彼方編 新月の滝にて
時雨ちゃんは羽のように軽い
「祠から離れて!」
少女は慣れた手つきで鞘から時雨の剣を抜いた。
『ワラワノ、モノゾ……アノムスメノ子孫ナンゾニ、トラレテナルモノカ!!』
祠を突き破るように、石製の像が巨大化していく。
そうして、みるまに平安時代の成人女性の姿に変化した。
醜悪に口元は歪み、のっぺりとした顔には悪辣な表情が浮かんでいる。
少女は間合いを保ちつつ少年を茂みへと隠す。
『ノロッテヤル……ワラワノジャマハサセヌ……!』
「彼は渡さない!例えあなたが月の姫であろうとも!」
光夜姫はその灰色の両腕を少女の剣に対するように長剣の姿に変えた。
禍々しく小さな刃が無数についたその二振りの剣に少女はいかばかりか怯んだように汗を流す。
なんせおよそ9歳の少女が受ける殺気ではない。
女の子ゆえに泣き出しても逃げ出してもおかしくないのだ。
だがこの少女は、さっき偶然出会った少年を庇うために必死で構えているのだ。
少年はそんな彼女の姿に、雷を打たれたように感動した。
そして、ほれたはったと心の中で騒いでいた自分を恥じた。
少年は誓った。
この少女を何としても守れるよう、強くならねばならないと思った。
だが、今は少女に守られねばいけない現状がどうしようもなく歯がゆかった。
『ユルサナイ……ユルサナイ……!』
光夜姫は曲がらないはずのその足で石くずを散らしながら音速で間合いを詰めてきた。
少女は反射神経を以てギリギリのとこで光夜姫の一双の剣を捉えた。
「う、ぐ……!」
息を詰まらせた少女の声が漏れる。
自分達よりも1.5倍も大きな同性に、少女はとうとうおしきられてしまう。
「が、は……!!」
少女の身が棒切れを投げ捨てるように無造作に砂利の上に打ち付けられた、
小さく蹲る少女に追い討ちをかけるように石像はその腕を振り上げた、
「待って!!待って光夜姫!!」
少年は堪らず少女と石像の間合いに立ちふさがっだ、
『ナンジャ……ソナタ、ワラワノモノトナルノカ。』
「それで、彼女を救えるなら。」
「ダメ……!かえれ、なくなる……から!」
「君を見捨ててまで帰れない!」
「だって…あなたなのは、家族がいるのに…!」
全身が痛みで動けないはずの彼女は力を振り絞って少年のシャツの裾を掴む。
くしゃりと歪んだ少女の瞳には、一粒の涙が浮かんでいた。
少年もまた、顔を悲痛に歪めて少女を見下ろす。
自分の非力さを言い訳に少女を傷つけたことが、心臓を抉られるような痛みだった。
少年はきっ、と石像を睨み返すと徐に口を開いた。
『オヌシ、ワラワノ世界へコイ。』
「それは、月?!」
『泡沫ノ、ワラワノ世界。オマエノ記憶ヲ封ジテツレテユクゾ。』
「それで彼女を救えるというのなら、どうなっても構わない!!」
「ダメ!待ってお願い!」
『コムスメヲ生カスノハ癪ダガ……ヨカロウ。』
少女は体に鞭をうち剣の柄を握り驚愕した、
時雨の剣の刀身が、真っ二つに折れていたのだ。
「うそ……ウソ!!」
少女の心はどうしようもなくかき乱れた。
心の縁たる時雨の剣が壊れたのは、彼女が壊れることと相違なかった。
『サア、ワラワノ手ヲトレ。』
「ま、待って、このままじゃ彼女は、」
『クルノジャ!』
「最後に彼女の名を!」
『ソンナモノワラワガ教エル!コムスメノ名ハ時雨ジャ。ドウセソノ記憶モ失ストイウノニ。』
少年は石像に突き飛ばされて祠の残骸に押し込められた。
少年のいた痕跡は、何一つとして残っていなかった。
***
「あ…あぁ…」
少女は壊れたラジオのように声を漏らしていた。
焦点も合わない目で涙を流し、心は既に死んでいたといっても過言でない。
『ククク…ヨイ気味ジャ。コムスメがコトキレタヨウニイキテイルノハ。』
少女は少年が消えた現象にも気づくこともできず、時雨の剣であったものをかき抱いてへたりこんでいた。
『恨メ恨メ、ワラワノ邪魔ヲシタ報イトシテアノオノコヲ探シテサマヨイナガライキテユケ』
石像は少女を足元に見下ろしてほくそえんだ。
『コムスメヨ、記憶ニモナイ彼ノオノコヲ探スコトハサゾ辛カロウ、ククク』
少女は何も言わない。
『ソノ面、飽キタ。ソノ剣ヲ少シナオシテヤロウカ。』
そうして石像は時雨の剣をとりあげ、オモチャをとられた赤子のようにすがる少女を蹴飛ばして一対の短剣を造り放り投げた。
『去レコムスメ。』
そういって石像は、祠の中に収まったのだった。
少女は何事もなかったかのように歩きだした。
その手に収まった一対の短剣が、長剣だったこともまっさらに忘れて。
一緒にいた少年のことも、忘れて。
彼方編は一旦終わりです。
またのご来店お待ちしております。