谷底にて
しぐれちゃん
どこからかせせらぎが聞こえる。
鼻孔には土の湿った臭いが香る。
頬に感じる地面の冷たさに身震いをした。
その頬に食い込む何かが少女の意識を呼び起こす。
うっすらと開けた目にはきりたった崖に挟まれた小川が霧に包まれているのが見える。
うつ伏せの上体を起こすために体に力をいれると、岸辺に敷き詰められた砂利が剥き出しの膝や掌に食い込んだ。
少女はその不自然さに眉を潜めた。
冬であったために結構な厚着をしていたのに、今の少女の服装は空色のカーディガンに白のインナー、黒のホットパンツだ。
腰に妙な重みを感じる。
ベルトに装着されたものに目を見張った。
「時雨の剣……!」
それは、少女が失った半身であった。
***
少女は女子高生である前に、大地主の娘であった。
時代の流れに逆らった政略結婚の結果、彼女の両親は仮面夫婦であった。
彼女の親はそれぞれ駆け落ちのため不在。
幼い彼女の傍にあったのは両親の愛でなく、家宝の、美しい一対の短剣だった。
その依存度は計り知れない。
半身として優秀な短剣達は幾度となく彼女の危機を凌いできた。
であるからこそ、彼女は法を触れるだけで済まず、切り刻みにいったのだが。
ともかく、少女はぐっとその柄を掴み、その手の馴染み方を確認してなんとか自信を奮い立たせあゆっ乱した。
***
未だに現状を把握できていない少女は、一先ず情報を洗い直すことにした。
少女の名は縹時雨。
先祖代々錆びたことのない、この時雨の剣を受け継いできた由緒のある一族の末裔。
近くの公立校に通う女子高生である。
彼女の交遊関係は広く浅い。
物言いがたまに辛辣である。
髪は肩ほどの長さで、右側の髪を少しだけ結っている藍色の髪飾りが印象的である。
目を覚ませばご覧の通りどことも知れぬ谷底にいたのだ。
時雨の剣を手にした彼女はすこし貫禄も出ていわば鬼に戦車のいでたちでもあるのだが、未だ現状の突破口は見当たらない。
いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。
だが、こんなときだろうと
ぐぅぅー……
と腹は鳴る。
例え周りに誰もいなかろうと、乙女的には恥ずかしいもので。
彼女は顔を真っ赤にして肩をすくめ、周囲をきょろきょろと見渡してお腹に手を当てたままため息をついた。
***
小川沿いに歩くこと三十分。
狭い谷底を吹き抜けるこの風に対し、あまりにも軽装備すぎる彼女は両手で身を庇うように腕をさすっていた。
だがどれだけ生足を晒そうとも耐え抜いている、執念だろう。
ここまでの彼女を見るとただの女子高生である。
終いには誰もいないと決め込んで鼻唄混じりに歩き出す。
歩くだけの作業が面倒になり、途中から雑草を引き抜き始めた。
その姿たるや、ただの畑仕事中の田舎のお爺ちゃんのよう。
はてさてそんな呑気な彼女の耳に、どこからか谷底を震わす動物の咆哮が響いた。
緩んだ彼女の眉間がぐっ、と寄せられる。
自然と両の手は柄に添えられ、抜き身の状態で彼女は歩き出す。
彼女はプロである。
不自然なくらい、上手に歩ける。
刹那。
名も知れぬ谷底に、名も知れぬ獣――――もはやクマとトラの怪獣である――――が岸辺の小石を粉砕しつつその足を重く地につけた。
飛び降りてきたその怪獣はギラリと彼の少女をねめまわす様に見た。
一介の女子高生ならばこんな怪獣に見られるまでもなく失神する。
というより、並のものならば谷底で目が覚めた時点でパニックに陥るのが道理に合う。
だが、もとより彼女は普通ではない。
何といえども、彼女は縹時雨なのだから。
***
彼女の剣技は独特である。
大体まず唇を狙うのだ。
ここだけを切り取って聞くとキス魔のようだが、彼女はシンプルに柔らかい部分へと切っ先を突き立てるのだ。
浮き名を流すプレイボーイなんかよりずっと残酷である。
このクマトラ怪獣に対しても同様に、まず鼻の下に深く突き刺した剣を垂直に振り下ろす。
ついで一息つく間もなく、その軌道が抉るように弧を描く。
そしてつと彼女は感じた。
いつもより威力が高い、と。
なぜならクマトラ怪獣の頭がストン、と転げ落ちたからである。
さすがの彼女も驚いた。
首を切り落とす想定までしていなかったのだ。
数秒考えた後、あろうことか彼女はその胴を垂直一閃切り払った。
クマトラの残骸が倒れ去った向こう側。
そこには、片手剣を右手に握る一人の少年が、彼女と同じく切り払った体勢でこちらを見ていた。
そして運命の二人の声は重なる。
「「だれ?!」」
しぐれちゃんの時雨の名前は時雨の剣が由来です。
ちなみに縹は濃いめの蒼っぽい藍色。
花の田なのに藍色。