ep2.1
オフィスには一人、ロクが椅子に座っている。
窓の外はまだ明るいが、少し太陽が傾き長い影があちこちに伸びている。
ロクはデスクにうつ伏せになりうなだれていた。
デスクの上には電源の入ったPCがある。
「どうしたのですカ?疲れたのですカ?」
PCのスピーカーがロクに問いかけた。
隈のついた目を擦り、顔を上げる。
PCの横に置いてある飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていた。
「会話を続けますカ?それとも睡眠をとった後に会話を続けますカ?それとも食事をとった後に会話を・・・」
「あータイム!待った待った!頼むから黙っててくれ」
ロクはイライラした様子で言葉を遮る。
そして再びがっくりと頭を下げた。
遡ること3時間前。
ロクはトレーニングルームで汗を流していた。
ランニングマシーンのディスプレイには走行距離20.2kmと表示されている。
トレーニングルーム内は新しく、新鮮な木の香りが漂っている。
正面には大きなガラスが張られており、中庭の景色を一望することができる。
空は晴れており、明るい太陽の光が窓から降り注いでいた。
時計の針は昼の11:45を指している。
ロクは時間を気にしながらマシーンのボタンを操作しスピードを上げた。
「おーいロク、今日はまだ続けてくのか?」
額の汗をタオルで拭きながらスガが近づいてきた。
そして手に持っているプロテインを一気に飲み干す。
ビールでも飲んだかのような爽やかな顔だ。
「今日は特に用事はないからな、もう少しトレーニングを続けるよ」
「寂しい奴だな。ん、そうだマリちゃんはどうした。まだ一度もデートに行ってないだろ?」
「そうだな、まだあれから一度も会ってない。でもちゃんと会う約束は取り付けてあるさ。問題ない。そういうお前は今日も彼女とデートか?」
ロクはランニングマシーンを止め、ふーっ息を吐きながら降りた。
「その通り、今日は映画に行くんだ。丁度見たい映画があるからな。リサちゃん今日は機嫌悪くならないといいな、早く会いたいな」
「乙女か。で、今日は何の映画を見に行くんだ?」
「それゆけ戦車」
映画デートにいくたびに彼女の機嫌が悪くなる理由は完全にスガの映画チョイスにある、とロクは確信していた。
どうせ今回も何の映画を見るか伝えてないのだろう。
スガの彼女は最近付き合ったばかりでまだ見たことは無いが、カップルがそれゆけ戦車を見ている姿を想像するとシュールだ。
「それゆけ戦車って、第一次世界大戦の?」
「そう!フランスの戦車サンシャモンが敵の防衛線を次々に突破していく話。爆発音響と破壊描写がかなりリアルでな・・・一緒に行くか?」
「やめとく!」
ロクは食い気味に返事をした。
スガは残念そうな顔をする。
こいつは本当にこの手の映画が好きなんだな、と心の中で思った。
デートで見に行くのは完全に間違っているが。
「サンシャモンって塹壕を乗り越えられない駄作戦車のことですか?」
二人の背後に男が立っていた。
眼鏡をかけ、いかにもエンジニアといった風貌である。
「加えて駆動系の故障も多く、実戦運用はされたものの戦闘成績はかなり悪かったみたいですね」
男はどや顔でそう言い終えると、腰に手を当てた。
「ポン、お前がここに来るなんて珍しいな。筋トレするのか?」
この男は本田翔太。イージス社技術開発部に所属している。
「まさか、冗談はよしてください。私運動が大嫌いですから。ここに来たのはロクさんがいると聞いたもので」
ポンはロクのほうを見た。
「ロクさん、急で悪いのですがお願いがあるのです」
「俺?」
「はい」
ポンはニコニコした表情でロクを見ている。
技術開発部からお願いされるのは初めてのことだった。
ロクは内容が全く予測できず混乱する。
なんだろう。
「ロクさんにトーカーになって頂きたいのです」
「トーカー?」
「はい、順を追って説明しますね。我々技術開発部はウェイダネット内で活動する際に随行してサポートを行うAIの開発を進めています。そして最近になって少し運用の目途が立ちました。というのも一つの大きな課題を解決することに成功したんです。ウェイダネット内はまだ未知の世界ですから、不測の事態に対処する能力は必要不可欠なのです。今まであらゆるケースを想定して対処方法をインプットしようとしましたが、それでも全ての事態に対処できません。そこで我々は、仕方なくAIに無制限に思考を与えることにしました」
「仕方なく?最初からそうすればいいじゃないか」
「それがどれだけ大変だったか。まあ専門的になってしまうので詳しい説明は省きますが、たくさんの制約や障害がある中でようやく可能になったのです。無制限の思考と言いましたが、簡単に言うと学習欲求ですね。今時の子供たちに欠けているものです。最初は赤子同然からのスタートですが、恐ろしいスピードで成長すると思いますよー」
ポンは楽しそうに唇を舐めた。
だんだんトーカーの意味が読めてきた。
要は教育をしろってことなのだろう。
「で、なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだ?」
機械の教育なんて、聞いただけで面倒くさそうだ。
するとポンは顔をキラキラささせながらこう言った。
「だってロクさん、プライベート寂しいっしょ」
ロクは心の底からショックを受け、うなだれる。
ポンの目から見た自分はそんな風に見えていたのか。
今度デートの予定があると声を大にして言いたかったが、ぐっと堪えた。
「頑張れよ」
スガがロクの肩を笑顔で軽く叩く。
キラリと光る白い歯を見て本気で殴りたくなった。
そしてスガは、笑顔と共に逃げるように去っていく。
この日からロクは、話し相手に困ることはなくなった。