第二話 コミュ音痴
教室に入ったのは、朝礼開始ギリギリだった。
濡れたカバンをハンカチで拭きながら、自分の席に着く。
窓側の前から三番目という、まあまあ悪くない席だ。黒板は見にくいけど。
机と机の間の通路に散乱しているカバンの間をよけ、着席するのとチャイムが鳴るのが同時だった。
「おはようございます」
『おはようございまーす』
担任の英語教師の声に続いて、40人分の声が唱和する。
「えーと、今日の連絡。放課後に昨日受けた単語テストの再試があるので、該当者は準備しておくこと。あと、これも放課後に、図書委員の集合があります。このクラスは、結城と今川だったね?」
「はい」
短い返事を返したのは、結城刹弥。同じクラスにいながら、一度も話したことがない。もっとも、私の場合、話したことがある男子のほうが少数だ。
「何時までかかりますか」
だるそうに手を挙げながら、今川基樹が聞いた。やっぱり話したことがない男子で、結城くんと仲がいいことぐらいしか知らない。
「うーん、よくわからないな。そんなにかからないと思うぞ。二十分くらい?」
十分長いし、と言いながら今川くんは手をおろした。
「ほかに質問は?……ないようだな。それじゃあ、今日も一日、頑張ろう。号令!」
「気をつけ、礼!」
『あざましたー』
担任が教室を出ていくと同時に、がやがやと話し声が生まれる。
「一限なんだっけ」
「現代文」
「うわだるー……寝るしかないな」
「サボんなよ」
ほかの人の会話が、耳を右から左へと流れていく。
私はそんなクラスメイトをよそ目に、机の上に現代文の教材とノートを並べる。
今年のクラス替えは最悪の部類に入るほうだった。仲良かった友達とははぐれるわ、苦手な人と同じになるわ、男子は知らない人ばっかりだし、いいことが全くない。
クラスの中心となる人たちは、よく言えばムードメーカーで、悪く言えば騒音源といった人たちで、それにつられてクラス全体としてにぎやかな空気が生まれていた。
そんな空気に溶け込むことを早々に諦めた私は、傍観者として無難に一年過ぎてくれればそれでいいと思っている。
見ている分には馬鹿で面白そうな集団なんだけど、入っていくのはちょっとね……。
数人で固まって騒ぐ人たちを眺めながら、私はそう思った。
やがてチャイムが鳴り、現代文の授業が始まる。
カツカツとチョークの音を立てて黒板に文字を書き連ねる教師の後姿を見ていると、不意に激しい睡魔に襲われた。
教室はしんと静まり返っている。休み時間はあれだけ騒がしいのに、(厳しい教師の)授業中は静かになるから不思議だ。
窓の外には、相変わらず降り続く雨が単調な模様を描いている。それを見ているとなおさら眠気が襲ってくる。
「この段落は具体例なので、要点をまとめるときは……」
平坦な口調を聞いていると、なおさら(略)。
勢いに負けてシャーペンを放り出した瞬間、瞼が瞬間接着剤でくっつけたみたいに開かなくなった。
カツカツカツカツ……。
板書を刻む音が遠のいていく……。
チャイムの音で私は意識を取り戻した。
真っ白なノートと、文字でびっしり埋まった黒板を見比べて、私は絶望した。
「というわけで、現代文のノート見せてくださいませ」
「何が『というわけで』なんだか」
時間は昼休み。違うクラスになってしまった友人と一緒にお弁当を食べるのが風習だ。
場所は、私の教室。男女問わず、にぎやかな談笑の輪が広がっている。
その集団から少し離れたところにいるのが、私と友人の河合栞里だ。
栞里は、去年まで二年連続で、同じクラスだった、マイベストフレンドだ。
ショートカットの髪は、天然でやや茶色い。150センチに満たない低身長で、大きめの目をしているので、中三という年齢より少し幼く見える。
成績は中の下。入学当初は私より良かったんだけど、サボり癖がたたって、この地位まで転落した。
一方私は、努力が実って、三十傑にランクインできた。
「偉そうに人物紹介してるけど、別にあたし、そんなサボってたわけじゃないよ」
「嘘つけ。考査前日にググタスいじったりハングいじったり青い鳥飛ばしまくるのをサボるというんだよ」
「そんなチャットばかりしてるわけじゃないし!」
「スマホいじってるのは?」
「否定しないけど」
しないんかい。
とまあ、互いに気を遣わずに会話できるような仲であることは確かだ。
「でも愛梨はそんなあたしにノート見せてって言ってるんだよ」
「それとこれとは別。いーから見せなさい。それとも取ってないのか?」
「取ってるし。今日はたまたま寝てただけ」
「あっそう……」
なんだか互いにとって良くないことになりそうなので、この話題はやめにした。
「他の子に見せてもらいなよ」
「そうするしかないかな……」
卵焼きを口の中に放り込んで、私は溜息をつく。
「というか、最初からそうしたらいいじゃん。わざわざ他クラスのあたしを頼らなくても」
「……そうだね」
答えるのにちょっと間があった。
そうしたら早いことくらい、私だってわかってる。
でも、さっきも書いた通り、このクラスは最悪の編成なんだ。
仲良くない人ばっかり。授業中寝てたからノート見せてなんて、「ハードルが高い」会話はできない。
そう言ったら、栞里は溜息をついた。
「そんなのだから、友達ができないんだよ。その程度の会話、全然ハードル高くないって。隣の子に聞いてみれば?隣、誰よ」
「えっと、誰だっけ……確か、今川くんだよ」
「聞いてみたら?」
「うーん……」
暗めの声の返事を聞いて、栞里は肩をすくめた。
「そのコミュ音痴を何とかしたら、モテるのにね」
「うっさいわ」
私は残っていたご飯を強引に口に詰め込んだ。