ポーター
どすんと大きな音をたてスーツケースはトランクのなかに収まった。彼女は、ふうとひと息ついてからトランクのふたを閉めそのまま車にもたれかかった。秋の気配を孕んだ風がふたりの間を通り抜ける。彼はトランクに横たわるスーツケースのことを考えていた。あれは一昨年の夏休みにハワイに行ったときに買ったものだった。ホテルのポーターがドアにぶつけてつけた小さな傷を、彼女はずっと気にしていた。
「ほんとうに車をもらっちゃっていいの?」彼女が訊いた。訊ねるというより念を押すという響きがそこにあった。
「ああ、いいよ。あんまり乗ってなかったし。それに、なんだったらソファーも持っていけばいいのに。お気に入りだったろう、あれ」
「いいの。荷物はあれだけで」彼女はトランクを、その中を見た。「家具を連れていってしまったら、これまでの生活が延長されてしまうような気がするから」
「ふうん、そういうものなのかな」
「そういうものなの」
「延長、か」
彼はフロントガラスを上から下へと指先で触れ、ワイパーに触れるとそれをなぞっていった。じゃりっとした感触があった。指をみると茶色い粉がついていた。
「錆びちゃってる」
「ここは海が近いからね」
「近いかな。けっこうあると思ったけど」
「暑い夏の日なんかに南から風が吹くと潮の香りもするのよ」
「気がつかなかったな」
「そして車に浮いた錆びを見てそれに気がつく、ってことね。それじゃ、そろそろ行くわね」
「ああ、元気でね」
「あなたも」
自動車はまっすぐな道を走っていった。そのうしろ姿は小さくなり、やがて見えなくなった。