私と絶望
「すさまじいな、これは」
モニターには彼の姿が映し出されている。彼の姿、と言ってもついさっきまでの彼とは似ても似つかない、それどころか人間とも言えない姿に変わり果てている。この目で見ても信じられない。あの吐き気を催すような変貌の一部始終が頭にこびりついて離れない。
まさに異形。変身、それはその身をデブリを上回る異形に変えて戦うこと。「Blood」にしか成し得ない。
あの男の言葉を借りるのであれば、悪魔との契約。魔物としての力。
未曾有の魔道具、それが「Blood」。
前評判通りの変身を遂げた彼が、見た目通りに、鬼神の如く、デブリをちぎっては投げ、ちぎっては投げしている。
いつもも大概無茶苦茶にデブリを殺しまくっているが、変身した彼はそれまでと別物の戦闘力を発揮している。今まで見た何ともかけ離れた戦いぶり。彼だと分かっていても、なんだか背筋が寒くなって、目を背けたくなってしまう。
いや、彼は本当に彼なのだろうか。
変身。つまり彼は変わってしまった訳だ。今、彼は本当に私の知る彼なんだろうか。彼はまだ彼のままでいるのだろうか。あの姿、あの異形。あいつが彼を内側から食い破って出てきたのだとしたら。やだやだ嫌だ。彼の存在も、精神もあの異形にほうむり去られていたら。やめろ嫌だむりだ。現に、あの肉体に彼の面影はない。
彼はもういない。あれに喰われてなくなった。
「んっ…ぐぉ…おえっ」
あまり妙なことを考えるもんじゃ無いな。堪らず込み上げてきた酸を痰壷に吐く。苦くて、歯がきしきしする。慣れ親しんだ感触が、私の意識を少し、落ち着ける。彼は文字通り変身した。内側から別の存在が出てきたって、私は彼を何だと思ってるんだ。誇大妄想だ。
気持ちは落ち着いたはずだが、動悸がなかなか治まらない。そういえば今朝ここに彼が痰を吐いていたな。思わず鼻を痰壷に近づける。私の吐いたもののひどい臭いがするだけだ。彼を感じ取ることは叶わない。
一瞬、吐いたものごと、彼のものを飲み込んでしまおうかと考える。けれど、もう落ち着いていることに気が付いたので、やめにした。もうしない、そんなことは。いつまでも、弱い私でいる訳にはいかないのだ。
しかし、随分昔ではあるが、薄らとした期待を持って私はここに痰壷を置いた。私の秘め事。汚ならしくて、弱い私。
「…捨てなくちゃ」
中のものを捨てて、手に残った薄汚れたものはいつも私にぴたりと重なる。
どうせ私はどこかにこれを置き直すに決まってる。私は何も変わってない。変身しなきゃいけないのは私の方なのに。私は私を、醜いままの私を、当の昔に受け入れている。
何故か笑みが零れるてくる。彼ならきっと、べつにそのままで良いと言うんだろう。彼を言い訳にして、私は彼のほうへ堕ちてゆく。
そう、彼のことを考えよう。
手元にはあの「blood」の管理コンソールがある。彼のバイタルや「blood」システム自体の状況が把握できる。
でも仕様書を見ても、コンソールを見ても、実機を解析しても、さっぱりわからない事が多い。あの男も随分得体の知れないものを送り付けてきたものだ。
あの男は何故彼が間違いなく変身できる、と言えたのだろうか。私が最後まで続けることができなかった、過酷でおぞましい、あの変身を。あの男はあれに耐えたのだろうか。
しばらく経って、彼が一通り雑魚デブリの血を浴び終わると、コンソールはブラックボックスの薄皮を私の前に剥がし落とした。彼が「Blood」に馴染んだために、コンソールの閲覧権限のレベルが上昇して、未開放だった情報が開示された。
ここで私は改めて、この道具に心底恐怖を覚えた。これは一人の人間に可能な範疇を大きく逸脱している。余りに大それた力だ。一体これは何なのだろう。
しかし全く説明不足だ。こんなの急場で教えられても、実現できるかどうか。
ピロリン
コンソールのアナウンスと同じタイミングで、手元の別のインターネット端末に通知が来ていたこと気づく。
『掃除屋速報‼︎:大型接近⁉︎注意されたし(撤退推奨)』
ページを進めた先には、「Blood」の真の機能にも劣らない衝撃的な情報が記載されていた。
慌てて無線を起動させる。早く彼を逃がさなければ。
一年に一度、世界のどこかで見つかるかどうか。現れるのは、途方もないまさに弩級のデブリ達。
そこで手を止めてしまった。
デブリを引き裂く彼の姿。ああ、なんて幸せそうなんだろうか。なんなら今まで見たこともないくらいに。活き活きと輝いて。きっととびきりの笑顔のはずだ。私はなんだかいっぱいになって、訳が分からなくなって涙が出た。彼の喜び、歓び、悦び。
私は彼が何を望むか、分かっている。私は彼の悦びを分かっている。
私の望みはただ一つ。彼の飢えを、ほんの少しでも慰めること。
ブラックボックスのひとかけらと、掃除屋速報の情報が符合する。彼はこの時を待っていた。私が恐れていることを、彼は愉しんでしまう。想像しただけで、私はこんなにも怯え果ててしまうのに。
震えて止まらない手で、端末を操作する。渇いてしょうがない口で、これからの彼への指示をなぞる。
ああ、神様。どうか私に、彼を殺させないで。