貴方色に染め上げて
「手、貸せ」
「……は?」
本日、休日出勤も無い平和な土曜日。同じ部屋でそれぞれのリラックスタイムを満喫していた午後三時。
先日買ったはいいものの読む暇が無くて放置していた女性向け雑誌をソファに寝転がって読んでいた私に、彼は片手を差し出しながら突然そう言ってきた。
急な命令にすっかり緩んでいた私の思考は追いつかず、彼を見つめたまま固まっていたら問答無用で左手を奪われた。
その拍子に持っていた雑誌が床に落ちてしまったが、目の前の彼にはそんな事はどうでも良いようだった。
「よし、動くなよ」
「えー……ちょっと、何する気?」
「いいから見てろって」
私の左手を取ったまま床にどっかと胡座をかいて座る彼を怪訝そうに見る。
もし何か良からぬ事をしようとしたら容赦なく蹴り飛ばしてやろうと思いつつ様子を窺っていると、ふと彼の手の中にある小瓶に気付いて思わず「あっ」と声を上げた。
「マニキュアじゃん。どうしたの?」
少しラメの入った可愛らしい薔薇色のマニキュアに私のテンションが少し上がる。
それが彼にも伝わったらしく、少し得意げな表情になりながら答えた。
「昨日職場の子が『思っていた色と違うんで誰かいりませんか?』とか言ってたから、じゃあ彼女にやるって言って貰ってきた」
「……よく言えたね」
「お前に似合いそうだと思ったからな。塗ってやるから大人しくしてろよ」
「えー、はみ出しまくるオチが目に見えるんだけど……」
「貰ってきたのは俺だ、拒否権は無い。大人しく俺の好奇心の犠牲になれ」
「うわー……」
要するに彼はマニキュアを塗ってみたいらしい。こうなってしまっては私に為す術は無い。
私は除光液の在処を思い出しながら、小瓶の蓋を開けて小さな刷毛を私の爪先に向ける彼を見守る。
その手は微かに震えていて早速不安になったが、ここで止めたら不機嫌になるのが目に見えているので諦めて身を任せる事にした。
(まあ、折角貰ってきてくれたんだし)
しかしこうして左手を取られてしまっては雑誌も読めないし、少し向こうのテーブルに置いてある携帯を取りにも行けない。彼は作業に集中しているから会話も出来ない。
こうなるとあとは寝るしかないかと思った私は目を瞑った。
「あ? おい、寝てもいいけど寝返りとかすんなよ?」
「努力はするよー……」
彼の忠告を聞き流し気味に受け入れて、うとうとと微睡む。
つん、と鼻をつくシンナーの臭いが少し気になりながらも、私はゆっくりと夢の世界へ落ちていった。
***
どうやら充分な睡眠が取れたと体が判断したらしい。
自然と目が覚めた私はむくりと起き上がって両腕を伸ばし、そこでふと左手を包んでいた温かさが消えていることに気付いて無意識に其方へ視線を向けた。
「おお……!」
そこには綺麗に薔薇色に染まった爪が並んでいた。
予想していたよりもずっと見事な出来映えに思わず感動の声が漏れる。間近で見てみても殆どはみ出していないし、どうしようもなさそうなムラも無かった。
そういえば、と見てみれば右手も同様の完成度。下手したら私がやるよりも丁寧かもしれない。
「上手いもんだろ?」
掛けられた声に振り向けば、マグカップを片手にキッチンから出てきた彼がいた。
すっかり上機嫌な私が「うん!」と素直に頷けば、彼は得意げに笑ってソファに腰掛ける。
その隣に座れば当たり前のようにマグカップを差し出されたので、受け取って一口お裾分けを頂いた。彼の好きな甘いカフェオレは今の私の気分にぴったりだ。
「なあ、それっていつくらいに塗り直すんだ?」
「え? うーん……二週間後くらいかな」
「じゃあそん時、また塗らせろ。色は俺が好きなの選んできていいか?」
「うん、いいよ」
上手く出来たのが余程嬉しかったらしい彼は、私の薔薇色の爪を満足そうに眺めながらマグカップに口を付ける。
そんな何処かあどけない横顔が微笑ましくて、眺めていたら胸の奥がほわほわきゅうっと擽ったくなった。
(何色を選んでくるのかなあ)
でも、どんな色でも私は構わない。
だって彼の好きな色で染められるなんて、凄く愛されてる気がするから。
「上手に塗ってね?」
「ん、大船に乗ったつもりで任せろ」
そう言ってわざとらしく胸を張って無邪気な笑顔を浮かべる彼に、私の心が爪と同じ甘い甘い薔薇色に染まるのを感じる。
そんな我ながら呆れてしまうほどの彼への惚れ込みっぷりを再認識してしまった私は、内心で思わず苦笑いを零したのだった。
END.