勝手な都合
補強材もろとも折れたのだろう。歪んだ木枠を足下から覗かせて、目の前のソファは右側が大きく沈んでいた。あるいは木枠を交換すればまた使えるようになるのかもしれないが、あの男が座ったソファはひどく穢された気がしてもう二度と使う気にはなれなかった。
顔も洗いたい。
あの男に触られた顎から脂と悪意が全身へ滲んでいくような気がして、一刻も早く洗面室へ飛び込んで、顔をじゃぶじゃぶと洗いたい欲求に駆られた。
「グレイス」
そうだな。とりあえず顔を洗って、そうしたら今日はもうとっとと寝てしまおう。まだ陽は高いけど頭痛もするし吐き気もする。こんな気分で起きているより今日はゆっくり寝て、明日考えよう。ソファは新しいのを買う余裕なんてないけど、似たようなものが作れないか村の職人に聞いてみよう。
「グレイス」
ああお父様ちょっと待って下さいね。ひどく頭が痛いのです。おそらく酷い想像をしてしまったからでしょうか、私が、あの男、に組み敷かれる、姿なん、て。
「グレイス」
誰かがぽん、と私の肩に手を置いた。振り返ると父の姿が目に映る。が、それはひどく歪んで見えた。
ああそうか。
私は、泣いていたのか。
「グレイス、すまなかった」
父が私に頭を下げ、そこで、張りつめていた私のなにかがぷつり、と切れた。
う。
うあ。
うあああああああああああああああああああああああ。
私は、父に縋りついて泣いた。
「私達が悪かった」
胸元で号泣する私に、父が悲痛な声で言う。
「お前をここまで追い込んでしまったのは私達だ、許してくれ」
そう言って詫びる父に、だけど私は応えることができなかった。
「お前の言う通り、私達は浮かれてしまっていたのだな。浮かれて、焦って、そうして、取り返しのつかない失敗をしてしまった」
「……わたし、が」
「グレイス?」
「わたしが、悪かった、のです。私があんな、王子なんかに、求婚されなかった、ら」
「それは違う、グレイス」
「私は、婚約とか、結婚とかを甘く考えてて、だから、リチャードとも、ゆっくり、そうなっていけたらいいなあって、そう思ってたんです。でも、あの人はそうじゃなかった」
思いっきり泣いたら少しすっきりして、話ができる位には落ち着いてきた。
父の胸から顔を離し、涙を手の甲で拭う。
「そうでは、ない?」
「そうです。ごめんなさい、お父様。服を汚してしまいましたね」
「気にするな。お前の子供の頃を思い出して、少し嬉しかったよ」
父が自分の椅子を引き寄せ、私のすぐ横に座る。母はずっと私の手を握って、心配そうな面持ちでこちらを見ている。子供の頃はそうだった。私が大きくなってあの壊れたソファに座る様になるまでは、こうして、父と母に挟まれて一日の出来事を話すのが私の一番の楽しみだった。
「それで、先程の話だが」
「リチャードは、燃えるような、情熱的な恋愛がしたかったんだろうと思います」
「情熱的な、恋愛?」
父は思いもよらぬ言葉に、虚を突かれたような顔をする。
「はい。そもそもの話ですが、リチャードが私を見初めた理由ってなんでしょう」
「……それは、あなたのことを王子様が気に入ったからではないのですか?」
母が怪訝そうに答える。
「王子の結婚相手というのは、そんなに安易に決められるものなのですか、お父様」
「いや、そうではないだろうな」
「私もそう思います。おそらく、王様が私を嫌っておられたのもそれが理由だと」
「どういうこと?グレイス」
母は父とは恋愛結婚だったそうだから、分からない感覚だろう。
「政略結婚、って分かりますか?お母様」
「え、ええ。でも、あなたは」
「私ではなく、リチャードの方です。一国の王子に、そういった話が全くないとお思いですか?」
「いえ、ですが王子はあなたを選んだのでしょう」
「あてつけ、だったのかもしれませんね」
「あてつけ、って……」
「これは王妃様から聞いたのですが、実際、リチャードには隣国の、カルディア王国の王女との政略結婚の話があったそうです。ですが、リチャードはその話に最初から乗り気ではなかったようで」
「どうして」
「まあ、言ってしまえば『リチャードの好みではなかった』と。ですが、王様は国の関係強化のためにこの結婚話を進めたがっていて、反発するリチャードとは度々衝突していたようです。なので当時リチャードは相当に鬱屈していたらしく、そこに現れたのが」
「お前、と言う訳か」
「はい」
「それで『あてつけ』か……」
父が、椅子に沈み込んで中空を見上げる。
「リチャードに私への情がなかったのかと言われれば、そうではない部分もあったと思います。ですが、それはあの人にとって一番重要なことではなくて、自分の気持ちをを蔑ろにする王様への反発が大きかったのではないでしょうか」
「待って頂戴グレイス。それではまるで」
「……私でなくても、良かったんだと思います。王様の意にままに、なりさえしなければ」
手で口元を覆う母。
「自分で言うのもなんですが、私は取り立てて見目麗しい訳ではありませんし、身を飾ることも苦手です。うちは家柄だけは古いですが、けして裕福でも力がある訳でもありませんし、言ってしまえばどこにでもいる貴族の娘で、王様からすれば、私とリチャードが婚姻を結んで得をすることなど何もありません。むしろ迷惑なくらいでしょう」
「そんな……」
「ですがリチャードにとっては、王様が不快に思えば思う程、逆に気持ちが燃え上がる訳です。父親から認められず、力ずくで引き裂かれようとする二人。彼にとってはそれが最も自分に『酔える』脚本だったのでしょう。彼にとっての計算外さえなければ」
「計算外とは?」
「『私』という素人を役者に選んでしまったことです。私は彼の脚本通りに演じることができませんでしたから」
父母は私の話にどう返していいものか、言葉を紡ぎ出せずにいる。
「思えば、リチャードが求めていたのは『私』ではなく、『自分の意のままになる女性』だったのだと思います。ですがそれすらも彼にとっては父親の目を自分に向けさせる手段でしかなく、結局、あの方はただ父である王様へ我儘を言って癇癪を起こしていた、それだけなのだったと思います」
「……お前をそのだしに、したと」
「王様は聡い方ですから、リチャードの気持ちにいち早く気付きました。ですから彼の自尊心を傷付けず、なおかつ王が納得できる相手を見繕い、彼にあてがった。それがブガッティ侯爵家のアデリーヌ様です」
「待て、待ってくれグレイス」
父が私の言葉を遮る。
「何でしょう。お父様」
「その話はどこで聞いた。確かに良くできた話ではあるが、なぜそこまで詳細に語れる」
ああそんなことか。
「いえ、ほとんどは私の想像に過ぎません。私が直接知り得たのはリチャードに結婚話があったことと、リチャードとアデリーヌ様との出会いに王様が介在していたこと、その位です」
「では事実とは違うのだな」
「そうですね。ですがほぼ当たっていると思いますよ。私は一応リチャードの婚約者でしたから、彼の王様に対する複雑な思いや確執も知っていますし、それがいつの間にか和解したことも」
「しかし」
「私もただ傍観していただけではありません。婚約者と将来の父が不仲とあれば何とかしてあげたいと思うのが普通の感情です。リチャードには私、王様には王妃様が何度も進言したのです。ただの行き違いだから和解して欲しいと」
「王子は何と?」
「『余計な口を挟むな』です。王妃様も王様から同じことを言われたそうで、不仲に見えてもやはり親子なのですね。いえ、親子で似ているからこそ拗れたのかもしれませんが」
「……」
「私と王妃は何度となく二人に頼みましたが、なんと言うか『他人に言われる程腹が立つ』と言った感じでして、そのうちに私達は遠ざけられるようになりました。私には別の理由もありますが」
「それは?」
「先程の男が言っていた『王子の寵愛を拒んだ』という話です」
デルマンドのことを思い出しぶるり、と悪寒が走る。父母には悟られないよう隠し、話を続ける。
「私は彼に、一度押し倒されたことがあります」
がたん、と父が椅子から立ち上がる。顔色が変わっている。
「な、何だと!」
「落ち着いて下さいお父様。なにもありませんでしたから」
「しかし!」
「そこで彼を拒んだから、だから私は彼に距離を置かれるようになったのです」
何も言わず、再び椅子に座る父。
「……本当に、何もなかったのだな?」
「はい。ある日突然彼が私を自室に引き摺りこんで押し倒そうと。驚いた私が思わず悲鳴を上げて、それを聞きつけた使用人が部屋に飛び込んできて騒ぎとなりその場はそれで終わりました。ですがそのことがひどくリチャードの気持ちを傷付けてしまっていたようで、そこからは顔も合わせてくれなくなりました」
「お前にとっては、当然の反応だな」
「私やお父様にはそうでも、彼にとってはそうではなかった、そういうことでしょうね」
「……今更、こういう言い方はなんだが」
「はい?」
「破談になって良かったと、心底思うよ」
「そう言って頂けると、少しは気も楽になります」
父がふううっと、長い息を吐く。
「だが、なぜここまでお前が忌み嫌われなければならない?確かにその一件が王子の不興を被ったというのは分かる。他に女性ができて、破談というのならそれも仕方がない。心情はとても理解出来んがな。しかし、我が家やお前をここまで追い詰めねばならない理由がどこにある?」
「……なくは、ないんです」
「それは、どういうことだ。グレイス」
「彼らには、『悪役』が必要なんです」




