in the gray dawn
午前四時、太陽だって顔を出さない冬の夜。俺の気まぐれが世界を変えた。それはとても尊い奇蹟だと、あいつはいった。
***
眠れといわれた。余計なことを考えてるからいけないんだ、とにかく眠れって。どうしてもダメなら薬でもなんでも飲めばいい、ともいった。勢いに負けたのか、それこそ最初は真に受けたけれど、結局は何も解決してなくて、押されるようにして入ったドラッグストアで購入した市販の睡眠誘導剤をゴミ箱へ捨ててやった。そうした方が、眠れるような気がした。
天気は悪い。二日前からずっとだ、雨が降ったり止んだりを繰り返している。空の色だけじゃ夜なのか昼なのかの区別も出来ない。
ベッドの上で寝転んだまま、床に放り出された充電中の携帯電話のわずかな明かりを頼りに手を伸ばして引っ張り出した。真っ暗な中それを開いて、もうすぐ日の出なのだということに気がつく。早く明けてほしいような、もう少し待ってほしいような、なんともいいがたい感情が胸の奥でくすぶる。
そんなことに気がついても、俺のまぶたは落ちない。不眠続きで頭のどこかに靄がかかっている。
三連休か、まだ、今日も休みだ。そう思ってため息をつきたくなった。過ごす相手もろくにいない休日なんて退屈すぎて死にたくなる。意味不明な自殺願望ばかりもてあましてしまう。
ほとんどの人が眠っている時間、まるで世界に取り残されたような感覚。静か過ぎるのだ、気がついて、出かけることにした。コンビニでいい、二十四時間営業。あれは俺みたいな奴の為に開いてるんだ、なんて勝手なことを思ってみる。
歩いて五分。距離も営業時間も俺にやさしいコンビニエンスストア。友達も恋人も売ってはいないが、ひとりの時間を埋めるのは容易い。
外に出ると寒い筈なのに、湿気をたっぷり含んでいるからか、どこか温かい空気が頬をなでた。上着を持ってくれば良かった、そう思ったが取りに戻るのも億劫でそのまま歩き出した。
安アパートの階段を降りて左へ曲がる。すぐにある十字路をやっぱり左へ曲がって、そのまま真っ直ぐ歩く。その内に広い道路が見え始め、車(ほとんどは大型トラックだ)の走る音が大きくなる。
広い道まで出ると右へ曲がる。そのすぐ先に二十四時間明かりの絶えないあの店がある。
「いらっしゃいませー」
自動ドアの機会音が耳につく、無機質な来客を告げる間抜けな音楽、その後にどこか間延びした男の高い声がした。どこにいるかはわからない。
適当に雑誌コーナーを通り過ぎながら店員や他の客の姿を探した。ひとり、赤い髪をしたやけに背の高い奴が奥の、確かドリンクが置いてあるコーナーで何かを物色している。それはすぐに店員だとわかった。脚立に乗って、ドリンクコーナーの上の方に貼ってある広告を張り替える作業をしているようだった。
さっきの声は、こいつか。
そいつの後ろ姿は何故か非常に危なっかしく、頼りなく見えた。今にも崩れそうな気がした。俺はしばらくそこに立ってそいつの作業ぶりを観察していた。それはほとんど無意識の行動だったと思う。
「……めんどくせぇー」
ぽつりと、おそらく俺には聞こえていないだろうと思ってだろう、ぶつぶつと何かを呟いている。作業はすぐに終わって、そいつは脚立から降りた。カシャンと音がして、裏へそれをしまいに行く。スタッフオンリーの扉はすぐ右にある。そいつはそこに行こうとして横を向いて、俺がじっと見ているのに気がついた。目も眉毛も黒かった。
「……ッス、いらっしゃいませ」
驚いたようにそいつは目を丸くして、小さく頭を下げる。俺は吹き出しそうになるのをこらえていたが、唇の端がつり上がっていくのはどうにも止められなかった。多分今の俺はにやりといやらしい笑い方をしているだろう。そいつは戸惑いながらもすぐにスタッフオンリーの扉の向こう側へ入っていった。
ふ、と小さく息をもらす。それから店員が張り替えていた広告を見上げた。コンビニ限定で某有名パティシエの商品が始まった、その宣伝広告だった。クレームブリュレというらしい。目の前のドリンクコーナーから左へ少し視線をずらすと、そこに大量に置いてあった。
「……うまいのかねぇ」
近づいて、ひとつ手に取った。380円、そのわりに軽い。この手の食い物は高くて嫌いだ。
「買うンすか?」
声をかけられて、首を動かした。赤い髪、さっきの店員だ。
「いや……甘いのは嫌いだから」
「でもそれ、ウマイっすよ。販売今日からで、どっちかってゆーと苦い」
「……食ったのか?」
「ハイ」
「今日から販売なのに?」
「深夜はヒマなんで。あ、内緒っすよ」
なんだコイツ、多分俺もそう思われているのだろうが、俺は思わず笑った。声を上げていたと思う。
「じゃあ……食ってみるかな」
俺がそういうと、店員はにいっと唇を顔いっぱいに広げて、笑った。
「毎度ー」
それはソイツの危なっかしい、壊れそうな雰囲気にぴったりな、ほわほわとして今にも飛んでいって消えそうな、たんぽぽの綿毛のような、そういう笑顔だった。
「ところでお兄さん、今日ヒマ?」
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