存在するはずのない駅
七月の半ば。
都内に出勤していた浅田洋一はこの日もいつもと変わらない満員電車に揺られていた。
(今日も満員電車きついなぁ……)
そんな事を考えながら窓の外を見ていると大きな川が見えてきた。
下車する駅はこの川を越えた先にある。
つまりこの川が見えたという事はこの満員電車とももうすぐおさらばできるという事だ。
(駅までもうすぐだ。頑張ろう!)
電車の吊革をギュッと両手で力強く握りしめた。
そしてようやく駅に着くと人波に流されるかのように電車を降りた。
「ふぅ。やっとついた」
ため息をつき独り言のように呟くと駅の改札へと向かった。
この駅の改札はホームを上がった場所にあるので洋一はエスカレーターを歩行しながら上の階へと上がった。
駅を出ると外はたくさんの歩行者や車で賑わっている。
さすが都会だ。
洋一の勤めている会社は駅から徒歩で十分ほどの場所にある。
小さなオフィスビルの四階にある中小企業だ。
しかし七月の半ばともあり外はとても暑い。
クールビズでスーツは着てはいないがこの暑さだと汗が次から次へと出てくる。
早く涼しいオフィスで涼みたいと溢れ出てくる汗を腕で拭いながら速足で会社に向かった。
「おはようございます。はぁ生き返るぅ」
会社に着くと待っていたのはクーラーが効いた涼しい部屋だった。
今の洋一にはこの部屋がオアシスのように感じていたのである。
「おはよう。今日も暑いねぇ」
自分の席に座ると斜め前に座っている飯田和正が声をかけてきた。
飯田は洋一と同じ時期に入社した同期である。
「おはよう。本当この暑さは勘弁してほしいよ」
そんな他愛もない話しをしながらパソコンの電源を入れたりと仕事の準備をしていると――。
「それじゃ二人に涼しくなるような話しをしてあげようか」
眼鏡をかけた男性が笑いながら洋一たちに近づいてきた。
その男性とは洋一たちの先輩の岩井先輩だった。
「涼くなる話しってまさか怪談話とか言わないですよね?」
「え?」
洋一は冷めた目で先輩に質問した。
幽霊とかそういう類の話しは信じてはいなかったからだ。
そんな先輩は戸惑いを隠せず目が泳いでいた。
普通に怪談話をしようとしていたのだ。
「先輩。今は涼しいのでそういう話しは必要ないですよ」
飯田もあっさりそう言うと仕事の準備を始めた。
「そんな事言わないで少しだけで良いから聞いてくれよ。なぁ浅田ぁ……」
よほど話したかったのか岩井先輩は洋一をターゲットにした。
なんで俺が……と思いつつも洋一は――。
「わ、分かりましたよ。でももうすぐで仕事が始まるんで手短にお願いしますよ」
折れた洋一は仕方なくその怪談を聞くことにした。
そんな岩井先輩は嬉しそうに怪談話を語りだしたのである。
これではどっちが先輩なのか分かったものではない。
「浅田は確か帰りは下り線で帰ってるんだよな?」
「そうですけれど」
「途中に大きな川があるだろ?」
「ありますねぇ」
「実は終電であの川の上にある橋を渡ろうとするとな、そこにあるはずのない駅が現れる事があるんだってよ」
「駅が?」
岩井先輩が言っていた川というのはいつも洋一が通勤ラッシュの時に目印にしているあの川のことだった。
どうやらあの川に掛かっている橋の上に駅が出来るという事らしい。
しかも同じ終電に乗っているのにその駅を見た人と見ていない人が混在しているというのだ。
まぁ怪談の話しの中ではだが……。
「そうだ。そしてその駅から髪の長い女性が乗ってくるんだがその女性の問いかけに答えたり顔を合わせたら絶対にダメなんだ。何故なら問いかけに答えたり顔を合わせたりするとそのまま下の川に引きずり込まれてしまうからだ!」
「なるほど。それで話しは終わりですか?」
「終わりだ。どうだ怖かっただろう?」
「まぁ……。怖かったですね」
「そうだろう。そうだろう」
洋一がそう答えると岩井先輩は満足そうに自分の席へと戻っていった。
だが本当に怖かったわけではない。
あそこで怖くないなんて言うと別の怪談の話しが来ると思ったので、あえて怖いと答えていたのだ。
「いやぁ。浅田も大変だったなぁ」
岩井先輩の話しが終わると飯田がひょっこりと顔を覗かせた。
「まったくだよ……。それより飯田は先輩の話しをちゃんと聞いてたか?」
「ごめん全く聞いてなかった」
「ですよねぇ……」
予想はしていたが案の定飯田は岩井先輩の話しを全く聞いてはいなかった。
そしてその直後に始業のチャイムが鳴り洋一たちは業務を開始した。
今日もいつも通り順調に仕事は進んでいった。
だが何事もなく一日が終わると思っていた矢先……。
「あぁ!」
オフィス内に岩井先輩の悲鳴がこだました。
何やら事件が発生したようだ。
しかも終業時間の一時間前になって……。
「お前は何をやっているんだ!」
その後に怒涛の声を上げたのは大倉部長だった。
岩井先輩はペコペコと何度も部長に頭を下げている。
どうやら昨日から作成していた資料に不備が見つかったらしい。
「明日の朝一でお客さん先に持っていく資料なのにどうするんだ!」
「すみません!」
「はぁ……」
大倉部長は大きなため息をつくと洋一たちの方へ歩み寄ってきた。
当然洋一と飯田は嫌な予感しかしていなかった。
「浅田。飯田。悪いんだが資料の作り直し手伝ってくれないか」
二人の嫌な予感は的中した。
だが今のこの状況は断れる空気ではなかった。
本当は定時で帰りたかったが今日だけは仕方がないと考え――。
「分かりました……」
二人は渋々資料の作り直しを引き受けた。
「おい岩井! お前のミスだろ。お前も二人に頭を下げろよ!」
「す、すみません」
そこにはしょんぼりとした岩井先輩の姿があった。
朝のあの嬉々として怪談を語っていた先輩の姿はそこにはなかった。
こんな岩井先輩の姿を見てしまうと責める気も起らない。
「それじゃさっさと終わらせちゃいましょう!」
洋一はそういうとパソコンに向かって資料の作り直しを始めた。
そんな洋一の姿を見ていた飯田も資料の作り直しを始めた。
時間は刻一刻と過ぎていく。
そしてようやく洋一の担当分の作り直しが終わった。
最後に大倉部長にチェックをしてもらう。
「よし。大丈夫そうだ。今日は助かったよ。ありがとな。今日はもう上がってくれ」
「分かりました。それではお先に失礼します」
部長のチェックも通り洋一の今日の仕事がようやく終わった。
「もうすぐ終わりそうか?」
席に戻るとまだ作業中の飯田に問いかけた。
「うーん。もう少しかかるかなぁ。終電ギリギリで走る事になりそうだから先に帰っててよ」
「わかった。それじゃ先に帰るな」
「おう。お疲れ」
飯田に挨拶をしてオフィスを出ると外は生暖かい風が吹いていた。
やはりこの時期は夜でも暑い。
時間は二十四時前。
走ればギリギリ終電前の電車に間に合いそうだが、さすがにこの暑さの中を全力疾走はしたくはない。
洋一は終電でゆっくり帰る事にした。
駅のホームに着くと人はまばらでほとんどいなかった。
さすがにこの時間となればいくら都会とはいえ人の数は少ない。
ホームで終電が来るのを待っていると洋一は朝の岩井先輩の怪談話を思い出した。
特に信じているわけでもなかったが電車が来るまで暇だったのでスマホで検索をしてみることにした。
(怪談話っていろいろあるんだなぁ)
怪談話が載っているサイトを開くとそこには多数の怪談話がずらりと並んでいた。
もちろんそこにはかの有名なトイレの花子さんや動く二宮金次郎像、そして増える階段なども載っている。
どんどん下にスクロールをして進めていくと例の橋に現れる駅の怪談を見つけた。
(あった。これだな)
詳細を開くと岩井先輩から聞いた話しの内容とほぼ同じ事がそこには記載されていた。
このサイトによるとこの現象が起きるのは七月から八月にかけての夏の間だけということらしい。
今がちょうどその時期に当てはまっていた。
その詳細を全て読み終えるとちょうどホームに最終電車が到着するアナウンスが流れた。
後ろを見ても並んでるのは洋一一人だけで飯田の姿はなかった。
(あいつ終電に間に合わなかったのか……)
そう思いながらも到着した終電に乗り込んだ。
電車の中は朝のラッシュが嘘のように空いていて、数人がまばらに椅子に座っていた。
しかも皆がいびきをかいて爆睡をしている。
洋一は適当に空いている席に座ると耳にイヤホンを当て、スマホに入っているお気に入りの曲を聞き出した。
それからさっき開いていた怪談のサイトを閉じると適当にネットを見ながら出発の時間になるのを待った。
「間もなく最終電車が出発致します」
聞いていた音楽に混じって車掌のアナウンスと発車のメロディが聞こえた。
そしてドアが閉まると電車はゆっくりと動き出した。
洋一にとって終電に乗るのはこれが初めての事。
いつもであれば帰りも車内は混み合っている。
それだけにいつもと様子が違う車内に違和感を感じていた。
それから電車がしばらく走っていると突然いじっていたスマホの電源が消えたのだ。
当然聞いていた音楽も消えた。
「あれ?」
何度も電源を入れようとするが電源が入らない。
「故障かなぁ。まだ買ったばかりなのに……」
電源が入らないスマホを持ったまま溜息をつくと今度は突然車内の電気が一斉に消えたのだった。
そして電車はそのままその場に停車をした。
「な、なんだ!?」
慌てて暗い車内周りを見渡すが車内には洋一以外の人影が見当たらない。
あのいびきをかいて寝ていたおじさんたちの姿が忽然と姿を消してしまったのだ。
「そんなバカな!」
洋一は慌てて立とうとする。
だがそんな洋一の目に信じがたい光景が映し出されていたのだ。
それは窓の外に見慣れない駅があるという事だ。
しかもこの場所がちょうどあの橋の真上。
(まさかあの怪談って本当にあったのか!?)
恐怖のあまり座っていた椅子から立つことが出来ないでいた。
すると突然電車のドアが開いたのである。
しかも複数あるドアのうち一ヶ所だけ。
そしてその開いたドアから髪の長い女性が一人前髪で顔を隠しながら電車に乗ってきたのだ。
この時洋一は女性と顔を合わせたらダメだという事を思い出しイヤホンをしたまま咄嗟に顔を下に落とした。
足はガクガクと震えが止まらない。
(頼むからこっちには来るな!)
そう強く念じるが女性はそのまま洋一の前で立ち止まったのだった。
下を向いていた洋一の視線にはその女性の足が見える。
(なんでこっちに来るんだよ!)
女性は白い着物と草履を履いていた。
だが着物は酷く濡れていて着物からは水滴が垂れている。
そして座っていた洋一の膝にも一滴一滴冷たい水滴が垂れ落ちていた。
恐らく女性の髪などから垂れている水滴なのだろうが顔を合わせてはいけないので確認は出来ない。
そのまましばらく下を向いていると――。
「私と一緒に帰りましょう」
突然女性が話しかけてきたのである。
イヤホンをしているはずなのにその声ははっきりと聞こえた。
だがこの問いかけにも答えてはいけないのでひたすら無視をし続けた。
「ねぇ。私と一緒に帰りましょう」
だが女性は同じことを何度も繰り返し話しかけてくる。
洋一も目をギュッと瞑ったまま無視をし続けた。
(早くどこか行ってくれ!)
そんな事を思いながらひたすら目を開けないようにしていた。
どれだけ目を瞑っていただろうか。
しばらくすると次第に耳に付けていたイヤホンから聞き覚えのある音楽が少しずつ聞こえ始めたのである。
それから恐る恐るゆっくりと目を開けていくと車内には電気がついていた。
それに足元に見えていたあの女性の足もなくなっていた。
ゆっくりと顔を上げ辺りを見回すといびきをかいて爆睡をしているおじさんたちの姿がそこにはあった。
そして床に垂れ落ちていた水滴も、水滴でズボンに付いた濡れた跡も無くなっていたのだった。
(もしかして夢だったのか?)
夢だったのかは定かではない。
だがこういう類のものを信じていなかった洋一はきっとあれは夢だったのだと自分に言い聞かせた。
そして疲れを感じていた洋一は夕食も食べずに自分の家に帰宅するなりすぐに布団で爆睡をしたのだった。
翌朝、いつも通り目を覚ましてテレビを見ながら朝食のトーストを食べていると緊急ニュース速報が流れた。
そのニュースを見た瞬間トーストを食べていた洋一の手が止まった。
『もう一度繰り返しお知らせします。本日未明、川の中から男性の遺体が発見されました。男性は会社員の飯田和正さんだという事です』
ニュースの内容が飯田の遺体があの橋の下を流れる川の中から見つかったというものだったからだ。
そしてその死因は水死ということだった。
存在するはずのない魔の駅……。
もしかしたら本当に存在するのかもしれない。
最後まで読んで頂きありがとうございました