ただ好きなものが隣にあること
心配性の蛇妖女が、心労で朽ちてしまいそうになったころ、シエルは帰ってきた。
リュックを背負っている。時々それが小枝にひっかかったり、重みにフラつきながら、なんとかやっとというていである。
わたしはフャァアアアと変な声を上げた。シエルの血で得たエネルギーもいよいよ切れかけ、這いつくばったままである。
「シエル、シエル……! よかった無事で、ああっ……アザだらけじゃないの、やっぱりなんども転んだのね、そんなにケガを」
「そんなのいいから見てラミア」
這い寄ろうとするわたしを一蹴し、中身をぶちまける。どすんと音を立てて落下したのは、一抱えほどある革袋だった。
……なんか、ほんのり血がにじんでいる。な、なにこれホラーなんだけど。キモチワルイ。
のけぞるわたしに、シエルは袋を開いて見せた。ああやっぱり、中身は生の肉塊だ。桃色がかった皮膚がくっついている。まさか人肉――と思ったがそんなわけがない。きっとこの間捕まえておいた、野ブタを捌いてきたのだろう。
「豚肉……」
「生のまんまだよ。これなら口に合う?」
わたしは首を振った。
一応、手のひらに肉を置いてもみたが、どうにもできない。
つい先ほどまで生きていたのだろう、新鮮な血のにおい。しかし切り取られた肉塊は、生物ではなく、死骸という名の物体である。だめなんだよ。わたしにはプラスチックで出来たフィギュアにしか見えない。
ぐぬぬと呻くわたしの手から、シエルは肉塊を持ち上げた。
「よし」
よし?
シエルは再びリュックに向かい、取り出したのは細い蔓。そしてなにやら細工をはじめた。
肉をきつく縛り、ナイフで削り、五芒星のような形に整形していく。
何だそれ、星型のチャーシュー? と思ったら、おいそれ、まさか人形か?
頭、手、足、胴体、ご丁寧に頭髪がわりに枯れ葉を刺して、シエルはやけに本格的に肉人形を作り上げたのである。
「ねえどう? ヒトの形に見えるかな?」
「ば、ばかばかしいっ! 子供にキライなもの食べさせるんじゃないんだぞ!」
「同じだよきっと。だってラミアは装備や持ち物ごとヒトを食べてたんでしょ、人肉以外だって消化はできるんだ」
……。あ、うん。
……いや、じゃなくって思わず納得しちゃったけどそういうことじゃないんだってば。
「無理、無理だって! ていうかわたし、一回墓荒らしもしてみたことあるけどダメで、たとえヒトでも生きてないと食べ物だと認識できなくて。これはもう、ラミアの生態なんだ、本能なんだ、だめなもんはだめなんだっ」
シエルはさらに小枝を取り出し、ヒト型肉塊に蔓をまき、逆のほうを小枝に結ぶ。ちょうど釣り竿とエサの形である。そして、
「――ほーいラミアー、いきものだよー」
「……おいコラ」
剣呑な声を出しても、シエルは決してひるまない。根気よく肉人形を操りながら、淡々と言ってのける。
「村で蛇を捕まえたってやつがいた。飼おうとしたけど、エサを食べずに餓死してしまったって。だけど捕まえたときは死んだカエルを使ってたんだ。こうして動かして見せてたら、釣り針に引っかかったって言ってたの」
「やっぱり釣りかっ! あ、あのねぇシエル、わたしはたしかに魔物だけども、蛇でもトカゲでもザリガニでもなくて、頭の中は人間で」
「いいから難しく考えようとしないで。そのまま目線を低くして、ぼくを視界に入れないように、揺れ動く肉だけをじっとみていて」
……ええーっ……?
ううっ、なんだか軽く屈辱的だし、弄ばれているような絵面である。それでも他ならぬシエルの言うこと。まあ試しに、やるだけはやってやろうじゃないか。やるだけね。
ゆらゆら、ふるふる、空中にゆれる赤い肉。
サイズはちょうど、人間の赤ん坊くらいだろうか。
単調な動きをみていると、催眠術にでもかかりそうだ。
ふらふら、びくびく、人の形が動いている。
……視線と一緒に、意識がソコへ、集中する。
フイに、肉が空中へ飛び跳ねた。
――気づかれた!
逃がすか!!
「シャァアアアアッ――!」
わたしは身体を大きく伸ばし、獲物にかぶりついた。脆弱な蔓などかみ砕き、赤い肉に牙をたてる。じゅわりとひろがる血の味、肉のあまみ、獣のにおい。栄養。エサ。食べ物!!
わたしは肉塊を食いちぎり、ばくりごくりと丸呑みにした。ノドを伝う、シアワセな味。
おいしい。だけどこれは……ヒトではない?
はっと気がつき、シエルを振り返った。蔓の切れた小枝を持って、尻餅をついている少年。わたしは慌てて、アゴにしたたる血を拭った。
「ご、ゴメンネシエル、わたしなんだか正気を失って、うっかりシャァーとか言っちゃっていやその……こ、怖かった? ゴメンネ」
「だい、じょうぶ……ちょ、ちょっと思いのほか引きが強く、て」
「いや汗。汗すごいから。ドン引きしたでしょ」
「大丈夫。ちょっと、その、腰が抜けただけ……」
「めちゃくちゃビビってんじゃねーかっ!」
大量の汗を拭いながら、シエルは答える。
人食いの魔物と理解していたとはいえ、捕食シーンを「みせた」のはこれが初めてだ。き、嫌われただろうか……
びくびく上目遣いになるわたしに、シエルは大きく深呼吸。
そして、優しい笑みを浮かべた。
「平気。それよりラミア、食べられたね。豚肉」
「……あ、うん」
「気持ち悪いことない? 美味しく感じた?」
「うん? ……うん、大丈夫」
「ちゃんと、ちからになりそう?」
それは、よくわかんないけども、たぶん。
昨夜シエルの血を舐めたのと同じように、体があたたかくなる気配がある。頷くわたしに、シエルは今度こそ、眉を垂らした。
「……よかった」
地面にへたり込み、一度、涙をぬぐった。
「からかうようなことをしてごめん。でもぼくもラミアも、わからないことが多すぎるから。……これからいろいろ試してみよう。なんでもいいからやみくもに、がむしゃらに、じたばたしよう」
「……うん」
「一度、村へ行こう。生きた豚をたくさん買って、ここで育てようよ。それから山羊の乳はヒトの乳代わりになる、乳は血と同じだっていうから、もしかしたらラミアに飲めるかもしれない」
「うん」
「……猿や、亜人種を探すのも、やってみよう。ラミアが食べられるものを探そう。ラミアがぼくにそうしてくれたように、今度はぼくが、ラミアのごはんを探してあげる」
「……うん……」
「だから……」
「うん…………」
わたしは脱力した。
シエルは頷く。クルミ色の目は、きちんと焦点を合わせることはできない。だがそれでもまっすぐに、わたしの顔を見つめていた。
……この子は。
ああ…………この子は…………
シエルのつくったごはんをおなかにいれて、わたしの身体は急激に、回復の兆しをみせている。わたし、ヒトを食わなくても生きていけそう。おなかのなかがあったかい。
それよりも胸があったかい。
わたしは言った。
「シエル、一緒に暮らそう……」
シエルは、両手をあげた。
そして控えめに「わーい、わーい」と口にして、すぐに赤面した。
慌てて手を下ろし、ごまかすように立ち上がる。
「じゃあぼく、もう一度洞窟に行って――」
と、言いかけたところで、こてんと後ろ向きにひっくり返る。突然どうしたのかと驚き、支えると、彼は気恥ずかしそうに、ぼそりと言った。
「……腰が、抜けてるの。忘れてた」
わたしは吹き出した。
思いの外、大きな笑い声が出た。
おなかと胸があったかくて、身体にエネルギーが満ちている。まだまだ食べ足りない。だけど十分。
最低限の食べ物と、あとはシエルがそばにいれば十分だ。
わたしにつられて、シエルも笑う。
わたしたちは抱き合い、お互いの体を叩き合ってげらげら笑った。地面に転がり、それでも笑いが止まらない。
「シエル……好きよ」
「ぼくのほうがきっとラミアを好きだよ」
そして、そのまま笑い転げていた。
シエルとわたしは、母子ではない。友達とも違う。恋人でももちろんない。どちらが養護をしていると言えず、師弟でもないし、家族と言うにはまだぎこちない。
だからこの感情を、なんと呼ぶのが適切なのかわからない。
ただ幸せだというほかに、なんと言っていいのかがわからないんだ。