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作者: Nicola


 ルーズリーフの束と重たい参考書が入ったリュックサックを背負う。

 お前は相変わらず荷物が多いなあ、と苦笑されてむっとした表情で返事をした。中学や高校みたいに置き勉が出来る環境でもないし、と思いながら背中を揺らす。

 確かに荷物は多い方である。

 サークルに所属してそこに荷物を置いている人たちもいるらしいのだが、彼は何にも所属せず大学生活をただただ惰性のように過ごしていた。刺激的なこともないし、求めてもいない。平々凡々の日常だけでも彼の空腹は満たされている。

 今日もバイトか、と問われてひとつ頷く。

 大学近くのコンビニエンスストアの面接は面接のようで面接でなく、ただの写真と名前の確認作業といったものだったが、即採用してくれたことは評価に値した。

 やる気のない無精髭の店長と、店長とデキていると噂の高校生と、ベテランの中年女性と、不真面目な大学生に留学生の中国人――などと他所と大差なく量産型コンビニエンスストアに相応しい面子を揃えたそこで、彼は真面目で無愛想な大学生として役目を果たしている。

 父親が入学祝いに買ってくれたソーラー式の腕時計を見下ろすと、夕方の時刻が迫っていた。

「じゃあ俺は先に帰ってるから」と彼から離れていく双子の弟に「また後で」と頷いた。

 双子の弟である優希と彼はよく似ていた。似ていると彼自身も思っている。一卵性双生児とはいえども成長すれば見分けがついてくるらしいが、優希と彼はそっくりそのままだった。

 こうやって大学も同じで一緒に授業を受けたり放課後を過ごしたりするのは当然だったし、交友関係も筒抜けというよりは共有といった状態に等しい。区別なんてつきやしない。

 唯一人間関係が共有されないのはこのアルバイトの時くらいだろうか、と彼は明るい電子音で迎えてくれる自動ドアをくぐった。

 お疲れさまです、と小さな会釈をしてからレジの脇を抜け、スタッフルームへと滑り込む。一応程度に設置された狭いロッカーに重たいリュックサックを押し込み、腕時計を確認する。タイムカードを押すには少し早い。

 彼はズボンのポケットに入っていたスマートフォンもロッカーにしまおうとして、メッセージが来ていることに気づいた。

 今度の連休は帰ってくるの、とシンプルな内容は実家の母親からだ。壁にぶら下がるシフト表に目を向けるが、当然のように希望通りのシフトが入っている。

 次は親戚が集まる盆を外した頃に帰る予定だ。全く帰らないつもりはなく、今までも長期休暇に入れば何日かだけでも帰っている。地元から遠く離れた大学ということもあり、帰省は最低限だ。

 バイトがあるから帰れないよ、と簡単な返事を送ってスマートフォンの画面を伏せた。

 優希にも確認してみるべきだったろうか、とふと思いもしたが、彼はすぐにそれを忘れて制服に袖を通した。



 彼は深夜の時間になる前にタイムカードを押し、暗い金髪の男に挨拶をして出ていく。手には賞味期限のせいで廃棄目前の大福がふたつ。加えて、ペットボトルを一本掴み、レジへ向かう。

 あんたって結構甘いもん好きだよなあ、と煙草臭い声に視線を向ける。金髪の男は大福を指差し、だっていっつもふたつ買うし、と笑った。

 俺も弟も和菓子が好きで、と簡単に伝えて下手くそな愛想笑いを貼りつける。

 目が虚ろで笑っていない、と高校の同級生に言われたことがあったが、これが彼の精一杯だった。

 優希はあんなに上手に笑えるのに、と彼は何度も思ってきたことを今も思った。



 一番前の席が彼の定位置だった。

 特別に勉強が好きで真面目な大学生というわけでも、視力が悪いくせに眼鏡をかけていないわけでもない。成績は平均から外れることは滅多になく、生まれてからずっと裸眼で過ごし続けて視力が悪くなる予兆もない。それでも彼は今日も一番前に座っている。

 広い講義室で前方を好んで座る大学生は限られていて、今日も後方では教授に顔ではなく頭頂部を見せている学生も多い。こうやって静かな日はまだ良い方で、ひそひそと話す声は内容までは聞こえずとも耳には入ってくるものである。そんな後方集団のひそひそに紛れるのが嫌で前に座っている、それだけだ。

「つまんないの」

 隣に座る優希がぼそりと呟いた。授業を進める教授には聞こえていないが、彼にはしっかりと届いていた。同意したいのは山々だったが、黙ってろよ、と言うかわりに優希の肘を小突いた。

 優希はまだ何かを言いたげにしていたが、ここは大事ですよ、といった教授の声で視線を白板に戻していた。

 ただ、その白板に書かれた文字をルーズリーフに写すのは彼の仕事だった。



「そういえば」

 優希が口を開いたのは夕食の準備をしている時だった。

「昨日の大福、いつ食べよっか」

 勉強用兼食事用のこたつ机を指差している。昨日のアルバイト先で買って帰った大福がふたつ並んでいた。

「そうだった。飯の後に食べようか」

「ならほうじ茶が飲みたい」

 彼はふたり分の茶碗と一枚の大皿を出しながら苦笑する。

「言うばかりで淹れるのはいつも俺じゃないか。麦茶でいいだろ」

 野菜炒めを大皿いっぱいに盛りつけ、こたつ机に置いた。茶碗に炊きたてのご飯をよそう。

 こたつ机ではあるがこたつ用の布団はとっくに押入れだ。扇風機の出番はもう少し先だが、冬の冷たさはとうに遠のいた。

 先に並べておいた箸を持ち上げ、野菜炒めを白米の上に一旦着地させてから口に入れる。

 下宿を始めたばかりの頃、塩胡椒だけではどうにも味気ないと遠方の母親に相談したことがあった。その際に、あんたそれは中華調味料を少しいれるといいのよ、と教えてもらってからは家の味と同じになった野菜炒めだ。大したものは作れないが、こうやって野菜も肉もまとめて取れる野菜炒めは彼の定番料理だ。

 安いテレビを買うか悩んで結局買わなかった彼はしんと静かな部屋で、向かいにいる優希に目を向けた。

 彼の目の前にあるコップが空であることに気づいて「ごめん。入れてなかったな」と麦茶をと注いだ。優希は特に文句を言うわけでもなく「自分の分も忘れてるよ」と彼そっくりの顔で苦笑して、彼の目の前にある空っぽのコップを指差した。



 彼は茶碗に二杯の白米をしっかりと食べてから、スマートフォンのメッセージに気づいた。

「そういえば母さんからいつ帰ってくるのかって連絡があって」と昨日のことを優希に伝えながらメッセージを開く。

 息子の帰省を心待ちにしている母親の期待を裏切るようで悪いが、残念がる母親への返事は帰れないの一択だ。きっと、忙しいのね、だとか、体に気をつけて、だとか、じゃあ荷物だけ送るわね、だとか、そういったひとり暮らしの息子を心配するメッセージが追加で来ているに違いない。

 しかし、開いてみたメッセージは母親からではなかった。

「母さん、なんて言ってる?」

 優希が尋ねてくるので、彼は慌てて首を振った。

「ああいや、母さんからじゃなかった」

 母親ではない差出人は同じアルバイトの大人しい雰囲気をしたひとつ年上の女性だった。大学はなんとなく嫌で辞めちゃった、と笑った彼女はそれまで持っていたイメージとは違っていて、聞いた時は妙にどきりとしたのを今でも覚えている。

 そんな彼女のメッセージに心拍が上がったことを自覚せず、彼はメッセージを開く。この前のバイトで言っていたマンガってなんだっけ、と彼女の丸文字を思い出させる文面がそこにある。

 彼は親指をすいすいと動かして漫画のタイトルを打ち込み、一旦消す。まずは、お疲れさまから書くべきか、と僅かに視線を横に動かして考えた。そして、その視線の先に優希がいないことに気づいてはっとする。

「優希」と呼ぶと、いつの間にかこたつ机から抜け出した優希がユニットバスへ体を向けた状態で立っていた。

「母さんじゃないんだろ。早く返事してやれよ」

 優希は笑って、ユニットバスの方へ姿を消す。

 彼はしばらく閉じた扉を見ていたが、ゆっくりとスマートフォンに目を落とす。そして、漫画のタイトルに僅かな挨拶を添えて送り返した。



「いやあごめんね」と彼女が笑う。

「急なのにいいの、ほんとに」

 そう言いながら彼の後をついてきた彼女は古い木造アパートの階段を静かに上がってく。

「いいよ。漫画くらい」

 同じシフトだった彼女とは先日やりとりした漫画の話で盛り上がり、そのままアルバイト終わりに漫画を借りに来たのだ。

 話を聞くところによると彼女の家もここの近くらしく、普段の帰り道からほんの少し遠回りになるだけで彼の家へと寄れるらしい。「辞めたくせにさあ、ここが近道でしょっちゅう使っちゃうんだよね」と笑う彼女と一緒に、明かりの少ない大学の中庭を通り抜けてここまで歩いてきた。

 彼女が同じ大学生だったら昼も学食で会ったり、休み時間にすれ違ったりもしたのだろうかと考えて、やめる。彼女は大学を辞めたし、彼は大学では優希と共にいることが殆どだ。

 二階の一番奥に鍵を差し込む。

 玄関を開けた彼は電気をつけ「どうぞ」と彼女を振り返った。彼女は「え、入っていいの」と目を皿のようにした後、薄化粧にしては赤く見える頬で笑った。

「男の人の部屋、初めてなんだよなあ……。お邪魔します」

 小さな呟きと小さなスニーカーが玄関に残る。

 玄関先で待ってもらって漫画を持ってくれば済んだのだと、こんな夜に女性を部屋に入れるなんて何を考えてるんだと彼が気づいたのは、彼女が狭いワンルームを見て「わあ、綺麗にしてる」と褒めてくれてからだった。

「男の人の部屋ってもっと散らかってると思ってた」

 彼女は落ち着きなく視線を動かし、ふとシンクの隣にある水切り台に目を止めた。

「あれ、優太くんってひとり暮らしじゃなかったっけ」

 そこにはコップも皿も茶碗も箸も、全て二組ずつ並んで乾いている。

 彼の中で一瞬、時間が止まった。しかし、実際の時間は止まることなどなく、彼女が慌てて「もしかして彼女いた? ごめんね、知らなくて。漫画借りたらすぐに出ていくから」と体をすくませている。

「あ、いや、彼女は別にいなくて……」

 はっとした彼が事実を述べながら彼女を見て、その奥に優希の姿を見た。

 優希は上手に笑っていて、へえ、こいつが好きなの、と口を動かしている。ただ、その声は彼にしか聞こえない。彼女の「でも、ふたり分の……」と怪訝な声と被さって不協和音になっている。

 お前だけが好きな奴と幸せになろうとしているんだね、と優希が上手に笑う。

 彼はそこから目を離し、目についた紙袋を掴んだ。

「昼間、時間があったから友達と食べてさ」

 下手くそに笑う。

 本棚から目的のものを掴む。彼女の方を見ることが出来ないまま「ええと、何巻持って帰る? 結構巻数も多くて……」と五冊を紙袋に突っ込んだ。

 彼にしか見えない優希の視線が背中に刺さって、ちくちくと痛む気がした。



 結局十冊の漫画を両手にぶらさげて帰ろうとした彼女を「もう遅いから」と送ることにした彼は部屋の電気を消し、鍵をかけた。優希の姿はそこにない。

 彼女は彼にガールフレンドがいない真実も、友人に料理を振る舞った嘘も納得したのか、彼のすぐ隣を歩いている。

 雲が出た夜道は薄暗く、車通りのある道に出るまでの住宅街はしっとりと冷たい。電気をつけない自転車が一台、彼らを追い抜いただけの静かな夜だ。

「また行ってもいい? 続きも貸してほしいし」

 夜になって押しボタン式になった横断歩道の前で彼女が彼を見上げた。

 お前だけが好きな奴と幸せになろうとしているんだね。

 そんな優希の声が脳内で回り、何度目かも分からない唾を飲む。

 優希がこの世にいないことは彼が一番分かっていた。優希は共に生まれることすら出来ずに死んだのだから。ただ、彼の名前はつけるはずだったふたり分を足して割ったものだと教えてもらった日から、彼の側には優希がいるようになった。そして、存在のない優希の存在を明かせば気味悪がられることも、経験上分かっている。

 彼は青が光る横断歩道を歩き出す。

「いいよ、続きならバイト先に持っていくから」

 彼女の提案を優しく振りほどき、なるべく優しく笑う。

「俺の家に寄ったら松本さんが遠回りになっちゃうし」

 だが、目が笑っていないと友人に指摘された笑みだ。上手に笑う優希とは真逆の笑みになってしまう。

 彼女はその笑顔をしばらく見つめ、物足りなさそうに細い指先を背中で組んだ。

「そっか、ありがとう。じゃあ読み終わったら連絡するね」

 夜の横断歩道は短く、渡りきったらすぐに点滅を始めた。気持ちを急かす点滅を背に、彼は彼女の進む進行方向に合わせて歩く。

 そして、赤い光が後ろから差した時、彼はそれを一度だけ振り返った。



「ただいま」と帰るとそこには優希がいた。

「おかえり」と上手に笑う優希に「お土産を買ってきた」と帰りに寄ったコンビニエンスストアで買った三色団子のパックを出す。

「三本だったら喧嘩になるじゃん」

 優希が眉をひそめるので、彼は笑ってコップふたつに麦茶を注いだ。

「お前が食べていいよ」

 そして、ひとりで三本と二杯を胃に流し込んだ。


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