四本足の友へ
宇宙をずっと近くに感じる。
手を伸ばせば届く、そんな距離だ。
ずっと昔にまでは、宇宙にあがれるのは、一部の選ばれたエリートの中でも、とびきりの幸運に恵まれたものだけだった。
選ばれたものだけがたどり着ける、『新しい世界への入口』──宇宙。
今の世界は恵まれていた。
だって宇宙へは、誰もが手をかけられるのだ。
少なくとも、マリアナ海溝の海底へいくよりも、エベレストの頂上を目指すよりも、ずっと簡単だ。
──しかし。
「くっそぉぉぉぉぉっ!!」
しかし、だ。
『目の前を揺れる尻尾』には、今だに手をつけられそうになかった。
「春浦、五秒三。本気出せー、手も足も抜くなよー。東野、五秒九だ」
両手にストップウォッチをもつ教師の、無情なる宣告。
それはオレが、ついに一度も『彼女』に勝てなかったことを告げていた。
体力測定。
50m走。
オレは、速さで負けた。
負けたのは今回が初めてではない。
というより、負けが常態かしていた。
嘆かわしいことである。
「あはは! 東野、また速くなったな!」
「……速くなっただけじゃ嬉しくない」
「体の構造が違うんだから、そりゃ無理よ」
「……」
無理でも勝ちたかったのだ。
勝ちたかったのだ。
「春浦、もう一本走るか?」
「いえ、先生。もう終わりにしときます。体も熱もっちゃいましたし」
「そうか。──次、用意しろ!」
センセーはすでに、次の走者へ合図を送っていた。
広い運動場だ。
他の生徒が沢山残っていた。
計測が終わったものから、サッカーをしていることになっていた。
もっとも、本格的に対決するのではなく、ボールを適当に転がすくらいのものだ。
実質、自由時間である。
疲れ切ったものも多いのだ。
「……」
足が震える。
筋肉がけいれんしていた。
春浦と競争した本数は、五本。
250mを全力疾走した計算だ。
足は声なき悲鳴をあげていた。
限界だった。
「ありゃー。背中乗るかい?」
「……お願いできる?」
「任されよ」
オレは、春浦の広い背中を借りた。
春浦の体は大きい。
オレよりも、人間よりも、ずっとだ。
人間の腰から下が、馬の首から下の姿だ。
『セントール』というやつである。
実質、馬である。
馬を相手の競争は、なかなか勝ち星をとりづらい。
というより取れたことがない。
オレの体は、春浦の背を中心に、くの字に折れて運搬されていく。
体育館の影にはいった。
春浦は四本の足を折って座り込む。
何となく。
オレは春浦の背中に乗っかったままでいた。
ほのかに獣臭い。
牧場にいるみたいだ。
家で一緒に暮らしている、洗う直前の猫みたいな匂いだ。
春浦に振り落とされるようなことはなかった。
「暑いね」
「走ったから」
「そだね」
「ちょっと疲れたかも」
頭がボーッとする。
少し無茶をしすぎたかも。
何も考えられない。
ノドが乾いた。
水が欲しい。
でも、それでも──
「──く~や~し~い~。また負けたぁ」
「東野クンのままじゃ、ずっと無理だよ。だって体のつくりが違うんだもの」
「それでも勝ちたかった」
「アハハ……。……でももう、コレが最後だからね」
「……そだね」
来年はないのだ。
長い付き合いのあるセントールの娘と勝負するのは、今年が最後だ。
ついに一度も勝てなかった。
いつも、ずっと、春浦の背中を見ていた。
その先にはいけなかった。
「フンッ! 足では、学校最速の座を春浦に譲ってあげるさ。──でもオレは、お前よりもずっと速くなれる」
「あっ、宇宙船の免許とれたんだ」
「航宙船ね。一級航宙船だ。太陽系のどこにでも行ける! 秒速ウン十キロメートルの世界だ。誰よりもずっと速い男になれたわけだ」
「よかったね」
「……今日は、調子を狂わせられないぞ」
確かにオレは、春浦に負け続けた。
完敗だ。
しかしだからといって、オレが、春浦よりも遅いとは考えていない。
足しか使わない競争だったら、人間はこの世の多くの動物よりは遅い。
──だがしかし!
人間は、地球最速だ。
音の壁を超え、光の速さへと手を伸ばす。
航宙船は、人類史上最速の有人船だ。
その最速の航宙船を操るということはすなわち、人類が最速というわけだ。
確かに春浦は、速い。
認めよう。
春浦はオレよりも速い。
オレでは手も足も馬もでない。
相手は馬並みだ。
人間が平地で馬に足で勝つのは、生まれた時からある五体では無理だ。
──しかし。
流石の春浦でも、航宙船の、時速数十キロメートルの速さの階層にはたどりつけまい。
すなわち春浦に勝ち目なし。
勝利は確実である。
「東野クンはパイロットの将来、かあ……」
「?」
気のせいだろうか?
春浦のしゃべりかたが、妙に感慨深げなものいいに聞こえた。
……何だか気にくわなかった。
馬鹿にされているみたいだ。
「お前がパイロットになれるとは思ってなかった」と言われているみたいだ。
「ってことは、宇宙にいくんだよね」
「そりゃ、航宙船に乗れるんだから……あたりまえだろ」
「凄いね」
「何がさ」
「東野クンは怖くないのかな」
「…………怖い?」
春浦のいっている意味がわからない。
怖いだって?
そりゃ、壁一枚で宇宙と接しているような、潜水艦と似たような危険はあるが……。
「春浦は苦手なのか? 宇宙が」
「そうだね。……フフフ」
春浦は突然、何かを思い出したように笑う。
しかしすぐに、自分でも『おかしなこと』であると気がついたらしい。
何を思い出したのか。
何をどうして笑ったのか。
オレは訊かなかった。
「……んんっ! 失礼」
軽いせきばらい。
話は戻されるようだ。
「世界はね、揺りかごのような方舟だと思うんだ」
「うん」
「そこにはワタシのようなセントール。東野クンのようなニンゲン。魔女やら人魚や竜。色んなのが。地球とかで一緒に暮らしてる」
「そうだね」
「ワタシたちの幸せに満ちた揺りかご」
「……?」
「わざわざ過酷な世界に飛び出していこうとするのって、凄いね」
「あぁ、そういうことか」
「フフフ……しかもその理由が……だからね」
「──ふんっ!」
「ワタシよりも速くなりたいだけで、危ない宇宙へむかうんだもん。おかしいよ」
「おかしくないよ」
「おかしい」
「むぅ……」
断言されてしまった。
おかしい。
……おかしいのだろうか?
そんなことは、ないと思うんだけど……。
「向上心あるよねー。……向上心でいいのかな」
「オレはいつでも、過去を土台にして、未来を見ているのです」
「……まっ、前をむいているのは確かだねぇ」
「引っかかるいいかた」
少しは体力が回復してきた。
今までうずくまっていた、春浦の背中を離れた。
「もういいの?」
「うん。ありがと」
「どういたしまして」
やっぱり。
セントールの背中は広かった。
そしてニンゲンよりも、ちょっと温い。
「……」
「……? どうかした?」
「いや……」
駄目だな。
セントールの背中にいると、『甘えた』くなってしまう。
馬は、昔から好きだ。
大きくて力強い。
そして何より『速い』から好きだ。
大地をかける、四本のひづめ足。
足にはクツがわりのバテイをはめている。
望めば、どこにでもいけそうな足。
羨ましかった。
──しかしである。
だからこそ、わからない。
春浦の足は、ニンゲンのオレよりもずっと、自由にどこにでもいけるのだ。
なのにどうして?
彼女の足ならばニンゲンの誰よりも速く走れるのに……『踏み出し』を恐れている気がした。
「春浦」
「何かな、東野クン」
「宇宙は悪くない」
「……どうしたのかな?」
「宇宙は良いところだ。リスクはある。だがリターンもある」
ファンタジーの住人があふれた世の中だ。
だがしかし。
だからといって、『さらなる新境地』は望まない、お腹いっぱい、というのは違う。
目指すのだ。
生きているのだ。
生ある限り前へ走るのだ。
宇宙という新世界の入口は見えている。
入口をとおるのは、至極当然。
ファンタジーと宇宙。
素晴らしい。
現実は何故か、ニンゲン以外の種族は宇宙へ進出するのを嫌がる傾向にあるけど。
「宇宙は……遠いね」
「そうでもない。どこの誰でも、二十四時間以内に高軌道だ。飛行機でブラジルに行くよりも、ずっと安い」
「東野クン。ワタシは、そういうことをいってるんじゃないんだよ」
「……そう」
「寂しくなるなぁ」
春浦はもう一度、「寂しいよ」とつぶやく。
今度のは、前よりもずっと小さく。
吐き出すように。
セントールの、ズボンを通した尻尾がパタパタと揺れていた。
「何にせよ、『オレの勝ち』は明らかだな」
春浦の気持ちはハッキリいって──よくわからん!
オレは自分勝手だ。
考えないことにした。
「……本当……キミのそういうところ、好きだよ」
「どこがだ? 春浦」
「ところでさ!」
「ん? うん」
「遠くない未来に、ワタシよりも速くなる東野クン。悪いんだけど、現状は最速の『ワタシと同じ視線』を見てみないかい?」
「背中に乗せてくれるのか!?」
「特別にね」
「乗る! 乗せてください!」
からかいではなかった。
春浦の背中に乗せてもらう。
春浦はかける。
ニンゲンよりも、遥かに大きなセントールの肉体は、オレを易々と、限界の向こう側へと連れていってくれた。
風を感じた。
目に見えない力が肌を押す。
速さを肌で感じた。
うむ、良い。
速いのはやはり、良いものだ。
車から上半身をだしたとき以来の気分の良さ。
やっぱりセントール……春浦は速い。
「……」
ただ少し残念だ。
春浦が飛ぶ──走るというより、こっちのがしっくりくる──たびに、オレの尻が叩き落とされる。
痛い。
尻の皮が剥がれそうだ。
乗り心地は良くない。
まあ、速さとのトレードと考えよう。
「コラッ! 授業中と忘れるな!」
「はーい!」
束の間の疾走。
それは、先生の一声までの短い間。
しかし充分だ。
「ありがとう、春浦。ありがとう」
「フフフ。あらためて、ワタシのことを『凄いセントール』だってこと、見直した?」
「うん。やっぱり、速かった」
「満足してくれて満足だよ」
上半身をひねってふりかえ見てきた、春浦の顔。
ニシシ、とでいうべきか、何とも言えない……良い笑顔に見えた。
この顔は知っていた。
近所の歳の離れたお姉さんが、昔、オレの駄々に答えてくれたとき……。
あぁ……そうか。
「ありがと、春浦」
「いいのだよ、東野クン」
オレはもう一度、礼をいった。
春浦はたぶん、『弟分』の面倒を見るように、オレに接してくれたのだ。
悪い気分には、ならなかった。
今はまだ、春浦のほうがずっと大きい。
ずっと速い。
でも──ずっと、『そう』であるわけでもない。
「今はオレの負けだ。でも自分の航宙船をもったら、春浦を載せるよ。今日のお返しだ。そして言うんだ。ハッハッハッ! 昔と違って、ずっと大きく速いぞって」
「楽しみにしてるよ──」
ほんの一瞬。
春浦の言葉が詰まる。
しかしすぐに続きがつむがれた。
「──友情が続くことを祈ってるよ」
春浦。
セントールで、大きくて、四本足の、大切な友。
彼女を打ち負かすその日まで、そして、願わくば、打ち負かしたあとにも友情が続きますように。
未来というのはわからない。
それでもオレは、そう祈り願った。