02-テムズ・リバーサイド・マーダー
道を往く者はやがて訪れる行き止まりに踏み止まる。
そこに停滞するのか、やがては飛び越えるのか。
数多の障害を打ち滅ぼしてもなお道を往く者は安息することはない。
そうして戦い、交わり、幾度と無く遼遠を飛び越えてなお理解することはなく。
ただの怠惰によって道に留まったときに。
自分は世界を知らなかったのだと気付いたのだ。
「…なにしてるんだ?」
「…見て分からないか」
「…へばってるように見える」
「ではそのように」
クロスが部屋に戻ってみれば、同居人がテーブルに伏しているところだった。見た目は二十歳にも達しないように見える小娘といった風貌だが、とんでもない高齢だという事実がある。
そもそも、人間ではない。クロスがオリエントの砂漠で拾ってきた悪魔なのであり。
(再確認すると余計に現実味が無くなるのは何でだろうな)
だがそれは事実だった。
ただ、この悪魔。一応は悪魔と呼ぶしかない。何故ならば何らかの悪事を働いたことによって天から追放された故に悪魔と呼ばれるに至ったからであり。人間風情なら容易く殺戮できる怪物だからである。
問題はその容姿。やはり見た目は小娘であり、中世的な顔立ちは綺麗といえば綺麗だがその形容に留まる。加えて愛煙家であり大抵は煙草を片手にぼんやりを過ごしていた。
一言で言うならば、変である。
「…変なのを拾っちゃったかなぁ」
かく言うクロスは、大英博物館勤務ということになっているが実際の肩書きは魔術師という。浮世離れしているのはお互い様なのだった。
「…まぁいいや。で、何でまたへばってるんだ?」
「…長いこと砂漠で…暮らしすぎた…この国は…湿気が…」
「まぁ気候は全然違うしな。しかし、そこまでキツイかい?」
「ここで吸う煙草は不味い…」
「ごめんそれは絶対言いがかりだから」
ロンドンの気候は格差が無いのが特徴と言えば特徴ではあるが、基本的に気まぐれな天候ではある。湿度が低いことはないが、格段に高いわけでもなかった。
要は、彼女が慣れているか否かという問題であるだけで。
荷物をテーブルに投げて、上着を脱ぐ。故郷の次に長く暮らしてきたこの部屋をクロスはそれなりに気に入っていた。建物が若干斜めになっていることを除けば気になる点はさほど無いが、閑静なのは間違いない。
彼にとって騒がしいのは祭りと観劇の時だけで十分なのだと思っていた。
「…出勤というやつか、クロス君」
「まぁね。この前の報告会と、その他諸々」
「人間の魔術師というのは…学者のようにジメジメした生活を送るものだと思ってたが」
「ごめんそれ絶対偏見」
思えば。
何事にも興味ないように振舞うこの悪魔がこうして住み着いている事実こそが何よりの異端ではあったのだ。
ロンドンに本部を置く魔術師相互扶助の学術機関。
ここでは名をアスガルドと呼ばれる。建前として、何の武力も発言力も持たない組織。
その実態としては、建前に謳うように相互扶助が目的であるからやましいところはない。だが学術的研究にかかる費用を全て負担することは難しく、それ故に多角経営という発想が生まれた。
端的に言うと物流である。
「―――クロス・ホーエンローエ。報告書は以上か?」
デスクで仏頂面をしている上司がこちらに一瞥することもなく尋ねてくる。
「はい。騎士修道会と思われる連中に襲撃を受けましたがなんとか逃げ帰りました」
「報告書にも交戦の記録はないが、反撃してはいないのだな?」
「はい」
大嘘である。しかし厄介な記録を残すことは誰の利益にもなりはしない。クロスは平静を保って堂々と嘘を通した。
「では結構。―――君が襲撃されたのは情報漏洩による私の不手際だ、すまなかった」
機密保持に徹していても漏洩していただろうと、クロスは確信していたが。修道会の動きはそういうものだった。
つまり、あの時点で襲撃されたならまだ遅いくらいだった筈で。
「今回君が運んでくれたソロモンの写本は、正式な交渉によって騎士修道会に売却されることになっている」
…つまりこういうことだ。
どの道程を辿ろうと、写本は連中の手に渡るようになっているのだから。
「例の修道会、何処の組織だったのでしょうか?」
「マリエンベルグ。なに、名前だけで組織としては貧弱だ。だが団員がヨーロッパ各地に点在しているがな。それなりに儲けていたのだろう、我々の言い値で落札しそうとのことだ」
これらが、アスガルドの資金源となる。
クロスはその為に奔走する、言わば資金調達の為に。
「事の推移はそんなところだな。クロス、明々後日まで休んでくれていい。ご苦労だった」
退席する合図が促される。それに逆らう理由は何も無い、クロスは席を立ち一室を後にする。
余計なことは口にしないほうが楽に生きられると経験で知っていた。だからこそ余計な報告はしていないし、命の危険について憤慨することもない。彼の上司もそういった簡潔な報告を望んでいるのだろうから。
ただ。
(あぁ背中痛い。報告するのは面倒だ帰って寝よう)
倦怠感は抜けきらず、馴染みそうに無い部屋の感覚を切り捨てて部屋を抜け出た。
「なんだ、結局連中が写本を手にしたか」
正直、この話を持ち出してみれば名無しが怒るかと思ったがどうやら興味ないらしい。それ自体は納得できることなので気にするところでもなかろう。
納得いかないのは買いだめしてあるクロスの煙草にまで手をつけられたことだが。
「…ま、よくある話さ。アスガルドにとってはこれが商売なんだ。研究費用の足しになれば多くの魔術師が助かるわけで」
「素晴らしい。これで学術という自慰行為を続けられるな。全ての英国人が君ほど献身的なら良いだろうに」
「…僕は献身的になった覚えないけどな…安月給だけど」
ついでに言うならば、食費がかさむわけではないこの悪魔は代わりに煙草の消耗が早すぎる。ただでさえ物価高のロンドンで煙草は他国より値が張るものだ。
そんな事情から手巻き煙草を推奨したのだが、面倒を嫌うのがこの悪魔でもある。
「余計なものを拾っちゃったかなぁ」
そんな呟きを聞きとがめられたわけではないが、閑静な住宅街にけたたましい足音が響いてくる。例えるまでもなく、表の錆かかった階段を駆け上る音であろうが。
その足音の主をクロスは知っていたので特に気にすることはなかった。荷物を適当にまとめて、とりあえずソファーでくつろぐ。
紅茶でも入れようかと思ったところで、部屋のドアが無造作に開けられた。
「やは〜クロス〜、帰ってたんだな!」
「…丁度いいところにお菓子を持って現れたな」
唐突の訪問者は挨拶もそこそこに笑顔を振りまきながら突撃してきた。ドアを蹴飛ばしたのかと思えるほどに勢いのあるものならば突撃と呼んでも差し支えないであろうし、これ以上ないご機嫌具合を伺うならばこれが満面の笑みというやつなのだろう。
「シリル、お茶を入れるから手土産を」
「おっ、丁度よかったのか!安心しろ、今日は痛んでないからな!」
「…まぁいいけど」
突然現れたこの訪問者、同居人では勿論ない。クロスとは同僚と呼べる、シリル・マクファーレン。ウェールズ生まれのジョンブル。細い眼鏡をかけた顔立ちだけならば十分に人目を引けるほど整った男だった。それなりに整った身なりは作業着程度に見えなくもないが、身軽ともとれる服装は長髪の彼に程よく似合うであろう。
この外見だけならば、クロスも十分に認めてはいるのだが。
「クロスがどっか出張してて暇だったよ〜。で、なんか土産ないのか?俺ちょっと腹減ったんだけど」
「生憎、土産はないんだよ。こっちは死線を掻い潜って生還したんだからな…」
「なに!?俺のクロスをそんな危険な目にあわせたのか室長は!!なんで困ったときに俺を呼ばないんだ!」
「…呼んでもどーにもならないよ」
「わかっちゃいないねぇ、愛の力があれば世の中大抵の事件は解決するって決まってるんだよ。知らないか?主がそう説いたんだぜ」
「相手も自分を愛してくれるとは限らないと聖書に付け加えておいてくれ」
「ひでぇ、俺がこんなに心配してるってのに…」
「…まぁ、見ての通り無事だからな。なんとかなったってことさ」
「うん、そりゃそうだが。いやぁ、さすがクロス。機転がき………」
シリルの笑みは凍りつき、台詞がそこで止まる。何事かとその視線の先を見やると、テーブルを占拠して気だるそうに煙草をふかす娘が居た。
(あ、忘れてた)
と思うときには既に遅し。
「…クロス」
「…何だ」
「…誰コイツ」
「…いま言った、死線を掻い潜る際に手助けしてもらった名無しちゃん。ちょっと思うところあって連れて帰ってきてみたんだが」
「却下!!!!!!!」
シリルの大絶叫がブリクストンに響き渡った。
「…なんだその男は?」
部屋の中央でもはや英語なのかさえ判別不能の言語を発しているシリルをさも鬱陶しそうに見つめる名無し娘。
ついに燃え尽きた煙草の吸殻を適当に灰皿に突っ込む。しびれを切らしたという意思表示であろうか。
名無し娘についての経緯を概ね説明したのだが、シリルは収まりそうにない。
「…えーと、僕の同僚で、シリルだ」
「クロス君の連れにしては随分と騒がしい人間だな」
「…ちょっと性癖がアレでナニなもんでね…」
「発言は的確にすべきだぞ」
「つまりその…同性愛者というやつなんだ。よって、この部屋に来る。…OK?」
「あぁ、わかった。クロス君が何であたしに手を出さないかよく分かった。気にせず続けてくれ」
「違う僕は性癖普通ですお嬢様!!!」
机にうつ伏して知らぬ素振りを装うとする金髪の悪魔を半ば無理やりに起こして弁明する。両肩をつかんで揺らすとその頭が頼りなさげに揺れていたが、この際知ったことではない。
「いいですか僕の尊厳にかけて弁明するけどそんな趣味はないしそもそもシリルの趣味が壊れてんのは僕の所為でもないんだよ!!OK!?」
「…クロス君、煩い」
「聞く気ゼロですか姫様!?わかったわかりました!!今から貴女を押し倒せば納得してもらえますか!!」
「…悪魔すら孕ませようとするのか。とんでもない節操なしだね」
「なにその見下した視線は!?あああああああああもう!とにかく!僕は普通なんだシリルがおかしいだけなんだ!」
「…その変人と親しげなのは何故なのか」
「…まぁ、だっていくらスルーしても追ってくるからいい加減諦めて」
「かくして君の貞操は奪われたと」
「捧げてない!!」
クロスが必死の弁明をするものだからやや息をきらしていたが、それ以上にシリルのほうが半狂乱状態だった。
無理もない、意中の人…この場合はクロスだが…が見知らぬ同居人を侍らしているのだから。
「聞いてるのかクロス!俺は認めないぞ!何処の誰さんだか分からない小娘がああああああああああああああ!!!」
「シリルより素性ははっきりしてると思うけどね」
「なにそのやる気ない返事!!お兄さんはもう傷ついた!!…おい小娘!!クロスを誑かしたら下水の底に沈めてやるからな!!」
なにやら大絶叫で泣きながら部屋から出て行く同僚を見送って、その声が完全に遠ざかり聞こえなくなるまで口を閉ざす。
やがて、名無し娘が開口した。
「―――結局、何だったんだ?」
「…さあ?いつものことだから気にしなくていいさ。しばらくしたらすぐにまた襲来すると思うからね…」
「…君のことだからもっと閑静な住まいに居るものだと思ったんだが…」
騒々しいことを嫌う悪魔がやや疲れた表情で煙草に火をつけていた。
ロンドンの議事堂、その象徴たるビッグベン。
威厳というより峻厳たるその聳え方は古きこの都には相応しく、国内外において時計塔は有名であろう。もとより調和を律するのがこの街であり、新たな建築や物流には以前からのものに合わせることが求められる。
その、最たる例がこの建築物。
象徴としては余りにも判りやすく、その袂。テムズ河沿いの対岸に一人の男が居た。
人知れぬ深夜に徘徊するには怪しげな風貌であり、官庁街における浮浪者とは考え難いような男だった。何をしているというわけでもなく、テムズ河にかかる桟橋を眺めて佇んでいる。
時刻はとうに日付を越えていた。ウォータールー駅から少し離れ、橋を超える様子もない男はどこに移動するまでもなくそこに居る。人知れず待ち合わせをするならば、こうした情景には成り得るだろうが。
桟橋に人影を確認して、男は揺れ動いた。足音は決して大きくなく、その会見が人目を忍んで行われるものだということを示唆している。
彼は既に日陰者だった。闇夜に紛れてでしか行動できないはぐれ者。
「―――遅かったな。少々待ちくたびれた」
遅れて到着した人物に話しかける。ライトアップされたテムズ河沿岸ではあるが、その人物はさらに暗く表情までは読み取れなかった。
「まぁこれで元通りに―――」
その人物の様子などお構いなしに話しかけていた男の台詞は、ついぞ最後まで語られることはなく留まる。
眼前の人物によって放たれた凶刃によって。
「―――!!」
それを正面から食らうことがなかったのはもはや運の類であろう。仰け反るようにして地面を転がり、桟橋から転落しないようにして立ち上がる。体制を整えつつも、正面への警戒は怠らなかった。
だが、それはすでに怠慢だ。
放たれた刃は既に無数。ここに至って男は、正面のみに重きを置いたことを後悔する。
飛来するものは鋭利…だが不可視である重苦しい刃の群れ。如何に振るわれたものかさえ定かならず、無論のこと獲物の正体すら不明。
だが、男一人を切り刻むには事足りた。
左から一刀。右から二刀。それぞれの刃によって体を一閃される。
鋭く走る痛みに鮮血を交え、それでも男が膝をつかなかったのは日頃の鍛錬の賜物であろうか―――。
今は感謝してもいい。例え、すぐに倒れなかったことが余計なことだとはしても。
「どういうつもりだ貴様…!」
憤慨というよりは困惑。突然の殺意に晒されても男はあえて平静に問いただす。だが、それをするには既に遅い。待ち合わせをしていた人物が男を殺そうとしていることは明白だった。
三度襲い掛かる刃。それを回避できたのは事前に気配を察したからだ。目の前の人物は相変わらず立ち尽くしたままであり獲物を振るうような動作はない。にも関わらず襲い来る刃物は常に複数だった。
魔術の類。そうとしか思えない。だが、複雑な式や呪文によって概念法論を完成させねばならない多重詠唱でなければこのような攻撃性魔術の行使は難しかろう。目の前の人物にそのような詠唱動作が見て取れるか?否、言葉の一つも発してはいない。
だが、例え相手の攻撃手段が何であれ抵抗しなければ殺されるだけである。
急ぎ詠唱を開始する。文章を読み上げるだけではない、概念を編み上げるための予備動作。魔術師である彼にとってもそれは例外ではなく、複雑な術になればなるほど詠唱時間も延びる。
口を滑る言霊は極めて流暢であり、相手の攻撃を回避しつつ行われたにしては上出来であったと言えるだろう。
完成された術を放つ。編み上げられた概念は突出。大気の衝撃波による術は簡潔なものではあるがこの場合は効果的と言えた。何しろ、相手の背後は河である。一撃であろうと命中すればそれで勝敗は決するだろう。
大気の砲弾。それは一点集中の簡易的なものではあったが突風以上の力をもたらした。風塵となりて相手に命中する。
かくして彼の人物は、桟橋より吹き飛ばされ―――。
唐突に襲い来る衝撃によって彼自身の身体もまた地を転がった。
痛みは身体の中心からきていた。それが致命傷だと悟ったときには、逆流する血潮によって呼吸が妨げられまともな思考までも閉ざされる。あの寸前、相手の刃によって体を貫かれたのだと確信していながら。
理解できなかった。自分の身体には、何一つとして刺さってなどいないというのに。
かくして彼の身体は引きずられていく。誰に、などと問うまでもない。つい今しがた彼自身が吹き飛ばした人物によって、川底へと招かれている。
見えない刃。それに繋がれた得体の知れない人物。そして、それに誘われて自分までも。
次第に近づいてきた桟橋の先端を目に焼き付けながら、性質の悪い冗談のようだと哂ってみせた。
朝。例えば日課となっている紅茶を淹れようとしたら居候の名無し娘の姿がなくなっていても、慌てて彼女を探しに行くことはない。
「…どこ行ったかな」
放っておけば戻ってくるであろうと考えているのが半分、彼女は自ら望んでここに来たわけではないというのがもう半分だ。彼にとってあの悪魔は、強いて言えば知り合った機会に交流を持っておきたいと考えた程度であり、彼女がいなくなることについてさほど実感はない。
もとより現に存在するかおぼろげなものでありながら。
「…まぁいいか」
それ以上におぼろげな寝起きの感覚が判断力というものを略奪しているのだろうとは理解できていた。
折角の休日を満喫しようとして、とりあえず今日すべきことを思案していると携帯電話が鳴っていることに気付く。上役からのようだった。
「…はい」
『おはようクロス。休日の朝にすまんな』
声の主はやはり彼の上司であるブランデルだった。いつもと変わりなく、毅然とした口調は睡眠などと無縁のようにすら思える。無論、そんなことはないだろうが。
「何かありましたか?」
『先日に休暇を与えたばかりで申し訳ないが、マクファーレンの仕事を補佐してやってほしい』
「…シリルの?」
『そう、シリル・マクファーレン。君とは交友があろう。彼には今、ある事件について捜査するよう指示してある』
シリルはクロスにとって同僚ではあるがその業務内容は若干異なる。クロスは遺物、魔術関連の物品について調査を行うがシリルは国内での魔術師扶助の為に動いていた。有体に言えば魔術師の登用、推挙であるが。
「その事件とは?シリルが関わることとなると…」
『詳細については本人から聞いてくれ。事が事ゆえ、電話での明言は避ける。但し、身の危険を感じた場合には直ちにアスガルド本部へ出頭するように』
身の危険ならば先日の中東でのことも十分過ぎることだったが、それは口にしない。ただ、この件についても荒事であるということだろう。
「わかりました。では、シリルの補佐に就きます」
『頼む。期限は定めない。事件の概要が明らかになるまで続行を許可する』
無期限の捜査命令。如何なる事態か。盗聴を懸念してのことか上役はそれだけを告げて電話を切った。
とりあえずシリルの到着を待たねばならない。何処にいるか連絡しようかと思ったが、それよりも早く彼が訪れそうだった。
昨日も聞いたけたたましい足音…階段を駆け上がる騒音が響いてくる。
「クーロースー!」
「さあ仕事に行こうか。手ぶら気味だけどまぁいいよな」
「あれ話はやっ!」
唐突にドアを開け放ち飛び込んでくる男のことは慣れていたので簡潔に挨拶を済ませた。
「ブランデルから連絡を受けたよ。なんかの捜査だとか」
「いやそうなんだけど、なんてーかこう、リアクションってものは薄い気がしませんかねえ?」
「知らない。今更シリルの登場に気遣ってらんない」
「はは、そんなに俺を待ちわびたのか。俺やべえー」
何故だか気味の悪い笑顔を浮かべているシリルを横目に、最低限の身支度を整える。さして準備するものはなかったが、危険を想定して武器になるものを仕舞い込んだ。必要な事態は望まないが。
「さて行こうか」
「おうよ。車を下に止めてあるぜ」
部屋を出る。外は相変わらず薄い雲によって包まれていた。快晴とは程遠いが、荒れ狂う暴風にはさらに遠い。
「ちょっと面倒な事件なんでね。クロスがいてくれれば捗るぜ」
「Wer warten kann, hat viel getan」
「…なんだって?」
「待つことが出来れば良い結果が出るのさ」
この空は曇り空だがそれも待っていれば様変わりするだろう。それが好転するものか悪化するものかはさて置いて。
「さて、仕事にかかりますかね」
シリルのアストラに乗り込む。クロスは車を持たないが、それでも運転免許は所持していた。但し、面倒なので自分で運転することはない。こうしてシリルが迎えに来ることのほうが多かった。
「とりあえず簡単に事件を話しておくな」
慣れた手つきで発進させるシリル。前を見据えたままだが、こうしたときの彼は器用に立ち回るものだ…クロスは何年かの付き合いでそれを知っていた。
「三日前の晩から、昨晩にかけてアスガルドに関わる魔術師が殺害された。一晩に一人ずつ、三体の死体が上がってる」
魔術師殺し。成る程、上役が渋っていたのはこういうことだ。加害者が誰であれ被害者にアスガルド関係者が上がれば躍起になる。それも、三人。
「全て街中で?」
「ああ。殺害時刻は深夜と相場が決まってるが、狙ったように目撃者もいない。凶器は…刃物と推定されるが実物は上がってないな。被害者全てが鋭利な刃で滅多切りにされてる。まぁ、顔の判別がつかねえってことはないけどな」
「では、死因はそれか」
「…それがそうとも言えないんだが。三人目の被害者…つまり昨晩のことなんだが…コイツは切り傷を幾つも受けながら抵抗したと見られる。その上で、テムズ河に落とされた」
「今朝になってから死体が上がったか」
「ああ。ウォータールー駅の近くの桟橋でな。三人連続で魔術師が殺されてるんでアスガルドはロンドン全域の魔術師に警戒令を出すそうだ。何処まで通用するかしらねえが」
一般に魔術師という言葉は形骸と化している。彼らはあやかしの術を行使するように見られがちだがその実は学者のようなものだ。違う点は、概念を学ぶことを主体とする為か立証可能な物件が少ないことくらいで。
少なくともクロスやシリルのような戦闘に長けたものでさえ知識人であることに変わりない。そうした人物を多く失うことはアスガルドにとって大きな損失だ。
「当局は動いてるんだろう?アスガルドが単独で探りを入れるのは?」
「さあな。上の思惑はわからんけど。アスガルド云々て言うよりはバックの指示なんじゃないかねえ」
「ビッグベンか、それともウエストミンスター」
「魔術師同士による内紛てことも考えられるからだろうなぁ。ま、俺らは貧乏くじ引いたわけさ」
煙草を差し出され、それを遠慮したところで名無し娘のことを思い出した。特に心配は無用だろうが。
「―――クロス?」
「ああ、聞いてる」
「んじゃ続けるか。被害者の詳細は―――」
左手の人差し指でこめかみを押さえるような動作。シリルが何かを思い出そうとするときの癖だった。ただ、記憶力に優れているので単純に予備動作とも言えるだろう。
「一人目。ウェールズより招かれた在野の魔術師アダルバード・メイフィールド。51歳。一週間前にアスガルドに招聘されたばかりで、大英博物館付き。三日前の夜にユーストン駅の近くで殺害。二人目。ドイツからアスガルドに留学していたプラット・モークリー。19歳。二日前にハックニーで死体が出た。三人目。セオフィラス・ウッドゲイト。33歳。アスガルドに属していた人員。文献調査とかなんとか。こいつがさっき言った、テムズ河に浮かんでた奴だ」
断片的な詳細。クロスは手帳にその説明を箇条書きにしていく。肝要なところは暗記すれば良いが、こうした事件は並べてみなければ判らない。
「被害者は全員男か」
「そうだな。一人目のメイフィールドの爺はそれなりに名の通った奴だが後は風采の上がらない連中」
大した酷評だが、メイフィールドの名はクロスも知っていた。ウェールズに本拠を置く貴族の末裔だと聞いている。
「魔術師ばかり狙われてるが、同一犯だという根拠は?」
「凶器が分かり易いからな。その凶器、肝心なものが何なのか未だ分かっていないが。クロスはどう思う?」
問われ、手帳に書き込んだ文字の羅列を一瞥する。ざっと見てみるとさして共通点も見出せず、シリルが酷評したように魔術師としての風采が上がらないなら研究成果を盗み出すといった内紛も考えにくい。
だが死体は三つ揃った。魔術師が狙われているのは概ね事実なのだろう。
「魔術師の暗殺…どうもパッとしないね」
「そうか?根暗がいくら死んだところで世間的にはどうでもいいことだが」
「…いや、そういうことじゃないけど。まぁ加害者が誰であれ表沙汰にできないような事件じゃないかなって話さ。どうせロクな話じゃない」
「それについては同感だな」
シリルが笑い飛ばし、そこで一息つく。
「―――ところで何処に向かってるんだっけ?」
「とりあえず昨日の現場。当局が捜査中だがな。向こうさんからしてみれば俺らは同僚みてえなもんだから大丈夫だろ」
景色は流れていく。灰色に包まれた街でさえ普段と変わらぬ日常は広がるもので。たかが三人ほど殺されようと社会に影響などあろう筈も無い。
それを不毛と哂うことはないが、人知れず学術的研究に明け暮れる彼らが人知れず死んだということは。自分もまた日陰を往くのであろう。
魔術を学ぶきっかけは、大抵の場合好奇心か野心から来る。概念法論とはヒトの意識そのものであるし、そこに携わる独自の概念は学ぶというより図るというほうが正しい。自らですら図りきれぬほどの概念の地平。そこに何らかの答えを見出すならば。
論理としては愚策。哲学としては蒙昧。これはもはや自己満足のためのゲームではないか。
名無し娘が言っていたように、自慰行為だと思えばそれも頷けるようなものだ。その絶頂が死でないのなら、恐らく変な形で歪みもするだろうが。
楽に生きたいと、何となしにこの世界に足を踏み入れたクロスとは一線を画していた。
「―――やっぱり、煙草くれ」
当局による捜査は、つまるところ行き詰っていた。
最初の事件から三日連夜。多発と呼んで差し支えない状況下において目撃証言は得られず、現場に残されたものは遺体のみという状態だった。
「…何もないの?」
「みたいだな」
クロスたちの立場からして、捜査に強制介入する権限はないものの被害者の同僚という形から概要を知る事は出来た。それでも、秘匿されない部分に留まるだろうが。
「ちょっと付近を回ってみるか。どうする?クロス」
「別行動しよう。僕も見て回るさ」
「OK。浮気するなよ?」
どうでもいい言葉を聞き流して二手に別れる。
テムズ河の畔に僅かながら人だかりはあるものの、官庁街は世話しなく日常を彩っている。ウエストミンスター大橋を背景に景色を眺めつつ、桟橋を後にした。
(…おや?)
人だかりから僅かばかり離れ、現場に視線を下ろす女に気付く。まだ二十台半ば程度の髪の長い女性。人だかりから浮き彫りになるような風貌は単に見目の問題ではなく。
ふと、視線が交わる。
その目線を合図と受け取ったわけではなかろうが、彼女は静かにこちらに歩み寄った。特に警戒すべき点は見当たらない。気にかけるところと言えば。
「―――あの。セオフィラスの同僚の方ですか?」
言われ、それが被害者の名であったことを思い出した。軽く頷く。
「ええ。何故それを?」
「…その、雰囲気が似ていたもので。…すみません。私、彼の研究について助手をしていたんです」
研究。セオフィラス・ウッドゲイトの職務は文献調査…このあたりは史家も含まれるのだろうが…と聞いていた。魔術師にとって研究とは公私の分別がつけ難いものだ。それは実感として知っている。
「クロス・ホーエンローエです。ウッドゲイト氏とはさほど面識がありませんが、今回のことで少し調べていました」
「レーンです。…あの、犯人は見つかっていないんでしょうか?」
そう問いかける彼女の姿に不自然な点は何も無い。クロスにとって魔術師というあやふやな肩書きを伏せた自己紹介ではあったが、同僚という嘘は当たらずとも遠からず。さして問題もなかろう。
先ほどより気がかりであったことは。
現場を見つめるその視線にある色が、憎悪に感じられたからだった。
「よく分かりませんが、特定できていないようです」
「…そうですか」
「職場のほうでは昨日は休暇となっていたようですが、彼の足取りは分かりますか?」
尋ねる。レーンと名乗る彼女が首を横に振ったところで、クロスはやや嘆息した。
「彼は研究熱心でしたから…。ごめんなさい、そろそろ行かないと」
「あぁ、分かりました。何かありましたら、こちらに連絡頂けますか」
携帯番号を記したメモ―――表向きとしての名刺代わりのメモを手渡す。無言で受け取る彼女は、その連絡先にさして興味もなさそうだった。
「―――ウッドゲイト氏は、魔術師としても優秀だったようで」
やや低い声色で、クロスが呟く。
その言葉を発したのは探りを入れるという意味合いが大きかった。外れならそれはそれで問題ない。ただ、それに過剰反応することはなかった彼女だが。
口惜しそうに俯くその仕草だけが、被害者である魔術師との関係の深さを物語っていたような気がした。
無言のまま立ち去る。その背中を見届けて…見送ることはなく視線を桟橋に戻した。
見ると、シリルがこちらに向かって歩いてきている。刑事に状況を尋ねていたのだろうか。
「―――どうだ?なんかあったか?」
「いや特に。被害者の助手を名乗る女が居た」
「…助手?そんなのいたっけか…。まあ、それは後で聞くさ」
「捜査状況を尋ねてきたのかい?」
その質問に対して大きく頷くシリルだったが、直後に眉間に皺を寄せて見せた。
「だがやはり手がかりゼロ。死体を作るペースが規則的かつ迅速との話だ。そんなん分かってるってのな?」
二人してやや苦笑する。
「だがクロス。容疑者をさっき思いついたぞー」
「…へ?」
「お前のとこに転がり込んだ小娘だ!」
問い詰められ、落胆した。
「…それはないね」
「なにぃ!?何故だクロス!何故あんな小娘を庇い立てる!…やはり篭絡されていたか!」
「いや全く。僕が言いたいのはね、シリル。アレは現世の人間が思うような悪鬼じゃないってことさ」
「実はイイ奴と言いたいのか?」
「いや、単に怠惰なだけ。生きてんだか死んでんだか分かりゃしない」
我ながら的を得た回答だとは思ったが、名無し娘がここに居ないことにも感謝をした。あの翼が薙げば頭が無くなる。
「…だがクロス。お前の話を聞くとアレは悪魔なんだろ?」
「自称によるとそうらしい」
「何をするかわかったもんじゃないぞ。…そういえば今朝は見かけてないな。どうしたんだ?」
「朝起きたら居なかった」
「余計に怪しいだろ!!」
…この場合、彼のほうが正論だとは思うのだが。
「名無しのことは心配いらないと思うよ。じゃなきゃ連れてこない」
「…ええい、まあ言及はこのくらいにしておこう。あの小娘ェ、いずれクロスのもとから叩き出してやる…」
「…何がそんなに気に入らないかねぇ」
「だって!考えてみろよ!クロスと同棲なんて美味しいポストは俺でさえあやかってないんだぞ!ちょっとは気遣えこの鈍感まぁそこがいいんだが!」
「―――さて捜査に戻ろうか。とりあえず一つ前の現場にでも」
「くそぅ、俺の愛の囁きが通じなくなったのもあの小娘の所為だ」
元よりそんな囁きに屈した覚えなどないのだが。
そんな考えはとりあえず胸中に留めて置くことにして、事件を辿ることに立ち返った。
ふと、先刻の出会いを思い出す。
レーンと名乗った彼女がここに居た理由。憎悪に近い感情の噴出。或いは、憤慨。そこにある思惑を知らぬままではあるが、魔術師という単語に何ら反応を示さない答えこそが答えに成り得たのかも知れなかった。
「…ふむ。ウッドゲイトの研究内容について詳しい調査が必要かな」
「どした?突然」
「気になっただけさ。魔術師同士の研究内容の詮索は不可侵だが、今回は特別だ」
「まぁいいけど。探りを入れるように進言しておくさ」
携帯電話を取り出して連絡するシリルを横目に、クロスは一つの思惑を懸念し始めていた。
「―――結局、成果はないねぇ」
「ないなぁ」
ハックニーの夜店を眺めつつ、路傍で休憩していた。二人目の殺害現場がこのあたりだが、移民系が多く住む街並みである為か事件という事件はさして珍しくもない。
そういった治安を背後にして暗躍する人物がいるとすれば、成る程、頷けない話ではなかった。だが、官庁街と比べこうした街並みは眠ることを知らぬものだ。
「そういえば、二人目の被害者。なんていったっけ」
「プラット・モークリー」
「そうそれ。留学生にしては変わったところを住まいに選んだんだね」
「お家は裕福だったそうだが、本人は落ちこぼれだったらしいぜ。金に困ってなんかやってたんじゃねえか?」
ドイツの出自としてのクロスは、しかしモークリーという家名を知らなかった。裕福とは言ってもさほどのことはないのだろう。現にアスガルドへの圧力も確認されていない。
「…さぁてどうする?クロス」
「作戦があるとすれば一つだなぁ」
「…徹夜?」
「それしかないじゃん。あー、くそ。出張明けで疲れてるってのに」
「いいねぇ、眠れぬ夜。いいフレーズだぜ」
妙な感慨にふけっているシリルは放っておくことにして、当面の行動について模索する。
考えうることは、至極容易なものだ。三日連夜で起きた殺人に四日目がないとは断言できず、或いは誰もがそういう危惧を抱く。深夜に迂闊な行動を取ることは当局の眼に捉えられる恐れもあるが。
ロンドンに在住する殆どの、魔術師という肩書きの者には勧告が成されている。この状況下で、事件を阻止するより起こさせたほうが効率的とは言えた。
「困った隣人は見殺しってのは手っ取り早いか」
「別に善人でも正義の味方でもないしね。僕も君も」
「問題は、次の現場の予測だな」
シリルが言うとおり、ロンドン市内における現場を特定することは困難である。このハックニーのように雑多な街並みもあることだし、昨今では発砲事件すら珍しいとは呼べない。件の犯人の行動を予測することは難しかった。
「どこに賭ける?クロス」
「テムズ河南岸」
「根拠は?」
「勘さ。ただ、以前の現場をなぞるような事件ではない気がするだけでね」
うっすらとした宵闇はやがて別の表情を街に与えるだろう。或いはそれに与し、酔いしれてしまえれば。何も感じることすらなく過ごせるには違いないだろうが。
この街に佇むものは恐怖というよりただの不安。それを不安であるうちに摘出せねばならなかった。
「シリル、この捜査は君の担当だろ。ブランデルや他の連中との連絡は任せるからね」
「ああ、今夜変なことが起これば即座に対応できるようにな」
かくして、夜は更ける。
身を潜めることもなく彼ら二人も行動を共にし。
夜が明けた。
「…朝日。あぁ、畜生。ねみぃ」
「―――」
「クロス?起きてるか?」
「…何とかねぇ」
二人して深夜の警戒から解放され、帰途についた。クロスの部屋まで戻ってはきたが捜査そのものにさしたる収穫はなく。
「…なんも起こらなかったな」
全てはシリルのその一言に集約されていた。起こらなければそれも平和なものだが、生憎と彼らが望むような事件解決には繋がらない。
この朝日は、ある意味では望んだものではなかったのだが。
「…帰って寝る。送ってくれてありがと」
「おう。添い寝してやりたいところだが…俺も眠いぜ……あ、電話か」
携帯を取り出して話し出すシリルを背中に、クロスは自分の部屋への階段を上がっていった。寝不足の体に螺旋階段は心地よくないと感じながら。
(…当てが外れたなぁ。さて、どう詰めたものか…)
今後の捜査について考えてはいたがまとまらず、とりあえず一睡するべきだと確信する。
その背後から。
「おい、クロス」
シリルが呼びかけて足を止めた。
「四人目の死体が出た」
空に散る紫煙に何ら感慨はなく。
散るべきものはただあるがままに散る。それはヒトと同じように。
誰に見咎められることもなく翼を静めて舞い降りた名無し娘がクロスの部屋に舞い戻った。つまらぬ感傷に浸ることもない彼女だが、果たしてこの街を飛んでみてどう感じたものか。
「―――ふむ」
彼女を迎えたものは静寂の部屋と、それとは裏腹に寝息を立てているクロスの姿だった。家主は数奇であったが怠惰だとは知らず、名無し娘はこれまでの認識を改める必要があるのかも知れないと勝手に思う。
その寝顔は、言うなれば昏睡と呼べるものだったが。
「はたまた夜遊びが過ぎたか。生きるに必要な享楽がこの街一つでは足りないというのも考え物だな、人間」
彼女の独り言に対する回答はない。静かに、だが規則正しい彼の寝息はこの空間には相応しく、彼女が相対するには不相応だった。
あまりにも穏やか。そして無防備であるが故に。
「―――あたしが怖い怖い悪魔だって忘れてるんじゃないのかな」
失念されるような事柄だとしたら、まぁそのことにはさして感慨もなかろう。ただ、畏れ奉られるような存在には成れないのだろうなと思う。もとより成るつもりもなかったが。
部屋のソファーで倒れたように眠る姿。思ったよりも華奢だと思わせる彼の首筋をひと撫でして、その下に通う体温を確かめた。
「まぁ、その眠りを満喫するのも良いだろうし」
「―――昨日までの甘き眠りは、二度とお前のものに成り得ない」
ふと、そんな言葉を聞き留めて。
「おや。起こしてしまったかな」
「手が冷たいんです姫様。まぁいいけど…」
未だ眠そうだが意識ははっきりとしているらしい。深い眠りにありながら、大したものだった。
「ところでその詩は君の作か?」
「…今の?いやいや。昔そんな作家がいたんです」
「ほう。人間らしい内向的な意見だと感心したのだが」
「…そうかい」
「それで?君が寝不足に陥るほど騒がしい夜だったかな?」
名無し娘の問いかけ。それを契機としたのか、クロスは半身を起き上がらせて視線を投げかけた。未だ眠気を携えた眼光ではあったが。
「イヴリーズ。昨日は何処に?」
「街を見物していたが?かつてのあたしを知る異分子は居ない様子だし、居座るならばそれもいいだろうと思ったところで帰ってきた」
「…そうか。昨晩、ちょっとした事件があってね。殺傷沙汰なので目撃してないかと思って」
「あははは、何言ってるんだクロス君。あたしがそんなの気にしてる筈もないだろう」
そうだった。世捨ての存在こそがこの名無し娘であり、それはクロスも十分に承知している筈。それでも問いかけたのは。
「…いま丁度、その事件を捜査しててね…」
名無し娘だけは事件に無関心であるが故に無関係であろうと思ったからか、その経緯を話し始めた。
やはり彼女にとっては興味も関心もない事柄だろう。それでも傾聴したのは、クロスが説明しているからに他ならない。
「魔術師殺し?…成る程」
「…まぁ、そういう事件があってね…」
「ふむふむ。それで?何故殺した?」
唐突に問い詰められ、クロスはそのままソファーからずり落ちた。
「…ちょっと待て。なんで僕が犯人にならなきゃいけない」
「違うのか」
「捜査してるって言っただろ聞いてくださいお願いだから」
「うん、聞いてる」
ソファーに座りなおし、クロスがやや嘆息した。
「はぁ…ま、そういうわけでね。僕とシリルが捜査してたわけなんだが、例に漏れず四日目の殺人も起こった。いつの間にか」
「魔術師とはずいぶんと軽く見られているものなのだな」
「―――ところがちょっと異変が起きた。四日目、つまり昨晩の殺しの被害者は魔術師じゃない、善良なる一般市民だったわけさ」
言われ、解せないといった表情を浮かべた名無し娘。
「善良とは限らないのではないのか?」
「いやそうなんだけど気にするところ其処じゃないだろ」
「他に気にするとこがあるのか?」
「…いや、だからね。魔術師だけを狙った犯行だと思ったものがそうじゃなくなってるってことで。これは何故なのかと」
「おかしなことを言う。犯人にとって最初から魔術師なんて関係なかったのだろう?」
言われ、寝不足の頭が無理やり覚醒させられたような感覚を覚える。
シリルが受け取った電話。ブランデルからの連絡だったが、それは四度目の殺人を告げるものだった。クロスらの思惑とは裏腹に、水面下で事件は起こり、そしてそれはこれまでの事件をは違った側面を露呈する。
被害者に見られた共通性。つまり、魔術師であったという点が昨晩で瓦解した。
それは、名無し娘が言い放ったように犯人にとって魔術師を殺すことが目的ではないという状況証拠にすら成り得ない。ただ、側面の可能性から新たな憶測が喚起される。
「魔術師同士の抗争を懸念しての捜査だったが、被害が一般市民にまで及べばバックボーンに追求されるかも知れない。事態最悪」
「ふむ。被害の程度は問題ではないのだね。しかし、あたしでは生憎と君の望むような答えを持ち合わせていないぞ」
「―――あぁ、判ってる。ただまぁ、お陰で気になることに踏ん切りがつくか」
立ち上がる。気だるそうに見えてもクロスの背筋はしっかりとしていた。見据えるものは虚構ばかりではあるまい。
例えばそれは目の前の名無し娘であるとか。
「出かけてくる」
「うん。奮起することだ」
彼女が定位置の窓際に座り込む姿を見届けて、クロスは部屋から出た。
それと同時に携帯を取り出し、連絡をとる。未だ頭は寝不足だが、事態は急を要した。
「―――シリル?起きてるか」
『あぁ、目覚めサイコー。なんだ?俺が恋しくなったのか?』
「………調べて欲しいことがある。ウッドゲイトについていた助手という女、何者かわかるか」
『そういや昨日そんなこと言ってたな。アスガルドに記録があればわかるだろ。魔術師に咬んでる助手なら記録が残るかもしれねぇからな』
「頼む。僕はこれから昨日の現場に行ってみるから、連絡くれ」
早口に用件を告げて、電話を切る。
時刻は、正午を回ろうとしていた。
四人目の被害者は若い女だった。
ケンジントン・ハイ・ストリートから逸れたところで遺体で発見され、これまでの事件同様に鋭利な刃物で滅多切りにされている。例に漏れず凶器も特定できず、ただ新たな被害者に女性が追加されたことで世間的にも騒がれそうだった。
シリルにその旨を告げようと携帯をとったところで、先に連絡が入る。
『やっぱり捜査に進展はなかったか』
大まかな捜査内容を告げると、シリルは予期していたような答えを返してきた。
「当局も、あまりの連続性に苛立っているようではあったね」
『だろうなぁ。それと、クロス。例のウッドゲイトの助手って女だが、アスガルドのほうから記録は拾えなかったぞ』
組織のほうに助手の存在は認識されていない。半ば予想できた回答ではあったが、そうなれば考え直すことが出来てきた。
「あの女はウッドゲイトの個人的な付き合いということになる。分からんでもないが、それにしたってアスガルドを通していないなら給与も彼の懐から出ていたことになるだろう」
『そうだよなぁ。何でそんな面倒なことを』
「そういう関係だったってことじゃないのか」
『―――あぁ、成る程』
クロスは会話の中で、昨日の桟橋での出来事を思い出す。親しい付き合いの人間が殺されて哀しむよりも先に憎悪を向けるその性。それが危険とは言わないまでも、好ましいとは思えないだろう。
「彼女に会ってこよう」
『…なんでまた?ウッドゲイト一人に的を絞るのか?』
「あの助手、僕が魔術師だと匂わせても無反応だった。予測できたことだからだ。アスガルドに知られずに魔術師としての助手になったのは気にかかる」
『まぁいいが。住所はわからんがウッドゲイトの住まいなら分かるぞ。当局が追い出されたからたぶん同居じゃねえか?。ええと、住所は―――』
シリルの説明を急いでメモし、その住所を辿る。
電話を切った。彼の移動手段はバスになるが、それでも早急に向かわねばならなかった。時刻は昼下がり。日が暮れるまでには結論をまとめたいところだった。
名無し娘が言い放った言葉は彼の推察を裏付けた。これまで魔術師が被害者となってきた事件だったが、その定説が覆されたことは可能性を孕むものだ。
一つは、最初から魔術師を標的とした殺人ではなかったということ。
もう一つ―――。
「…ここか」
乗り継いだバスを降り、徒歩で10分少々。やや小さくはあるが、閑静な住まいと呼べるだろか。ウッドゲイトがアスガルドとどれ程のパイプを持っていたにせよ、この私生活に関する金の動きは関わりの無いことだろう。
ただ、肝心なのは彼の故人の研究内容による。
家に人気はなく、やはり空き家と化している印象を受けた。通りから離れ、浮世離れしたような静謐さに囚われたもののその中にいる人物を逃すつもりもない。
朝方のテムズ河、その畔の姿を思い出す。
「―――はい?」
呼び鈴を鳴らしてからしばし間をおいて、応答があった。
「―――レーンさん。ホーエンローエです。昨日はどうも」
「…あ、こんにちは」
「少しばかりお話を伺いたくて、参りました。よろしいですか?」
「ええ。中で話しましょう?セオフィラスの私物を整理していたところですの」
彼女に言われるままに導かれ、クロスは扉を潜る。清潔感が保たれ、小奇麗な家の内部はそれだけで彼女の存在を浮き彫りにする。
「―――貴女はウッドゲイト氏と親しかったのですか。師弟関係とは別に」
「…住み込みで世話しましたから。親しいというより、わたしが慕っていただけです」
ああ、成る程。彼女の激情はつまりそういうことか。何となしに納得しながら、クロスは案内された部屋に入った。セオフィラス・ウッドゲイトの私室であろう其処は、文献に支配されたようなデスクと本棚だけがあった。いかにも研究熱心であるようだが、問題はその光景ではない。
「―――ウッドゲイト氏の研究は」
「古代に伝え聞く宝物の探索です」
今のは独り言のつもりだったが、レーンが律儀に答える。本棚に収められた書籍を探るまでもなく、背のタイトルや整理された付箋はその内容を伺わせた。
「彼の前の被害者二人は、出自や事情こそ違えど名門の出でしたよ。レーンさん、ウッドゲイト氏が彼らと交流を持ったことは?」
「―――何故そのようなことを?」
彼女の声色がやや強張ったことを見逃さなかった。だがクロスは視線を投げかけることもせず文献を探る。
「何となくです。僕はこれまで、被害者が魔術師であるという共通点を気にしていましたが、ここにきて魔術師に何ら関係の無い人が殺されました。つまり、犯人にとって殺す相手が魔術師であることに拘りはなかったのではと思い」
ホーリーグレイルに関する文献を手に取る。随分と古びているが、管理のほうがずさんであるようだった。
「そう思ったところで、共通点を別に見出しました。ウッドゲイト氏以前の被害者二人が名門出自であること。概念法論を継承できる魔術師にとって年月を重ねた家柄というものは貴重です。ウッドゲイト氏が研究を求めるにあたり、名族の協力を仰ぐことはなかったのかと思いまして」
彼女の顔色に変化はない。魔術師という言葉を何ら戸惑うことなく受け入れるあたり、アスガルドの管理下から外れた在野が彼女ということになる。ウッドゲイトは助手として以外の使い方もしていたようだ。
「もう一つ。犯人にとってウッドゲイト氏を殺害した時点で、自分が知りうるロンドンの魔術師は居なくなったのではないかと思いまして。つまり、情報の欠如です。ウッドゲイト氏以前の被害者が魔術師であることを犯人が知りえるには条件があります。つまり」
「セオフィラスが殺害を依頼すること」
レーンによって言葉が繋がれる。迷い無く、彼女はその条件を口にした。
「僕の憶測に過ぎません」
「あながち憶測ではありませんわ。…彼が殺されたことは最大の誤算だったことでしょうし」
クロスとて、明確な裏づけがあってその推察に至ったわけではない。ただ、魔術師という人種は奇異なもので、それを巡って殺傷沙汰が起こるとすれば何かしら裏があるものだ。アスガルドが危機感を抱いている魔術師同士による抗争という謳い文句は、奇しくも事実であった。
しかし、彼女の肯定によってセオフィラス・ウッドゲイトが深夜にあの場所に居た理由は説明できる。実行犯との接触を待ったのだろう。
「彼の研究は、ホーリーグレイルに関するものでした。名門との交流の無いセオフィラスは協力が仰げないことを知り、別の手段に訴えたのでしょう…」
「ウッドゲイト氏が存命ならば、話は違ったでしょうが」
クロスが言葉を切る。どのみちここには彼女と自分しか居ない。
「生憎と彼もまた被害者となりました。僕としてはウッドゲイト氏を弾劾するつもりもありません。実行犯の詳細だけを教えていただきたい」
「―――で、見逃すのか?」
少しばかり仮眠をとってからシリルと合流し、レーンに説明してもらった事情について彼と相談していた。既に夜は更け、警察だけが慌しい街となっている。
「いまさら死体になった人のことなんか気にしてられないよ」
「まぁ、そりゃそうだけどな。で、その実行犯ってのは在野から雇われた暗殺者ってことか?」
「そうらしい。魔術師ではないようだね」
「なんで依頼主まで殺して、今度はただの通り魔になってるんだァ?ウッドゲイトは変なのを雇ったみてえだな」
「彼女の口ぶりだと、特異能力者ということらしいけど」
特異とは異質ということだ。レーンが如何な心境でその言葉を使ったか明白ではないが、クロスは知識としてそうした人種の存在を知っている。
俗に超能力などと言われるが。
「一連の事件で凶器が見つかっていないだろう?どうやら標的は、不可視の刃を打ち出す能力を持ち合わせているらしい」
「…え?見えねーのか?」
「そう聞いたよ。戦闘向けな能力者だよなぁ。いよいよ捕獲は難しいかも知れないが」
魔術師同士の抗争が裏にあることが事実となった今、最悪の場合うろついている実行犯そのものも死体になってもらわねばならないということだった。
「居場所は分かってんのか?」
「いや。分かってれば彼女が乗り込んだだろうな。ただ、今夜はちょっと違う仕掛けを用意してあるから」
「???わけわからんぞ。練り歩いて見つかるもんでもないだろ」
夜空は暗い。雲がかかり、星どころか月の姿さえ曖昧だった。そんな空を、横切るものがあるとすればそれは。
「居たかな?追いかけるよ」
宵闇に誘われ、大して興味も無い観光に繰り出したのは単なる酔狂からではない。寧ろ彼女こそはそういった行動力のある人物ではなかったし、それは自覚のある性格である。
暗渠へと幾つの命が堕ちようと、その闇は人間自身が生み出したものだ。この街はそういった宵闇をよく体現していると云える。
禍々しいのではない。どちらかといえば初々しい。この闇になんら意味などなく、その身に付き従う陰の如しと知るまでにあと何世紀か。
或いは、気付きながら既にそれを快楽としたのが人間というものか。
「酔狂なのは彼らのほうだろうね」
月夜と僅かな街灯によってのみ照らされる彼女の姿は既に闇色であるというのに、その存在を肯定する如き紫煙は揺らめいて消えることがない。誇張するものは存在ではなく、厚顔なまでの感情。
「―――気に入らないか?この街は」
「君も生まれは大陸なのだろう?ここに初めて訪れた時に何を思った?」
名無し娘に問われ、即座に回答する。
「食事は二流。ネズミは一流」
「成る程、衣食住は大いなる問題だね」
「いや、だから皮肉で言って…」
「厄介な過去だけを建前に、条件付の未来の栄華を称えるような街だ。あたしには面白くも無い」
そもそも興味のある出来事というもの自体が希薄だが、と名無し娘が付け加える。彼女の有り様はそれで納得できることだった。疑いようもない。
寧ろ気にかかることは、そんな娘がそれなりに正当な評価を口にしたことだった。
「堅苦しいか?」
「さて。何も伝統に凝り固まったものでもないだろうし、そういうことはないだろう。君たち魔術師とやらの所業についても同じく感慨もない」
「…しかしまぁ、よく見つけてくれたものだなぁ」
クロスが感嘆を漏らす。闇に閉ざされた都市の中で一つの悲鳴を聞き留めることなど出来様筈も無く、その姿を見ることはさらに至難。
「懐かしい同郷の連中が現れたかと思ったが思い違いだったようだよ。アレは古き人間の成れの果て。特異な能力を有する人間が自我を失った姿だ。そういう稀有な連中を知ってるか?」
「実際に見るのは初めてさ。どういう理屈か仕掛けかしらないが。まぁ、判ってるのは不可視の刃を向けてくるってことだけで」
嘆息する。相手の手の内は読めているものの、それを取り押さえる手段はまるで無い。すぐにでもアスガルドへ報告すれば後は国家のもとに何らかの部隊が派遣されるだろうが―――。
そもそもこの事件、魔術師同士の抗争が懸念されてのことだった。アスガルドとして解決しなければ疑念は晴れまい。
「そういうわけで、イヴリーズ。君の手を借りたいんだけど」
「面倒」
ついに一言で断られた。
「…いや、その答えは予想してはいたけど、もうちょいリアクションをね…?」
「クロス君。あたしを便利屋と考えるのは良くない。考えなしに力を使っていれば厄介な連中を呼び込みかねないし、何よりあたしは人間に使役されるつもりもない」
「上空からアイツを追跡してくれればいいよ。後は、僕が何とかするからね」
はっきりとしたクロスの口調。それを聞き留めて、名無し娘の表情が変わった。
「ほう?君にアレが倒せるか。それは面白い」
「見失ったら終わりだからな。というわけで追跡だけでも頼む」
「あははは、分かった分かった。君がどうするのか見届けようか」
言って、翼を解放する名無し娘。夜風になびくそれは、もはや背後の闇に掻き消え姿を完全に捉えることはできない。ただそこに在ると実感できるのは、悪魔としての彼女と人間としてのクロスの力量の差だった。
本能が、この娘には敵うまいと悟っている。
「そういうわけで、シリル!」
交渉は終わりだ。背後で控えていたシリルを呼ぶ。この男にしては珍しく仏頂面ではあったが、話は承諾しているのだろう。異を唱えることはなかった。
「追跡しよう。車頼む」
「クロスの頼みじゃなきゃやらねえぜ、こんな自殺ツアー。…ま、愛しい人と共に果てるってのも悪くな…」
「早く行こう見失うから」
「はは、照れてんのか」
シリルの戯言はいつものように聞き流す。
「なあクロス君」
「なんですかお嬢様」
「追跡するのは構わんが、あたしはどうやって地上の君らに指示すればいい?目立つことはしたくないぞ」
言われ、そのことを失念していたことに気付く。
「…そうだった…どうするかな…」
「生憎、あたしには共感能力とか便利なものはないしな」
早くしなければ本当に犯人を見失う。だが手段ははっきり講じておくべきだった。考え込み、どうすべきか思案していたところでシリルが声を上げる。
「携帯使えばいいんじゃねえの?」
言われ、俗世離れした悪魔に似つかわしくない文明の利器があったことを思い出した。
「どうだ?名無し」
『それらしい人影を確認した。特に急ぐつもりもないらしいね。ゆっくり歩いている』
上空を飛翔する彼女にはクロスの携帯電話を握らせた。無論のこと、彼女が使い方を心得ている筈もないので通話状態を維持してもらうことにした。それにしてもあまり高度を上げすぎると通話が切れる懸念もあるので加減した追跡ではあったが。
クロスとシリルは地上から車で誘導される。犯人が慌てて逃走するつもりもないのなら、追いつくのは時間の問題と言えた。問題なのは場所だ。
「クロス、何処で仕掛ける?」
車を運転しながらシリルが問いかけてくる。
「どうするかな…。当局の眼につくことは避けたいが。イヴリーズ、向かう先には何が見える?」
『目立つ建物がある。時計塔だ。近い道を歩いていくようだな』
時計塔。ビッグベンだ。テムズ河に面したところだが、向かう先がそこならば橋を渡ることになるだろうか。一番近いならば、ウエストミンスター大橋。
「そこで仕掛けるか」
「そうだね」
事は好都合だった。クロスの策を実行するにあたり、水辺に近いならば問題は解消される。ウッドゲイトの殺害現場に程近い場所はこの戦闘に適していた。
「ブランデルは何だって言ってた?」
「おう、可能な限り人員を回すそうだけどよ。一番近いのは俺らで、なんとかできそうなのは俺らなわけだ。このまま行くしかねえな。また逃がすことになる」
「勝てる手段はあるよ。シリル、僕が術を使うまで奴を足止めして欲しい」
「…まぁ、いいが。正直どこまで抑えられるかねぇ」
「君が頼りなんだ」
「オーライだ、任せとけベイビィ」
この味方は扇動しておくことにして、問題はその術だった。やや、大掛かりなものとなる為に複雑な呪文を必要とする。
『クロス君、ひとつ聞いておきたいのだけど』
電話越しに、名無し娘の声を拾う。
「…なんだい?」
『あたしが犯人という考えはなかったのか?』
「―――?おかしなことを。なんにも興味を持たず関心も無いって言ったのは君のほうだろ」
『…やれやれ。あたしが人畜無害に見えるかね?』
「少なくとも、騒がしくなければ平穏に過ごせるものさ」
言いながらもクロスは彼女の言葉が警告であることを見抜いていた。名無し娘は咎めたいのだろう、自身が悪魔であり、ここはヒトの街だと。
だがそれでも、彼女を疑うには足りない。世捨て砂漠に打ち捨てられた悪意があの娘の形をとったならば、向けられる悪意はもはや形骸と化している。
彼女に向けるべき悪意などありはせず。忘れられた悪意として彼女は在ったのだ。
『さて。相手が橋にさしかかるぞ』
シリルの車は一旦橋を渡りきり、東側で停車した。怪しい人影など一人しか見当たらず、それ故に迎え撃つことも容易い。下車して相手を確認する。
白いジャケットを着込んだ中背の人物。性別まで判別できないものの、異邦人であるように感じられた。白人ではない。
「さて、取り押さえるのが一番なんだが」
「そんな暇ねぇだろうな。なんせ凶器が見えねえんだし」
「じゃあ、シリル。少し抑えておいてくれ」
「あー…。まぁ何とかするぜ」
橋の中腹からこちらに向けて歩んでくる人物。表情も垣間見えず、だが何となしに異質なものだ、と実感できる。シリルは桟橋のほうへと降りていくクロスの背中を確認し、彼の人物へと向き直った。
拳銃の類は上役であるブランデルの許可がなければ使用できないが、この場合彼には必要ない。こうした荒事を押し付けられる魔術師として、彼は必要な武装を備えていた。
「よう!夜更けに何処へ行く?」
呼びかけには応じない。歩みを止めることもなくこちらへ向かってくる。
「四人殺してさぞご機嫌のようだな!ちょっと話でも聞かせてもらおうか!」
何も応答なく、変わることのない姿。この人物、本当に奇異な能力者なのだろうか。
半信半疑で待ち構え、しかしすぐに動き出せる体勢にあったシリルはその心構えに救われる。突如として放たれた殺気は、紛れも無く自身に向けて放たれたものだったからだ。
「―――ぅお!?」
地面を転がる。慌てて立ち上がり、怪我もなくやり過ごせたことに感謝を覚えた。だが疑問は確信へと変わる。今の一撃はまるで姿を見せることのない刃だった。
それが刃であるか確信はなかったが―――。
「挿すのは好きだが挿されるのは御免だ!畜生!」
後退する。放たれた刃は見えぬまでも街灯にぶつかり火花を散らせた。
敵は何の動作もなく武器を振るうようで、これでは予見することも難しい。シリルは冷静に体勢を整えつつ、敵からの攻撃が避けがたいことを思い知らされる。僅かな風圧、タイミングによって推し量るしか術はなく、そんなものでいつまでも避け続けられるとは思えなかった。
敵との距離はおよそ二十歩。先ほどと変わらぬ距離を維持しているのはシリルが後退した故か。その距離が既に敵の間合いならば、推し量らねばならないのはタイミングだった。
(…今か?)
真横へ跳躍する。放たれた刃は上から一文字に空間を裂いたようだったが、シリルは既に其処に居ない。自身の勘を愛でつつ、彼は敵を見据えた。
先刻の一手から今の攻撃に至るまで、刃が振るわれる間隔を数えるとおよそ五秒ほど。これが正確な数字か定かではないが、回避に移る目安にはなろう。
そう思ったのだが。
突如として放たれた旋風が彼の鼻先をかすめる。慄き飛び退くが、刃の追撃は止まることなく彼を切り裂く。それを紙一重で避け、何とか立ち直ったが。
「―――聞いてねえ。何本あるんだその反則武器!」
もはや敵の間合いに隙などない。総数を確認できないような武装の機嫌を伺うことなど出来ず、シリルは後退を始めた。
不可視の刃というとんでもない手品にどう立ち向かうか。シリルは未だ抑えていられるようだが、それも長く続くまい。
クロスは桟橋からテムズ河の水辺近くまで駆け寄った。呪文は既に紡がれ、後は発動を待つばかりである。
元々、打算はあった。殺し屋として雇われた標的は魔術師の類ではなく特異能力者ということから特技は例の刃だけであろう。そしてその刃は見えずとも実体化している。
見えずとも其処に在るのなら、後はどう立ち回るかだけで。
(面倒だ。楽に生きれるんじゃないかと思ったが、魔術師なんて肩書きはほんと面倒だよ全く…!)
「―――A mermaid in a tale as old as time!」
最後に紡がれる複数の呪文。放たれる概念法論は単式では組み上げられない複雑さ故の膨大なものだった。
桟橋が揺れる。いや、揺れているのは河そのものか。濁流を伴わぬ水位の上昇に足場をとられながらも、クロスは上に架かる橋を見上げていた。
水が、舞い上がる。
「せめて死ぬまえにクロスの膝枕とかあれば…」
妙な妄想に浸り始めたシリルの脇を刃が通り過ぎた。現実逃避は無理らしい。
程なくして橋の終端に立つ街灯に背を預ける。ここまで来れば仕方が無い。彼らしくはないが努めて冷静に、呪文の詠唱を開始した。
紡ぐ言葉は極めて単調。簡潔な自律詠唱。
だが攻撃を防ぐ程度ならばこれで十分であり、
「Shadow of the moon!!」
街灯に照らされた自身の影こそが、彼にとって唯一とも言える概念法論だった。
敵からの刃が迫る。そう実感できる時間が僅かばかりもあったわけではないが、それでも彼は術を成しえた。実体化した影はあるべき姿として刃を塞き止める。
冷や汗を浮かべながらでも、シリルは成功した自身の魔術を確かめる。影を実体あるものとして行使することこそが彼の術だった。
だが防ぎきれたのはただの一度。標的の刃はひるむことなく再度襲い来る。
その最中。相手の表情を垣間見た。暗闇の中で街灯の光に照らされ、映し出された虚構の微笑み。
男だった。だがやはり白人ではあるまい。血走った瞳に何が映っているのか定かではないが、少なくともそれは。
狂ってみなければ分からぬものであろうことは確かだ。
実感する。シリル自身もまた幼い頃の境遇から発狂したことなどもあった。だがそれでも、錯乱し今に及んだわけではない。
ただ、そこに至るまでに、自分には選択肢というものが与えられていなかった。
この男が何に狂ったのか。
この男が如何にして狂ったのか。
この男は狂って何を成すのか。
血走った相貌で迫り来る標的を前に、シリルは再度詠唱を開始し―――。
途端、振り出した雨に身体を怯ませた。
その雨は数多の血潮を洗い流し、街を煌びやかにする清めとなるのだろうか。
或いは、幾多の水滴が生の鼓動を殺める罰となるのだろうか。
暗雲なく降り注ぐそれはこの街に似つかわしくない豪雨となって、橋を覆い隠し―――。
「―――其れか」
一瞬のうちに、雨に感謝を覚える。
シリルは術を止めて体を動かしていた。もはや防御の為の術など必要なく、体一つで戦っていける。
刃は見えていた。
降り注ぐ雨の中、水滴に弾かれて僅かな軌跡を描いている。それは狂気と妄執の果てに振るわれる武器とは思えぬほど綺麗で。
薙ぎ払うように霧散する水滴とともに、シリルは正面から襲い来る刃を回避した。
この標的に、この事態を危惧する理性は残っていただろうか。だが興味の無いことだ。天から齎されなかった救いは、いま彼の相棒によって生み出された。
テムズ河の水を利用して打ち上げるなど、大掛かりな魔術となったであろうが。
(―――最高だぜ。よくも弱点を見破ってくれたもんだな、クロス)
体術の覚えもあるシリルにとって、刃を無力化できるならば勝機は幾らでも作り出せると確信していた。今のところ、標的から伸びる刃の数は六本。何れも十メートルほどあろうか。形を変えて縦横無尽に襲い来るそれらは、しかし単調でもあった。
跳躍し、腰を落とし、迫り来る刃は全てかわせる。
標的の喉元まであと三歩―――。
大掛かりな多重詠唱を終えたクロスは、肩で息をしながら大橋へと戻っていった。
意識を集中させねばならない多重詠唱はそれだけで精神を磨耗する。だが集中力が削がれれば術は完成を見ず、故にここで踏み止まれるか否かが魔術師の優劣を分けた。
クロスとしては、扱える概念法論が水に関するもののみである為に大した自負を持っていないが。それでも今回の策は上手くいったと信じたい。少なくともこの雨が降り終わるまでの間に、決着をつけなければ。
やや急ぎ足で橋へと戻る。その終端。街灯の傍で。
肩を斬りつけられて地面を転がっていくシリルの姿を確認した。
「―――え?」
標的の攻撃―――不可視の刃とやらはクロスの思惑通りに雨によって視認できるようにはなっていた。現に、彼自身にもそれは見て取れる。だがクロスが意外に思ったことはそこではなく。
優位に立った筈のシリルが今まさに負傷し、そして彼を負傷させた男から伸びる刃の数だった。
十を超えている。否、更に数を増やしていた。
なんということか。如何に視認できる状況を作り出したとて、この武装の数では飛び道具すら通用しまい。
その光景に反応が遅れたクロスが、正面から放たれた刃を回避するのに手間取った。頭上を通り過ぎた凶刃は、しかし彼の戦意を奪うには十分過ぎる。
一体、この異人に如何なる手段で立ち向かえるという。
まさに迂闊だ。相手の手数を確認しきれなかったクロスの油断である。
「―――迂闊だなクロス君。手数を読みきれていなかったか」
その心境を代弁するかのように、背後から名無し娘が姿を現した。
「…イヴリーズ」
「君がどれほど善戦するか見物だと思っていたのだがね。詰めが甘い。ああいった外れ者は何をするか分からんものだよ」
彼女のその姿は普段となんら変わらず、ただ決定的に違って見えるのは煙草だった。クロスの雨によって火が消えている。
「ともあれ、失策した君の負けだ。敗者は大人しく斬首されるものだろう」
「いやそんな軽く言われても…」
「諦めが悪いぞ」
「なんてーか、もうちょっとだったんですよ姫様」
「知らない」
刃が通り過ぎる。その疾風は、名無し娘の頬を掠めた。
「―――だがまぁ、それは確かに面白くない話だがね」
「…え?」
「移り住んですぐに家屋を追われるのは面白くない話だよ。あの不埒者の首を刎ねればいいのだろう?」
名無し娘が歩いていく。迫り来る刃は、彼女の翼によって迎撃された。何事も無かったかのように弾かれる。
「イヴリーズ。特異能力者を他にも知ってるのか?」
「…幾らでも。人間にあるまじき外れ者たちだ。その正体は君たちも知っている筈だが?」
「いや、僕は初めて会ったんだけど…」
「ミッシングリンクと云う。君ならば知っているかと思ったが」
途端、眩暈がした。
「ちょっと待て。アレは何か、ヒトが進化する前の姿だとでも?」
「あたしのように天界に居た者はそう伝えている。神の叡智を盗み出し、地上へ逃れた人間の末裔。いや、直結の血を継ぐ外れ者かな」
二度目の刃が迫る。だが、これも翼によって弾かれた。例え雨が降っていなかろうと名無し娘ならば防ぎきることも出来ただろう。
「古い血脈にはそうした類稀な力が眠っているんだろう。面白くもなんともない話だけどね」
彼女の声色が遠ざかる。雨音の所為か、その背中が少しずつ離れていく。
「自身の力を抑えきれず、枷が外れ。だから外れ者というのだ、愚かしい。そのような力が分不相応故に血が薄まったと気付かないか」
その台詞は、誰に向けられたものだったのだろう。名無し娘が跳躍する。
否、その姿は雨の中に消えて捉える事は出来ない。跳躍ではなく飛翔。彼女はその翼を解放し降り注ぐ水滴と共に真上から襲い掛かった。
男が頭上を仰ぐ。だがもう遅い。刃の大半は彼女と相対する為に正面に向けられており頭上を防ぐ手立てはない。
如何に多くの武装を抱えていようと、突如として襲い来る悪魔を止めることはできなかった。
鮮血が舞う。
夥しい鮮血が雨に混じり、黒と赤だけ取り残されたような光景が広がったとき、クロスは標的が死んだものと確信していた。
ウエストミンスター大橋に突如振り注いだ局地的な通り雨はそれだけで人目を引くのに十分過ぎた。
ましてや深夜の出来事である。昨日までの連続殺人事件のこともあって警戒を強めていた当局が動き出すまでに時間はさほどかからず、クロスたちとしては早急に現場を離れる必要があった。
シリルの怪我は幸いにも致命傷には至らず、だが軽い出血ではなかったのでクロスがかわりに車を運転して病院ではなくアスガルドの本部へと急いだ。
深夜にも関わらず居残っていたブランデルは彼らからの報告を受けて事実の隠蔽にとり急いだ。少なくとも、現場には犯人の死体のほかにシリルの血痕も残された。雨で形だけでも取り除かれようと、反応は出るだろう。
それらの根回し、シリルの治療、事実関係の報告を終えたクロスが落ち着いて自室に腰を下ろしたのは夜が明けてからのことだった。
「―――疲れた」
「徹夜は身体に悪いぞ、人間」
聞きなれた軽口が心地よく、クロスはその手を掴む。
冷たかった。血が通っているとは思えぬほどに冷たく、そして華奢だった。
「―――君のお陰でなんとか命拾いはしたけどね」
「感謝しているなら態度で表してほしいものだな」
やや憮然とした表情。その不満さは、例えばクロスが作戦を誤ったことだとか今まさに手を握っていることに関係するわけではないらしい。そこまで考えて、クロスは彼女の口元が何も無いことを訴えていることに気付いた。
「あぁ、煙草ね…」
「突然の雨で全部ダメになったぞ。まぁ、雨に文句言っても仕方ないが」
「そうそう、天気なんて気分で変わるからね」
「今度同じようなことがあったら雨雲を殺してやるか」
彼女が言うと洒落に聞こえない。
そんな脅しに屈したわけではないが、クロスは懐から煙草を取り出す。ブランデルから拝借したものなので銘柄がいつもと違うが、名無し娘には関係の無いことだろう。
火をつける。紫煙が漂って、いつもと変わらぬ光景になった。
「しかし、あっさり殺してくれたもんだなぁ。まぁ助かったけど」
「あたしはこれでも低級の部類だったんだがね?そうでなくともあんな外れ者の相手はしたくないが」
面白くも無い、と彼女が付け加える。その意見は尤もだった。頷きながら、クロスは自身の咥えた煙草にも火をつける。
寝不足の頭には少々毒だが。
「出来れば最初から助けて欲しかったものだけど」
「あたしは便利屋じゃないぞ」
手を振り払う。怒らせたか、と思ったクロスだったが、意地の悪い笑みを浮かべている彼女を見てそれも改めた。
「ここでの暮らしが気に入らないわけじゃないさ。せいぜいあたしの手を煩わせないでくれ」
「―――心得ましたよ、お嬢様」
窓辺で咥え煙草のまま佇む魔女は、何時かの砂漠で出会ったときと変わらぬままそこに居た。




