追憶(第一章)
遥彼方様主催「冬のあしあと」企画参加作品です。
「うーん、やっぱり一人では厳しいねぇ」
冬の寒さが厳しいアイゼル=ワード大公国。
うっすらと雪が降り積もる中、外で訓練をしている兵士たちを横目で見ながら、黒髪の長髪の男は一人きりの部屋で伸びをした。普段あまり運動してないのか、ミシミシという関節がきしむ音が響き渡る。つい数か月前まで、この部屋には三人いたから、誰かしらのしゃべり声が聞こえたものの、今は自分一人しかいない。兄弟子と彼の遠縁の少女はこの部屋から去らざるを得なくなった。
本来ならば彼も去るべきだったし、去ることになると思っていた。
しかし、あの事件の後、アイゼル=ワード大公国調香院から下されたのは減俸処分のみ。『大公付きの第一級認定調香師がいなくなるのはまずい』という理由だった。
「本当に誰かよこしてもらえませんかねぇ」
何度も調香院にそう請求してきたが、彼の願いは聞き入られることはなかった。そもそも第一級認定調香師の人数が少ないのは知っているし、大公家付きの調香師なんて貧乏くじだ。誰もやりたがらないのは彼自身、身をもって分かってる。
「僕がエルスオング大公国に行ってる間、君たちはどうするつもりなんだろうねぇ」
手元にある出張命令を眺めながらぼやく。調香師会議に出向き、『例の事件』の説明と後処理をしろという調香院からのお達しだった。
「しかし、ついでにフレグランスコンテストに出ろって、僕がもともとはハーブティー専門の調香師って知ってるよね? あいつら頭おかしいんじゃない」
その文章に書かれているのは会議への出席だけではなく、付属して行われるフレグランスコンテストへの『招待券』だった。
「僕たち『大公付き』が問題起こしたのには間違いないから、アイゼル=ワード大公国の調香師として、それの汚名をそそげっていうことなんだろうけど」
あきらめの表情の彼はふぅとため息をつく。
「ま、いいですよぉだ。どうせテレーゼ殿下だって五大公会議でエルスオング大公国に行くんだから、僕がここにいなくたって問題ありませんけどねぇ」
じゃあ、テーマ決めなきゃなぁ、と言って文章の続きを読んだ。
「ハァ。テーマが『五大公国』って――――ああ、自分の国選んでもいいんだ」
今回のフレグランスコンテストのテーマは『五大公国(自国を選んでも可)』と書かれている。彼は目を瞑って自国――アイゼル=ワード大公国を思い浮かべる。
「あーあ。ダメだな」
彼の脳裏に浮かんだのは、去って行ってしまった兄弟子と親戚の少女、そして、かつては笑わなかった女主人。景色が全く思い浮かばなかったのだ。
ふぅと深呼吸して、別の国を考える。
「エルスオング――いいや、あの国はダメだな」
出てきたのはあの女調香師。兄弟子と親戚の彼女をここから追い出した張本人。実力も確かで、こちらのしでかしたことが間違っているので、その結末自体は仕方ないことだと割りきれても、三人を離ればなれにしやがった、とどうしても思ってしまう。
「フレングス――ダメだな。カンベルタ――――無理だな」
残りの国を次々と思い浮かべるが、どれもいまいちピンとこない。
「はぁ。最後はミュードラ大公国かぁ。まぁた分かりにくいところだなぁ――――うーん、森林の国かぁ」
幼いころに一度だけ行ったことのあるその場所の風景を目を閉じて思い浮かべる。
アイゼル=ワード大公国と同じ北国なのに、ほぼ一年中枯れない木々が自生する場所もある不思議な国だ。その青々とした草の香りが子供たちの心をくすぐる。森の中を進んでいった先には色とりどりの花や果実が待っている。
思い浮かべたことを次々とメモしていく。
「うん。こんな感じかな」
次にメモした内容に沿った精油を選んでいく彼はさっきまでとは違い、楽しそうな様子だった。
香りの強さを考慮しながら、混合量を決めていく。
「はぁ。久しぶりにここまで集中したよ」
気が付けばもう夕暮れ時だった。
「それにしても時が経つのは早い。ここに来てもう十五年か」
フリードリヒ・ゼーレン=フォン=バルブスク。
兄弟子ゲオルグ・デリュータ=フォン=ファーメナの後を継いでアイゼル=ワード大公家お抱え調香師長となった調香師。
本当は調香院に所属したかった彼は、諸々で大公家お抱えとして調香院に配属後すぐに出向させられたときに自棄になってやろうかと思ったが、そうならなくて良かったと今では思っている。
「いろんなことあるけど、楽しんでますよ、先輩」
見えない『誰か』に向かっていう彼の表情はすっきりとしたものだった。そう言ったあと、戸棚から精油を出して今日やらなければならないことを始めた。