見えないところで
夜――
わたしはひとり、森を進んでいた。蛇の脚はヒトのものよりよほど巨体だけど、うねって変形できるため、移動に不便はない。
そうして洞窟から遠く離れ、森の奥深く、ヒトの気配もないところへ。
途中、いかにも甘そうな果実を見つけた。五つほどもいで、リュックに詰め込んでいく。冒険者の躯から奪ったリュックは頑丈で、とても便利だった。シエルへのいい土産ができた。
その荷物を背負ったまま、さらに奥へと、森を進む。
ふいに、獣道が途切れていた。その先は木々の壁だ。身体を滑り込ませる隙間すらない。森の壁、行き止まり――そこに、わたしは手をかざす。
「んーっ……よいしょっ!」
呪文などはわからない。ただ身体のなかにくすぶる、熱いエネルギーを手のひらへ集中させるイメージ。爪の先がチリチリ痛む。赤黒い光――そのようなものが、森の壁を焼いた。
パキン! ――と、弾ける。
まやかしの壁が消え去った先に、ひらけた土地があった。ぽつりぽつりとまばらに、粗末な木造の家がある。蛇の身体をうねらせて、わたしはそこへ侵入していく。
ヒュッと音を立て、わたしのすぐ目の前に矢が過ぎた。
「また来たかっ、この、化け物っ……!」
怒号を見上げると、巨木の枝の上、弓矢を構える細身の少女。どうやら見張り役をしていたらしい。
しかし村の守人にしては、矢の腕が未熟だ。今もガタガタ震えているし、今すぐ逃げ出したい本心が手に取るようにわかる。
……可哀想に、この子は人身御供だな。きっとまだ幼い――せいぜい七十歳かそこらだろう。見かけはヒトの十五、六といったあたりで、エルフの年齢はよくわからないが、百は越えていないに違いない。
――やった。いちばん美味しい年頃だ。
わたしは上半身をのけぞらせ、蛇の身体をうねらせて、木の幹を横薙ぎに打ち付けた。巨木が大きく揺れ、幼いエルフは悲鳴を上げて墜落する。ヒィッとか細い悲鳴、恐怖に引きつる美しい顔に、わたしは真正面からかぶりつく。頑丈なアゴでエルフの頭蓋骨をかみ砕き、服も弓矢もなにもかも、ごくりと丸呑み。これで消化不良を起こしたことは一度も無い。
「ああーっ、お姉様……!! ああああああ」
どうやら反対側の木にも見張りがいたらしい。泣き叫ぶ声に振り返りもせず、わたしはさっさと、エルフの村をあとにした。まだ満腹ではないが、欲張ってはいけない。
エルフは長生きするが、そのぶんだけ出生率は低い。資源は大切にしなくては。
来た道を戻りながら、わたしは腹をさすった。
「これでまた、十日はもつ……」
洞窟に戻ったのはもう明け方だった。岩肌をくりぬいた大穴から、シエルがフラフラ、あゆみ出てくる。どうやら寝ぼけ眼で、わたしを探しているらしい。わたしは声を上げた。
「シエル、ただいま! 早起きね」
「ラミア……おはよう。狩りに行ってたの?」
わたしは頷き、リュックの中へと彼の手を導く。そこには熟れた果実とさまざまな野草、よく太った兎が入っている。
手触りでそれを察し、シエルは歓声を上げた。
「昨日採った葉でくるんで蒸し焼きにしよう。今日はごちそうだ」
「よろしくねコックさん」
「うん任せて!」
明るくうなずき、シエルはさっそく、兎の皮を剥ぎにかかった。
調味料と材料だけ渡してやれば、シエルはわたしよりずっと上手に料理を作る。
そうして出来上がったものを、シエルはほんとうに美味しそうに頬張る。わたしは手に取り、口に含み、咀嚼をして――そっと吐き出して捨てていた。
「美味しいね、ラミア」
「そうね。とても美味しい……。シエルは、本当に料理が上手だわ」
わたしが言うと、盲目の少年は嬉しそうに笑っていた。
シエルと生活を始めて、二か月が経つ。
意外と役に立つこの少年は、さらに意外なことに――とても明るく、おしゃべりだった。
驚くほど物知りでもあった。たった一人、森の洞窟に暮らすわたしよりも、彼はずっとずっと知識がある。
「聞いたままを繰り返しているだけだよ。村にはちいさな教会があって、そこで週に一度、神父さんが訓話と、本の朗読をしてくれるんだ」
そう前置きをして語られたのは、この世界で愛されている英雄譚である。歴史ロマンス、ラブストーリー、ちょっと不思議でスリルのある物語だ。
文字を読めないシエルは、そのぶんだけ、耳で聞いた話をよく覚えるのだという。
「――そのとき、青空に黒々とした雲がたちこめ、そこからピカッ、ピカッと鋭い光が降ってきた。魔王からの攻撃であった。――我のものにならぬなら、この村ごと滅ぼしてくれる! 怯えて震える村人、しかしただひとり、剣を抜いて向き合う若者がいた」
うんうんそれで? と前のめりになり、促すわたし。
食事のあとや眠る前、彼はこうして、わたしによく話を聞かせてくれた。
……ん? なんだか年齢差が逆転しているみたい?
い、いやいや、そんなことはない。
べつにわたしは……ただ読み聞かせてもらって喜んでるわけじゃないんだ。そりゃそうだよ、赤ちゃんじゃあるまいし。
前世、日本人だったときにはそんな、物語に興味も無かったしな。
しかしラミアに転生してからと言うもの、ただ食って寝ているばかりで……退屈でしかたなく、わたしはエンタメに飢えていた。
それに、シエルはとても、朗読が上手だったんだ。
「若者は、そこにいる誰よりも若かったが、誰よりも勇ましかった。たなびく赤い髪は焔のようで、村人はみな目を奪われた。簡素な鎧に刻まれた、羽ばたく鷲のレリーフ。それは、いにしえの勇者が従えていたという、神鳥ヒューレにそっくりだった」
……シエルは、聞いた物語を暗唱しているだけ。
しかし彼の口から、物の色形、材質、動きが語られる。まるで見てきたように。なんとなく不思議な気持ちで、わたしはそれを聞いていた。
お話がひと段落ついたところで、わたしは思いきって、彼に尋ねた。
「シエル、前に二歳で失明したと言ったよね。生まれつきではないんだ?」
シエルは頷いた。
「ぼくが二歳の時、川でおぼれてしまったんだって。覚えてないけど……そのせいで、なにかどこかがおかしくなったんじゃないかって、パパが」
「へえ……そんなことってあるんだな」
「よくわかんない。もしかしたら、ママのこと見たくなかったせいかも」
妙なことを言う。眉をあげたわたしに、シエルはただ穏やかにいった。
「ママがぼくを助けてくれた。川に飛び込んで、ぎゅっとぼくを抱きしめて、岸まで引き上げてくれた。……そのとき、まだ見えていたような気がする。シエル、良かった、って、笑ったママを見たような気がする」
だけども、と彼は続けた。
「そのあとママが沈んでいくのは、もう見えなかったの」