義民の末裔 その十
元文四年八月二十三日(一七三九年九月二十五日)
一揆首謀者たちの処刑が行われた。中神谷村・武左衛門、柴原村・長次兵衛の両名は、鎌田河原に於いて、打首・獄門七日間の曝し首となった。
二人には、辞世の句が残っている。
中神谷村・武左衛門の辞世
【国中の 民を助けん 念願も 遂に果たさず 今日の落命】
武左衛門の姓は佐藤で、先祖はこの地方を領有していた豪族で一国一城の主であった家系の子孫で、一揆衆からは旧家中の旧家名主ということで尊敬されていた若者であった。
柴原村・長次兵衛の辞世
【覚悟せし 命なりとは 言いながら 悪魔舎人に せめて一太刀】
長次兵衛の姓は吉田で、青年名主で、人柄が良く、義侠心にも厚く、この一揆では最高責任者という立場にあった。苛酷な拷問にもよく耐え、牢内の衆望を集めていた。
「武左衛門さんと長次兵衛さんの辞世の句もなかなかいいね」
私は残り少なくなったコーヒーにミルクをたっぷりと追加しながら、佐藤に話しかけた。
佐藤はしみじみとした口調で言った。
「どうも、二人の無念さが直接的に伝わってきて、遣り切れなく憂鬱になってしまうよ」
「二人共、この時は二十代の若者であったから、まだまだ生きていたかったと思うよ。いくら、死を覚悟して頭取となったと雖も、両親も、妻子もあったと思うし、未練はたっぷりと残っていたはずだ。僕は、武左衛門さんとか、長次兵衛さんといった青年名主で首謀者として処刑されていった人のことを思うと、どうしても、学徒出陣で戦争に行き、飛行機とか回天とか云う小型潜水艦に乗って特攻隊として死んで行った学生の姿とオーバーラップしてしまうんだ。教育があり、自分の死を論理的に考えられる頭があり、自分の姿を殉教者として位置付けられる思考能力も十分備わっている人間がこのようにして死んで行く姿が、生きた時代は異なっていても、どこか共通するものがある」
藤間村・利右衛門、平久保村・与惣治、好間村・利四郎、八茎村・五三郎、荒田目村・伊三郎、下小川村・与八の六名は、同じ鎌田河原に於いて打首・獄門三日間の曝し首となった。藤間村・利右衛門(理右衛門)の姓は坂本で、苗字帯刀を許された名主であったが、一揆当時は六十歳を越える老人で隠居の身であったが、老体に鞭打ち一揆に参加した。
義侠心厚く、村人から慕われており、一揆の牢破りの際は、喜惣治を真っ先に助けたと云われる。喜惣治の祖父とは友達であったためか、孫の喜惣治のことが気懸りであったのだろう。平久保村・与惣治の姓は高田で、一揆当時は二十六歳の若者であったと云う。
苗字帯刀を許された名主で、山根のお大尽様と呼ばれていた富豪であった。
好間村・利四郎の姓は猪狩で、名主であり、大変な強力の持ち主で一揆の際は会所の窓から一揆衆目掛けて突き出された鉄砲を奪うという活躍をした、と云う逸話が残っている。
八茎村・五三郎の姓は白井で、苗字帯刀を許された名主であった。下小川村・与八の姓は草野で、苗字帯刀を許された名主で、小川きっての豪農の若者であった、と云う。
荒田目村・伊三郎の姓は新妻で相馬の人。たまたま、喜惣治の家に草鞋を脱いでおり、
一揆勃発の際は入牢中の喜惣治に代わり、活動した義人であるが、元文義民の碑には記名
されていない。
「伊三郎という人はどういう人だったんだろう」
ふと、佐藤が呟いた。
「うん、伊三郎さんは謎の人物だな。何でも、相馬から磐城の荒田目村に喜惣治を尋ねてきていたところ、暫くして、喜惣治は永牢ということになり獄舎に繋がれてしまい、そのまま喜惣治の家に居ついてしまった人らしい。喜惣治入牢中は、喜惣治に代わって一揆の指導者となったそうだ。しかし、記録も薄弱で、例の元文義民の碑にも記載されていない不運な人だよ」
「しかし、処刑されたのは間違いない。でも、史料に載ったり、載らなかったり、下小川村の与八さんもそうだけど、昔の史料というのもあまり当てにはならない」
この八人に先駆けて、五月二十二日に高久村の甚五兵衛という者が処刑されている。
牢内斬首で、獄門三日晒し首、となった。高久村・甚五兵衛の姓は大平で、苗字帯刀を許された名主であり、一揆当時は六十歳を越える老人で一揆の顧問的立場であった、と云われている。処刑罪状は、大酒を呑み歩いたという罪状になっている。政治犯を一般的な破廉恥罪で貶めるのは権力の常套手段であり、本当は一揆指導という罪で処刑されたと判断して差し支えない。
「高久村の甚五兵衛という人は、三ヶ月ほど前に牢内で打ち首となったとされているが、どうも不思議でならない」
私は首を傾げながら、佐藤に言った。
「そうだね。なぜ、他の八人より先に処刑されたのだろう。同じ一揆の頭取の一人でありながら、どうも腑に落ちない」
また、八人に遅れること二ヶ月後の十月二十七日に荒田目村の喜惣治が曲田河原で処刑された。死罪・獄門三日晒し首。永牢のところ出所馳せ行き我儘なる行動、というのが処刑罪状であった。荒田目村・喜惣治の姓は阿部で名主、相当な地主であったが、破産・没落していた。
百姓の惣(総)代として十九歳の時、江戸に行き、目安箱に投書した。その後も投書を続けたが、越訴ということで大岡越前守の命により捕縛され、享保十三年(一七二八年)十一月、藩に引き渡され、国元で永牢となった。以来、一揆で解放されるまで、十一年間、牢囚人となっていた。一揆で牢から解放され、名目上は頭領とされたものの、一揆の主だった者と意見が対立し、一揆から離れた。十一月五日に生家に戻ったところ、密告され捕縛の憂き目を見た。
「そして、喜惣治さんも一同に遅れて、処刑となっている。一揆の首謀者では無かったからかなあ」
佐藤が言った。
「永牢となっていたところ、たまたま一揆が起きて、藤間村の利右衛門さんに真っ先に牢から助けられた人だろう。罪状が違うから、八人と同じ日に処刑するのは変だったんだろう」
「永牢というのは、今の言葉で言うと、終身刑だろう。つまり、死ぬまで、牢屋暮らしで、生きて牢から出ることはない。今とは違って、昔の牢はひどかったんだろう。体の弱い人ならば、すぐ病気になって死んでしまう」
「その劣悪な環境の中で、十一年間、よく持ちこたえたものだよ」
私は助け出され、牢から出て、外の自由な空気を胸一杯に吸い込んだ喜惣治の姿を思い浮かべた。しかし、一時は英雄として一揆の頭取になって欲しいと一揆衆から懇願された喜惣治であったが、磐城平城下占拠中に、本来の一揆の指導者と意見が対立し、遂には一揆衆から離反し、一揆の最終段階では、一揆衆とは別行動を取ったと云われている。意見が対立した、とは書かれているが、どのように対立していたのか、までは具体的には何も書かれていない。赤井喜兵衛絡みで、赤井に過大な期待を寄せた一揆頭取たちと、十一年間も牢内で暮らしていた喜惣治では、お上に対する意識は相当ずれていたのであろう。誠実そうな赤井に対しても、喜惣治はどうせ藩の役人である、お上の正体は誰でも究極的には同じで、個人的な人間性は関係ない、とばかり、冷ややかな眼で見ていたのであろう。
江戸の殿様からの回答も待たずに、その年の年貢納入を積極的に始めたり、磐城平城に対する囲みを解いて、一揆衆をそれぞれの村に帰したりして、折角有利に展開していた一揆の攻勢を自ら緩め、弱めていく一揆の頭取たちの甘さに喜惣治は絶望し、その場から立ち去って行ったのかも知れない。
結果的に見れば、この一揆は事前の準備が良かったためか、始めは予想を凌ぐ攻勢を磐城平藩にかけることが出来たものの、その後は、徹底を欠き、自らの戦闘態勢を自ら崩して行き、利敵行為を繰り返してしまうという結果になり、あっという間に、城方に主導権を奪われてしまった。いわば、条件闘争を始めたにもかかわらず、途中で相手に迎合するような形で妥協し、獲得した成果は当初の予測、完全勝利とまではいかないものになってしまった。その後、逃亡し続けた喜惣治は生家に舞い戻ったところ、密告により捕縛されたと云う。また、他の史料に依れば、親戚により役人に突き出されたという話もある。五人組等による密告か、一族の恥さらしということで親戚がよってたかって捕らえたか、本当のところは判然としないが、連帯責任、連座制を統治の手段としていた江戸時代ということで、再入牢までの経緯には暗いイメージが付き纏っている。
それぞれの刑が執行され、この一揆は満一ヶ年を経過してここに完全にその終末をみたのである。すなわち、稲の刈り入れの後で一揆が起こり、翌年の稲の刈り入れ前に処刑がなされたのである。稲作の繁忙期が過ぎ、閑散期となった季節に百姓たちは決起し、収穫の繁忙期を迎える前に、藩は百姓たちの代表を処刑したのである。米が封建時代の貨幣経済の根本をなす時代では、稲作という生産の段取り進行に合わせて、行動の時期に対する判断がなされていく。
「米の収穫の後で一揆が起こり、翌年の米の収穫前に首謀者処刑か。いかにも、米という農作物が全ての基礎になっていた時代というのを感じさせる」
私は皮肉っぽく笑いながら言った。
「繁忙期が過ぎ、一段落して、さあ、予定通り、一揆を始めようか、ということかい」
と、佐藤も笑いながら言った。
「農民たちは、自分たちは米の飯は食べられなくとも、米は一生懸命作るものなんだね。そして、ちゃんと、刈り入れをして、毎年の仕事を済ませてから、藩庁に年貢減免のお願いをしに行くんだ。命がけのお願いにしに行くのさ。健気というか、几帳面というか、哀れな習性というか」
言っている内に、私の鼻の奥がツーンとしてきた。佐藤が憤然として言った。
「健気な百姓と比べ、藩の仕方はあまりにもひどいし、見え透いている。一揆の首謀者の処刑を稲の刈り入れ前に行い、もうみせしめの行事は済んだ、後は農民諸君、精一杯刈り入れに精を出して下さい、年貢をきちんとお支払い下さい、ということかよ」
延享四年(一七四七年)三月、内藤藩が日向延岡へ転封となった。一揆が終息し、ほぼ十年が過ぎようとしていた。徳川譜代の家柄であったが、幕府から百姓一揆の責任を求められたものと考えられる。磐城から延岡までの転封は行程四百里ということで、江戸時代最長の国替えとなった。初代から六代までの百二十年を過ごした磐城での暮らしは、内藤藩の武士にどのように映っていたのであろうか。政樹の惜別の和歌が残されている。
『日に向ふ 国に命を延べおかば またみちのくの 人にあふべし』
磐城から延岡までの行程四百里の移動の旅は難儀を極めたと云う。この年の三月、平城下長橋を発して陸路により四月末大阪着、それより海路、瀬戸内海を経て、六月三日、延岡湾五箇瀬川河口に着船、実に七十余日を要した、と史料にはある。墓石も積んで、薄磯の浜から船出した家臣もあったが、難破して着かなかった者もいたらしい。
「政樹の惜別の和歌を知っているかい」
佐藤が私に尋ねてきた。
「知っているよ。読んで、複雑な印象を抱いたもの。歌に、日向、延岡、みちのく、という三つの言葉を巧みに盛り込んである。僕が読んだ本に依れば、六代百二十年続いた磐城の地を去ることになった哀切な感情が籠もっていると書いてあったが、どうも、僕は少しひねくれているのかも知れないが、何か、能天気で、いけしゃーしゃーとしているな、という印象を持ったよ。上品な文化人の殿様であったらしいけど、元文一揆の犠牲者となった義民のことを思うと、哀切な感じは少しも伝わって来ないんだ。一体、備後守政樹にとって、この磐城百姓一揆は何であったのだろうか。実情は、殿様には伝わってないのだろうか。家老から話を聞いて、あっそう、という感じであったのではなかろうか、と思ってしまうよ」
佐藤が笑いながら、言った。
「怒るなよ、武藤。殿様には、そんなに具体的な話は言上されないさ。殿様に、世情のことを率直に話してくれるブレーンが居れば、話は別だけど。もっとも、そのようなブレーンを持つことすら、家老以下藩重役が許してはくれないさ。家臣にとっては、殿様は名君である必要は無く、健康で長生きをして、必要数、跡継ぎを作ってくれる男であれば、それで良かったのさ。仁君であるなぞ、もってのほかだよ。そんな殿様は百害あって一利なしさ、家臣にとってはね。殿様は殿様で自分の趣味に生きて、家臣の仕事の邪魔をしない、家臣はひたすら自分の地位を守る程度の仕事はして、責任はなるべく取らないようにする、周囲の者に悪い言質を取られないように発言に気を付ける、部下を持つなら、自分に都合のよい部下を集める、同僚が居るならば、オブラートに包んで、その同僚の悪いところをちくりちくりと上司に話すようにする、対立する派閥があれば、間違っても没落する方にはつかない、判定がつかない時はどちらにも然るべき媚を売っておく、などなど、保身しか考えないのが家臣たる者の心得何ヶ条さ。よろしいか、武藤殿、さよう心得よ。さよう、しからば、ごもっとも、でいくのさ」
馬鹿言ってんじゃないよ、と私もつい笑ってしまった。