はじめての食い殺し
ヒトの匂いを嗅いだのは、さほども進まぬころだった。
「――早く歩きなさい! ほんとどんくさいんだからっ――」
「……ん?」
匂いと同時に聞こえた声に、視線を巡らせる。ラミアの五感は嗅覚、聴覚、視覚の順で鋭い。闇夜の落葉に身を伏せ、わたしは声の主を探った。
向こう――村のほうから、二人のヒトが歩いて来ていた。ひとりは三十歳くらいだろうか、縦にも横にも大柄な女。もうひとりはその子供だろう、まだ十になるかどうかの少年だった。ヨタヨタ歩く子供の手を引いて、女はずんずん前へ進んでいく。
「きゃ! なにやってるのシエル――ああ、もう、また転んだの?」
「ごめんなさいおかあさん……」
「さっさと立ちなさい。急ぐのよ。このあたりには怖い、蛇の魔物が出ると言うわ。子供の肉が大好物なんだって。あんただってそんな最期はごめんでしょう?」
「は、はい……」
む。なんという誹謗中傷。わたしは女子供は食べないんだぞ。男は丸呑みにするけども。
さっそく抗議をしようと思い立ち、わたしは下半身をうねらせて、二人に向かって直進した。
「おい、そこの女っ」
声を掛ける。女が振り返り、ぎゃあと声を上げた。
「へ、蛇! 化け物? ひいいいいっ――!」
まあそんな反応だよな。でもわたしはお前達を食べるつもりはない。そう穏やかに言い聞かせたが、女は聞く耳を持たなかった。
完全にパニックをおこし、自分自身の悲鳴でわたしの声が聞こえないという悪循環。どうでもいいけどこいつ、耳障りな声してんなぁ。わたしはゲンナリし、ふと、視線を女の足下へ落とした。
そこに、少年が這いつくばっていた。さっき転んだままなのだろう。夜目は利くわたしには、暗闇のなかでも彼の造作が見て取れる。
白髪に近い明るい金髪、まばらに日焼けをした肌。薄汚れた手足はか細く、ガリガリだ。おいおいかーちゃん、ちゃんと食わせてるか!? 「化け物」のわたしを前にして、俯いたまま顔をあげもしない。そんな気力も無いほどやつれてるんじゃないだろな!?
わたしは女に向き直った。このおばはん、自分だけすくすく三段腹を育てやがって、子供に栄養をわけてやらんかい! と――
口を開いたわたしの前に、女は少年を差し出した。
「た、食べるならこのシエルを! こ、こ、この子をあげるから、あたしは見逃してくださいーっ」
「…………あ?」
わたしは眉を跳ね上げた。
「……何言ってんの? 逆だろ。言い間違え? ……それ、おまえの子供だろうが」
「ち、ちがうわ、夫の連れ子よ。でも夫だってきっと同じことを言うわ」
「…………」
「だってこの子は役立たずだもの。い、いまだって、捨ててこいと言われて村を出てきたの。役に立たない子に食わせる山羊が可哀想だから」
「………………」
「魔物の好物は幼い子供なんでしょ。ね、あたしよりずっと、この子のほうが美味しそうでしょう――ね? ねっ?」
そんな大人の言葉を聞いて、少年はなんと思うのだろうか。座り込んだままがっくりと頭を垂れていた。誰に向かってでもなくつぶやく。
「おかあさん」
わたしは嘆息した。
「……わかった。もう黙れ」
笑顔になる女。わたしは下半身をうねらせると、天に向かってとぐろをのばした。小柄な美女の上半身に、巨大な蛇の身体をもつわたし。こうすればその体高は三メートルをゆうに越える。
そうしてわたしは口をひらいた。ちんまりとしていた唇は、その気になれば鎖骨あたりまでアゴが外せる。巨大化した口を、天からまっすぐ、女の脳天へ落としていった。
「えっ」
という、悲鳴は、おなかのなかから小さく聞こえた。