第3話「埃だらけの屋敷と、洗浄魔法」
ノースガルドでの最初の朝は、静寂と共に訪れた。
ふかふかのベッドで泥のように眠ったおかげで、体の疲れは随分と取れている。窓の外を見ると、吹雪は止んでおり、まばゆいばかりの朝日が雪原を照らしていた。
『きれい……』
王都では決して見られない、荘厳な景色だ。
私は顔を洗い、身支度を整えると、部屋を出た。
昨夜は暗くてよく分からなかったが、改めて見ると、この屋敷――要塞の居住区画は、かなり年季が入っていることが分かった。
石造りの壁にはひび割れがあり、窓枠には隙間風を防ぐためにボロ布が詰められている。そして何より気になったのは、そこかしこに積もった埃だった。
廊下の隅、窓のサッシ、飾られた武具の上。
男所帯の軍事施設なのだから仕方がないとはいえ、きれい好きな私としては、どうしてもむず痒くなってしまう。
「……掃除、したいな」
前世の記憶がうずく。
前世の私は、とにかく掃除や整理整頓が好きだった。汚れた場所がきれいになっていく過程を見るのが、何よりのストレス解消法だったのだ。
それに、ただ厄介者として養ってもらうわけにはいかない。ここで生きていくための場所を確保するためにも、自分の有用性を示さなくては。
私は腕まくりをすると、廊下を歩いていた兵士を呼び止めた。
「おはようございます。掃除用具をお借りしたいのですが」
「えっ? あ、ジュリアン様……? そ、掃除ですか? 俺たちがやりますから!」
兵士は恐縮しきりだったが、私は笑顔で押し切った。
バケツと雑巾、そして箒を借りて、まずは食堂へと向かう。
食堂は広かったが、やはり薄汚れていた。長年染みついた油汚れと煤で、壁も床も黒ずんでいる。
「やりがいがありそうね」
私は雑巾を絞ろうとして、ふと思い出した。
今の私には、魔法があるのだ。
エルロッド公爵家では「攻撃魔法」の才能ばかりが重視され、生活に使うような些細な魔法は「下賎な者が使うもの」と軽んじられていた。だから私も、自分がどんな魔法を使えるのか深く試したことはなかった。
けれど、前世の知識と今世の魔力を組み合わせれば、もっと効率的にできるはずだ。
私は汚れに向かって手をかざし、イメージを固める。
水分子を振動させ、汚れを浮かせ、風で吹き飛ばして集める。
「――クリーン」
小さな光の粒が私の手から放たれ、黒ずんだテーブルの上を走った。
するとどうだろう。
長年の汚れが嘘のように剥がれ落ち、本来の美しい木目が現れたではないか。
「成功だ!」
私は嬉しくなって、次々と魔法を行使した。
壁の煤も、床の油汚れも、魔法を使えば一瞬できれいになる。もちろん魔力は消費するが、体がポカポカとして心地よい疲労感だ。
楽しくなってきた私は、食堂中をピカピカに磨き上げ、さらに調理場の換気扇まで掃除してしまった。
「……おい、これはどういうことだ?」
背後から、低く驚愕に満ちた声が聞こえた。
振り返ると、グリーグ将軍が入り口で立ち尽くしていた。その後ろには、数人の兵士たちが口をあんぐりと開けて並んでいる。
「あ、おはようございます、将軍。少し汚れていたので、掃除させていただきました」
私が爽やかに挨拶すると、グリーグ将軍は信じられないものを見るような目で、ピカピカになった食堂を見回した。
「……これを、お前ひとりでやったのか? 魔法で?」
「はい。攻撃魔法は苦手なんですが、こういう細かい魔法は得意みたいで」
「細かいなどというレベルではないぞ。専門の清掃業者でも、ここまでやるには三日はかかる」
彼はスタスタと歩み寄り、指先でテーブルをなぞった。埃ひとつついていないことを確認し、深く息を吐く。
「王都の貴族というのは、もっと……何もできないものだと思っていた」
「私は、少し変わり者なんです。それに、自分の住む場所はきれいな方が気持ちいいですから」
私が笑うと、将軍は複雑そうな顔をした後、不意に私の手を取った。
大きく、分厚い手だ。タコだらけのその掌が、私の細い指を包み込む。
「……魔力の使いすぎで倒れられては困る。無理はするな」
その言葉はぶっきらぼうだったが、私の体調を気遣う優しさに満ちていた。
触れられた場所から、じんわりと熱が伝わってくる。
アルファ特有の威圧感はない。代わりに感じるのは、大地のような頼もしさだ。
「はい。気をつけます」
素直に頷くと、彼はふと視線を落とし、私の腰元を見た。
そこには、昨夜の寒さで震えていた私に、彼が貸してくれた毛皮のコートが巻き付けられていた。
「……その、俺の匂いは気にならないか?」
「え?」
「アルファの、しかも獣人の匂いだ。オメガやベータの人間は嫌がることが多い」
彼は少し自信なさげに言った。
確かに、彼からは強い匂いがする。森の香りと、獣の気配が混じったような、野性的な香り。
けれど、それは決して不快ではなかった。むしろ、落ち着く香りだ。
「いいえ、ちっとも。とても温かくて、安心する香りです」
私が正直に答えると、グリーグ将軍は目を見開き、そして真っ赤になって顔を背けた。
「そ、そうか……」
その反応が可愛らしくて、私は思わずクスリと笑ってしまった。
その瞬間、彼の方から何かが押し寄せてくるのを感じた。
物理的なものではない。感情の波のようなものだ。
喜び、安堵、そして――強烈な愛おしさ。
それは、私の本能を揺さぶる甘い刺激だった。
『これって……もしかして、絆の予兆?』
オメガバースの物語で読んだ知識が頭をよぎる。運命の相手と出会ったとき、互いのフェロモンが惹かれ合うというあれだ。
まさか、私と彼が?
ドキドキと心臓がうるさく鳴るのを感じながら、私は赤くなった彼の横顔を見つめ続けた。




