言語理解の章
野坂昭如先生リスペクトのため略称をエロことし、とするこの短編は授業中、教師に指された女の子が唐突に
「セックス」
と答える所から始まる。
「は?」
国語の授業だった。
なんか泣く系戦争アニメの小説版の授業で、当てられた委員長が言ったのだ。それこそ本気でどうでもいいが作者の気持ちが締め切りに間に合わない、みたいな問いだったと思う。
どうってことのない日常風景。つまらない授業。
涼やかに広がる委員長の声。
俺は立てた教科書のかげについうつらうつらしていたのだが、今のは何だったのかと顔をあげた。
ぱたんと倒れる教科書。
いやまさか聞き違いだろうと目をそらし、でも待てよと二度見する。
委員長は
「チン…」
とだけ言うと顔を真っ赤にして、ちらっと横目でクラスを見渡すと、唐突に喉をかきむしって苦しみだした。
うー、とかあんーとか言っているが明らかに演技だ。あ、倒れた。
沈黙する教室内。
ついに先生が
「えっと。……誰か彼女を保健室に」
と言い、気絶したていの委員長は片目を開けて歯がゆそうに、遅い! とばかりにそれを睨む。机の影になって、それはほとんど誰にも見えていなかっただろうけど。
そして級友の女子によって、そのまま連れて行かれた。
そして授業終了のチャイムが鳴りお昼休みの時間。
級友の女子から何故か俺にお呼びがかかった。
「エロ坂、委員長が呼んでるから行ってあげて」
「何でだ?」
「分かんない。でも委員長それしか言わないから」
「ふふん、保健室とか」
言いかけると級友、螢子という幼馴染みたいな奴だ。すかさず釘を刺された。
「ちょっとエロ坂、委員長にあんまり変な事言っちゃダメだからね、真面目な子なんだから」
別に言わなくても行動で示すさ、とは心の中で言うただの強がりで、降って湧いたようなシチュにこの時は妄想を膨らませているばかりだった。
「正常位おしゃぶり不能」
「えっなんて」
保健室で、二人きり。先生も今はいない。
白いシーツの看護用ベッドに腰掛けた委員長はとんでもない言葉を浴びせかけてきた。
聞き直す難聴系主人公に転職した俺に、
「真っ裸!」
と広げた手のひらを俺に向けて、
「手コキする」
期待はガチガチに膨らんでいるが、でもヘタレなので自分から服を脱ぐなんてどうしましょう。と躊躇していると、委員長の右手は俺の下半身には全く近づかない。
ペン立てにおっ立っていたボールペン。しかも白い修正液のでる奴じゃない、普通の黒いペンをぎゅっと握って上下でもなく前後左右に動かし、紙にインクを出し始めた。
つまりおもむろに、俺の前でかき始めたのだ。
可愛らしい便箋みたいなメモ帳。一体どこで見つけてくるのか女子高生というのはこういうアイテムをよく持っているものだ。
妄想よりも激しい事態に直面すると人はそれがいかに好ましい案件だろうと現実逃避をしてしまうものだ。あるいは経験値の低さによるヘタレっぷりのせいか。
何が起こっているのかを理解したのは、渡されたその手紙、女の子から貰うのなんて初めてだ。それを5回くらい読み直した頃だった。
“エロいコトバしか喋れなくなったたすけて”
かっちりした字だな。短い文章の割には時間が掛かってた。ボールペンで書いたにしちゃ太い気がする。なにこれ花の匂いとかしそうな便箋。これも文通のうちに入れていいのか、初めて高校で青春みたいなことしてるなあ。えっ。テロ?
なんだエロか。は?
「えっと、これは?」
委員長は、文字を指差して、無言で強く頷いた。
そういうことか。
委員長は今、エロい言葉しか喋れない。
どういうことだ。
ワザとやっているのでないことは、赤面した彼女のこの顔を見れば一目瞭然だ。
生理じゃなくて整理しよう。
「えっと、まずこれ、べつに陰湿なイジメ受けてるとかじゃないんだよね」
「正常位!」
どっちだよ。多分正常だから違うんだろうな。
「イチャラブSEX」
「強制されたりしていない、って意味か?」
頷く委員長。
「つまり、さっきは真っ裸じゃなくて待ったと言いたかったと」
苦々しい笑いを浮かべて委員長はまたコクコクと頷く。
「ふむふむ。なら手コキじゃなくて手書きか。なんか期待して損しちゃったな。
何故か、言いたい言葉に近いエロい言葉でしか喋れないという訳か」
委員長はひどく嫌そうな顔をした後、首を傾げて、やっぱり違うと否定した。
「雌奴隷中イキ」
「は?」
「幼女陵辱」
「あ、なるほど違うのか。
もしかしてなんだけどさ。
エロい言葉なら喋れるから、なんとか近い言葉を頑張って探して伝えようとしてる、ってそう言いたいの?」
ネガティブなセクシャルワードはおそらく否定なのだろうと解読が進む。
委員長は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに頷いた。
正解を引いたようだ。
「ああなるほど、でもこうやって文字で書けばいいんだよね」
「援助交際」
「ん?違うの?」
よく見るとメモの文字はさらにとても細かい文字で何か書かれている。要するに
エ
ロ
の部分を拡大して見ると、
セックス精子
膣
口
性交キンタマ
睾丸陰茎挿入
手 淫
自 慰
愛液カウパー
もっとよく見ようと目を近づけると力ずくでメモを奪い取り、
「セクシャルハラスメント!」
と言って彼女は真っ赤になっている。
「あ、それは言えるんだ」
せっかくの青春文通手紙が奪われてしまったぜ。
「こんな難しい漢字が書けるなんてさすが委員長。賢いなあ」
と褒めて濁しておく。平穏な学園生活を送るために無茶は禁物だ。
でも全部覚えてるってことだよな、漢字まで。
そのへんに根深い原因があるのかも。
「これじゃ一文字書くのにも時間がかかってしょうがないな。テストなんか無理じゃないか」
「排卵日」
「ええと、それはどういう事?」
「生理。生理現象」
「つまり、それは仕方ないと?」
「挿入口」
「そう言うこと、って言いたいんだね、分かるよ」
なんかコミニュケーション取れてるじゃん。
「わかった。何で俺なんか呼びつけたのかって不思議だったんだ。でも委員長はおれの本当の自頭の良さに気付いてて」
「先走り汁!」
言いかけたのを思い切り遮られた。
「アヌスドスケべオナホ尻フェチ」
「えー、分かんないよ」
アヌス、のところで俺を指差す委員長。
否定されたのが悔しくてとぼけてみせるが、どうせ『あなたがエッチな言葉をたくさん知ってるからよ』、みたいな事を言ってる事は容易に想像出来た。
委員長は、その綺麗な顔を陰らせている。
高校生にもなって俺がエロ坂なんて言わているのには辛いわけがある。べつに深くはない。
中学時代に少しだけませていた。調子に乗ってハッスルしすぎたのだ。
高校に入ってイメージを変えようにも、地元の友達が多い所に決まってしまったのでそのまま。
まあ自業自得だ。
委員長もそれを知る一人なので、呼び出された理由は言わずと知れている。
「雌奴隷調教」
「うん、つまり、なんだな。教えてくれって事か」
「挿入口」
あたった。
吹っ切れたような、でも確実じゃなくてまだどこか一線を残したいのにみたいな表情がちょっとかわいい。
たくさんエロい言葉を覚えて、何とか意思疎通ができるまでの単語力を身につけよう、という訳だ。
「男根開帳びらびら」
「うん、根本的解決にはならないけどね。対処療法に過ぎない。
でもさすがだよね野明さん、その前向きなとこずっと変わらないね。一歩ずつでも問題解決に近づいて行こうって気概、伊達に委員長なんてやってないね」
「愛液プシャー」
「ははっ、照れなくてもいいって」
それから二人で少し話した。
高校生になってからは、どこか遠く離れてしまっていた感覚だったので、とても懐かしい気持ちだった。
話しているうちにだんだんと思い出してくる数々の出来事。
マセガキだった中坊時代。青臭い思い出。卑猥な言葉を授業参観中に大声で質問した痛々しい武勇伝。
言い訳をさせてもらうと、エロとはつまり知識に貪欲な事だ。この堅物の委員長と同じレベルの高校に入れたことがその証明の代わりになりはしないか。いや内申点など加味したらむしろと自惚れそうにもなる。
私女の子でエッチな言葉なんてほとんど知らないから、みたいな事を言いやがったので
「いや、充分すごいと思うけど」
とか失言をかましてせっかく少し近づいたその距離がまた無限大になってしまうのもそんなすぐ調子にのる癖があるせいだ。
あの頃文学少女だった野明さんに特にエロ関係の本を頼んで教えてもらった事があった。
もちろん彼女は全然エロくない小説やらエッセイを貸してくれたのだが、それでも結構面白かったので最初はどこに破廉恥な部分があるのか探しながら、無いと結局分かってもつい読み進めてしまったりもしたものだ。
そんな中で、小説家井上ひさしが日本語では言葉がどこまで誤差補正されるのかという実験をして、喫茶店で例えばアイスモーヒーと言ってもコーヒーが届けられるという類の話があった。
似たようなものをお笑いのユーチューブで見た事もある。
つまり、日常語と限りなく近いエロワードを見つける事で、ほぼ不便なく生活することが可能になるという理屈だ。
そう、俺たちの共通認識としてそれがあったのだ。
「まっ、任しておいてよ」
そうは言っても俺も高校生、頑張ってエネマグラくらいまでしか知らない。
委員長も実はこれで生半可な知識じゃない模様。
「少し考えたんだけど、それって直球じゃないとダメなのかな?」
つづく