(下)
人が集まり口を開けば、世間話に花が咲く。
そうして上った噂の一つにとある女の話があった。
一年程前から出始めたというその美人画は、人気絵師の連作だった。
最初は、見る側の肝が冷えそうなくらい恨みの篭った赤目に、憤怒の表情をしていた。それが日が経つにつれ、出回る絵の表情が段々と変わっていった。眉間の皺が淡くなり、唇の歪みも無くなった。炎のようだった瞳の色は、今では淡い桃色になっているという。
「あの美人画はスゲェよなァ。俺ぁどうも好色な目で見れねンだ、女神さん見てる気にならァ」
「おいらは満開の桜を思い出すねえ」
「ああ、そりゃあ目ん玉のせいだろう。最近じゃ新作全て桜色になってるらしいからな」
「あの大桜も今年はすっかり駄目になっちまったからねえ、来年はもう枯れているだろうよ」
あれはいったい何処の娘だろうかとそんな憶測が飛び交うものの、いまだ答えは出ぬままであった。
慌ただしい足音に飛び交う怒号。
大晦日の準備は年のうちで最も忙しい。それはこの屋敷とて同じことだ――ただ一つの部屋を覗いて。
コトリ、と筆を置くと、絵師は仕上がった絵と目の前の女を見比べた。
娯楽らしい物が一つも無い部屋の中、枷を付けられたままの女は絵を描く自分をじっと見ていた。朝餉と夕餉を全て平らげ、さしたる虐待も受けぬ日々の中、女の顔は見違える程に色艶が良くなっていった。
絵師はひとつため息をつくと、仕上げたその絵を引き裂こうと手に取った。が、しばしそのまま思案すると思い直したように立ち上がった。
「――出してくる」
返事は端から期待していない。女と喋ることは一度も無かった。
絵師は部屋を出、外付きの男に旨を伝えて歩き出した。歩く都度、枷の鎖がじゃらじゃらと音を立て邪魔をする。
「――随分とオンナの顔をするようになってきたじゃないか」
仕上がった新作を見ながら頭はにやりと口角を上げた。
「お前、いつの間に手を出したんだ? まあ、龍でも見てくれだけは上モンだからな」
「何をおっしゃっているのか見当も……」
「とぼけるのならそれでもいい、おかげで売り値も上がり調子だからな。
そろそろお前には別の女を描いてもらおう」
絵師は顔を上げて頭を見た。
「龍は元日に売りに出す。話題の美人画の女、それも中身が龍だと知れればこぞって大金が積み上がろうよ。
ま、お前のおかげで一儲けできたからな。元旦くらいは休みを取るがいい」
年越しの宴には呼んでやろう。この酒瓶も持って行くがいい。
機嫌良く褒美を渡した頭に頭を下げ、絵師は退出していった。
もうすぐ除夜の鐘の音と共に年越しの宴が始まる。
絵師は道具の片付けをしつつ、部屋の隅をちらりと見た。布団に伏した龍の女が目だけをこちらに向けていた。仄暗い明かりが薄桃の瞳の中をゆらゆらと揺らす。
絵師は道具箱から色鉱物を削るやすり刀を取り出した。立ち上がるとそっと女の傍に座り込み、その喉元に近付ける。
「――もうあまり時間がない。堪えてくれ」
そう言って小刻みに削り出したのは、女の首にある枷だった。
こうして首枷を削るようになってから、もう随分と日が経っていた。
男が初めてやすり刀を出した際、鱗を剥がされる恐怖を思い出したのだろう、女は激しく威嚇した。が、叩かれても引っ掻かれても噛み付かれても、男はやすりを毎夜擦り続けた。数日して、それが自分を逃がす算段だと気付いたのだろう、女は大人しくなり自身の喉元を預けるようになったのだった。
ざりざりざり
削る音は意外と響くが、幸い宴の場へと向かう足音で屋敷は随分と慌ただしい。絵師は一層力を込めてやすりを動かし続けた。日中はくるりと後ろに回して隠していた枷の残りは、もうあと僅かとなっていた。
ざりざりざり
寒い室内の中、男の汗が額とこめかみに浮かび上がる。
ゴーン……
やがて、除夜の鐘が鳴り出した。
……ゴーン……
構わずに絵師は削り続ける。
……ゴーン……
やがて、宴が始まったらしく宴会場から賑やかな声が聞こえだした。
「おぉい! まだ行かんのか! 呼ばれとるんじゃろう!?」
苛立ったような見張りの声が外から聞こえた。それでも絵師は削り続ける。
「おぉい! 返事をせんか! せんなら入るぞ!」
怒声と共に初老の男がさっと扉を開いた。
男が目にしたのは、布団に入った龍の女と傍らで瓶を手にした絵師の姿。
「なんだァ? まだ着替えもしとらんのかい! さっさとせんか!」
「ああ、すみません。せっかくいただいたお酒なので、龍にも少し飲ませてやっていたのです」
「何? 酒だと!」
せっかくの宴が見張りで潰れ、すこぶる機嫌の悪かった男は一気に顔をぎらつかせた。
「おい! その酒俺にもよこさんか!」
「良いですよ、残りはあなたに全て差し上げます」
絵師が差し出した酒瓶を男は喜色満面の笑みで受け取った。
「――では、私もそろそろ宴の準備をしよう」
絵師は宴用の外衣を羽織りながら呟いた。
はあっ、はあっ、はあっ……
雪の降る山道を女が一人走っている。麓の寺から聞こえる除夜の鐘を目指し、ひたすらに慣れない人間の足で駆け下りて行く。真白く柔らかな足はすり傷と霜焼けですでに真っ赤になっていた。着ている衣は薄布一枚、雪で濡れて震えが走る。
『――首だけでもいくらか楽になっただろう』
外衣を羽織り紙の包を懐に忍ばせた後、あの男はそう言って枷を一つ、外してくれた。
『いいか、これより半刻後にここから外へ出ろ。
見張りの男が飲んでいる酒には粉末にした雄黄を混ぜている。あれは猛毒の色鉱物だ、半刻もすれば効き目が出るだろう。
お前は除夜の鐘の音を目指して走るんだ。行けば必ず寺がある。寺の御住職ならばお前の手の枷の呪いをきっと解いてくれるだろう』
言い終えると、絵師は部屋を出ようとした。
――気付けば、その衣を掴んでいた。
驚いたように振り返ったその瞳を、問いかけるように薄桃色の眼差しが捉える。
『私は一緒に行けないよ。このまま放ってしまえば、山賊達はいずれまたお前を捉えに来るだろうから』
絵師は女の手を取ると、初めてにっこり微笑んだ。
『大丈夫だよ。私が何とかするから』
そうして、彼は部屋を出ていったのだ。
年明けの寺は大勢の参拝客で賑わっていた。鐘を突き、当たり火の周りでは大人は刺した竹筒の酒を啜り、子供は焼いた餅を頬張っていた。
そこへぼろぼろになった若い女が転がり込んできたものだから、広場は一気に騒然となった。
ぐっしょりと濡れた薄い着物に裸足、そして両手に付けられた枷が痛々しい。罪人か何かだろうか、といぶかしがりながらよく見ると、その瞳が薄桃色だったものだから、人々は一気に色めきだった。
――あの美人画の女じゃないか!
「これはこれは、新年早々にえらいお客様がいらっしゃった」
話を聞きつけ、錫杖と大数珠を手に寺から住職が出てきた。女を一目見ただけで人間ではないと悟ると、境内へと連れていき、長々とした念仏と共に幾度か錫杖を振るった。
しゃん!
一刻程続いた解呪の最後に、住職はひときわ大きく錫杖を鳴らし、どん、とそれで枷を叩いた。
途端にバラリと枷が外れ、女の足元にガシャリと落ちた。
『嗚呼、嗚呼、礼を言うぞ和尚!!!』
歓喜に満ちた声が境内に響くと同時に、ごう、と激しい竜巻が起こった。
目を開いた住職が見たのは、転がった枷が一つ。そうして、その傍には薄桃色の大きな鱗が一枚。
「おお……」
住職は震える手で鱗を拾うとうやうやしく掲げた。
「龍神様の大切な鱗、末代までの宝としてありがたく奉納させていただきまする――」
龍が屋敷に飛び戻った時には、既に事が終わっていた。
どうにかして酒に混ぜて飲ませたのだろう、山賊の頭をはじめ、多くの手下達が目を開き泡を吹いて死んでいた。生き残った者達も喉をかきむしりながらもがいている。
そして、あの絵師は。
残った手下達にやられたのだろう、雪の中、幾本もの刀で串刺しにされた状態で事切れていた。
薄桃色の龍の瞳がらんらんと怒りに赤く燃えだす。
山が震わんばかりの雄叫びを一声上げると、龍は逃げ惑う屋敷の人間達に向かって襲いかかった。ごうごうと竜巻を巻き起こしてその身体を吹き飛ばし、地面に叩きつけられたところを爪で切り裂き八つ裂きにしていった。助けを乞う声も耳に入らず、容赦なく女も子どもも殺していった。
全ては一瞬だった。
残されたのは静かになった屋敷と、累々と積まれた亡骸。そして。
龍はそっと男の傍へ寄った。口で全ての刀を抜き、その身体を横たえた。
開いた瞳は濁ってしまい、目が合ってももう何も映してはいない。
『――愚かだな』
龍は呟き、男の頬を撫でた。
『お前は愚かだ……。
そして……我も――』
龍は口を開くと自身の背に噛み付いた。そのまま牙でこそぎ落とすようにして血を流しながらも鱗を剥ぐ。落ちる桃色の鱗は幾片もはらはらと男の亡骸の上に舞い続け、背にあった鱗はすっかり無くなってしまった。
赤で染まっていた亡骸の上を桃色の掛け布団がすっぽりと覆う。
その隣に、龍は寄り添い目を閉じた。
桜の守り主でありながらで多くの殺生をしてしまった。もう元の龍神には戻れない。
――ならば、せめて。
やがて。
男の亡骸があった場所から、一本の芽が顔を出した。
芽はゆっくりゆっくりと時間をかけ、たくましく育っていった。
そして、数十年。
* * * * *
今年も大桜を見るために、大勢の客が訪れる。
「綺麗だねえ」
「立派だなあ」
見上げるその木の隣には、寄り添うようにして同じ大桜が立っている。
『夫婦桜』として有名なそれは、今ではここらで一番の名所だ。
特に散り始めの夜桜はそれは素晴らしいらしく、見物した人の話によれば、二本の大桜がほろほろと花こぼすその様は、
『まるで宵の海のようだった――』
ということだ。
<了>