エルフの逆襲
二か月――
それは、新入学生がクラスで親友を見つけるのにも、十分な年月。
同居人に対し、いまだにわたしは、自分が魔物と言えないでいた。
いつかは、話さなくてはいけないだろう。でも言えなかった。
ヒトを喰らうことじたいは、悪いことだと思ってない。だってこれがわたしだもの。そうでないと生きていられないのだもの。シエルが鹿を喰うのと同じだ。自己嫌悪などなにもない。
しかしわたしはもうヒトを食べなくなった。その代わりに亜人種であるエルフを襲っている。女子供を食いたくないという思いは、ヒトを食わぬという思いの前に簡単に霧散した。そんな張りぼてのフェミニズムよりも、シエルの同族のほうが優先だ。
……どのみち、意味のない虚構である。ヒトを食おうがエルフを食おうが、魔物は魔物。そしてシエルはそれを見ることができないのに。
……嫌なやつだな、わたし。彼が盲目であることに依存している。彼の身体障害を憐れみながら、喜んでいるんだ。
ああ、この気持ちをなんというんだろう。
この感情に付ける名前がわからない。
シエルの存在は、わたしの中でとてつもなく大きくなっていた。
彼との日々が楽しくて、とても幸福だけども、穏やかとはいいがたい。
シエルを失う恐怖は日に日に大きくなるばかりだ。
わたしは己の脚を撫でた。
ひんやり冷たく、ほどほどに柔らかく、なめらかな鱗。しっとりとしていて、不思議と女の肌に似ている気もする。
わたしはこの身体を気に入ってる。シエルにも、受け入れてもらえたら……
……なんて……無理なことを考えてしまうのが、なによりも苦しかった。
いつでも薄暗い洞窟が、さらに暗く、徐々に気温を下げていく。
平凡な一日が今日も暮れた。
「今日はなんだか、いっぱい食べたね。ぼくまだおなかがいっぱいだよ」
満面の笑みでそういって、シエルは寝床の用意をしていた。働き者の彼はいつもそうして家事をする。
小さな身体で精一杯、役に立とうとする少年の背中に、わたしは言った。
「シエル、好きよ」
彼は驚いて振り向いた。
「えっ、なに? なんだって?」
「好きよシエル」
「ど、どうしたの。……どうしたの?」
どうもしないわと首を振り、それでも同じ言葉を繰り返す。
もしかしたら近い将来、彼は私を嫌悪し、恐怖して、逃げ出すかもしれない。そのときにこんなことを言ったって届きはしないだろう。
だから今のうちに伝えておきたい。
「大好き、シエル」
「……ぼくも、ラミアが好きだよ」
気恥ずかしそうに、ぶっきらぼうな少年の返事。わたしはシエルに飛びついた。
さっきまであった悲しみが嘘のよう、嬉しくてじっとしていられない。
そうか! そうかそうか。シエルもわたしのことが好きか!
きっとそう思ってくれてるだろうとは期待していた。だけど言葉でくれるのは格別だ。シエルがわたしを好きだと言った! わたしきっと一生忘れないぞ。この思い出を一生大事にしちゃうぞ。
抱きしめて頬ずりするわたしに、シエルはじたばた、逃れようと苦心していた。意外と力があるシエルだけど、まだまだラミアの力には敵わない。もうしばらくは放してなるものかと、さらに強く抱きしめる。
ムウムウ唸りながらタップをされて、やっと緩めた腕の中、シエルは首を傾げていた。
……どうした?
「ラミア、なんか熱があるんじゃない?」
「えっ?」
と、聞き返した瞬間。わたしの視界が暗転した。
体調不良の原因は、すぐにわかった。
昨夜のエルフ。この十日間で、彼女しか食べていないのだから間違いない。……あの人身御供が罠だったのだ。
おそらくは猛毒。わたしのもつ強力な胃酸と頑丈な内臓は、衣服も鉄も溶かして分解し、要らぬものはすんなり排泄できる。少女はそれをも打ち破る劇薬を持たされていた。頑丈な瓶に入れ、自分自身が飲み込んでいたらしい。あえて効く時間を遅らせて、遠く離れた先で死んでいくようにだ。
うかつだった。エルフの村を襲ったのは昨日で五度目、対策を練られてしまったのだ。
ヒトではないもの、美味しい餌としか思いもせず、森の守り人の知恵を甘く見ていた。
「ううっ――う――ウグァアアッ――!」
腹を抱え、胸をかきむしり、髪を振り乱して暴れるわたしを、シエルは必死で抑え込んでいた。そうして看病に苦心する。かつてわたしが彼にしたことだが、難易度は全然違う。彼はわたしより小さく非力だし、まさに暗中模索なのだ。
「ラミア、ラミア……おなかが痛いの? 吐いてしまった方がいいよ。毒矯み草を煎じたから、飲んで、それで全部出して」
「アア……熱い。水を。川に潜りたい……!」
「だめだよ、熱が出るのは、ラミアの身体が毒と戦っているんだ。大丈夫、頭だけ冷やして、苦しいだろうけど熱を冷まそうとはしないで頑張って。頑張ってラミア。がんばって……!!」
「熱い――!」
のたうちまわり、暴れる手がシエルを打った。岩壁までふっとび、痛みにあえぐシエル。しかしすぐに彼は戻ってくる。離れていてくれと何度も言った。それでもシエルはわたしの手を握り、打たれながら、わたしの背中をさすってくれた。
……このあたりのことは、あとから聞いた話で、ほとんど覚えていない。
シエル曰く、わたしはこのとき熱に浮かされ、いろんなことを口走ったらしい。
「びょう、いん……救急車をよんで……」
「ラミア? キュウキュウ、なに?」
「保険証はさいふに。……磯貝優哉、二十一歳、です。アレルギーはありません……あつい……あつい」
「何を言ってるのラミア」
「おれが、死んでしまう」
わたしはなんども失神を繰り返し、うなされながら眠りに落ちていった。
エルフ族の猛毒は、蛇妖女を仕留めるには至らなかった。
朝には熱は自然と下がり、意識もはっきりと、正気を取り戻していた。
そのときのシエルの顔ってば、おかしいの。わたし自身よりよほど消耗し、よほどホッとした顔で、笑いながら泣き出したのだ。
「よかったっ……ラミア、もう死んじゃうかと。よかったっ……!」
一晩の熱くらいで大げさな……と思うかもしれないが、ここは異世界。ろくな医者も薬もないのだ。寝てれば治る病だったとしても、その診断が出来ない。さぞ心細かったことだろう。わたしたちは抱き合って泣き、生き延びたことを喜んだ。
しかしここからが地獄の始まりだったのだ。