第三話・1
今日の私の気分が多少、憂鬱なのは否めない。
理由は二つ。一つは、もちろん数日前のことだ。
私の我慢が足りなかったせいで、結果的に彼が傷を負い、入院してしまった。このことは深く反省している。
獲物である分際で、狩りの催促などおこがましいにも程があったのだ。
狩りとは、狩る側がすべての主導権を握る。私をいつ、どんな方法で狩るかは、完全に彼の自由であり、私の意志が介入する余地はない。
彼にも生活がある。狩られる側の生活など一切考慮すべきではないが、狩る側の生活を守るのは最優先だ。
狩る側と狩られる側の関係とはそういうものだと思う。
どちらにしろ、彼の傷が完治するまで私を狩るのは無理だろう。
狩る側は自分の安全を確保しなければならない。獲物につけいる隙をあたえてはいけない。
つまり、『おあずけ』ということだ。
私が狩られるのはもう少し後のことになるだろう。正直言って、つらい。
なにせ彼が一度、私を狩ることを決意して、行動を起こしてくれたのだ。あの時の喜びと絶望感は、何物にも変えがたい。
だが、予期せぬ乱入者によって私は助かってしまった。
一度、目の前に無上の快楽をぶら下げられただけに、それをしばらく待たなければならないのは、つらい。
だが、仕方がない。これも元はと言えば、私が原因なのだから。
そして、二つ目の理由。今日は、慣れないことをしなければならない。
ある人物への、宣戦布告だ。
だが、私は戦うなどということは出来ない。あくまで、私は狩られる側の存在なのだ。
一方的に攻撃を受けるのは大歓迎だが、相手と戦えとなると、憂鬱にならざるを得ない。だが、仕方がない。これも……
彼が心置きなく、狩りを楽しむためなのだ。
そんなことを考えていると、目的の場所と人物が見えてくる。気を取り直して、まずは挨拶から始めよう。
「はじめまして。君のことは知っているよ」
私は声を掛けると、相手は怪訝な顔をしたが、すぐにするべき対応を思い出したのか、私に優しく対応する。
だが、私は相手の表向きの顔にあまり興味が無かったため、すぐに次の言葉を出した。
「自己紹介をさせてもらおうか」
そう、挨拶の次は自己紹介だ。
しかし、この相手との会話にあまり時間をかける気にもならないため、自己紹介と宣戦布告を一気にすることにした。
「私の名前は柏 恵美。残念ながら、君の敵だ」
===================================
眠い。
だるい。
かったるい。
卒配当時から、ずっと勤務している交番で立番をしている俺、真田 等は、そんなことを考えていた。
俺は警察官の仕事に誇りなど一切持っていない。
そもそも、自分の身は自分で守るのが本来あるべき姿じゃねえのか。それを怠って、危険が起きた時だけ警察を非難する、バカ市民にはほとほと呆れる。
てめえらがマヌケ面を晒して、全く危機感を持たずに生活していられるのは警察のおかげだってのに。
交番の前を通るバカどもの姿を見る。
どいつもこいつも、守ってもらって当然のような顔をしてやがる。
自分の安全だけは、未来永劫崩れないものだと信じている。
こいつらに守る価値なんてねえ。いや、そもそも人間が本来守るべきなのは、自分だけで十分だ。
以前、ストーカーに殺された女が生前に警察に相談していた際の警察の対応が問題になり、ニュースになったが、全く持ってバカらしいと思う。
そもそも、てめえが男を勘違いさせる行動をとったのが原因だろうが。
それなのに、自分のケツを拭こうともせず、完全に警察に頼る気なのが気に食わない。自分の安全は警察が守ってくれると思っている。
冗談じゃねえ。警察はてめえのためだけに存在しているわけじゃねえ。
そうだ、自己責任というのであれば、自分に降りかかるあらゆる危険も自己責任なんじゃねえのか。
市民が自分の身は自分で守るようになれば、俺の仕事も減る。酔っ払いの相手や、近所のジジイ、ババアの相手もしなくて済む。
そんなことを考えていると、後輩が声を掛けてきた。
「真田さん、この間の遺失物関係の書類、まとめてくれました?」
ああ、そんなことを頼まれていたっけ?
「ああ、今日中にまとめておくよ」
「あれ、まだやっていないんですか? そういうのは早めにお願いしますよ」
クソが。先輩の俺に対して舐めた口利きやがって。親戚が警察のお偉いさんだから、コネで警官になった分際で、いい気になりやがって。
てめえが俺に勝っているのは、親戚の権力だけだ。実力まで俺を上回っているとでも思っているのかよ。
こいつも狩りの対象に出来れば、いいんだがな。
俺は一月前の狩りを思い出す。
いつも狩場として使っている廃病院で、逃げる女を追い詰めて、滅多刺しにしたことを思い出す。
本当にバカな女だった。
警察手帳を見せて、適当なことを言えばホイホイ着いてきて、車が廃病院に着くまでは俺を疑いもしなかった。あとは、ナイフで脅して両手を縛った状態で、廃病院に入れれば狩りの始まりだ。
わざと一旦逃がして、それを追い詰めるのがたまらない。
そう言えば、死ぬ寸前に面白いことを言っていたな。
「真田さん! 警察官のあなたが、なんでこんなことを!?」
バカが。警官だって人間なんだよ。ストレスくらい溜まる。それに警官による犯罪なんて、今時珍しくもねえだろ。
だから、
「うるせえよ。てめえの危機管理意識の無さが原因だろ?」
と言ってやった。
そう、俺が警官になったのは、狩りをやりやすくするためだ。
あの廃病院の一帯は電波状況が悪く、携帯電話は通じない。さらに、特定の時間帯はパトロールもされていない。
そして、俺が警官だと知れば、大抵の人間は安心してしまう。
本当に役得だ。イライラすることも多いが、狩りたいと思った時にすぐに狩れるのが最高だ。
そう考えるとなんだか機嫌が良くなってきた。
口笛でも吹きたい気分になっていると――
「はじめまして。君のことは知っているよ」
制服を着た、女子高生が声を掛けてきた。
だが何だ? 俺のことを知っている?交番ではなく、俺自身に用があるのか?
とりあえず、俺は社会的には警官なので、それらしき対応をする。
「何かお困りですか?」
配属されて、数週間で会得した愛想笑いで対応する。
だが、女子高生は俺の声が聞こえていないかのように言葉を続ける。
「自己紹介をさせてもらおうか」
なんだこいつ? てめえの素性になんか興味ねえよ。
まあ、顔は結構レベルが高いが、さすがにガキ……
「私の名前は柏 恵美。残念ながら、君の敵だ」
……はあ?
いきなり何を言ってるんだこいつ?
……というか。
「……何か御用ですか?それと、年上に対してその話し方はどうかと思うな」
「済まない。だがこれは、癖というか体質のようなものだ。どうか寛容な心で受け入れて欲しい」
なんだこの妙に芝居がかった口調は?
最近のガキは礼儀がなってないとはよく聞くが、なんかこれは違うんじゃないか?
「用がないなら、帰ってくれるかな。私も勤務中だから、暇じゃないんだ」
「そこまで時間はとらせないよ。先ほど言った通り……」
そして、現代社会では、あまり聞きなれない言葉を口にする。
「私は君の敵。つまりこれは、宣戦布告というものだよ」
……何なんだ本当にこいつは。
「いい加減にしてくれる? 君は……M高の生徒だね?これ以上、君が私を妙な遊びに付き合わせるようだったら、学校に連絡することになるよ」
「これは遊びではないよ。れっきとした戦いの幕開けだ。尤も、私は戦うことは不得手だから、お手柔らかに頼むよ」
だめだこいつ。全く話が通じねえ。
「ふむ、もっと直截的な表現にすべきだったかな?」
こういう、わけのわからないガキは、学校に丸投げするのが一番だ。確か、M高の電話番号は……
「私は君の愉しみの邪魔をする」
……何だと?
「そう言っているのだよ」
俺の愉しみの邪魔をする? 俺の愉しみ?
――!
まさかこいつ、俺の狩りの現場を目撃したのか!?
いや待て、ただ単に頭のおかしいガキが適当なことを言っているのかもしれない。下手に動揺したらヤバい。ここは冷静に警官らしい対応をするんだ。
「いい加減にしないか! これ以上、君が公務の邪魔をするのであれば、署に来て貰って厳重注意をすることになる。学校からの処分だけでは済まないぞ!」
「君の仕事の邪魔をするつもりはないよ、真田巡査。だが、宣戦布告も済んだことだし、今日のところはこれで失礼させて貰うとしようか」
女子高生は背を向けて、立ち去ろうとする。
……ずいぶん、あっさり引き下がったな。やっぱり、ただの頭のおかしいガキだったのか?
「ああ、一つ言い忘れていた」
かと思ったら、まだ何かあるようだ。
全く、学校もこういうガキの管理はちゃんと……
「この街はまだ、君の縄張りと決まったわけではないよ」
その言葉に対しては、あからさまに反応してしまった。