31話
◇
少しの休息の後、シルヴェリッサは皆を連れて宿の地下へ向かった。風呂に入るためである。
受付にいた者とは別の女性コンシェルジュが、部屋までその件の説明にきたのが10分前。
ここの風呂場は地下フロア全体を占めている大浴場らしいのだが、そのぶん宿側の準備が大変なので、利用できる時間帯が限られているそうだ。
そして今がちょうど、その時間帯ということである。
「おふろ、たのしみだねっ」
「うん、ほんとっ」
「どんななのかなぁ」
「ち、ちょっと、きんちょう……」
「だいじょぶだよっ、きっとたのしぃって!」
「ピュウゥ♪」
「グユゥ」
『ギヂ……?』
ウキウキとした様子のアーニャたちと、るんるん♪と愉快げなセルリーンやハーピーたち。ルヴェラとオーガたちも少し嬉しそうだった。しかし、プリックヴェスパらは何をしに行くのかわかっていないようで、少々ながら困惑している。
彼女らだけには行水を経験させたことがないので、風呂が想像できないのも無理はないだろう。
サブライムホースたちも理解しているかは不明だが、おとなしくついてきているので問題はなさそうだ。土壇場で嫌がる可能性もあるが、そのときはそのときで宥めればいい。
などと考えつつ1階まで降りたシルヴェリッサは、階段とフロントカウンターの間にある通路へと入っていく。
歩くとすぐ大食堂があるらしいが、今は特に用もないのでそのまま通り過ぎた。
「! お、おかあさまっ、わたくしお風呂を頂いて参りますわっ」
「あ、あらそう? では私もご一緒しようかしら」
「それは良いですわっ、ぜひそういたしましょう!」
「あたくち、あのおねぇしゃまとおちかづきになりましゅの♪」
「お、お嬢様、駆けては危のうございますっ」
「ア、アタシ、ちょ~っと急用が……」
「抜け駆け、だめ」
「そ、そうですよ! ずるいです!」
「うっ……って、アンタたちも準備してるじゃないの!」
なにやら反対側の通路が騒がしい。が、他人の悶着など興味はないので無視するシルヴェリッサ。
何度目かの角を曲がると、地下への階段が見えた。
過ぎた先、曲がり角の陰から複数の視線があったが、敵意は感じなかったので放って降りる。
左右あった下り階段の先は、そこそこ広い脱衣場だった。
公共の大浴場など初めて利用するが、別にそう気を揉むこともあるまい。
と、シルヴェリッサは服を脱ぎ、脱衣かごに入れていく。アーニャたち5人もそれに続いた。
やがて入浴の準備を終えると、それぞれ浴場へ。
「「「「「ひ、ひろ~いっ……!」」」」」
「「「ピュイィ~っ♪」」」
「「「グュゥ!」」」
『『『ヴ、ヴヴゥ……』』』
そこは大浴場の名に恥じぬほど広かった。総勢78名が入っても、なかなか余裕が残っている。
茫然としているプリックヴェスパたちは、ひとまずそっとしておくことにした。しばらくすれば、自ずと状況を理解するだろう。
さておき、シルヴェリッサは備え付けの手桶で湯槽の湯をすくい、洗い場の腰掛けに座った。手順は他の客を見て倣ったものである。
彼女らは彼女らでこちらの大所帯に驚いていたが、なぜかすぐに視線はシルヴェリッサに集中した。そして今なお、チラチラとそれが続いている。
(なぜこうも、わたしに視線が集まるんだ……?)
怪訝に思いつつも身体を洗おうとするシルヴェリッサだったが、そこへルヴェラが誰より早く寄ってきた。手にはすでに、湯の入った桶を持っている。
どうやらまたシルヴェリッサの身体を洗うつもりらしい。
「ピュ!? ピュイィ~!」
「ど、どうどう」
「お、おちついて」
「ピュゥ……」
「ん、よしよし」
「げんき、だして……」
「げんきげんきー」
今回も、ショックを受けたセルリーンをアーニャたちが宥めてくれたようだ。
ともあれ、ルヴェラの望み通りに洗ってもらうことにする。入浴用の薬液が備え付けられていたので、それを使わせた。
その後、シルヴェリッサは次にサブライムホースらを洗おうと並ばせる。嫌がる素振りは見せていないが、彼女らを洗うのは少し大変そうだ。
しかしルヴェラを含めたオーガたちが手伝ってくれたので、さほど時間も要せず終わった。
そしてハーピーらを担当するアーニャたちへ手を貸し、そちらもすぐに済ませる。
最後に、いささか落ち着いたプリックヴェスパたちに目を向けたところで、
「おねぇしゃま~♪」
「お、お嬢様っ! お待ちくださいませ!」
急に駆け寄ってくる褐色肌で水色髪の幼い少女と、それを追うこれまた褐色の黒髪娘。
フロントで見た気もするが、知り合いではないことは確かだった。
さらに周囲数名がなにやら悔しげにその2人を見つめている。
しかし他人の悶着など興味がないので、すぐに思考から外すシルヴェリッサであった。それより今は、目の前でニコニコしている幼女と、その連れ合いらしき娘である。
「…………」
何か用でもあるのか、と黙して続きを待つシルヴェリッサ。
だがその幼女は次言を口にせず、朱に染めた頬に手を当てモジモジと身をよじりはじめた。
「そ、そんなにみちゅめられると、てれてしまいましゅの///」
「「「「「!! むむむむ~……!」」」」」
するとなぜかアーニャたちが小さく頬を膨らせる。
いわゆる『やきもち』であったが、シルヴェリッサにその理由は見当もつかなかった。
さておき、どうやら大した用もないらしいので、改めてプリックヴェスパたちを洗いにかかる。特に翅の部分は優しく慎重に。
最初は濡れるのを少し恐がっていた彼女らだったが、終わる頃には皆すっきりとした顔になっていた。
◇
数時間後、皆とともに部屋へ戻ったシルヴェリッサ。
先ほど、大食堂にて食事も済ませている。美味しかったが、先日に自身で作った『イグ・ミ・バーギ』の方がかなり上だった。
言うまでもなく、”神の手”の効果である。
(もう日も沈んだな)
窓の外を見やると、すでに夜の帳が降りていた。
アーニャたちも眠そうに目をこすっていたので、先に寝かせてやる。続けて従魔らも適当に各部屋に分け、眠らせた。
やがて全員が静まるのを確認すると、シルヴェリッサはそっと扉を開き部屋を出る。
窓から射し込む月光の中、独り廊下をゆく彼女。
それはまこと息を呑むほど美しく、そして神秘的な画であった。
しばし歩き、テラスへとやってきたシルヴェリッサ。
フリースペースの端に設けられたそこで、彼女は壁にもたれて空を見上げた。
煌々と瞬く星々と、ひときわ麗明に地を照らす三日月。
自分が前にいた世界の夜空とは、比べ物にならぬほど美しい。
……あの世界で毎夜の如く見た空は、淋しいものだった。
瞬くような星はただの1つも無く。孤独に天に座す、小さく褪せた月。
その独り哭いているような姿がまるで己のようで、幼い頃は見るたびに涙をこぼしたものだ。
(……この世界のお前は、ずいぶんと大きいな)
人知れず微笑をこぼす。
思えばこの世界にきてから、もうかなりの時が経った。
不思議なことに、あれほど死を望んでいた感情も、いささか凪いでいる。
(六刃をすべて取り戻して……それからどうする?)
自問するも、今のところ答えは出せそうもない。
緩やかに吹いた夜風が、慰めるように暖かく髪を撫でていく。心地よさに目を閉じ、しばしの余韻を胸に刻み込んだ。
やがて風が止むとゆっくり目を開き、再び三日月をその瞳に写す。
淀みなく夜天の頂に照るそれの許、数えきれない輝きたちが、変わらず寄り添うように瞬いていた――。