ナガシ船
小学生の時だった。塾の帰り道、すっかり暗くなった人通りの少ない場所だった。
目の前の道路を小舟がすいー、っと通っていった。
一瞬目を疑った。道路がまるで川かのように、舟はちゃんと船底が沈んでいる。船頭もいて、一本の長い棒を使い器用に道路を通っていった。舟にはたくさんの紙屑のようなものがつまれている。
あまりに驚いて、声も出せずただ見送った。おかしな合成を見ているかのようだった。街灯があったはずのその道は明かりが暗闇の中、舟と人だけははっきりと見えた。
家に帰って母親に話しても当然信じてもらえず、友達も笑い飛ばした。勉強疲れで半分寝てて夢でも見たのかと思う事にした。
中学生の時だった。コンビニに寄った帰り、真正面に夕日が来ていて、眩しくて少し顔を顰めていた時。
道路を、またすいーっと小舟が通っていった。
前に見た時と同じだ、まるで川を渡るかのように舟を巧みに操って先に進んで行く。先ほどまで夕暮れだったはずなのに、辺りは真っ暗だ。明かりがないのにやはり舟と人ははっきりと見える。
舟には船頭の他に、花嫁が一人乗っていた。白無垢に頭をほぼ隠してしまう綿帽子という被り物をしている一人の女性。綿帽子のせいで顔は見えない。船頭も、大きな笠をかぶっていて顔がわからない。
無言のまま、舟は進んで行く。どこに行くのだろう? じっと進む先を見つめていた時、ポン、肩を叩かれた。
「よう」
振り返れば友達がコンビニで買ったチキンを食べながらお前もメシの調達かと聞いて来る。
振り返れば舟は見当たらない。そう言えば、舟がいる時車も人も何も通っていなかった。音もしない、まったくの無人。正月の朝、外に出た時みたいな不自然な静けさ。辺りを見渡すと暗闇ではなく夕暮れだ、もうすぐ太陽が完全に落ちる。
今の話を友達にすると、わけわかんねーと笑われた。やっぱそうだよな、と苦笑いする。
自分でもわからないのだ。あれは、一体なんなのだろう。
高校生の時だった。夜小腹が空いてコンビニでも行こうかなと思って外に出た時、住んでいるマンションの前を舟が通った。
舟には船頭が一人、棒を操り前に進む。舟には、知らない男が一人乗っていた。その人は顔色が真っ白で表情がない。まるで死人の様だと思った。もう3回目なので、変な話慣れていた。
静かに見つめていると、舟はゆっくりと進んで行く。やがて舟が遠くへと進んで見えなくなった頃、同じマンションの人にぼうっとしてどうしたのかと声をかけられ、適当にごまかしてコンビニに行った。
先ほども明かり一つない暗闇だったので、コンビニの電気が眩しく感じたくらいだ。
そんな不思議な経験をいくつかして、でもこんな話誰も信じないだろうと思い自分の中にとどめていた。
高校二年の夏休み、祖父の家に行った。父方の祖父なのだが、父と祖父は折り合いが悪いらしく父も母も祖父の家には昔から行かない。父が子供のころから仲が悪く、母との結婚も反対されて縁を切ったらしい。
俺にも祖父とは関わるな、と父が言っていたが、何故そんな事を言われなくてはいけないのか納得できず、中学生の時それは俺が決めると言ったら顔を顰めてアイツそっくりだ、と吐き捨てられそれ以来俺と父の会話はなくなった。別に父親が恋しい年でもないし、家庭内も結構冷え切ってるので別に気にしない。
それ以来、たまに祖父の家に行っているのだ。
祖父は物静かな人で、でも言いたいことははっきり言う人。言葉が少ないので、確かに相手に真意が伝わりづらく冷たい人だと誤解されるかもしれない。俺はわからない事、納得できないことはしつこいくらいに聞いてしまうので、祖父が決して冷たい人じゃないことは知っていた。
年々背が曲がり小さくなっていく祖父。縁側で麦茶を飲みながら、なんとなく舟の話をした。祖父なら笑い飛ばさず聞いてくれると思ったからだ。
「それは、ナガシだ」
「ナガシ?」
カラン、と麦茶の氷が溶けた勢いでぶつかり合う音がする。辺りはセミの鳴き声くらいしかしないので、やけに大きく響いた。
「大切なものが二つあって、どちらか片方しか選べない時にもう片方を舟に乗せて流す。捨てる、とは少し違うんだけどな。でも、手放すという意味では残酷だ。舟はどこに行くかわからない」
「そう言う風習?」
何故道路に舟が、という疑問はとりあえず置いといて。祖父がその現象を知っていることに興味が湧いた。
「地域や時代の、じゃない。そういうことを知っている限られた者の風習だな」
「花嫁とか紙とか、男の人もいた。人を流すのって、いいのかな」
「人間そのものじゃないかもしれない。心とか、思い出かもしれんな」
そう言うと祖父は黙って麦茶を飲む。黙り込んだら会話終了の合図だ。祖父は長話が好きじゃない。
心か。
花嫁は。
嫁ぎたくないという「心」をナガシたのだろうか。
紙屑は、大切な思い出を。あの紙屑、たぶん写真だ。
男性は……どうだろう。表情がなく死人の様だったので、大切な人から見捨てられたとかそんな感じだろうか。
その日は熱帯夜だった。エアコンなどなく扇風機で寝るしかないが、幸い風が少し吹いていて汗ばんだ皮膚に当たって気持ちいい。でも、不思議と寝付けなかった。
ぴたり、と音が止んだ。虫の鳴き声、風が吹くたびカタカタなる出窓の音、扇風機の音。
起き上がって外を見る。
すると、あの舟が。すいーっと玄関の前に近寄ってきていた。船頭はいない。導かれるように、玄関に向かう。
玄関には祖父がいて船は玄関の前でぴたりと止まる。舟を渡すための棒と、大きな笠が乗っていた。自然な動作で祖父が船に乗り、笠をかぶる。
「じいちゃん」
「俺の番だからな」
祖父は棒を持つと、ゆっくりと舟を動かす。地面を、まるで水を操るようにすいーっと。
ああ、祖父はもう。そうか、お別れなのか。悲しみや寂しさはない、不思議な気持ちで祖父の姿を見送った。やがて祖父の舟は遠く遠く、目で見えないくらい遠くに行き。そのまま見失った。
そのまま一晩過ごし、朝なって家の中を見て回ったが祖父はいなかった。一応警察、だろうか。たぶん今祖父は生きても死んでもいない。でも、二度と帰ってくることはない。
寝不足で少しふらつきながら外に出ると、地域の人が次々と近寄って来る。
「ホレ」
隣に住むおじさんが酒を渡してくる。商店のおばさんが、祖父の囲碁仲間が、米や魚、肉、いろいろなものをくれた。
「えっと……?」
「昨日、じいさん、行っちゃったんだろ?」
祖父と一番仲が良かった人の言葉に目を丸くする。
「船出だ。残った人は、食べて飲んで過ごすもんだ。ナガシがないよう、船頭の仕事が少しでも減るように楽しく面白おかしく」
その言葉に、一瞬目を見開いたが、すべて受け取って頭を下げてお礼を言った。祖父がこんなにも想われているのが嬉しかった。
船頭は、ナガシがない人に限定されるそうだ。そんな人、普通はほとんどいないだろう。好き嫌い、執着、喜怒哀楽、様々なものがある限りナガシは絶対に起きる。友達と恋人、親と子、お金と幸せ、過去と未来、たくさんの同等な大切な物を比較し捨ててたまに拾って。
それを一切しない人は悟りを開いたお坊さんくらいにしかできないのではないだろうか。
「じいちゃんって、すごい人だったんだなあ」
「まあね」
周囲の人が頷く。本当にそうだったんだ。中学の時から今日まで、祖父と過ごせた時間は短かった。だから気づかなかったけど。凄い人だったんだな。これだけの人と関わりがあってもナガシがなかったのだから。
あれから数年、俺も社会人になり働いている。あれから一度も舟は見ていなかった。高校卒業と同時に家を出て一人暮らしをしていて、実家ともなんだか疎遠になった。
父と母、夫婦の関係は良好とはいえない。どちらかと言うと無関心といった方がいいか。お互い好きな事をして好きに過ごしているし、昔から父が家に帰って来る頻度も少なかった。夫婦がお互いに無関心なら、子供にも無関心なのは当たり前だ。
そんなある日、珍しく母親から連絡があった。その声は酷く無感情で、淡々と。
「私達離婚するから。アンタ成人してるし、分籍届出して独立して」
その言葉に、ああそうなったかと思い一応返事をする。
「とっくにしてるよ」
「……。ああ、そう。あっそう! あーそうですか! なんなのよ、どいつもこいつも! ふざけないでよ!」
最後は声を荒げて通話が切られた。俺が中学くらいの時から家族間の会話なんてほぼなかったのに、何で親子のままだと思えるんだろうな。
どうせ父親が不倫してたとか、他の人と再婚するために捨てられたとか、そんな感じだろう。母親だっていろんな男にいれ込んで遊び惚けて、職を探す事さえしなかったんだからどっちもどっちって感じだ。
母親と父親両方の連絡先を削除してベッドに仰向けになる。
昔はなんとも思わなかったけど、俺はたぶん決定的に普通の人と違う。
「ない」んだ。
自分や他人を愛する感情が。比較する物も、捨てるものも、大事にするものもない。執着がない、持っているものがない。
流すものが何もない。
そこまで考えてなんとなく、今かなあと思った。
立ち上がり、アパートを出てエントランス部分に行くと。
舟が一艘近づいて来る。誰も乗っていない、風に揺られるようにゆっくりと。
ワンセットなのかと思うくらい同じだ、棒と笠が乗っている。舟に乗り、笠をかぶって棒を掴む。船をこいだことはないけど、なんとなくで動かせばなんとなく舟は進んで行く。
道路をすいーっと。今まで見てきたナガシと違って全然真っすぐ進まないけど。
人も車も電気もない、音もない街を船が渡っていく。
辺りは真っ暗だというのに、不思議と景色ははっきりと見える。暗闇の中で見えるというのもおかしな話だが、見えるものはスポットライトが当たっているかのような、自ら淡い光を発しているかのような、そんな印象だ。
ふいに、遠くからこちらに向かって舟が進んでくる。大きな笠をかぶって顔は見えないがすぐにわかった。
祖父だ。
ゆっくり進み、静かに船がすれ違う。
「バカタレ」
昔のまま、特に感情が乗っていないそんな声がポツンと聞こえた。その言葉に、俺は小さく笑った。
まだ早いだろ、という事だろう。仕方ない。でも、祖父もそれがわかっていたからあの日、あの時、俺に話をして見せてくれたのだろう。
舟を渡していく。
ふと、俺の船よりも少しだけ早く道路をプカプカ流れていくものがあった。
それは風呂に入れるアヒルのおもちゃだ。ボロボロで穴が開いていて、上手く浮くことができずくるくる回転しながら流れていく。
そっと、それを掬う(救う)。
駆け出しの俺には、これくらいが丁度いい。
アヒルを船首に乗せて、船を渡していく。
誰かの、何かを、ナガシていく。
END