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彼と私の想いちがい   作者: キャプ戸 理間
その一 悪魔達の絶望
1/14

  隣の可愛らしくて、ちょっと間の抜けた寝顔を見つめて、ぽつりと思った。俺は幸せな男だと。

 充実した人生を送る男だと。不満足など思いもよらないような男だと。やりたいことをして、食って、寝て、遊んで、まあまあ楽しく稼いで。こうして、寒い夜にも一人の寂しさとは無縁でいる。

  幸せな、満ち足りた男。それが俺、俺の人生。これ以上なんて何も考えつかない。100点満点、羨ましがられることはあっても羨む物のない、文句無しの生活。



  いや。満ち足りた、は嘘だ。無欠でもない。これ以上ないくらい幸せ、そのはずなのに。

  そう、考えつかない。分からない。俺に何が足りないか。一体何が欠けているのか。幸福なはずの笑顔の俺は、どうしてか何かに飢えてしまう。楽しい時、嬉しい時、思わず笑ってしまったあの日や、あの時も。俺の一番奥の芯の所からいつも決まって眠たい声が聞こえてくる。「それは虚構だよ」と。「わからないフリをしたってダメだ。この俺は、お前自身はダマされないんだ、決してごまかせはしないんだ」


  その声は俺を、肉の味を知らないライオンだと例えた。自分の正体に鈍感な、間の抜けた草食ライオン。

  ともすればその獣は、肉を食事としてみることも思いつかないのかも知れない。いつも食べてる草花とは、あまりにかけ離れ過ぎていて。ずっと美味しく草を食んで、これこそが食い物と思い込んで。食ったことの無い肉の味など想像もできないままに。腹一杯に食べて、幸せに幸せに。

  しかしその獣は、いつの日にかきっと猛烈に飢えてしまうのだ。肉でないものを食うたびに、痛みすら伴う激烈な空腹に襲われる。牛や馬のマネをしていたって、ライオンはライオンだ。その自我より、理性より、記憶よりも深く濃厚な、ライオンの自我、ライオンの理性、ライオンの記憶が鮮やかに欲望を支配することだろう。


  きっと食ってしまうのだ。歯を研ぎ舌を濡らして肉にかぶりつくに決まっているのだ。どれだけ長い間肉以外で生きて来ていようが、そういう生物なのだから。しようがない。肉食であることから逃げられない。そうして真に満たされた空腹は、引き換えに極上の至福をもたらす。二度と再び、草食の暮らしに戻れはしない。


  俺はライオンではない。が、この無知な草食ライオンのような見当違いな生き方をしているらしい。そして一層愚かなことに、まだ俺には俺にとっての「肉」が何なのか分かっていない。俺の取るべき生き方は今のこの生活とはかけ離れたものらしい。


  しかし、なぜそのライオンは草食だったのか。心理的に受け付けなかったのか、肉を食わない誓いでも立てたか。きっとおそらく何か訳があるはずなのだ。そして、俺が思うにこいつは、マヌケにもうっかり忘れてしまったのだ。なんでもないのどかなある日に、どこかに頭をぶつけて、自分が何かすらも、すっかり忘れてしまったのだ。



 俺のように。



  俺は忘れてしまった。いつの日に何が抜け落ちて、俺は一体何を欲しがっているのか。ごっそりと。綺麗さっぱりに。


  こうして、俺の頭の中には未練がましい内側からの視線が時たまにチラつく。1日1日を重ねるたびに、為すすべもなく飢えが募っていく。俺にとって求めるべき「肉」とは何なのか、何によって満たされているのか。探そうとして、思い出そうとして。

 その度に脳ミソの奥のほうに冷たいものがつらりと垂れ落ちてくる。


  俺は不足に悩まされる。堪らなくなって、涙が出るくらい不安で、喉が乾く。潤うはずの口内は今にもひび割れそうで。手足にはどうしても力が篭らず、立てなくなってしまう。どうしようもなく虚ろな俺の内側は外のものまでを巻き込み、深く、暗く落ち込んでゆく。


  しかしそれでもふとした時に、俺の心は揺れている。そう、この飢えの痛みがほんの少し快方へ向いたように感じることがある。この世界には、どうやらちゃんと俺の求めるべきものが存在しているらしい。無いわけではない。そして、遠くにあるわけでも無い。それでも俺はその正体を掴みあぐねているのだ。存在しているその事実を認めることは心を落ち着かせるどころか、かえって俺を苛立たせる。決して希望にはなり得ない。


 ああ。何故にこうも切ないのか。


  明日死んでしまったらな、とふと思ってしまう。

 あるいは明日が来ないとか、それでもいい。そっちの方がいいか。目が覚めたら、目に見える全てが空っぽになる夢。俺を悦ばせるものも俺を焦らすものも無い。見渡す限りの虚無。俺は少し安心してしまう。当然飢えも幸せも無い。のっぺりとした破滅の想像。心地の良いぬるま湯の妄想。


  じとり、と堕落の予感が体を埋め尽くす。やっと俺は瞳を閉ざし世界から逃れることができる。


  こんな風に愚にもつかない想像をするのは、いつものことだ。いつもどおり。次の瞬間には隣の良い匂いの金髪を撫でて、眠るだろう。


 きっとあの、底意地の悪い心の声も、マヌケなライオンも、何も無い妄想の風景も、何も追いかけてこれないほど深く眠れるはずだ。そしていつもどおりに起きる頃には忘れているに違いない。忘れていなければならない。ごっそり体から大切なものを滑り落として、深く、深く眠るのだ。忘れる為に。そしてまた思い出す為に。


  明日はもう、すぐそこまで来ていた。

  無くしたものがどこかから意地悪く見つめる、そんないつも通りの1日が。

「おはよう」

 可愛らしい声に、俺の意識は引き上げられる。

「ああ。おはよ」


  願わくば、今日のこの日が満たされぬ飢えに別れを告げる、「その日」であってくれることを。

第1話、最後まで読んでくださってありがとうございます。

引き続きお楽しみ下さい。

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