を持ち上げるくらいの者以外は知っていることだ。

それが可能なのは、人間ではないからであり。

「―――」

クロスは身支度を適当にして部屋から飛び出した。修道会の見張りなどこの際どうでもよく、窓から見えたその人影を追う。

影はゆっくりと飛翔を続け、地上に降り立つ為か速度を落として丘を目指していた。言うまでも無く、要塞のある丘である。

だが徒歩のクロスはそこまで辿り着くのは容易ではなかった。なにしろあらゆる階段と門に阻まれ、決して一直線に進むことはできないばかりか駆け上がるだけでも重労働だった。

追手は―――いるようだが、ここで気にしても仕方が無い。

階段を登りきる―――前に体力が尽きて立ち止まった。乱れた呼吸を必死に整えるが、足はもう動かなかった。無理もない、何しろ突然の全力疾走である。

あとは、無理をしない程度に歩いて行くしかないわけだが。

「―――おや、こんなところに居たか。探すまでも無かったな」

階段の終着、要塞の門からこちらを見下ろすようにして、名無し娘が翻っていた。



十年の旅路の果てに、星の動きを観察出来た。

百年の放浪の果てに、変わり果てた国境と廃墟に辿り着いた。

千年の流浪の果てに、命を削られる大地の姿を見た。

夢路は未だ定まらぬというのに、あたしはこの身体に囚われたままで。

道標も在りはしないのに、魂は殻に篭っている。

得るものなど何も無いのか。

求めることなど在りはしないのか。

どれほど答えにも満足できず、いずれの疑問も解決しない。


ただ、在るがまま。

この身体がやがて朽ちるまでその姿を保ち続ける。



「―――砂漠の悪魔が、こんなところまで出張かな」

「面倒なことを持ち込んだのは君のほうけどね?口の利き方に気をつけないと首を刎ねるよ」

名無し娘は最後に見たときと何ら変わらぬままその姿を保っていた。ロンドンより此処まで飛んできたとすればちょっとした旅路であるが、クロスと違い息を切らした様子はない。

「…しかし、何で君がここまで来たんだ?面倒だろ?」

「うん、面倒だった。故に機嫌悪いぞ」

「…左様ですか」

「ついでに言えば煙草がきれた」

「…機嫌悪いのはそれが原因じゃ」

不機嫌とは言うものの、名無し娘の表情など普段から何ら変わりなかった。扱いの難しい姫君である、と結論付けてクロスは自前の煙草を取り出した。

彼女が火をつけて煙を吐き出すまで、その動作を見届けてから会話を再開する。

「…で、何で?」

「うん、クロス君が出発した日の夜に騒がしい人間が尋ねてきてね」

「―――あぁ、シリルのことか」

「あたしはよく分からんが、これを渡せと言っていたよ」

名無し娘が手渡してきたのはボイスレコーダーだった。他の連絡手段を用いず、ということかシリルなりに諜報を警戒しているということだろうか。

音声を再生する。

『クロス、お前がいないと夜も眠れないんだ。どうか俺の想いが届くことを願って―――』

切った。

「…なんだこれは」

「本題は後に入っているようだが」

再生する。

『…と、いうわけで俺は先日の市内連続殺人事件についての事後処理を担っていたんだが』

事態を説明するシリルの口調に安心し、そこから耳を傾けることにした。

『被害者の一人に数えられたメイフィールド家のご老体が執筆していて遺作となったレポートがある。どういうルートでこれを公表しようとしたのかは定かではないが、この書籍の中身はソロモンの秘儀、その真偽についてだった』

「…真偽?」

『ご老体はかねてから古代遺産の正当性を疑っていた。その一環としてソロモンの鍵を上げられたわけだが、老人はこの“写本”を正当性に満ちた真作であると結論付けた。曰く、その概念法論に疑うところ無き』

シリルの説明からすると、あの写本は写本ですらなく本物ということか。それを聞いて名無し娘のほうを伺う。

「…ホンモノなのか?」

「まさか。だが悪魔召還という“偉業”とやらを実現出来るという意味合いでは本物通りというだけだ」

名無し娘の言は信用に値する、とクロスは自負している。しかしシリルの説明を受けると、あの写本自体がややこしい代物に思えてくる。

『―――あの写本が真作か贋作かはどうでもいいが、とにかく悪魔召還については伝説どおりのことが出来るとご老体は言っている。この警告を発するレポートがアスガルドの眼に付く前に今回の事件が起こったわけだが、ここでもう一つ面白いことがあった。この前の殺人事件の実行犯が、修道会に接触していたようだ』

途端、クロスの身体が強張る。

あの実行犯は特異能力者―――常人在らざる力を持った異端者であった筈だ。そんなはぐれ者の暗殺者が修道会に関わっている?

『真偽は定かではない。なにしろあの事件の関係者の殆どが死体になっているからな。クロスは知らないだろうが、被害者の一人ウッドゲイトの助手だったあの女がいただろう?彼女が数日前から行方不明―――こんな事件が重なって、市内の魔術師たちは軽く恐慌状態だ』

「…余計に事態がややこしい事になったな…」

『修道会がビッグベンにどんな要求を突きつけたのかは分からないが、この一件はどうも胡散臭い。加えて、写本の力によって悪魔が使役されているなら脅威になるだろうな。そう思い、多少なりとも役に立つかもしれない三流悪魔を派遣する次第である。使い切って帰ってくるのが得策だ。―――あ、ブランデルが呼んでるからこのへんで』

声はそこで途切れた。

シリルの声色が完全に聞こえなくなり、辺りを支配する静寂の中で名無し娘を見やる。

「―――援軍?」

「あたしはそんな便利なものじゃないぞ。なんだか知らんが、向こうにソロモンの魔人がいるらしいから来ただけだ。―――あの魔人どもの最近の動向は分からないからな、少し知っておいてもいいだろう」

「同郷の輩ってことか」

「そんな上品なものでもないさ。あたしははぐれ者、連中は変わり者。交わることは無い者同士だよ。ただ、そんなあたしでも他の連中の動きを知っておくのは大事なことでね」

「…はあ」

「気がついたら爆心地に居た、なんて冗談は嫌だろう?さて、肝心の魔人だが…誰が召還されたか調べるべきだな」

「それなら、昨日会った」

クロスが言うと、名無し娘はこちらを見返して瞬きを繰り返した。心底意外だったようで、これが彼女なりの感嘆なのかと受け取る。

「…クロス君、よく生還できたな」

「ああ、僕もそう思うよ」

「で、相手は名乗ったか?」

「…一応。フォカロル、と」

その名前を聞いて、名無し娘はやや考え込むようにして頷いた。意外な名前ではないようだが、彼女からしてみると如何ほどの格の相手か。

「大海公が相手か。奴の武装には詳しくないんだがな…まぁ会ってから腹のうちを確かめようか」

「…会うのか?」

「勿論、その為にわざわざ出向いたんだ。それに、この街に入ったあたりで向こうもあたしの気配に気付いただろうさ。―――そういえばクロス君、相対しておきながらどうやって助かったんだ?」

それはクロス自身にも分かりかねる問いだった。ただ、憶測で言うならば。

「よくは分からないが、ソロモンの鍵なんてものは真作が無い、と指摘したあたりで踵を返したな」

「―――成る程ね、その事実を知る者に興味を抱いたか。とすると、修道会とやらに本気で仕えているわけでもなさそうだ」

名無し娘が推察するが、それはクロス自身も思っていたことだった。あの悪魔は自身の意思でここに留まり修道会と共に居る。その思惑までは推し量ることは出来なかったが、フォカロルは立ち去るときに言葉を残していた。

『お前が辿り着くのを余興の最後としよう』

もし、フォカロルにとって今回の一件が余興に過ぎないならば。それは如何にして終着とすべきものか。

「…まぁなんにしても、君が居るなら心強いよ」

「あたしはそんな大層なもんじゃないんだかね。まぁいいさ、ここからはクロス君の言葉に従おうか」

煙草を加えて上機嫌に戻った―――かどうかは定かではないが、少なくとも不機嫌は払拭できたようではある。それを確かめて、クロスは修道会本部への潜入を決意した。正午前のこの時間、人目もあろうが問題ない。

「修道会の拠点は突き止めてある。早速向かおうか」

もはやセインツの到着を待つ必要はない。頼もしい同居人を連れ立って、クロスは階段を降りた。




修道会の建物は祈る場所でも神の家でもなく、共同住宅といった風体だった。

住まいとなる住居の棟が東側にある他は特に目立ったところはなく、寧ろ狙うべき場所は西側の詰め所。

街一帯で見かける監視の目と、本拠に残る警備の人間は如何ほどか。この全てを掻い潜って幹部のところまで到達するのは至難であった。

「―――筈なんだが」

盛大に割れたガラス管を放り捨ててクロスが呟く。足元に転がるのは死体ではないが、修道会の一員だった。実戦部隊と思しき連中だが、実力行使させてもらった結果がこれである。

クロスの魔術―――水を流動させることで即席の水圧銃とするこのガラス管だが、このとおり人間相手を昏倒させるのは容易だ。

それも直撃すればの話。普通に考えれば目くらまし程度の芸当でしかない。

彼の往く先々には既に修道会の者たちが倒れている。中には事切れた連中もいるだろうが、その責を負うつもりもなかった。

クロスは正義の使者でも何でもなく。

与えられた職務を完遂する上で行使する手段については不問となっていた。

「―――相変わらず反則じみてるな」

本領を発揮した名無し娘を止める術は、普通の人間にはない。少なくとも生半可な武装では彼女に太刀打ちできず、それなりの武装を試みれば余計に彼女を本気にさせる。

悪魔と人間ではこれ程に差が生まれるものか。最早これでは戦闘にすらなり得ない。

かくして、僅か一分とないうちに警備にあたっていた修道会員は倒れ伏した。この急襲に対して街に張り込んでいた連中もこちらに向かってくるだろうが、少しばかりの猶予は生まれた。

ましてやあの娘を討ち取ろうとするなら、同等の切り札を用いるしかないのだ。

「…十二人。これくらいかな、クロス君」

名無し娘が柱の影から姿を覗かせる。その影の裏にある血溜りについては、言及するつもりもなかった。

「とりあえずは、いいんじゃないかな。それより例のフォカロル、気配は分かるのかい?」

「ああ、此処に要るようだ。分かりやすい御仁だよ」

笑みすら浮かべている彼女を見ると余裕の態度とも受け取れるが、それは誤りであることをクロスは承知していた。

予感が正しければ、恐らく名無し娘は。

「―――随分と狼藉を働いたものだな」

奥から現れた人間、そしてそれに伴って銀髪の男が姿を見せる。

同志たちが地に転がる姿を見てもなお厳格な姿勢を崩さない男こそが、恐らく修道会の幹部であろうが。

問題はそれよりも、その隣にいる銀髪の悪魔のほうにあった。

「ロンドンの魔術師か。噂に名高いセインツが来るとの一報を受けていた故、警戒していたが。一介の魔術師風情が派遣されるだけとは」

(…成る程、そういうことか)

街の警戒網がやたら厳重になったのは訳があったということだ。修道会としてもビッグベンが次の行動に移ったときの対策を考えていたわけであり、虎の子のセインツ投入を予測するのはごく自然なことである。それを警戒していたということか。

クロス一人を監視するのに人数を裂きすぎているように思えたのはこういうことだった。

「―――だが、ここの警備は脆かったようだ。貴方は、マリエンベルグ現総長か?」

クロスが問う。以前、写本を巡って争った際に修道会総長は名無し娘によって討ち取られていた。その死体が見つからず、名目上は生死不明となったにせよ総長不在のまま今回の事件を引き起こしたとは考えがたいが。

「…総長代理だ、魔術師よ。言っておくが、我が修道会の戦力はこれだけではない。遊撃部隊を呼び寄せれば市街戦に持ち込むことも可能だ」

ここまでいけば十分にテロリストの類である。

「だが、それをするのは我らの本意ではない。しかし、魔術師よ。私の隣に控えている者が何者であるか理解しているならば勝算はあるまい」

改めて、銀髪の悪魔を見やる。

その姿は昨日にまみえた時と同様に飄々としたものだった。ただ違うものは、表情。余裕と言うべき柔軟さが失われ、言うなれば悪魔らしき姿として君臨している。

…総長代理とやらが高言を始めたようだがそれはこの際無視である。

「大海公。いささか無礼を働きました。お許しを」

突如として、名無し娘の澄んだ声色が響く。気がつけば彼女は既に傅いてフォカロルに敬意を表していた。

あの名無し娘が、である。

咥える煙草などここに在りはせず、クロスからしてみれば彼女らしからぬ振る舞いだった。

「―――貴様、放浪者か」

「はい、名も捨てた流浪の身です」

二人のそのやり取りには、総長代理も注目せざるを得なかったようだ。二人の悪魔、その間には緊張しかない。

「私に刃を向ける為にここまで出向いたか?」

「いえ。わたし程の力量では敵いますまい」

「結構だ。では、何故ここに来た」

「わたしの友人が公を召還せし書物を求めています。その為に」

フォカロルが視線を動かして名無し娘とクロスとを交互に見やった。

「―――成る程、写本の真実を知っていたのはこういうカラクリか。…しかし、人間の魔術師…あぁ、クロスとか言ったな」

「…昨日はどうも」

「うむ。お前は確かに写本を奪取するのが任務なのだろう。だが、どうだろうな。その任務の意味するところは写本を確保することよりも私そのものを無力化することではないのかな?」

―――フォカロルが鋭い指摘をしてくる。

クロスに課せられた任務はソロモンの鍵の写本、これを奪還することにあったわけだが。しかし今回の騒動は修道会がソロモンの悪魔を用いてビッグベンを脅迫していることにある。フォカロルそのものを取り除かなければ問題解決には至らないだろう。

加えて、写本そのものに悪魔を召還する術があったにせよ制御することが叶わぬならば。写本を奪いそれを焼いたところでこの悪魔をどうにかすることは敵わない。

敵の兵器は既に敵の制御下から離れ、自律した機動兵器となったわけである。

「…ご指摘、どうも」

「では、どうする?この私に対して投降を促すかね?魔術師としてのお前とこの流浪者で私を撃ち滅ぼせるか試してみるか」

ここにきてフォカロルは余裕めいた笑みを浮かべていた。いや、余裕ということも確かにあるだろうがその笑みに察すべき事柄は寧ろ享楽であろう。

余興。かの悪魔にとってこの騒乱こそが余興だった。

「公、わたしにとってこの戦いは本意ではありません。どうか剣を収められることを」

「―――ふん、流浪者が随分と慣れた様子だな。だが勝算がないことを一番知っているのは貴様だ。このような戦では面白くも無いか」

フォカロルが嘆息する。名無し娘とは気が合いそうにもなかったが話は通じるようだ。

「フォカロル、何をしている。さっさと始末しろ」

総長代理が檄を飛ばす。

それを聞き留めて、フォカロルはさらに嘆息した。

「余興はこれまでか……いや、もう少し楽しめるか」

「なにを言っているフォカロル。さっさと―――」

「援軍が来たようだぞ」

銀髪の悪魔が指摘する。建物の敷地に、数十名の人間が入ってきていた。完全武装というほどではないが、いずれも修道会の戦闘員であろう。

敷地内の庭を突き抜けてこちらを包囲するのにさほど時間を要しまい。クロスたちにとっては危機と言えるが。

「クロス・ホーエンローエ。昨日話したとおり、これをもって余興は閉幕だ。我が真髄、しっかりと見ておくがいい」

「フォカロル、貴様がさっさと始末をつければ良いのだ。言うとおりにしないか」

「―――高僧、貴公に仕える僅かな時間はこれで終わりだ」

フォカロルが銀の針を取り出す。その切っ先は、叱咤していた総長代理に向けられた。

「…どういうつもりだ、私は写本の儀に則り、」

「ああ、確かに召還の契約には応じた。だがな、そこに主従の契りは存在しない。ましてや、流浪者とはいえ他の悪魔と事を交えるつもりがある筈もなかろう。人間の魔術師程度ならある程度は相手をしてやろうかと思ったが、余興はこれで終わりだ」

「フォカロル!我が命に、」

「従えぬ。あのような紙切れ一枚の主従で大事に関わるつもりも無い」

手が動く。

フォカロルが握っていた、槍ほどの長さもある針は瞬く間に総長代理の心臓を一刺しした。途端、かの者の膝は崩れ倒れ伏す。

一秒とかからなかった。一人の人間を殺すのに要する時間がこの程度。

生者を否定し死期を呼び込むその様は、まさに悪鬼と呼べた。

「―――フォカロル。これは」

「余興の終わりだ。下らぬ写本とやらによって呼び出されて、興味本位で居座ってみたがそれもここまでであろうよ。命を張るべき一騎打ちは互いの誉れか主君の名の下に行うものだ。この流浪者に誉れがなければ、私には忠誠を誓う君主が此処に居ない」

銀髪が揺れる。余裕めいた笑みは心底楽しそうに、クロスを見据えていた。

「さて、残る援軍を屠ってやるか。流浪者、適当に喰らってやれ」

「御意」

名無し娘が立ち上がる。このような姿の彼女を見る日が来るとも思わなかったが、人外の羅刹が二人。

「…イヴリーズ、僕はどうす…」

「うん、邪魔だから隠れてるといいよ」

「そうですか…」

もとよりこんな物騒な戦闘に関わりたいとも思わなかったが、予想通りに軽くあしらわれた。

フォカロルが先陣を切る。飛翔するその背には大鷲と思える四枚の翼があった。上空からあの針を手に襲い掛かる。

刺突に徹するだけのあの武装で、瞬く間に三人を屠った。一刺しされるだけで空気が抜けるように倒れていく。

その無血さとは裏腹に、名無し娘の一手は慈悲深くもなかった。宙に浮いた手の平に吸い上げられるようにして、辺りの砂が彼女の元に集まってくる。

それは砂漠で見たときと同様に。

砂漠とは違い、敷地の庭の土壌から砂をかき集めるようにして。辺り一面の砂が彼女に呼応する。

名無しの砂塵。この箱庭が小さい砂漠に変えられようと驚くに値せず、この砂塵は敵対する兵を飲み込んでいく。

砂に閉じ込められた者の末路など、彼女にとってどうでもいいことだった。砂塵はただ暴れるだけ。そこに居合わせたのは、まさに不運である。

「―――随分と大袈裟な術を心得ているな」

フォカロルが言葉を漏らす。それは賞賛であろうか。彼にとっては鬱陶しいだけでしかない砂塵だがその間隙を縫ってさらに数人の兵士を屠った。

針は容赦なく敵を仕留めていく。だが、その動きは極めて俊敏。飛翔するときの速さでさえ名無し娘とかけはなれている。

速さが自慢と言っていた彼の言動は概ね正しいと言えるだろう。

兵たちの反撃による銃弾。中には小銃で武装した者もいたが、その速さを捉えることも出来ずに次々と倒れていく。

悲鳴を上げる間もない。これは風が荒れ狂うだけだ。過ぎれば、大地に転がる夢を見る。

「…フォカロルの実力は相当凄いな…。昨日戦わなくてよかった」

建物から観戦していたクロスは正直な感想を漏らした。名無し娘よりも格が上であれば戦うという次元の話ではないだろう。

庭での一戦は心配無用と判断して、クロスは倒れたままの総長代理の遺体を見やった。あの針に刺されたが出血らしきものはなく、しかし息はしていない。あの針にしても、変わった武装である。

「―――さて、コイツが伝説どおりのことを信じていたとなると、写本は…」

面倒なマントを引っぺがし、目的の物を探す。それは苦労なく見つかった。懐に忍ばせていた羊皮紙が一枚。紛れもなく、例の写本である。

「―――再び僕の手に戻ってきたか。なんとも、因果なもんだね」

手にとって、改めて文章を眺める。クロスには読み上げることの出来ない代物だが、本物が存在しないにも関わらず悪魔召還をこなしてしまうあたり、人間の長年に渡る概念法論の蓄積は大したものである。

魔術師としては勿論、感嘆に値する代物であるが。

「伝説は伝説どおりにはいかないね」

総長代理の死に顔を眺める。

フォカロルが言ったとおり、これ一枚の主従など所詮その程度でしかなかったのだ。



「―――これで終幕。呆気ないものだな」

フォカロルが満足げに嘆息する。人間相手の数十名ならばこのくらいだろう。辺りに散らばる死体と砂の山を眺めて、名無し娘に向き直った。

「このまま一戦交えるのも悪くないものだが。いやはや、それは止めておこう」

「助かります」

「うむ。さて、貴様の友人は―――あそこか」

二人の悪鬼がクロスのところへと戻った。

総長代理の遺体から見つけたのか、例の写本が握られている。クロスにとっては、どうでもいい代物なのかも知れないが。

「さて、余興ついでに一つ手品を見せてやろうか」

フォカロルが前に出て針を掲げる。そして、あろうことかその先を総長代理の遺体へと向けた。

「…何を?」

クロスが尋ねる間もなく、彼は遺体の心臓を一突きした。

途端、跳ね上がるようにして遺体が息を吹き返す。突如として覚醒した意識に今の状況を判断する力はないのか、総長代理は後ずさりながらフォカロルを見据えた。

「―――は、あ、はっ。フォカロル、貴様、何を…」

「いやいや、旦那。お前はもう生きるも死ぬもないね」

そう言って、彼がこちらに向き直った。

「手品の種明かしだ。この針こそが私の武装、リメイン・ソウル・プリズン。命の処置を後回しにする歪んだ刑具だ」

「…えーっと、生き返ったんだが」

「それこそがこの刑具の肝要なところだ、クロスよ。この針で心臓を一突きすれば動静が逆転する。いわば命を拘束されるようなものだ。決して、これ自体が命を穿つものではない」

面白そうに種明かしをするフォカロルだが、武装として貧弱に見えるそれの凶悪さはクロスにもどうにか理解できた。

つまり、この針に対しては一突きされただけで無力化される。

「私が主君と交わした契りは主従以外にもあってな。執拗に命を奪うことなかれ。そうして編み出した武装がこうした刑具というわけだ」

「……つまり、そこのおっさんをもう一突きすると?」

「再び命を拘束する」

言うや否や、フォカロルは素早く手を動かして逃げ出そうとしていた総長代理の背を貫く。しっかりと貫通した針が抜かれてみれば、総長代理はまたしても倒れ伏した。

「…遊ばれてるな」

「はははは、もっともだ。余興を好む私ならではと言える一振りだな」

「…しかし、そうなるとこいつ等は死亡扱いになるんだろうか…」

「うむ、この刑具でしか命の解放は出来ん。後は土葬なり何なりしてやればよかろう。かくして、取り残された命は地中へというわけだ」

天に召さないという意味では悪魔と同義だろうか。どちらにせよ自分には関係のない話かと割り切って、クロスはフォカロルに向き直った。

「―――とりあえず、礼を言っておくよ」

「なに、余興はいずれ終わるものだからな。感慨などない」

あっさりとしたものだった。

これほどの悪魔が仕える気になったというソロモン王は、どれほどの器だったのだろうか。

「それと、クロスよ。その写本だが」

「―――ああ、やはり燃やすべきだな。騒動のタネになる」

「いや、燃えたことにしておいてお前が個人的に保管しておけ」

意外なことを言う。フォカロルからすれば呼び出し口を預けるようなものだが。

「私が承諾した場合にのみ召還儀礼は完成される。お前が今後の半生で困ることがあれば一度だけ召還に応じよう」

「…へ?」

「不服か?」

「いや、そういうわけじゃないけど。あんたは二君に仕えるタイプには見えなかったんで」

「はははは!馬鹿を言うな、お前ならば余興のタネになると思ったまでのことだ。写本はその為に残しておいてやる」

なんとも皮肉めいた発言、そして奇天烈な思いつきだった。名無し娘とは違った意味で扱いに困る。

だが、この写本をクロスの手元に残すという。これは一つの切り札に成り得ることだった。

「あんたは、これからどうするんだ?」

「どうもしない。呼び出される前の生活に戻るだけだ。お前と同様にな」

笑って、翼を広げる悪魔。伝説に聞くグリフォンを彷彿とさせる。四枚の翼は本来の姿を取り戻したように羽ばたいた。

「さらばだ、クロス・ホーエンローエ。面白い余興あらば、誘うがよい」

どこまでも余裕めいて、悪魔は空を羽ばたいて消えていった。蒼穹の高みに吸い込まれてしまえば、あのような者でも小さく見えて。

遠く、ここからではうかがい知れない故郷を目指す渡り鳥。その姿を見送って、名無し娘のほうに向き直った。

「…で、君のほうは収穫があったのかい?」

「あんまり。名高い大海公があんな酔狂を好む人物だとは思わなかった。…まぁ、彼がこんな召還儀礼に応じたということは冥府に騒ぎもないということか…」

なにやら独り言を呟いていたが、後半はクロスには関係のないことだろう。悪鬼たちの思惑が如何ほどのものか分からないが、彼らの力を目の当たりにすれば抵抗する気も失せてしまう。

「…とりあえず、ここから退散しようか。騒ぎになる前に」

「同感だ。それじゃ、一足先に帰るとしよう」

「―――え?」

止める間もなく。

名無し娘もまた翼を広げて虚空を目指した。羽ばたいた名無しの悪魔は振り返ることもなく高みに消えていく。

「―――ちょっと待て。なんか事後処理だけ残されてないか」

もとより、名無し娘に後始末を頼むわけにもいかなかったが。

彼らが荒らしたこの箱庭、とりあえずはここから逃げ出すことがクロスの第一目標と言えた。

「―――帰ってからも面倒が色々あるかな…報告にしろなんにしろ」

だが問題は解決できた。ビッグベンを悩ませた元凶は取り除いたわけだし、アスガルドの面子も立つだろう。

悪鬼たちが飛び去った蒼穹を垣間見る。窺い知れぬ悪魔は何処かへ飛び去っただけだが一人はよく知る部屋へと帰っただけだろう。

かくして、物語は元通りの道筋へと軌道修正した。クロスが無事に帰国することで、一旦は平穏を享受することが出来るだろう。






「現実の諜報員はジェームズ・ボンドのようにはいかないものですね」

『活躍が物足りないかね?』

「いえ、事件の真相を知りえないという点で」

『もっともな話だが、大衆にとって情報とは知るものではなく教えてもらうものだ。分不相応になってはいかんね』

エルゼが受話器越しに会話を続ける。執務室を離れ、車の中からの電話だった。彼女の弟が写本焼却処分という報告をもたらして既に一晩が経過した。あれ以来、修道会からの脅迫もなく暗殺も起こっていない。解決したと見るべきだろう。

『なんにせよ、君の弟クンはよくやったと言うべきだろうね』

「ええ、自慢の弟ですから」

『結構なことだ。さて、マリエンベルグからの要求にあったホーリーグレイルの返還であるが』

「はい、無視して構わないかと」

『そうなるな。今後とも警戒が必要だが、そのときはまた連絡しよう。よろしく頼むよ』

簡潔な挨拶を最後に、電話を切る。

一仕事終えた疲労感もあったが、同時に充実感がエルゼを支配していた。弟に褒美でもあげなくては。彼女の思惑どおり事件は解決したのだから。

携帯電話を閉じる。番号を履歴から削除して、彼女の職務もまたひと段落した。





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