葬られた総理とDSの影 ― 記録を継ぐ者たち ―
本作は、影の権力(DS)と闘った総理と、その記録を継ぐ者たちを描いた社会派フィクションです。
国家・官僚・メディアが絡み合う「沈黙の構造」を背景に、真実を告発する者たちの勇気と葛藤を追います。
サスペンス要素とヒューマンドラマを織り交ぜつつ、現代日本に問いかける物語として執筆しました。
どうぞお楽しみください。
葬られた総理とDSの影 ― 記録を継ぐ者たち ―
プロローグ 見えない支配者
誰も気づかないうちに、国はゆっくりと軌道を逸れていく。
選挙で選ばれた総理大臣が存在し、国会が開かれ、メディアが報じているはずなのに、なぜか日本の未来は国民の手の中にない。
都心の片隅。雑居ビルの最上階にある一室で、数人の論客が集まっていた。
壁にかかる地図には、黒い線で結ばれた企業名や投資ファンド、政府機関の名前がびっしりと記されている。
その中心に赤い円で囲まれていたのは、「ディープ・ステート(DS)」という言葉だった。
「彼らは表に出ない。選挙で選ばれることもない。だが、軍産複合体やグローバル企業、そして官僚とメディアを通じて、政治家を縛りつけている」
年配の学者が静かに語ると、若手のジャーナリストが息をのむ。
「つまり、我々の民主主義はただの幻影だと?」
「そうだ。見えない糸をたぐれば、必ず同じ場所に行き着く。だが、その正体に触れた者は……」
部屋に一瞬、沈黙が走る。
誰も口には出さなかったが、そこにいた全員が知っていた。
かつて、理想を掲げて官僚政治に切り込み、記者クラブを開放し、国民のために政治を取り戻そうとした首相がいたことを。
彼は支持率が急落したわけでも、大きなスキャンダルを起こしたわけでもない。
それでも政権は、見えない力によって、音もなく葬られた。
窓の外には、夜の街を覆うネオンが瞬いている。
人々は気づかない。自分たちが知らぬ間に「官報複合体」と呼ばれる装置の中で誘導されていることを。
新聞もテレビも、権力の都合の良い情報しか流さない。国民はそれを真実だと信じる。
「もしまた、あのときのように立ち上がる者が現れたらどうなるだろう」
誰かがつぶやく。
返答はなかった。ただ、窓ガラスに映る自分たちの顔を見つめ、誰もが同じ疑問を抱いていた。
――見えない支配者に、抗うことはできるのか。
第1章 記者クラブ開放
第1節 扉を叩く音
永田町の首相官邸。厚いカーテンに遮られた会見室の空気は、どこか淀んでいた。
長年にわたり「記者クラブ」に属する大手新聞とテレビ局だけが座を占め、同じ顔ぶれの記者が同じ質問を繰り返す。
総理大臣の答弁は翌日の紙面でわずか数行に削られ、国民の耳には届かない。
だが、その日だけは違っていた。
蓮見悠一総理は、官邸広報官を伴いながら壇上に立つと、用意された原稿を閉じ、記者席を見渡した。
「本日より、この会見室はすべての報道機関に開かれる」
ざわめきが広がった。フリーランス記者やネットメディアの若手が扉の外で待機していたが、これまで彼らが中に入ることは許されなかった。
官邸の警備員が視線を交わし、ためらいがちに扉を開く。
押し寄せるように、無名の記者や学生が会見室に足を踏み入れた。彼らのカメラや録音機は新しく、手も震えていた。
「総理、本当に全員を対象にするのですか? 質問の秩序が乱れるのでは」
大手新聞の政治部長が眉をひそめる。
蓮見は一瞬微笑み、言葉を選ぶように答えた。
「国民の代表は、あなた方だけではないはずです」
その瞬間、会見室の空気が変わった。
フリーランス記者が勇気を振り絞って挙手し、第一声を投げかける。
「総理、国会での事務次官答弁を廃止するという噂は事実ですか?」
緊張のあまり声が裏返ったが、場を支配していた沈黙を破った。
蓮見は大きくうなずいた。
「はい。官僚ではなく、選挙で選ばれた政治家が答えるべきです。国民に責任を負うのは彼らだからです」
会見室の壁に掛けられた時計が、午後二時を指していた。
この瞬間、日本の政治の歯車は静かにきしみを上げた。
見えない支配者たちが、不快の色を隠さず動き出すのに、そう時間はかからなかった。
第2節 反発の波
翌朝、新聞各紙の一面は奇妙に揃っていた。
「総理、会見に混乱」「秩序なき質問応酬」「政治主導、現場に不安」――。
どの記事も、昨日の歴史的な「扉の開放」を評価するどころか、批判一色だった。
蓮見悠一は官邸の執務室で記事を並べ、苦笑を浮かべた。
「まるで示し合わせたようだな」
秘書官が気まずそうに頷く。
「実際、記者クラブの幹事社が抗議の文書を提出してきています。『記者会見の秩序を破壊し、国民の知る権利をかえって損なう』と」
そこへ官房長官の狩野が入室した。
「総理、このままでは政権への信頼が揺らぎます。新聞もテレビも一斉に批判している。国民の支持率に影響が出る前に撤回を……」
その声音には、助言ではなく圧力の響きがあった。
蓮見は書類を静かに閉じ、狩野を見据えた。
「彼らが本当に守っているのは、国民の権利ではない。自分たちの既得権だ」
狩野の表情が硬直する。
「総理、敵を作りすぎては長く持ちませんよ。特に財務省はすでに不快感を示しています。特別会計にまで切り込もうとしているのだから」
その頃、霞が関の財務省庁舎。
主計局の一室では、幹部たちが静かに話し合っていた。
「首相が本気で『事務次官等会議』を廃止するなら、我々の統制は失われる」
「予算編成の主導権を政治家に渡せば、数字の操作も難しくなる」
窓の外には、秋晴れの青空が広がっていた。しかし彼らの表情には陰鬱な影が落ちていた。
記者クラブを揺るがす一手は、財務官僚にとっても脅威だった。
メディアと官僚、その利害は見事に重なり合い、ひとつの複合体を形作っていく。
――やがてそれは、政権を呑み込む大きなうねりへと変わっていくのだった。
第3節 見えない糸
薄暗い会議室に、数人の男たちが集まっていた。
場所は東京ではなく、ニューヨークの高層ビルの一室。窓の外に広がる摩天楼の夜景を背に、大手投資ファンドの幹部モーリスが口を開いた。
「日本の新しい首相は、官僚機構を迂回しようとしているらしい。記者クラブを開放し、情報の流れを壊すつもりだ」
同席していた通信社の日本担当は、冷ややかな笑みを浮かべる。
「国内メディアはすでに反発を始めています。資金の流れを操作すれば、いくらでも世論は変えられる」
モーリスは軽く頷き、資料を机に置いた。そこには日本の大手新聞社、テレビ局、広告代理店、そして一部の官僚とのパイプが図示されていた。
一方、日本国内。
深夜のテレビ局報道部。編集中の映像がスクリーンに映し出されていた。
「首相の理想は理解できる。だが、スポンサーは不安を感じている。『安定した政権』こそが視聴率を保証するんだ」
プロデューサーの声に、若手ディレクターは反論できなかった。広告主の背後にある株主が誰かを知っていたからだ。
霞が関でも動きは早かった。財務省の幹部が匿名の形で情報を流す。
「首相は独断専行だ。財政を危うくしかねない」
翌日の紙面には、「首相、危険な政治主導」「経済界に不安の声」といった見出しが躍る。
――蓮見悠一が開いた扉は、確かに国民に向かって開かれていた。
しかし同時に、その扉から流れ込んできたのは、彼を呑み込もうとする冷たい風でもあった。
見えない糸は、すでに首相の周囲を絡め取り始めていた。
それがやがて政権の命運を決する網となることを、まだ彼自身は知らなかった。
第2章 官報複合体
第1節 特別会計の闇
蓮見悠一は厚い資料の束に目を落としていた。
一般会計――国民の前に提示される予算は115兆円。しかし、その裏に隠されている「特別会計」は、実に429兆円。
巨額の資金がどこへ流れているのか、総理大臣ですら正確には把握できない。
「どうしてだ……」
思わず声が漏れる。
資料には膨大な数字が並んでいたが、内訳の多くは「その他」「調整費」などの曖昧な言葉で覆い隠されていた。
「総理、ここに手を突っ込めば、必ず抵抗を受けます」
若手官僚の佐伯遼が、低い声で警告した。彼は密かに蓮見に協力していたが、同時に霞が関の冷たい空気を誰よりも知っていた。
「特別会計は官僚にとって最後の牙城です。政治家が触れれば、必ず潰される」
蓮見はペンを置き、佐伯を真っ直ぐに見た。
「それでも、国民の税金だ。選挙で選ばれた政治家が知らないままにしていいのか」
佐伯の心は揺れた。
入省以来、彼は上司からこう叩き込まれてきた。――「数字は武器だ。扱い方を誤れば国も潰れる」。
だが、その武器が国民から隠され、ほんの一握りの幹部の間で回されている現実を前に、彼は自分の立場を見失いかけていた。
「……上層部は、既に動き始めています」
佐伯は苦渋の表情を浮かべ、机上の資料の一枚を指差した。
そこには、特別会計の一部が海外の大手ファンドと連動していることを示す図が描かれていた。
「総理がこれを公にしようとすれば、彼らは必ずメディアを使うでしょう」
蓮見は短く息を吐いた。
見えない網が、少しずつ自分を締め上げていく感覚を覚えながらも、彼の目にはわずかな光が宿っていた。
「ならばなおさらだ。真実を国民に伝える。それが私の仕事だ」
執務室の窓の外、夕闇が迫りつつあった。
その静けさの裏で、財務官僚とメディアが手を取り合い、反撃の準備を進めていることを、まだ彼は知らなかった。
第2節 メディアリーク
翌週、大手新聞の一面に奇妙な記事が躍った。
「首相、独断専行」「財政を危うくする政治主導」「官邸と財務省に亀裂」――。
記事の内容は匿名の「関係者」による発言を根拠にしていたが、その「関係者」が誰なのかは明らかにされていない。
官邸の執務室で紙面をめくる蓮見悠一は、静かに苦笑した。
「匿名の関係者とは便利なものだな。真実を語らずとも、言葉ひとつで国民を誘導できる」
秘書官が口を開きかけたが、その前に官房長官・狩野が入室してきた。
「総理、メディアの反応は深刻です。テレビ局も同じ論調を取っています。経済界からも『投資環境が不安定になる』との声が出始めている」
狩野の声には焦りよりも冷ややかさが滲んでいた。
蓮見は彼を一瞥した。
「つまり、財務省がリークしたということか」
狩野は答えず、わずかに目を逸らした。その沈黙こそが、肯定の証だった。
一方その頃、都内の小さな編集部。
フリージャーナリストの篠原真紀は、新聞とテレビの報道を前に首を傾げていた。
「おかしい……。どの媒体も同じ言葉を使っている。『独断専行』『財政危機』。まるで誰かが台本を書いているみたい」
彼女の机には、官僚からのリーク情報を受け取ったとみられる大手記者の名刺が並んでいた。
「これは単なる報道じゃない。仕組まれた攻撃だ」
夜、都心のテレビ局報道部。
編集会議のテーブルでは、スポンサーの意向を示す資料が配られていた。
「視聴者が求めているのは安定だ。首相の理想は理解できるが、スポンサーは混乱を嫌う」
プロデューサーの言葉に、誰も反論できなかった。株主が誰であるか、全員が知っていたからだ。
こうして、世論はゆっくりと方向を変えていく。
国民の目には「理想を掲げる首相」ではなく、「独善的な政治家」という像が刷り込まれていった。
――見えない力が、確実に言葉を武器として動き出していた。
第3節 沈黙の会議室
霞が関、財務省庁舎の地下会議室。
夜遅くにもかかわらず、十数名の事務次官が長机に着席していた。
総理も閣僚もいない。ここでは、省庁の最高幹部たちだけで政策の方向が決まっていく。
「事務次官等会議」――政治家を外し、官僚だけが国家の舵を握る場だった。
「首相は特別会計の詳細を求めている」
財務省の幹部が低く告げる。
「もし明らかにすれば、我々の裁量は失われる」
「ならば、先手を打つしかあるまい」
他省庁の次官がうなずく。
「メディアは既に動かしてある。『独断専行』のイメージは広がっている」
彼らの顔に浮かぶのは恐れではなく、むしろ安堵に近いものだった。
政治家など一過性。だが、官僚とメディアは不変の装置として存在する。
それが彼らの確信だった。
一方、首相官邸。
蓮見悠一は深夜の執務室で、佐伯遼と二人きりで資料を確認していた。
「事務次官等会議は廃止する。国会での答弁も政治家が担う」
静かな声に、佐伯は目を見開いた。
「それは、霞が関すべてを敵に回す決断です」
「分かっている。だが、選挙で選ばれた者が国民に答えなければ、この国は民主主義ではない」
その瞬間、電話が鳴った。
受話器の向こうから、官房長官・狩野の冷たい声が響く。
「総理、これ以上の強行は危険です。あなたは孤立しますよ」
蓮見は受話器を置き、窓の外の夜空を見上げた。
星は見えなかった。ビル群の光にかき消されていた。
――見えない網が、さらに強く張り巡らされていく。
翌朝。新聞の見出しにはこうあった。
「首相、独走続く」「財務省と全面対立」。
その言葉の裏に潜むものを、どれほどの国民が感じ取れるだろうか。
静かな会議室で下された決断は、確実に政権を追い詰めていた。
第3章 マスコミの罠
第1節 スキャンダルの影
早朝の新聞各紙は、そろって似たような見出しを掲げていた。
「首相資金疑惑」「親族企業への便宜供与か」「公邸での不透明な交際」――。
記事の中身は推測の域を出ず、根拠も匿名の「関係者」の言葉だけだった。
首相官邸の執務室で記事を読み終えた蓮見悠一は、静かに紙面を折り畳んだ。
「これが彼らの次の一手か」
淡々とした声に、秘書官は言葉を失った。
そこへ官房長官・狩野が姿を現した。
「総理、事態は深刻です。メディアは一斉に動いています。テレビも朝から『総理の資質』を問う特集を組んでいる。火消しが必要です」
「事実無根だ。資金疑惑も、親族企業の件も。すべて確認済みだ」
「ですが、国民は『火のないところに煙は立たぬ』と考えます」
狩野の声は冷徹で、まるで事態を楽しんでいるようにすら聞こえた。
その頃、都心のテレビ局報道部。
編集デスクに集まった記者たちが、次の番組構成を練っていた。
「疑惑を強調する言葉をテロップに入れろ。『真相は闇の中』なんてどうだ?」
「総理の表情が強張っている映像を繰り返し流せば、視聴者は勝手に想像してくれる」
スポンサーからの指示を受けたかのように、編集は着々と進んでいく。
一方、雑誌社の一角。
篠原真紀はコーヒー片手に記事を並べ、額に皺を寄せていた。
「おかしい……。これだけの媒体が同時に動くなんて偶然じゃない。裏で糸を引いているのは誰?」
彼女の目に浮かんだのは、財務省幹部の顔だった。数日前に取材を断られた相手――「沈黙」こそが最大の答えだと悟った。
夜、官邸前には報道陣が群がり、マイクが突きつけられた。
「総理! 資金疑惑について説明を!」
「親族企業への便宜供与は事実ですか!」
閃光が絶え間なく降り注ぎ、首相は立ち止まり、毅然と答えた。
「事実ではない。私は国民の信託を受けた者として、誠実に職務を果たしている」
だが、その映像は翌日には巧妙に切り取られ、「答えを濁す首相」という印象にすり替えられる。
――スキャンダルの影は、実体を持たぬままに政権を覆い始めていた。
そしてその影を濃くする手が、確かに官僚とメディアの奥で結び合わされていた。
第2節 報道の演出
夜のテレビ局。編集室には白い蛍光灯が灯り、スクリーンに首相の会見映像が繰り返し流されていた。
「この部分を切り取れ。首相が一瞬言葉に詰まった場面を強調して」
「テロップは説明責任を果たさずで行こう。視聴者は深読みする」
ディレクターと編集スタッフのやりとりは、淡々としていた。そこに事実を伝える使命感はなく、ただ「数字」を意識した演出だけがあった。
別のスタッフが耳打ちする。
「スポンサーから安定感の欠如を訴えろとの要請が来ています」
「分かった。ニュース番組の冒頭に孤立する首相の特集を入れる。あとはコメンテーターに言わせればいい」
決定は早く、誰も疑問を挟まなかった。
一方、雑誌社の編集部。
篠原真紀は大量の記事を机に広げ、赤ペンで線を引いていた。
「どの記事も同じ言葉を使っている……。独断専行説明不足国民不在。これは偶然じゃない」
彼女は電話を取り上げ、旧知の新聞記者に連絡を取った。
「裏に誰がいるの? この統一された文言は、台本でもあるの?」
受話器の向こうで沈黙が流れた。やがて低い声が返る。
「真紀、深入りするな。お前が消されるぞ」
その頃、霞が関の一室。
官房長官・狩野が財務省の幹部と向かい合っていた。
「メディア操作は順調です。世論は疑惑に傾きつつある」
幹部は満足げに頷いた。
「首相は孤立する。与党内からも声が上がるはずだ」
狩野はグラスを口に運び、冷ややかに笑った。
「彼は理想を掲げすぎた。理想はいつも現実に潰される」
翌朝。テレビは一斉に「孤立する首相」の映像を流した。
会見の一部を切り抜いた映像に、コメンテーターが眉をひそめる。
「やはりリーダーシップに疑問がある。国民との距離が見える」
街頭インタビューでは、無作為に選ばれた数人の声が放送された。
「もう信用できない」「説明不足だ」
それがあたかも国民全体の声であるかのように。
――報道は情報ではなく、演出となっていた。
そしてその演出は、確実に首相を孤立へと追い込んでいく。
第3節 支持率の崩落
官邸の机の上に、最新の世論調査の結果が置かれていた。
「内閣支持率 38% → 21%」
わずか数週間で、数字は急落していた。
蓮見悠一は資料を黙って見つめ、深く息を吐いた。
「これが、彼らの世論か」
数字の背後に、財務省のリーク、テレビ局の編集、新聞の一面記事があることを知りながらも、彼はそれを覆す手立てを持たなかった。
国会では、野党の議員が声を張り上げていた。
「総理は説明責任を果たしていない!」「疑惑が晴れない限り、国民の信頼は戻らない!」
テレビカメラは執拗に首相の表情を追い、緊張した顔を何度も切り取った。
与党内でも不穏な空気が広がり始めていた。
重鎮議員が密室で語る。
「支持率二〇%台は危険水域だ。選挙を考えれば、総理を守りきれない」
その言葉は波紋のように党内に広がり、「後継」を巡る水面下の駆け引きが始まった。
一方、篠原真紀は編集部で頭を抱えていた。
「世論が作られている……。でも、この流れを止められない」
彼女の取材メモには、財務省幹部とテレビ局幹部の会食記録が記されていた。証拠はある。だが、それを表に出す媒体がない。
官僚の佐伯遼も同じ葛藤を抱えていた。
「総理に真実を伝えたい。でも、僕が動けば即座に外される……」
彼は窓の外を見つめ、夜の霞が関の灯りを眺めた。それはまるで、無数の目が自分を監視しているかのように感じられた。
夜遅く、官邸の執務室。
蓮見は机に肘をつき、低くつぶやいた。
「国民の信託を受けたはずの政治が、いつの間にか見えない力に奪われている……」
外の暗闇は静かに広がり、窓ガラスに映る彼の姿を包み込んだ。
その背後で、見えない支配者たちが一歩前に出てきた気配があった。
――罠は完成した。
第4章 崩壊のシナリオ
第1節 内部崩壊
国会が終わった直後、与党本部の重厚な会議室に数人の幹部議員が集まっていた。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、テーブルの上には灰皿と資料だけが置かれている。
「このままでは次の選挙は戦えない」
重鎮のひとりが吐き捨てるように言った。
「支持率は二〇%を割ろうとしている。蓮見総理では国民の信を取り戻せん」
別の議員がうなずき、声を潜める。
「後継は誰がいい? 財務省とも連携できる人物でなければならない」
会話はやがて「交代は避けられない」という結論に収束していった。
その中心に座っていたのは、官房長官・狩野だった。
彼は腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべている。
「総理は理想を掲げた。それは立派だ。だが、理想は票にならない。国民が求めるのは安定だ」
狩野の言葉に、誰も反論しなかった。彼の掌に党内の流れが握られていることを全員が理解していた。
一方その頃、首相官邸。
蓮見悠一は、側近の議員を招き入れていた。
「君たちを信じている。共に改革を進めてくれると」
しかし返ってきたのは、気まずい沈黙だった。
「総理……支持率がこれほど落ちては……。地方の声も厳しい」
「我々としても、次の選挙を考えれば……」
口ごもりながら言葉を選ぶその表情に、忠誠の色は見えなかった。
蓮見は深く目を閉じた。
わずか数か月前まで、同じ志を語り合った仲間たちが、今は冷たい計算で彼を切ろうとしている。
「結局、政治は数か……。理想は票の前に消えるのか」
会議室の外には夜の帳が降りていた。
だが、その暗闇よりも濃い影が、すでに政権中枢を覆い始めていた。
首相を孤立させ、退陣へと導く筋書きが、確実に動き出していたのだ。
第2節 裏切りの代償
霞が関、財務省の一室。
若手官僚・佐伯遼は上司から呼び出され、重苦しい空気の中に座らされていた。
机越しに向かい合う主計局長が、鋭い視線を向ける。
「佐伯君。君は首相に近すぎる。忠誠の矛先を間違えるな」
机の上に置かれた一枚の書類。そこには人事異動の内示案が記されていた。
「君が余計なことを言わず、首相の意向を伝えることをやめれば、次のポストは保証される。出世の道は約束されている」
甘い言葉に聞こえるはずのその提案は、佐伯には鎖の音のように響いた。
彼の脳裏に、蓮見の言葉がよみがえる。――「国民の税金だ。選挙で選ばれた政治家が知らないままでいいのか」。
佐伯は唇を噛みしめ、答えを出せずにいた。
理想か、出世か。
官僚の世界で生き残るためには後者を選ぶしかない。しかし、その瞬間、自分は国を裏切ることになる。
同じ頃、都心の雑居ビルにある小さな編集部。
篠原真紀は机に広げた資料を整理していた。そこには財務省幹部と大手メディア幹部の会食記録、スポンサー企業との資金の流れが記されている。
「これが表に出れば、全てが繋がる……」
独り言のように呟いたその時、背後でガラス窓が不自然に揺れた。
篠原が振り返ると、窓際に小さな金属片が転がっていた。
――弾丸の破片だった。
心臓が跳ね上がる。暗殺未遂。彼女は息を呑み、すぐに警察へ通報しようとしたが、携帯の電源は切られていた。
「誰かが、私を黙らせようとしている……」
彼女は恐怖に震えながらも、資料をかき集めてバッグに押し込み、編集部を飛び出した。
夜の街を駆け抜けながら、頭の中で繰り返していた。
――真実を守るか、自分の命を守るか。
佐伯と篠原。
異なる立場にある二人は、同じ問いを突きつけられていた。
「裏切るのか、それとも抗うのか」
答えを出す猶予は、もう残されていなかった。
第3節 退陣シナリオ
首相官邸の会議室。
テレビ画面には最新の世論調査が映し出されていた。支持率はついに二〇%を割り込み、与党支持層ですら半数が「総理交代を望む」と答えていた。
与党幹部が次々に声を上げる。
「総理、このままでは選挙に勝てません」
「国民の信を守るためにも、新しいリーダーを立てるべきです」
言葉は丁寧だったが、その響きは退陣を迫る命令に等しかった。
蓮見悠一は無言でその声を聞き、やがて静かに立ち上がった。
「私が求めたのは、国民に政治を取り戻すことだった。しかし、見えない力がこの国を縛り、理想を押し潰している」
会議室の空気が一瞬凍りつく。彼の言葉は真実を突いていたが、誰も耳を貸そうとはしなかった。
翌日。
首相は官邸で最後の記者会見に臨んだ。
カメラのフラッシュが一斉に光り、記者たちがマイクを突きつける。
「総理、辞任の理由を!」
「疑惑の説明は!」
蓮見は深く息を吸い、正面を見据えた。
「私は理想を掲げ、国民のために政治を取り戻そうとした。しかし、その試みは潰された。だが、国民の手に未来を戻す戦いは終わらない。真実は、いつか必ず光にさらされる」
記者席の一部から小さなどよめきが起きたが、翌日の報道は違っていた。
「総理、ついに辞任」「疑惑に答えぬまま退陣」
見出しには彼の言葉の欠片すら残っていなかった。
夜。官邸の灯りが消える中、佐伯遼と篠原真紀だけが、その言葉を胸に刻んでいた。
「政治を国民に取り戻す」――その志を。
そして遠く離れた場所で、国際ファンド幹部モーリスがワインを傾けながら呟いた。
「計画通りだ。次の標的は……もう決まっている」
闇の奥で、新たな糸が張り巡らされていた。
第5章 真実の代償
第1節 沈黙の街
蓮見悠一が辞任を表明してから一週間。
東京の街は、何事もなかったかのように動き続けていた。
通勤電車の中吊り広告には「疑惑の総理、退陣へ」「無責任の代償」といった見出しが並び、テレビは朝から晩まで同じ論調を繰り返していた。
人々はそれを疑いもせず受け入れていた。
「やっぱり怪しかったんだな」
「説明不足って言われても仕方ないよ」
街頭で交わされる会話は、報道をなぞるだけのものだった。
本当に彼が何を目指していたのかを知る者は、ほとんどいなかった。
霞が関。
佐伯遼は省内の廊下を歩きながら、背後の視線を感じていた。
同僚たちの笑みは冷たく、彼の机には匿名のメモが置かれていた。
《余計なことを考えるな》
誰が置いたのか分からない。だが、それが組織全体の意志であることを彼は悟った。
一方、都心の雑居ビルにある編集部。
篠原真紀は記事の企画会議で「蓮見前総理の改革の意図を掘り下げたい」と提案した。
だが編集長は露骨に顔をしかめた。
「やめろ。スポンサーが逃げる。今は疑惑総理の記事だけでいい」
会議室に沈黙が落ち、篠原は机の下で拳を握った。
街は沈黙していた。
メディアが作った像を疑うことなく受け入れ、人々は平穏を装って日々を送っている。
だがその平穏は、見えない力によって仕組まれたものにすぎなかった。
夜、官邸の灯りが落ちた建物を見上げながら、佐伯と篠原はそれぞれ同じ思いを抱いていた。
――真実は、このまま闇に葬られるのか。
第2節 追跡と脅迫
夜の都心。
篠原真紀は資料を鞄に詰め込み、編集部を出た。薄暗い路地を抜けて駅へ向かう途中、背後に車のエンジン音が張り付いていることに気づいた。
何度も角を曲がってみたが、車は一定の距離を保ったままついてくる。
胸の奥が冷たくなる。
――監視されている。
足を速めると、車のライトが路地を照らし、影が長く伸びた。
篠原は無我夢中で駅構内に駆け込み、群衆の中に身を紛れ込ませた。振り返ると、車は既に姿を消していた。
一方その頃、霞が関。
佐伯遼は上司から呼び出され、密室で向かい合っていた。
「君は首相に近づきすぎた。忠誠を誤れば、自分だけでなく家族も困ることになる」
そう言って差し出された封筒には、自宅付近で撮影された妻と子供の写真が入っていた。
佐伯の手が震え、額に冷たい汗がにじむ。
「余計なことを口にしなければ、すべては平穏に済む」
上司は穏やかな声色で言ったが、それは脅迫以外の何ものでもなかった。
佐伯は机に視線を落とし、押し殺すように答えた。
「……わかりました」
その声は自分のものではないように聞こえた。
夜遅く、彼はオフィスの窓から東京の夜景を見下ろした。
きらめく光の海の下に、見えない網が張り巡らされ、自分たちはそこから逃れられない――そう思えた。
篠原もまた、帰宅後に窓の外を何度も確かめた。
闇に潜む影が、確実に自分を追っている。
それでも、彼女はバッグの中の資料を抱き締めた。
――真実を暴こうとすることは、命を懸けること。
その現実が、二人の胸に突き刺さっていた。
第3節 受け継がれる言葉
静まり返った夜の官邸前。
蓮見悠一の退陣から数日が過ぎ、建物の窓は暗く閉ざされていた。だが、佐伯遼と篠原真紀の胸の内には、まだあの日の言葉が鮮やかに響いていた。
――「政治を国民に取り戻す」。
佐伯は深夜の省庁のデスクに座りながら、その声を思い返していた。
人事の脅迫、家族への暗示。すべては彼を沈黙させるための罠だ。
だが、沈黙すれば何も変わらない。
蓮見が失ったものは大きい。だが、その志まで潰されたわけではない。
「もし僕が声を上げなければ……また同じことが繰り返される」
彼はペンを取り、机の上に密かにメモを走らせた。それは、特別会計の闇に迫る内部資料の断片だった。
一方、篠原は小さな自宅の机で資料を抱えていた。
尾行の恐怖は消えない。窓の外を覗けば、街灯の下に人影が見えるような気さえする。
だが、彼女の手は震えながらもノートパソコンのキーボードを叩き続けていた。
「真実を埋めれば、歴史は繰り返す。誰かが残さなきゃいけない」
原稿の冒頭に、彼女は迷わず蓮見の言葉を引用した。
――「政治を国民に取り戻す」。
二人は互いに連絡を取り合ったわけではない。
だが、同じ言葉を胸に、それぞれの立場で行動を始めていた。
窓の外、東京の街は沈黙を保ち、ネオンだけが虚しく光を放っていた。
しかしその沈黙の底で、見えない火種が確かに息づいていた。
――やがてその火種が炎となり、再び巨大な影に挑む日が来るのだろう。
第6章 誘導された決断
第1節 新政権の影
蓮見悠一が退陣してから、わずか数週間。
永田町には新たな政権が誕生していた。
メディアは一斉に「安定回復」「信頼回復の第一歩」と報じ、街頭インタビューでは「ようやく落ち着いた」「これで経済も回復するだろう」といった声ばかりが流されていた。
テレビの画面に映る新首相の笑顔を、佐伯遼は無表情で見つめていた。
財務省の会議室。壁に掛けられたモニターから流れるその映像に、上司が言葉を添える。
「前政権の失敗を繰り返してはならない。我々が主導権を握り、秩序を守る」
会議室に集まった官僚たちがうなずく。
佐伯は喉の奥に苦いものを感じた。蓮見が命を懸けて切り開こうとした「政治主導」は、今や「失敗」の二文字にすり替えられている。
一方その頃、篠原真紀は街中のカフェで新聞を広げていた。
紙面には新政権の政策が大々的に取り上げられ、蓮見の名は片隅に小さく「疑惑に揺れた前政権」と記されるだけだった。
隣のテーブルで会社員が笑いながら話す。
「やっぱり前の首相は駄目だったんだな。今度は安心できそうだ」
その言葉に、篠原は無意識に拳を握った。
真実を知る者は少数であり、声を上げる者はさらに少ない。
情報の洪水の中で、国民の記憶は早々に塗り替えられていく。
蓮見の改革も、言葉も、いまや「過去」として沈められようとしていた。
夜、官邸の明かりの下、新首相が笑顔で記者に囲まれていた。
その光景をテレビで見ながら、佐伯と篠原は別々の場所で同じ思いを抱いていた。
――あの言葉を、ここで終わらせてはならない。
第2節 選択の分岐点
夜の編集部。
篠原真紀は、完成させた記事の原稿を編集長に差し出した。
タイトルは「前政権が残した真実――特別会計とメディアの闇」。
資料に基づいた詳細な調査と証言を盛り込んだ渾身の原稿だった。
だが編集長は原稿に目を通すと、無言で机に置き返した。
「悪いが、これは載せられない。スポンサーが逃げる。お前の身の安全のためにも、この件は忘れろ」
冷たく突き放すような口調。
篠原は唇を噛んだ。
「ならば、私はフリーで発表します」
「真紀、お前は分かってない。世論はもう新政権歓迎で固まっている。出したところで、誰も読まない。それどころか、お前が危険になるだけだ」
彼女の胸に恐怖が走った。確かに、あの尾行の気配はいまだに消えていない。
――沈黙か、孤独な戦いか。
一方、霞が関。
佐伯遼は財務省の会議で「前政権の失敗事例」という資料を渡された。
その中には、蓮見総理の改革案が「危険な政治介入」として記されていた。
「この部分を削除し、表現を修正しろ。数字は触れるな。君はただ事実を整理すればいい」
上司の指示は柔らかくも、選択の余地を与えないものだった。
佐伯は言葉を失い、資料に目を落とした。
そこに赤字で記された修正案は、まるで「真実を削る手順書」だった。
「最小限の真実」だけを残し、核心は消されていく。
――告発する自由すら、選択肢の中から削り取られていくのか。
その夜。
篠原は消灯した編集部で原稿を前にし、佐伯は省庁の自席で修正案を見つめていた。
二人は互いに知らぬまま、同じ問いを抱いていた。
「守るべきは、自分の命か、それとも真実か」
外の街はネオンに彩られていたが、その光はあまりに冷たかった。
第3節 見えない設計者
深夜、港区の高級ホテル最上階。
灯りを落としたラウンジに、二人の男が向かい合っていた。
一人は国際ファンド幹部のモーリス。赤ワインを傾け、余裕の笑みを浮かべている。
もう一人は官房長官・狩野。新政権の実権を握る男だった。
「計画は順調だ。蓮見を退場させるまでの流れは、美しいまでに完璧だった」
モーリスの声は低く、だが響き渡るような重みを持っていた。
狩野はうなずき、グラスを持ち上げる。
「世論は完全に掌の中です。報道は我々が望む通りに流れ、国民は考えることをやめた。これで安定が保証される」
「だが油断は禁物だ」
モーリスの視線が鋭く光る。
「首相が残した言葉を胸に、まだ動いている者たちがいる。官僚の若造と、しつこい女記者だ」
狩野は鼻で笑った。
「彼らなど、どうとでもなる。真実を暴こうとしたところで、世論は耳を貸さない」
モーリスはワイングラスを傾け、赤い液体の揺れを見つめながら呟いた。
「火種は小さいうちに摘むべきだ。だが時に――利用することもできる」
意味深な言葉に、狩野は一瞬だけ眉をひそめた。
その頃。
佐伯遼は省庁を出て夜道を歩いていた。篠原真紀は自宅で原稿に手を置いたまま、窓の外を見つめていた。
互いに連絡を取ることもなく、出会うこともない。
だが、二人の胸には同じ思いが残っていた。
――「政治を国民に取り戻す」。
静かな街の中、二人の足取りは別々の方向へと向かっていた。
だがやがて、必然のように交わる瞬間が訪れるだろう。
見えない設計者が操る舞台の、その隙間を突くために。
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