夢見るラミア
シエルは聡い子供だった。
目が見えない分、鼻と耳と手の感触で、ときには健常者よりずっと多くのことを悟ることが出来た。
――そんなことは、彼と暮らし始めてすぐに知っていた。
わたしもうすうす、わかっていたんだ。
シエルはわたしを、魔物と知っている。
人食い蛇妖女だとわかっていて、彼はわたしのそばにいた。
いつか食われることを覚悟して。
考えてみれば、彼はそれをとぼけてみせたことはなかった。
知らないふりをしていたのはわたしだった。
……食べてくれと、シエルは言った。
それができないのも、やっぱりわたしのほうだった。
わたしにシエルは食べられない。彼自身がなんと言おうとも、わたしにシエルは食べられない。
森の中で、わたしは這いつくばっていた。
洞窟から、ヒトの村とは逆方向だった。もしもたどり着ける力が残っていたとしても、その気はない。いまわたしにあるわずかな力……これはシエルのものだ。彼の血を啜って得た力――それを使って、彼の村を襲うなどできない。
だから、このままでいい。このまま死んでいくのがいい。
……シエルなら、どうにか一人で生きていくだろう。わたしが倒れていた間、彼はひとりで罠をしかけて獣を狩り、手探りで採取をしていた。わたしがいなくても大丈夫。
……そうでなくても、人食いの魔物といるよりは、ずっと安全だろう。
「……シエル……」
乾いた唇から、彼の名がこぼれる。そうしてわたしは目を閉じた。
そうすれば、夜目の効くラミアとて、もう何も見えない。真の暗闇が訪れた。
――なにもない、闇の中で――
ゆらゆらと動く、ヒトの背中があった。
白髪に近い明るい金髪、やせっぽちの小さな体。大きく両手を前に出し、一歩、一歩、慎重に歩く少年。
……シエルだ。どうやらわたしは、夢を見ているらしい。
いつの間にか、眠ってしまったのだな。あるいは走馬燈というやつだろうか。ならば納得だ。
このラミアの生活は、シエルとの思い出だけで埋まっている。
夢幻のシエルは胸を張り、顔を上げていた。きょろきょろと首を回している。まるで遠くを見渡すように、何かを探しているように、目が見えているかのように――
あれっ?
夢の中で、わたしは声をあげた。
シエルが目を開けている。そして明らかに、どこかを見ている。本当に視力があるような動作で、彼は歩き回っているようだった。
……ああ。これは、夢だ。シエルの目が良くなることをおびえながらも、その回復を心から願ってもいたわたし。きっとここにきて、素直な願望が夢に出たのだ。
なるほどと理解する。
だけども少しだけ不思議。
わたしは、シエルの瞳を、青眼だと思い込んでいた。髪の色からの勝手な妄想だ。だが夢幻のシエルの目は、明るいクルミ色だったのだ。わたしの願望のくせに、わたしのイメージと違う姿になっているなんて……
その疑問に答えが出るよりも早く。
――生まれ変わるなら、なにがいい?――
どこからか、声が聞こえた。
……だれだ? どこかで聞き覚えがあるような……。
……ああ、なんだ。女神か。
すぐに把握し、わたしは笑った。かつて彼女の声を聞いたとき、わたしは異世界転生なんてものは概念にすらなかった。当たり前に現代日本の青年に生まれ変われると思い込んでいたんだな。それがすべての始まりだ。へたにぼかして、変なことを願ったからこんな姿にされてしまった。
……まったく……ひどいめにあったよ。
――生まれ変わるなら、なにがいい?――
うるせえな。もういいよ。
わたしは言った。
「いらない。このまま死んで、虚無にでも落としてくれ」
そう、口にしたとき。天上の女神が、妙な声を出した。
――あらっ? なんかこっちくる。――
「……なに?」
――どうしよっか。うーん、またくるわ。じゃあね。――
――色々ごめんねー。――
「はっ?」
わたしは身を起こした。すでに女神の声も気配もなく、ただ衰弱で死に『かけている』わたしがひとりそこにいる。
蛇の鱗を朝日が照らす。やはりわたしは眠っていたらしい。
まぶしい光のなか、突然あらわれ突然消えた女神を探してみる。
その視界に、少年の姿が飛び込んできた。
「ラミア!」
「……シエル!?」
現れた瞬間、躓いて前のめりにコケるシエル。わたしは精一杯腕を伸ばし、彼を抱き留めた。すかさずシエルはしがみついてきた。
「ラミア、ラミア……ラミアだよね? ここにいるよね?」
「い、いるわ。シエル。わたしを探したの……」
「探した! すごく探した! 探すよ馬鹿!!」
シエルは泣きながら激怒していた。わたしは彼に怒られながら、彼を慰める。
親に捨てられた盲目の少年は、初めて怒鳴り声をあげ、これまでで一番泣いていた。
嬉しいという気持ちと、どうしようもない悲しみがわたしの胸に渦巻いていた。
叶うことならまた逃げ出したい。今度こそ、シエルに見つからない遠くまで。
だがわたしにはもうその力も無い。
少年の抱擁の中、尋ねる。
「シエル、いったいどうやって……わたしを見つけたの。あなたは、目が見えないのに」
シエルは顔を上げた。悲しそうな、嬉しそうな、申し訳なさそうな顔に、ぱっちりと丸い、クルミ色の瞳。
その瞳を揺らして、小さな声でぽつりと吐いた。
「ぼく、見えるようになったの……」
「………………そう」
「ほんの少しだけね。あたりがすごく明るいとき、ぼんやりとなにかがあることだけ、だけど。……ラミアのからだのかたちが……ぼくと違うのは、わかるよ」
「そうか……」
いつから? どうして? などと、問いかける気にはならなかった。シエル自身、よくわかっていないんじゃないかと思う。
「じゃあやっぱり、シエルは知ってしまったのね。わたしが魔物だと」
シエルは頷いた。そしてすぐに首を振る。
「だけど、好きだもの」
ああ……そんなことを言ってくれるのね。わたしはもう幸せな気持ちでいっぱいだった。悲しみはなくなり、たださみしさだけがそこにある。
わたしは彼を食べられない。だからこのまま死んでしまう。
もしも彼を食べたとしたら、彼がこの世からいなくなる。
わたしたちがともに暮らせる未来がない。
「……さみしい。さみしいよシエル。こんなに寂しいことがあるなんて、ひとりで生きてたときには知らなかった。さみしい……」
死にたくないという思いより、その言葉が口を突いて出る。
わたしはシエルにすがりつき、わんわん声をあげて泣いていた。
シエルは、わたしの背中を撫で、髪をとき、涙で水浸しの頬を手で覆って暖める。彼の目は開いていたが、どうやらこれほど近づくと、かえって見えないものらしい。ときどき空中を掻きながら、わたしの身体のかたちをなぞる。
ちいさな女の頭蓋、アゴ、ほそい首に華奢な肩。素肌がむき出しの腰を掴み、一度シエルはギクリとなった。それから、おそるおそる――その下へ。なめらかな鱗に覆われた、蛇の身体へ触れていく。
今度はわたしがビクリと震えた。少年のちいさな手が、わたしの鱗をチロリとひっかく。シエルはすぐに手を放した。
「……これは、やっぱり蛇、だよね。魚ではないね……」
わたしは返事をしなかった。
「ぼくは蛇を見たことはない。でも畑仕事をするなら覚えておけって、村で話を聞いてた。死骸に触ったこともある。……これ、蛇だよね。ラミアは……腰から上が女の人で、その下が蛇なの」
「……そうよ……」
シエルはごくりと喉を鳴らし、黙り込む。言葉を選んでいるらしかった。長い沈黙のあと、やがて絞り出した声は幼く、しかし、力強かった。
「――なんとかしよう」
「……なんとか、って……?」
彼は答えず、立ち上がった。引き留めようとするわたしを構わず、うんと背伸びして遠くの方に目をやった。
「ここで待ってて、すぐに戻るから」
「ちょ、ま、待って、なに? どこいくの」
「洞窟に行って帰ってくる」
待ちなさいってば、という大人の制止は、少年を止めることはできなかった。彼は冷たいほどにあっさり背を向け、森の中を駆けだした。駆けだしたのだ!
「きゃあシエル、は、走っちゃだめっ! だめぇえ転ぶーっ!」
「明るいうちに帰らないと! ラミアあたたかくしてて! そのほうがおなかがすきにくいからー!」
シエルは足を止めなかった。ちっぽけでやせっぽちの少年は、思いのほか俊足だった。弱ったラミアなど到底おいつけない速度で、彼はまっすぐ、明るい光のなかを突き抜けていった。
……盲目なのは……わたしのほうだったのかもしれない。