魔女狩りの時に
「人間なんて弱いものだ。周囲の意見に直ぐに流されて自分の考えや行動を簡単に変えてしまうし、例えそうならなかったって、本心を隠して何も言わないのが普通だ」
――なんてこんな類の言葉は、はっきり言って陳腐なのだろうと思う。でも、陳腐だからって軽視すべきだとは限らない。
やっぱり、人間に(つまり、これを読んでいる君や僕に)こういう性質があるって充分に理解するのは、重要なのだと思う。だから例え陳腐であっても、繰り返し、それをテーマにして訴えていくってのは、価値があるのじゃないだろうか。
ほら、人間ってこういう事の意味を直ぐに忘れちゃうものだからね。
例えば、魔女狩りの時に、自分の大好きな女の子が、その被害者になっていたとしよう。皆がその女の子を、酷い目に遭わせようとしているんだ。それを見て、僕は(君は)その女の子を救うために、皆に抗う事ができるだろうか?
……結論から言うのなら、僕にはそれができなかった。
『魔女狩り』
15世紀から17世紀(地域によっては、それ以上)にかけて、ヨーロッパで行われた魔女と疑われた人間達への虐待虐殺行為を、そう呼ぶ。男性も犠牲者になりはしたけど、その犠牲者のほとんどは女性だったらしい。しかも、貧困層の老婆が多かったと言われている。
ヨーロッパ史の暗黒面の一つで、どうしてそんな現象が起きたのか、多くの謎を残し、それは研究の対象にもなっている。
実は、“魔女狩り”とそう表現しても良いような現象が、現代のこの日本でも起こってしまったんだ。しかも僕の住んでいる地域で。そしてその犠牲者に、僕の大好きな女の子が選ばれてしまった。「まさか」って思うかい? この科学が普及した現代の日本で、そんな事が起こるはずがないって。
でも、事実なんだ。
だけど、これはそれほど驚くような事でもないのかもしれない。この現代社会でも、いじめという名の虐待行為は相変わらずに存在しているし、他の国や人種に対する偏見だって根強くあるようだし、なにより、人間の根本が変わらないってのは、たくさんのインターネット上の醜い書き込みを観れば明らかだ。
ヨーロッパでかつて起こった“魔女狩り”は、一筋縄では捉えられないのだという。そもそも“魔女”の定義が非常に曖昧で、これをどう理解すれば良いのかも難しい。
魔女といえば、悪魔の助けを借りて、超自然的な力、つまり“魔術”を発揮する存在と思われがちだけど、その考えが社会の上層部で一般的になったのは、中世後期の事だったらしいし、この考えが民間にどれほど浸透していたかも怪しい。民間では、単に魔女が害をもたらす存在だと捉えられていたからこそ、迫害の対象になった可能性も大きいのだとか。
更に言うのなら、“魔術”の捉え方だって多様だ。
“自然魔術”という言葉がある。詳しくは僕も知らないのだけど、神は自然法則を変えてしまう事が可能だけど悪魔には無理だと考え、自然科学的手法で、悪魔の力を研究できるとして行われたものが自然魔術らしい。
いつの時代に“自然魔術”が生まれたのかを僕は知らない。ただ、こういう考えを生み出す背景がヨーロッパにあったからなのか、時代や場所によっては、魔術を敵視しないケースもあったのだという。キリスト教の上層部の人間が、それを熱心に学んだ事もあったのだとか(あの万有引力の発見で有名なニュートンも、錬金術を熱心に研究していた)。
もしかしたら、白魔術は許容されて、黒魔術は拒絶されたとか考えている人もいるかもしれないけど、どうもそうとばかりも言えないようだ。少なくとも一部の地域では、白魔術も黒魔術と同様に処罰の対象になると法律に定められていたらしい。いいや、そもそもを言ってしまえば、白魔術と黒魔術の区別だって曖昧だったんだ。例えば、自分の村では黒魔術とされていたものが、隣の村では白魔術とされているといったような事もあったのだとか。
つまりは、主体が何であるかによって、魔術や魔女の扱いは大きく変わったのだ。そして、魔女狩りの性質だって大きく変わった。
“魔女狩り”は大きく二つのタイプに分けられる。一つは裁判型。国、或いはキリスト教が主導し、裁判によって判決を下し魔女を処罰していったもの。もう一つは暴動型。民衆が自発的に行動を起こして、魔女と疑われる人間を虐待、虐殺してしまったもの。
地域によって、魔女狩りには大きな差があった。
ある地域では、魔女として捕まった者のほとんどは処罰されず、酷くても鞭打ち程度で済んでいた。しかし、別の地域では拷問によって自白を強要して死刑にし、その際に、共犯者を無理矢理に自白させたことで、魔女狩りの犠牲者が伝染していって、「このペースで魔女を処罰していけば、町から人がいなくなる」とまで言われたケースすらもあったらしい。魔女恐慌と言う言葉が相応しいと思う。
こういった悲惨な現象が起こった原因を、非合理で愚かな人々の間で悪徳が蔓延した結果と見なすのは簡単だ。けれど、その昔は、魔術の実在が信じられていて、それは合理的な判断だった可能性が高い。もちろん、サディスティックな欲求から魔女狩りを行った者もいただろうし、明らかに金銭を強奪する目的で、魔女狩りを行った者いたらしい(少数だけど、職業魔女狩り人というのもいた)。だが、その多くのケースでは、人々の間で魔女狩りは善行だと信じられていた。いや、むしろ、善行であると信じられていたからこそ、より危険だったのかもしれないけど。
『悪魔が人を誑かし、神の教えの道から遠ざける』
或いは、
『邪悪な魔女が、世に災いをもたらす』
そんな事を本気で恐れていた彼らは、存在しない悪魔や魔女と戦う為に、無実の罪の人々を、数々のおぞましく残虐な行為の犠牲にしてしまったのだ。
もちろん、どんな背景がその時代の文化にあったとしても、魔女狩りは愚かな行為だ。それを行う人だって。実際、拷問による自白の強要が激しく非難された事も少なくなかったらしいし、国やキリスト教が民間による魔女迫害を戒めた例もあったらしい。でも、人々はその凄惨な行為を二百年以上も行い続けてしまった。人間は弱くて愚かなものなんだ。
でも、愚かなのは当時の人々だけじゃない。現代社会に生きる僕らだって、やっぱり愚かなままなんだ。そう思う。
猪俣さんは不思議な女の子だ。フルネームは猪俣種。彼女の年齢を僕は知らないけど、多分、二十歳前後じゃないかと思う。彼女の特性として述べておかなくちゃいけないのは、まず何と言っても“喋らない事”だろう。無口とかいうレベルじゃなくて、本気で何にも喋らないんだ。
ただ、それでも、なんでか言いたい事が分かってしまうから不思議だ。表情や微妙な仕草でなんとなく分かるのだけど。
彼女は料理屋を営んでいた。それも普通の料理屋じゃなくて、薬膳料理みたいなの。名前は、“小料理屋 薬草の集”。そして、病気や健康に効果があるという謳い文句で彼女はその料理屋をやっていたんだ。
「喋らないくせに、サービス業をやっているの?」
なんて疑問に思う人もいるかもしれないけど、彼女の特性に慣れてしまえば、大した問題でもなかった。
それに、何と言うか、彼女にはそのハンデを補って余りある優しい笑顔と、そして温かいハグとがあったのだ。
ハグ。
これが彼女の特性で述べるべき、第二点。
彼女には落ち込んだ人や怒っている人、つまりは負の感情に陥っている人を見ると、ほぼ条件反射的に抱きしめて、そして癒してしまうという特性……、いや、能力があるのだ。
何を隠そう、僕だってそうやって癒されたうちの一人なのだけど。
まだ彼女の料理屋が、この小さな町にできたばかりの事だったと思う。僕は仕事で手痛い失敗をして、それで落ち込んでいた。彼女の料理屋は、職場と自宅の間にあって、帰宅途中に通りかかった僕は、彼女の料理屋に立ち寄ってみたんだ。
気落ちしている所為で家に帰って料理をする気にもなれなかったし、それに店の中にいる猪俣さんの優しそうな笑顔を見てしまった瞬間、どうしてもこの店で食べてみたくなってしまって。……正直、孤独が嫌だったのだと思う。彼女なら、僕を受け入れてくれる気がした。
店の中に入った僕を見て、猪俣さんは直ぐに僕が落ち込んでいると察したように思えた。表情が微妙に変化したのが分かったんだ。店内には、僕の他に客はいなかった。
猪俣さんはにっこりと笑って僕の前にまで来ると、そっと手に触れて、僕を座席にまで導いてくれた。
温かくて柔らかい手だった。
その手に触れた瞬間、僕はドキリとした。その時点で、僕は既に彼女に好印象を持っていたのかもしれない。喋らない事を少し変には思っていたけど、彼女の表情は豊かでしかも優しそうだったから、ほとんど気にならなかった。
猪俣さんは店のメニューを持って来るなり、そのうちの一つを指差した。多分、お薦めってことなんだろう。その料理には、こんな説明が書かれてあった。
『たまご粥セット。
疲れた時でも、無理なく食べられるお腹にやさしい一品です。食べ易いですが、栄養バランスも良く、健康状態を気にしているあなたにもピッタリ』
“やさしい一品”
その単語が、特に僕の注意を引いた。彼女が僕を分かってくれているような気がしたからだ。彼女を見ると、ゆっくりと微笑んでくれた。その後で僕は「それじゃ、これで」とそう言った。すると、猪俣さんは確り頷き、店の奥に入って行った。きっと厨房に向かったのだろうと思う。しばらくして料理が運ばれてくる。温かいそれにはたっぷりの手作り感が漂っていて、一口食べると絶妙な味付けの粥の味が全身に行き渡った。何か沁みた僕は、思わず目を手で押さえてしまった。泣いてしまいそうだったのだ。そしてその時だった。手で視界を塞いだ所為で、何も見えないでいる僕を、ふわりとした柔らかくて暖かいものが包んだのだ。
もちろん、それは猪俣さんだった。彼女が僕を包んでくれていたんだ。優しいハグ。
それが僕を肉欲に誘うとか、そういう類のものでないことは、何故か僕にはよく分かっていた。彼女は純粋に僕を心配しているんだ。それで僕を抱きしめている。それだけだ。でも、そんな事はどうでも良かった。
その瞬間、僕の心は、彼女に奪われてしまったのだ。
食事を取り終えると、僕は彼女の名前を教えてもらった。メモに書いて、彼女はそれを見せる。猪俣種。そこには、そう書かれてあった。彼女に合っている名前だと僕は思った。
そしてそれ以来、僕は彼女にすっかり惚れてしまったのだ。……いや、でもさ、こんな事があって、惚れるなっていう方が無理だとは思いませんか?
男なら誰だって惚れる。
いや、もしかしたら、女でも。
彼女に惚れてから知った事なのだけど、猪俣さんのこの地域における立場は、少しばかり良くなかった。
いや、もちろん、猪俣さんの事をよく知っている人達は、彼女に対してほぼ例外なく好印象を持っていたようだけど、彼女にあまり関わらない人達は、多少の偏見の目を向けていたようなんだ。一つには、その“喋らない”という特性が災いをしていたらしい。やっぱり、言葉を発しないことは奇妙だし正体不明な雰囲気に結びつき易い。それで、不気味な印象を持たれてしまっていたようだ。更に薬膳料理を作るという事も悪かったようだ。彼女はどうも料理に特殊な野草なども用いているらしく、“隠された知識”を扱う人間という点で、神秘的、或いは異能の持ち主という印象を持たれてしまったのだ。
“女性”という点も、一部の人達からの反発を招いた。
僕の暮らしている地域は、ちょっとばかり田舎にあって、それで古くからの因習が残っていたりするんだ。その所為か、女性蔑視的な傾向を持つ人も年寄りの中にはいて、「女のくせに、一人で店を経営するなんて、生意気だ」などと思われいたらしい。
それに、こういう地域社会にありがちだけど、閉鎖的かつ保守的で、外からやって来た人間に対して厳しいという面もあった。
とにかく、そんなこんなな理由で、彼女は地域社会の中で特別視されていたのだ。悪い意味で。
今にして思えば、彼女のこの境遇は、ヨーロッパでの魔女の境遇と、似通っている気もする。
魔女狩りを、一般化して捉える事はできない。そこには、多種多様な人間の社会模様が現れていて、とてもじゃないけど『魔女狩りの原因はこうで、こういう現象なんだ』なんて言えはしないからだ。
しかし、それでも大まかな概要、その歴史的な流れのようなものは語れるのじゃないかと思う。
魔女狩りのその原因の一つには、間違いなくキリスト教の影響があった。
キリスト教は、宗派にもよるのだけど、普及の為に昔からあった民俗的な宗教を否定、或いは利用した。その一環として、他の宗教のシャーマン的な立場にいる人を、邪悪な存在とした事もあった。そして、その中には、占いや薬草などで病を治す職業の人間もいた。“器用な人”や“占い病治し”などと呼ばれる人間達。その多くは女性であった。そして、その技術が公にされない“隠された技術”であった所為で、畏怖の対象になりもしたし、恐怖の対象にもなった。もちろん、それが魔女の正体の一つだ。因みに、ヴァンパイアの類が持つ“十字架を恐れる”という特性は、キリスト教が普及の為に流布したものらしい。
病を治す人間達は、つまりは“白魔術師”になる訳で、常に地域社会で忌嫌われた存在であった訳ではない。ただし、先にも述べたけど、白魔術師と黒魔術師の区別は曖昧で、時と場合によって変わって来るし、何より、そういった特殊技術者の存在は、不可思議な力の実在が信じられるという土壌を作ってしまった。
時代の流れと共に、『魔術を行う者は、悪魔の力を借りている。悪魔に惑わされている』という考えが生まれ、白魔術でさえ罪の対象となると、社会の上層部では『魔女は退治すべき邪悪な存在』として捉えられるようになっていった。
民間にその考えがどれだけ浸透していたかは不明だけど、それでも『魔女が実在し、恐ろしい力を使う』という恐怖が植え付けられていったのは、ほぼ確かだ。魔女の多くが女性であった点を考えるのなら、それは女性蔑視とも深い関わりがあると捉えてまず間違いないだろう。
そして、そんな文化が漂っていた時代に、疫病や嵐などの自然災害、戦争等が起こって、社会が緊張状態に陥ると、その社会に生きる人々は、原因を魔女に押し付けたり、或いはストレスのはけ口として魔女迫害を行ったのだ。つまり、国やキリスト教が裁判を起こして魔女と疑われた無実の人達を処刑したり、民衆が自発的に暴動を起こし魔女狩りを行ったりしてしまった訳だ。
もっとも、社会的緊張が高まった時に、必ず魔女狩りが多くなった訳ではないし、平和な時代に魔女狩りが起こらなかった訳でもないから、これは漠然とした傾向に過ぎない。
恐らくは、“魔女”という文化が、様々な社会的状況に流れ込んで、その場所場所で悪く作用した結果、“魔女狩り”として発現してしまったのじゃないかと思う。
断っておくけど、似たような話は日本にだってある。病気を治療するとか、特殊な技能を持った人が、化け物として扱われたり、不可思議な能力を持っていると思われて、忌嫌われた例は数多くあるんだ。技術を持つ修験者などが自ら異能の力を持つと吹聴したケースも中にはあったけど“憑き物筋”のように、蔑称であった場合も多い。少し違うけど“異人殺し”と呼ばれる成功者への妬みから生まれただろう伝説などもある。同じ様な社会的現象は、恐らく、世界中で観られるのじゃないだろうか。
そして。
彼女、猪俣さんは、そんな社会的立場にあったんだ。
猪俣さんのお店“小料理屋 薬草の集”は、公園の近くにあった。少し大きめの公園で、大きな遊具なんかが備わっているからなのか、子共がたくさん遊びに来る。
猪俣さんの料理屋は、それほど繁盛している訳ではなかったから、暇を見つけると、彼女はよくその公園を散歩していた。店は開けっ放しでそれをやってしまうのが、彼女らしいといえば彼女らしい。
きっと、彼女自身もそれを悪い癖だとは思っていたのだろうと思う。もし、散歩している間に客が入ったら待たせてしまう訳だし、というか実際に僕は何度か、彼女が公園を散歩している間に店に入って待っていた事があるのだけど。公園にいるだろうことは分かっていたけど、他の客が来なければ、僕は彼女の帰りを待った。彼女が楽しく公園を散歩しているのを邪魔したくはなかったし、大抵は十分から二十分程で戻って来るからだ。それに、戻って来た彼女が僕に感謝してくれている風なのが嬉しくもあった。
恐らく、猪俣さんがよく公園に行くのは、子共がたくさんいるからだろう。彼女は子供好きなんだ。そして、彼女の性格を考えれば直ぐに分かるだろうけど、彼女は子供達からとても懐かれてもいた。子共が泣いていたり、落ち込んでいたり、或いは怒っていたりしたら、抱きしめて癒していたようだったから、当然だったのかもしれない。ある日なんか、僕が昼食を食べに店に入ると、子供達が数人、デザートを食べていた。僕は直ぐに、彼女が子供達を招いてオヤツを御馳走しているのだと察した。
「お金は、どうするんですか?」
それで僕がその子供らを指差してそう言うと、彼女は戸惑ったような顔で笑って、軽く厨房に顔を向けてから、少しだけ顔を傾けた。
その仕草で、なんとなく分かった。多分、“試作品のデザートだから、奢りなんです”とでも言っているのだろうと思う。
僕はそれを受けて軽くため息を漏らした。小声で言う。
「駄目ですよ。一度、甘やかすと、子供は何度でも甘えてきます。子供達の為にもならないし、第一、あなたの生活だって……」
猪俣さんは、それほど裕福ではないのだ。デザートが幾つかくらいなら大したことないだろうけど、これから何度も、しかもたくさんの子共がオヤツ目当てにやって来たら、けっこうな負担になってしまうだろう。
「ここは僕がお金を出します。そうすれば、子共達も僕がいる時しかタダで食べられないって思うでしょうし、また甘えて来ても、僕ならちゃんと断れますから」
もちろん僕がそう提案したのは、彼女に恩を売っておきたかったからだった。少しでも彼女と親しくなりたいから。
その僕の提案に、猪俣さんは首を横に数度振った。多分、“そんなの悪いです”と言っている。
「大丈夫ですよ。これくらいなら、大したことはありませんし。ほら、僕は酒も煙草も金のかかる趣味もないので、多少、経済的に余裕があるんですよ」
これは、ついでとばかりに、さりげに経済力をアピールしてみたつもり。彼女がそういうのを気にするとは思えないけど、一応。
「それに、猪俣さんは子共からお願いされたら、断れないでしょう?」
その言葉を聞くと、猪俣さんは本当に困った表情になった。彼女を困らせるのは、本意ではない。でも、この困らせ方はアリだとも思う。そして、そんな事を思った次の瞬間だった。
「イテッ!」
僕の脛に痛みが走ったのだ。
「種ちゃんを、困らせるな!」
そして、そんな声が。
見ると、子共が直ぐ傍にいて、僕を睨みつけていた。恐らくは、この子が僕の脛を蹴ったのだろう。猪俣さんが、慌てた様子で子供を宥めようとしていた。ハグじゃなくて、仕草でだけど。
「大丈夫ですよ、猪俣さん」
それを受けて僕はそう言う。
「こら、子共。名前は?」
そう尋ねると、子供は「正太」と一言そう答えた。それを受けると僕は軽く頷き、「オーケー、正太。よく聞くんだ。僕は別に猪俣さんのことを困らせている訳じゃない」と、そう続けた。すると、口を尖らせて正太はこう返す。
「じゃあ、どうして種ちゃんはこんな顔をしているのさ?」
僕は自信満々にこう返す。
「今、君達が食べているオヤツは僕がお金を出すって決めたからだよ。彼女は、僕に悪いと思っていただけだ」
それを聞くと正太は、猪俣さんの様子を確認した。猪俣さんはそれを否定しない。というか、できないのだろうけど。それで彼は何も言わずに黙り込んでしまった。僕は勝利宣言だとばかりに、高らかにこう言う。
「僕がお金を出すんだから、ちゃんと僕にも感謝しなくちゃ駄目だぞ。猪俣さんにだけじゃなくて。それと、僕がいない時に、彼女からオヤツを貰おうとするのもナシだ。それこそ彼女を困らせてしまうからな。
あと、男ならちゃんと彼女の生活の事も考えなくちゃな。この店の経営だって、大変なんだから」
その僕の言葉に、渋々と正太は自分の席に戻って、そしてデザートの続きを食べ始めた。
正太は僕に何もお礼を言わなかった。ま、悔しかったのだろう。子共なんだからその辺りは仕方がない。それに、なし崩し的に、僕がお金を出すことを猪俣さんに認めさせることができた。僕の方こそ、少しは彼に感謝をしなくちゃいけないのかもしれない。
この時、僕はこの件は、これで終わりだと思っていた。後には続かないと。ところが、この件はそれから思いも寄らない展開に結びついていってしまったのだった。
ある日、僕はまた猪俣さんの料理屋を訪れた。休日。昼間で子供達が何人かいて、その中には正太もいた。そして彼は、僕を見ると駆け寄ってきて、こんな事を言って来たのだ。
「おれだって、ちゃんと種ちゃんのことを助けているんだからな」
何の話かと思ったら、どうも正太が自分の家族に我侭を言って、猪俣さんの料理屋で食事をさせたらしい。それで彼女の経営を助けたつもりになっているのだ。後で聞いた話だと、正太の両親は、普段、息子が猪俣さんにお世話になっているからと、それを認めたようだった。
「自分の金で食べてから、そういう事は言えよな」
事情を呑み込むと僕は冗談混じりの口調でそう言った。ただ、ま、それでも少しでも猪俣さんの店の経営が助かるのなら、喜ばしいことなのかもしれないけど。しかし、どうも、事は単純ではなく、そうとばかりは言えないようなのだった。
「猪俣さんが悪口を言われている?」
その数日後、僕はそんな話を聞いた。その正太の件が噂になって、いつの間にか猪俣さんが子供を誑かしているという事になってしまっているらしかった。
怪しく思われている人が、少し目立った行動を執ると、悪い方向に解釈される。これも、人の社会ではありがちな話だろう。もちろん僕は、その噂を否定した。責任の一端は僕にもあるのだし、なんとかその誤解を解きたいと思ったんだ。でも、無駄だった。多分だけど、まず初めに“悪口を言いたい”というのがあって、そこから物事を都合の良いように解釈するから、誤解を解くのがとても難しいんだろう。聞こえない振りして、スルーするのだもの。
そして、それから事態は更に悪く発展してしまったのだ。
「正太達がいなくなったって?」
ある日、正太も含めた猪俣さんとよく遊んでいた子供達が消えてしまったのだ。つまりは、子供の集団失踪事件。そしてその犯人として、猪俣さんが疑われてしまったのだった。
子供の家出くらいよくある事だ。大騒ぎするような話じゃない。ところが、前の猪俣さんの件があったものだから、話が大きくなってしまったらしかった。なんと、警察が猪俣さんの家と料理屋を捜索までした。もっとも、何も出て来なくて、あっさりと疑いは晴れたのだけど。ただし、世間一般ではそうは思われなかったらしい。警察から調べられた事で、ますます猪俣さんは怪しいと思われてしまったのだ。
そして、事態は最悪の展開を迎える。猪俣さんへの迫害… つまり、“魔女狩り”が起こってしまったのだ。
その指揮を執ったのは、この地域に住む地主の一家の爺さんだった。地元の中ではかなりの権力を持っていて、大抵の住民は逆らえない。その爺さんは、地元住民のうちで、腕っぷしの強い男達を集めると、猪俣さんを捕まえに彼女の家へ押しかけてしまったのだ。これは、“魔女狩り”と言っても過言じゃないだろう。
警察がどうして、そんな事を許したのか不思議に思うかい?
でも、その理由は簡単だ。警察だって、この地元のメンバーのうち。だから、閉鎖的な社会空間で作られたルールには逆らえない。それで見て見ぬ振りを決め込んだんだ。断っておくけど、こういう地域社会独自の支配体制やルールってのは、世界中に観られるんだ。何も珍しい事じゃない。
地域社会全体が犯罪を犯していたり、社会全体で犯罪を隠してしまえば、その犯罪が暴かれる可能性はほとんどない。『名誉の殺人』と呼ばれる女性への虐待。殺人犯を村全体で匿っているという疑惑。似たような話は、数多くある。そして、ここでも、そのうちの一つが起こってしまったのだ。
僕は猪俣さんの危機を聞くなり、急いで彼女の家に向かった。彼女を救う気でいたのは言うまでもない。時刻は、夜中の十時過ぎ辺りだったと思う。電燈がほとんどない夜の道。とてもとても暗かった。何も見えない。走るのは危険に思えたけど、構わずに走った。
もし、猪俣さんに何かあったらと思うと、怖くて仕方なかったんだ。
やがて、夜の闇の中に蠢くたくさんの人達の気配を僕は感じた。その蠢く気配は猪俣さんの家の前で、静かに荒ぶっていた。猪俣さんは家の玄関に顔見せていて、自分の家を取り囲む男達の姿を不思議そうに見つめていた。きっと、何が起こっているのかを理解していないんだろう。男達の一人が言う。
「子供達を何処にやったんだ? さっさと白状してもらおう」
その言葉に、猪俣さんは首を傾げた。
“何の事でしょう?”
多分、そんな事を言っている。男がまた言った。
「白を切ったって無駄だ。子供達を連れ去るのは、余所者のお前くらいしかいない。ちゃんと分かっているんだ!」
それを聞くと、猪俣さんは今度は逆方向に首を傾けた。
“知りません”
多分、そんな感じ。男がまた言った。
「ちゃんと、喋れ! その口は何のためについている? 喋れるだろうが!」
それには猪俣さんは何もアクションをしなかった。ただ、ちょっと困った風に笑っただけだ。男が言う。
「さっさと言わないと、少し手洗い真似をしなくちゃいけない事になる」
それから彼女の腕を掴んだ。猪俣さんは、少しだけ怯えた風にしたけど、抵抗は全くしなかった。そのまま、男は猪俣さんの腕を引っ張る。
「やめろ」
僕はそう声を発したつもりだった。でも、口が動いただけで、喉は空気を震わしてはくれなかった。動こうと思ったけど、足は動いてくれない。
“どうしてだ?”
そう自問したけど、無駄だった。動かない。分かってる。僕は恐怖で竦んで、何もできないでいたんだ。これだけの数の男達を相手にして勝てるはずがないのは分かり切っていたし、下手すれば僕まで巻き添えになる。それは、猪俣さん本人も望むところではない。だから、彼女のことを思っても何も動かないのが正しい。理屈ではそうだ。でも、それでも僕は自分を許せなかった。
腕を引かれて、猪俣さんが連れて行かれる。靴は履かせてもらっていたようだ。通り過ぎる瞬間、猪俣さんが僕を見た。彼女は少しだけ悲しそうな顔をした気がした。気の所為だったのかもしれないけど。
猪俣さんは、そのままこの“魔女狩り”を指揮した地主の家にまで連れて行かれた。土蔵の中に監禁されてしまったらしい。監禁はもちろん犯罪だけど、それが咎められるような事はなかった。その気配すらも。先にも書いたけど、警察は見て見ぬ振りをしていたし、この土地の住民達は、誰もこの地主には逆らえない。僕は彼女が心配で、暗闇に潜んで様子を窺っていたのだけど、幸いにも彼女が拷問されている気配はなかった。少しだけ罪悪感がやわらいだ。良かった。
……さて。
もしもこれが君なら、彼女を助ける為に動けていただろうか? 何かできていただろうか? 魔女狩りの時に、それに抗えていただろうか?
もし君が、“動ける”と答えられるのなら、僕は君の勇気を称賛したい。ただ、それでも僕が君が本当に動けるかどうか疑っている事だけは正直に白状しよう。
なにしろ、僕だって動けるつもりでいたんだから。でも、動けなかった。君だって、同じかもしれないじゃないか。
やがて、男達が帰り、土蔵の灯りが消えた。地主の家に住む人達が、全員、寝に就いただろうと判断すると、僕は闇に紛れて土蔵の様子を確認しに行った。携帯電話の小さな灯りで照らしてみる。そこで、土蔵の扉を見て僕は驚いたのだった。簡単な閂が嵌められているだけで鍵はかかっていない。つまり、外からは簡単に開けられるようなのだ。
考えてみれば、人を閉じ込める事なんて地主達も今まで考えもしなかっただろうからその為の施設があるはずもないし、自分達に逆らう人間が、地元にいるとも思っていなかったのだろう。それで、完全に油断していたんだ。
もしかしたら、“猪俣さんは悪で、自分達は正しい行いをしている”と、そう思い込んでいて、それで猪俣さんを助けようとする人間が現れるなんて夢にも思っていなかったのかもしれない。
恥ずかしながら、正直に告白すると、僕はそれを見るまで、猪俣さんを助けようとは少しも思っていなかった。さっきの自分のふがいなさ、それと恐怖と絶望感とが頭に染みついていて、そんな発想は浮かんで来なかったんだ。
だけど、だからこそそれができるという事に気が付くと、さっきの後悔を取り戻す為にか、僕は直ぐにでも彼女を助けたいという強い欲求に支配された。もちろん、それでもさっきの自分を許せはしないのだけど。あの場であのまま猪俣さんが殺されてしまう可能性だってあったんだ。恐らく、僕は動くべきだったんだ。
しかし、僕はできるだけ冷静になるように努め、助けたい衝動を必死に抑えた。
まだ、早い。
そう思ったからだ。もっと遅い時間帯まで待って、確実に地主の一家が寝静まってから彼女を救出した方がいい。
それからもう少し考えると、僕は自分の家に血糊がある事を思い出した。去年のクリスマスパーティの時、余興の為に用意して、結局は使わなかったものだ。
あれ、使えないだろうか?
猪俣さんを誰かが助けたと思わせるより、逸脱者が早まって猪俣さんに危害を加えたと思わせる方が、追手をかわせるのじゃないかと僕は考えたんだ。
僕はそう判断すると、家に一度戻って血糊を持って来た。地主の家に戻って来る頃には、時刻は既に夜中の1時を回っていた。流石に、地主の一家も寝に就いているだろう。もう行動を起こしても大丈夫なはずだ。
僕はそのまま土蔵に向かった。完全な暗闇。人の気配はしない。土蔵の壁に触れると、ひやりとした冷たい温度を感じた。こんな中かに一人でいる猪俣さんの事を思って、僕は堪らない気持ちになった。早く、助けてやらないと。
携帯電話の灯りで土蔵の扉の場所を確認すると、僕はそれを消してから閂を外しにかかった。物音が気付かれて、灯りを見られるのを恐れたからだ。幸いにも、何の問題もなく閂は抜けた。僕は扉を開けて、身体が入るだけの隙間を作ると、そこに身体をずべり込ませて直ぐに扉を閉めた。
「猪俣さん。いますか?」
そう声をかけても猪俣さんは、何も返事をしてくれなかった。既に寝ている可能性もあるかと考えて、それから僕は、猪俣さんなら喋らないだろう事に思い当たる。そうか、そうかと思って僕はまた携帯電話を懐中電灯代わりにして土蔵の中を照らした。
仄かな灯りでも、何とかそこにいる猪俣さんの姿を確認できた。板間の上に、布団が敷いてあって、そこで彼女は半身を起して僕を見ていた。明確に表情が見えた訳じゃないけど、多分、僕だと分かって安心をしてくれたのじゃないかと思う。僕は傍に寄るとこう言った。
「助けに来ましたよ。大丈夫ですか? 酷い事はされませんでしたか?」
それに対し、猪俣さんは軽く頷いた。多分だけど、“大丈夫よ”と言っているのだろうと思う。
「無実の罪の猪俣さんをこんな目に遭わせるなんて、非道な連中です」
次に僕がそう言うと、猪俣さんは今度は首を軽く横に振った。これは“そんな事ないわよ”とか、そんな感じだと思う。
「いいえ、非道な連中です。このまま捕まっていたら、あなたが殺されてしまう可能性だってあるんですよ?」
それには彼女は、大きく首を横に振って反応をした。
“違う”と言っている。こんな目に遭ってもあんな連中を信じるなんて、本当に猪俣さんは人が好い。
「とにかく、この土蔵を出ましょう。もっと温かい場所へ」
季節は秋で夜になると寒さが少し厳しくなる。暖房も何もないこんな土蔵の中に布団だけじゃ辛いだろう。僕は彼女の手を握った。
……握っちゃった。
少し嬉しく思っていたのは内緒。
彼女の手は冷たくなっていた。けど、柔らかくて優しい感じがする。猪俣さんは僕の行為に何の抵抗もしなかった。きっと僕を信用してくれているんだ。少し嬉しくなる。ただ、それでさっき彼女を助けようとしなかった自分を、もっと否定したくなったのだけど。
僕はそのまま彼女の手を引く。強くなり過ぎないように気を付けて。その時、血糊を猪俣さんがいた辺りに撒いておいた。連中がこれに騙されてくれる事を願いながら。次に土蔵の扉を開けて隙間を作る。そしてそれから、そこに身体をすべり込ませて僕らは外に出た。閂を元あったように戻すと、僕は彼女の手を引いて自宅へと向かった。
自宅に着く。自宅はアパート。僕は彼女をアパートの一番奥の部屋に匿った。狭いアパートだから、少し騒ぐと隣に気付かれてしまいそうだけど、匿っているのは他ならない猪俣さんだ。彼女なら、少なくとも騒がしい音や大きな声で気付かれる心配はないだろう。
僕は布団を敷いて、彼女の寝床を用意した。もちろん、厚い温かい布団だ。「あ、お風呂に入りたかったら、使って大丈夫ですからね」と言ってみる。言ってから、多少、大胆な発言であった事に気付く。それで慌てて、
「あ、変な意味じゃないですからね」
と、そう言った。猪俣さんはにっこりと笑ってそれに返す。その段になって、僕はようやく彼女と自宅で二人きりという今のシチュエーションの意味に気が付いた。
ただ、それでも彼女に変な事をしようとは僕は思わなかった。もちろん、少しは期待した訳だけど。それは一つには、彼女が完全に僕を信用してくれているように思えた事があった。彼女の信頼を裏切るなんてできない。もう一つは、やっぱりさっき彼女を見捨てた事に後ろめたさを感じていたからだ。
猪俣さんが殺されるかもしれない事態に、僕は動けなかったんだ。こういうヤツの事を、きっとサイテーというのだろう。
その時、それを思い出し、再び僕は落ち込み始めていた。
僕が黙っている姿を、猪俣さんは不思議そうに見つめていた。僕が目を向けると、またにっこりと笑った。僕はその顔を見て、彼女に心配をかけさせては駄目だと思って、こう言った。
「それじゃ、もう今日は寝ましょうか。猪俣さんも疲れているでしょうし」
それに彼女は大きく頷いた。よく見ると、普段着っぽいけど、彼女の着ている服はどうやらパジャマのようだった。それで思う。魔女狩りにあった時、彼女は風呂を既に済ましてあったんだ。ずっと光が少なかったとはいえ、今まで気付かなかったのは間抜けだと思う。
「僕は隣の部屋にいるので、何かあったら呼んでください」
もし、落ち込んでいるのを悟られたら、彼女は二人きりのこの場でも、構わず僕にハグをして慰めようするだろう。そんな事になったら理性を抑えられる自信がない。だから僕は落ち込んでいるのを悟られる前に、早く寝ることにしたのだ。
そのまま、何事もなく僕らは寝に就いた。隣の部屋に猪俣さんがいると思うと、落ち着かなかったけど、やがて思い出したように酷い疲れがやって来て、自然とまぶたが降りた。真っ暗になる。
目覚まし時計の音。目を覚ます。朝だ。いつもとは違う気配がした。炊き立ての米の匂いと、味噌汁の匂い。
僕が寝ていた部屋は、台所と繋がっている。だから朝食の薫りが分かったんだ。その少しの間の後に気付く。猪俣さんが料理を作ってくれているという事に。
「猪俣さん」
僕がそう言うと、台所で料理をしていた彼女は振り向いた。
“おはようございます”
と言う代わりに、彼女はにっこりと笑って微笑む。それから料理を指差した。多分、“冷蔵庫の中のものを、勝手に使わせてもらいました”と言っているのじゃないかと思う。
僕はその光景に軽く感動を覚えた。もしも、彼女と結婚をしたら、毎朝、こんな感じになるのだろうか? が、その感動は一瞬だった。僕は直ぐに彼女を匿っていることを思い出してしまったのだ。
「猪俣さん。駄目ですよ。あなたは見つからないようにしなくちゃならないのに」
台所は廊下に面していて、窓を覗けば直ぐにその姿が見えてしまう。その僕の言葉を受けると、猪俣さんはちょっとだけ首を傾げて軽く笑った。
“だって、泊まらせてもらって、何もしないのじゃ悪いですから”
そんな事を訴える仕草と表情に思えた。料理はほとんど終わっていたので、僕は直ぐに彼女を奥の部屋に連れて行って、卓袱台を運んで料理も運んだ。
「料理はありがたいですが、この奥の部屋から出ないでください。連中に見つかったら、どんな酷い目に遭わせられるか」
僕がそう言うと、猪俣さんは首を軽く傾げる。
“大丈夫ですよ”
と、言っているのだと思う。僕は軽くため息をつく。彼女のような優しい人には、人間がどれだけ残酷になるのか、想像できないのだろう。
「とにかく、この部屋からは出ないでください。直ぐに僕がなんとかしますから」
それに猪俣さんは首を傾げた。これは“どうするのです?”と言っているのか。僕は淡々と答えた。
「今日は仕事を休んで、正太達を探します。あいつらさえ見つかれば、あなたへの疑いは晴れるんだ」
それを聞くと、彼女は驚いた表情になった。“お仕事を休むほどの事ではないと思います”とでも言いたげに思えた。
「駄目です。あなたは、監禁までされたんですよ? 充分に大事です」
僕はそう返す。猪俣さんは困っているような顔で僕を見ていた。僕はその視線に耐え切れず、「取り敢えず、朝飯を食べてしまいましょうか」とそう言って誤魔化した。料理を食べ始める。
料理はとても美味しかった。流石、プロ。思わず、「美味しい」と呟くと、猪俣さんは嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔だけで、僕は充分に癒されることができた。
朝食を食べ終えると、「絶対に、奥の部屋から出ないでくださいね」と、猪俣さんにそう念を押してから、僕は正太達を探しに出かけた。早く見つけないと、猪俣さんが僕の部屋にいるのがバレてしまうかもしれない。猪俣さんと仲良くしていた人間の家を探されたら、直ぐに僕に辿り着いてしまうように思えたんだ。
僕は正太達が子共がよく作る秘密基地の類に隠れているのじゃないかと予想していた。山、森林、この土地には秘密基地を作るのに都合の良い場所がたくさんある。森林なんかの奥深くに作られたら、簡単には見つからない。きっとだから、あいつらはまだ発見されていないんだろう。
だがしかし、僕にはあいつらを見つける自信があった。何故なら、十年くらい前は、僕だって彼らと同じこの土地に住む子共だったからだ。秘密基地作りだってたくさんやった。はっきり言って、玄人だ。秘密基地で一晩明かした事だってあるんだ。秘密基地がありそうな場所を見つけるのには慣れている。
取り敢えず、思い当たる場所を巡ってみようと僕は手頃な森に向かう。子共の足で行ける範囲で、大人達には見つかり難い場所。となれば、それほど数はない。一日で回れるように思えた。向かう途中で、ついでに僕は地主の家に寄ってみる事を思い付いた。一応、様子を見ておいた方が良いだろう。
地主の家に着く前に、険しそうな顔をして歩いて行く一団に出会った。何も喋ってはいなかったけど、恐らくは猪俣さんを探しているのだろう。これから手分けして、彼女を探す気でいるのかもしれない。
急がないといけないかもしれない。
地元の家自体には、何も目立って点はなかった。人の気配すらない。きっと、皆、猪俣さんを探して出払っているのだろう。そう思うと、僕は足を速めた。森に辿り着くと、真っ直ぐに目的地に向かう。初めに見当をつけた場所にはあいつらはいなかった。痕跡すらもまったくなかった。
最近じゃ、どうもこの辺りを遊び場には使っていないらしい。
それで僕は次の場所に向かった。少し奥に池があって、その畔に隠れるのに恰好の場所があるんだ。池に近付くと、僕は奇妙な気配を感じた。どうも池の近くに、何人かいるようなのだ。身を隠して様子を窺うと、昨晩猪俣さんの家の前で見た男達が複数人いるのが見えた。
池の周辺を探っている。
「何か見つけたか? 靴とか」
「いや」
「そっちは?」
「何も」
耳を澄ますと、そのような事を言っているのが微かにだけど聞こえて来た。それで僕は思い至る。彼らは猪俣さんを探しているのだ。僕が残した血糊を見て、犯人が彼女の死体を池に処分した可能性を考えたのかもしれない。
一応、僕の策が上手くいっているみたいだ。
そう思いつつ、これだけの人数で探して正太達が見つかっていないのなら、ここにもいないのだろうと考えて別の場所を探した。そのまま僕は、昼飯を食べる時間すら惜しんで、色々な場所を探し続けた。でも、見つからなかった。子供達が遊んだ後の痕跡はいくつかあったけど、あいつらはいなかったんだ。
夕方になる。既に夕闇が落ち始めていて、森の中を歩くのは危険に思えたから、仕方なく自宅に戻ることにした。
猪俣さんに、何て言おう?
そんな事を考え、落ち込みながらも家路を急ぐ。彼女の事が心配だったからだ。でも少しだけ、彼女が自宅にいるという現状を喜んでもいたのだけど。いや、ほら、今日も彼女と一緒にいられるかと思うと、やっぱりウキウキしてしまうんだ。男なら分かってくれるだろう?
しかし、自宅のアパートが見えてくると、そんなしあわせ気分は直ぐに消し飛んでしまった。僕の自宅を男達の集団が取り囲んでいる光景が目に入って来たからだ。
僕は悪い予感を覚えた。
例えば。
――例えば、魔女狩りの時に、自分の大好きな女の子が、その被害者になっていたとしよう。皆がその女の子を、酷い目に遭わせようとしているんだ。それを見て、僕は(君は)その女の子を救うために、皆に抗う事ができるだろうか?
……結論から言うのなら、
……結論から言うのなら。
僕は。
足が竦んでいた。もしこれで彼女が捕まってしまったなら、もう今度こそ、彼女を助けるチャンスはないだろう。厳重に監禁されてしまうに決まっている。
動け。
僕は思った。
自棄になれ。パニックになれ。後先なんて考えるな。
そう思わないと、動けない気がしたんだ。ピクリ。足が動く。次の瞬間、僕は何も考えずにその集団の中に向かって走り出していた。竦んでいた足がなんとか動くと、今度は暴走をしてしまった訳だ。まだ彼らは、玄関の前で、中に足を踏み入れてはいなかった。彼らは突然の僕の登場にとても驚いていたようだった。僕は彼らをかき分けて玄関の前にまで進むと、彼らに向かってこう叫んだ。
「いったい、何の用ですか!? 他人の家の前に集まって!」
その僕の動揺した態度は、彼女が中にいることをまったく隠せてはいなかった。むしろ、アピールしているようなものだ。
集団の冷たい視線が、僕を睨みつけていた。背筋に冷たいものが走る。
これ、抗って何か意味があるのか?
そう思った。
どう抵抗しても無駄だろう。なら、僕は今単に、“彼女を救う為に行動できた”という自己満足を得る為に、行動しているに過ぎないのかもしれない。それは、彼女の為を思っての行動なんかじゃない。エゴの一種だ。しかもこのままでは、僕も巻き添えになる。それに、何か意味があるのか? 少なくとも僕は、もっと頭を使って行動するべきじゃなかったのか?
その葛藤の答えが出る前に、部屋の中で気配がした。猪俣さんだ。恐らくは、騒ぎを聞きつけて顔を出そうとしているのだろう。
やめてくれ。
僕は思う。きっと彼女は、僕を助けるつもりでいるに違いない。
それから僕は、心の中で祈った。
猪俣さん。僕は君を救うことができないのに、一度は見捨てすらしたというのに、それなのに、躊躇せずに、当然のように顔を出して僕を助けるのはやめてくれ。自分を犠牲にして、僕を救うのはやめれくれ。そんな強さを、僕に見せつけないでくれ。
だけど、無情にも玄関のドアは開いた。猪俣さんは、何でもない顔で笑って、そこに立っていた。
そして。
そして、軽く手を振って、そこにいる皆に挨拶をしたのだ。
“こんばんは”
そんな感じで。
終わった。僕は思った。もう、これで彼女は捕まってしまう。魔女裁判の始まりだ。しかし、その次の瞬間だった。
「無事だったかぁ!」
集まっていた人間達が、一斉にそう声を上げたのだった。しかもそれは、本心からの安心した声に思えた。
僕は思う。
どゆこと?
僕は間抜けに、首を傾げていたと思う。猪俣さんじゃないけど、僕の考えていることは、皆に如実に伝わっていたに違いない。
それから、僕は皆から説明を受けた。早い話が、皆は僕が残した血糊を見て、猪俣さんの身を案じて必死に探し回っていたらしい。
「人騒がせな事をするな!」
と、僕は血糊の件を怒られたのだけど、あなた達には言われたくない。それから僕はこんな質問をしてみた。
「でも、あなた達は、猪俣さんのことを疑っていたのじゃないのですか? 子供達をさらった犯人だと」
それを聞くと、数人が頭を掻いた。
「いや、俺らも実際にこの娘に会うまでは、本当にそうだと思っていたんだけどさ」
そこで、皆は猪俣さんを見つめる。猪俣さんはにこにこと笑っている。なるほど、とそれを見て僕は思った。彼女を間近で見て、そんな恐ろしいことをすると思える人間は、ほとんどいないだろう。彼女はまったく無抵抗だったから、それも良かったのかもしれない。
「それなら、どうして猪俣さんを土蔵に監禁したりしたんですか?」
その問いに、彼らのうちの一人がこう答えた。
「いや、爺さんがさ……」
なるほど、と僕はまた思った。地主の爺さんの権力に、彼らは逆らえなかった訳だ。そしてその時だった。
「何をしているんだ? 早く、その娘を捕まえろ」
噂をすれば影ってなタイミングで、その地主の爺さんがそこに現れたのだった。そうなのだ。ここの皆に猪俣さんに対する悪意がないと分かっても、根本的な問題は何も解決していない。正太達は見つかっていないしこの爺さんの思い込みもそのままだ。
「さっさとしないか!」
爺さんが怒鳴った。皆が動かないのに、明らかに不機嫌になっている。どうやら本気で怒っているようだ。皆は困った表情を見せた。もう猪俣さんを捕まえる気は全くないだろうし、かといってこの地主の爺さんに逆らう事もできない。
さて、どうなるのだろう?
僕はそう思ったのだけど、同時に何かしらの予感を覚えてもいた。地主の爺さんは怒っている。そして、そんな人間を目にした時、猪俣さんは一体、何をするのだっけ。
猪俣さんがアパートの中から出て来た。ゆっくりと、しかし確実な足取りで、爺さんに向かって近づいて行く。そして、敵意の欠片もない穏やか表情、慈愛に満ちた動作で、猪俣さんはそのまま爺さんをそっと抱きしめたのだった。ハグ。
僕は心の中で、叫んだ。
じじぃー! 猪俣さんに、抱きしめてもらっているんじゃねぇ!
空間は完全に止まっていた。皆がその信じられない光景を凝視している。多分、一分ほどが経っただろうか。いや、実際はもっと短かったかもしれない。
チーン。
そんな音が、僕の中だけに響いた。猪俣さんが、爺さんを抱きしめていた手をほどく。そしてやっぱり、そこに現れた爺さんの顔からは、すっかり怒りが消え去っていた。
「婆さん……」
呆けた顔で、爺さんはそう呟いた。
誰が婆さんだ?
僕は心の中で、そうツッコミを入れた。
当然の事ながら、その後、もう爺さんは猪俣さんを捕まえるなどとは言い出さなかった。流石、猪俣さん。無敵だ。
その後の話をしておこう。
正太達はあっさりと見つかった。というか、勝手に帰って来たのだけど。僕の予想は外れていて、彼らは秘密基地に隠れていた訳じゃなく、ネットで見つけた隣町に住む友人達の家に泊まらせてもらっていたらしい。道理でいくら探しても見つからない訳だ。時代は変わるもんですね。で、その家出の理由なんだけど……。
「だって、種ちゃんと遊ぶなって言うんだもの」
猪俣さんの悪い噂の所為で彼女と遊ぶことを親から禁じられて、その反発から正太達はどうやら家出をしていたらしい。まさか、それで猪俣さんが犯人と疑われるとは夢にも思わず。ただ。“雨降って地固まる”。この事件を切っ掛けとして、彼女への悪い噂はほとんど聞かなくなったから、結果オーライと言えなくもない。
「あの、もしかして猪俣さんは、正太達が家出していただけだって知っていたのですか?」
ある日、なんとなくそんな気がして、僕は彼女にそう問いかけてみた。正太達が行方不明になっても、彼女はとても落ち着いていたから。すると、彼女はにこにこと笑いながら、首を傾げる。それで僕は思った。……多分、知っていたのだろう、と。
「知っていたなら、さっさと言えば良かったじゃないですか。一歩間違えば、どうなっていたか分からないのですよ?」
そう僕が言うと、彼女は困ったような表情になった。
多分これは、“そーいう経験は、子共達にも親達にも必要かと思いまして”とか、そんな感じだろうか。しかし、それから考え直す。いや、それだけじゃない。
「まさか猪俣さんは、彼らが絶対にあなたを傷つけないと思っていたのですか?」
猪俣さんは何も応えない。もしかしたら、“思っていた”じゃなくて、“分かっていた”と言いたいのだろうか?
そう言えば、土蔵で彼女は僕の「殺される可能性がある」という言葉を否定していたっけ。
僕は軽くため息を漏らす。
確かに、今回に限っては彼女が正しかったかもしれない。でも、世の中は彼女が考えるような優しい場所じゃない。平気で人を殺すのが当たり前で、実際にそんな事件は世界中で起こっているんだ。
魔女狩りの時代、猪俣さんにとても良く似た、医者の役割をし、村人達を治療していた白魔術を行っていた立場の人達だって、魔女狩りの対象となったように、理不尽で暴力的なケースの方が圧倒的に多い。
――ただ。僕はもう少し詳しく調べてみてこんな事実を知ったのだけど。
確かに白魔術を使ったとされる者達も魔女裁判の対象となると定められた法律もかつてヨーロッパにはあった。しかし、実際に処罰された例は、極めて少ないらしい。
……ま、こんな世の中にも、少しは希望はあるってことで。
もっとも、先に述べた通り、白魔術と黒魔術の区別は曖昧だったから、どこまで信じれば良いのか分からないけど。
それからふと僕は疑問に思った。
もし、彼らが自分を傷つけないと猪俣さんが信じていたのなら、どうしてあの時、土蔵に現れた僕に彼女は付いて来てくれたのだろう? 逃げるよりもあのままいた方が、彼女は安全だった気がする。僕にだって、危険はある訳だし。
少しだけ、もしかしたら僕にも少しくらいは脈があるのかな、と思ったけど、やっぱり僕を傷つけないために一緒に来てくれたと考えるのが妥当だろうな、と僕はそう考えた。
休日。昼飯を食べに彼女の店に寄った僕は、多少の期待を込めて、猪俣さんをゆっくりと見てみた。僕の視線の意味が分からなかったのか、猪俣さんは首を少しだけ傾げて、それから不思議そうに微笑んだ。
ま、とにかく、彼女のこの笑顔と彼ハグにだけは絶対に勝てる気がしない。何しろ、“魔女狩り”だって勝てなかったんだから。
それを見て、僕はそう思った。
ずっと前から、”魔女狩り”には関心があったのですが、最近になっていい感じの本を見つけて読んだので、忘れないうちにと思って、書いてみました。
因みにその本は、
『魔女狩り (ヨーロッパ史入門) 著者 ジェフリ・スカール ジョン・カロウ 翻訳 小泉 徹 岩波書店』
です。
他にも参考にしましたが、記憶に残っていない…