(2)
孤独な部屋に響くのは、〈杖の儀式〉に浮かれる街の喧噪。
それに、ズキンズキンと静かに鳴り続ける頭痛だった。
(助けて)
あの日から、ちょうど一ヶ月が経っていた。
ユーマの頭痛はさらに酷くなっている。
発作は一日に何度も起きる上に、痛みは激しさを増していた。
(……誰か、助けて)
家にいる間、ユーマはほとんどベッドの中で横になっている。
正体不明の夢に夜明け前から飛び起き、そのまま眠れないことも多くなっていた。頭の痛みだけを感じながら、ひたすら、ぼんやりしている。気まぐれに本を読んでみる事はあるものの、気分が晴れるような事は一度もなかった。
学校に行く間だけ、ギクシャクと不出来な人形のように動き回る。
初めてだった、学校が待ち遠しいと思えるのは――。
(あと、一ヶ月――)
誰も話しかけて来ないし、誰にも話しかけないそんな教室で、ユーマは本を読む振りをしながら、心の中で同じ言葉を繰り返していた。まるで、祈りのように――。
あと、三週間――。
あと、二週間――。
あと、一週間――。
騎士になるための第一関門――子供達にとって、〈杖の儀式〉とはそういうものだ。ただし、〈杖の儀式〉には子供が大人になる事を祝福する式典の意味合いもある。そのため、十五歳の誕生日を待たずして〈杖の儀式〉が終われば大人である事が認められるのだ。
大人になれば、家を出て行く事も不自然ではなくなる。
母と思っていた人。
妹と思っていた人。
そんな二人と一緒にいなければいけない家の中が、ユーマはとにかく苦痛だった。何も変わっていないはずなのに、十四年間過ごしてきたこの場所は、まるでまったく知らない場所のように薄気味悪いものになってしまった。
ローラもレイティシアも、何も変わらない。
何も変わっていないはずなのに、ユーマは彼女達が怖いのだ。
(助けて、助けて、助けて。誰か、誰か――)
心の中で叫ぶユーマの声に応えるものと云えば、頭の痛みだけである。
朝になったのは気付いていた。
今日という日が、〈杖の儀式〉の最終日である事も――王都に暮らす十四歳の子供は、最終日に〈杖の儀式〉を受ける事が慣例になっている。〈杖の儀式〉は義務ではなく、王都以外に暮らしている子供は諸々の事情で受けない(あるいは、受けられない)場合もある。地方には地方の守るべき暮らしがあったり、ただ単純に、金銭的な問題があったりするからだ。
一方、王都の子供ならば、〈杖の儀式〉を受けない者はいなかった。
行くのが当然だ。行かなければいけない。行けば、大人になり――この家を出て行ける。そう気付いているけれど、ユーマはベッドからなかなか起きようと思えなかった。
閉ざしたカーテン。
わずかな隙間から、刃物のように鋭い光が差し込んでいる。
怖かった。ずっと、瞳を閉ざしていた。
すると――。
不意に、ドアの開く音。
ユーマは反射的にシーツを頬まで引き上げ、身を強張らせる。
瞼をギュッと閉ざして、心に棘の付いた盾を構えるけれど――。
「鬱陶しい」
最初から、勝ち目のない勝負である。
軽々と、レイティシアはユーマの被っていたシーツを剥ぎ取った。
「何やっているの、起きなさいよ!」
既に、怒り心頭という態度。
吊り上がった碧眼、シーツを床に放り捨てて腕組み。「今日が何の日か、忘れたとは云わせないわよ」と、そう叫ぶ彼女の恰好は完璧――騎士の正装をモチーフにした紺色の外套、厳めしいブーツ。普段はそのままの金の髪も、大きな一本の三つ編みにまとめている。
完璧なその装い、〈杖の儀式〉に挑むための正装だ。
レイティシアに男装が似合う事に、素直な驚きを感じる。
呆けたままユーマが見つめていると、彼女はにっこり微笑んだ。
「似合っているでしょう。ねえ、どう? お兄ちゃん?」
「……別に」
素っ気ない返答で、ユーマは顔を逸らした。
「こっちを向きなさい」
レイティシアはそう命令してくる。
「嫌だ」
ぽつりと、そう返した。
レイティシアの事だから、生意気な態度を取れば凄まじい勢いで罵倒してくるだろう。何を云われても、ユーマは耳を貸さないつもりだった。瞳を閉ざし、耳を塞ぎ、シーツを頭から被り、心を誰にも見せないように隠して――そんな風に、あの日からやって来たのだ。
レイティシアの方を見たくない。
どんな顔をすれば良いのか、ユーマにはわからなかった。
何を云われても、気にしなければそれで済むだろうと――。
甘かった。
ガツン、と――。
突然の衝撃。
頭が痛い。
いつもの頭痛ではない。
星が見える。ヒヨコが見える。
殴られたという事に、ユーマは遅れて気付く。
「な、なにを……」
何をするんだ、と――。
さすがに抗議しようとした瞬間、さらに殴られた。
一発、二発、三発、四発、五発――。
殴られ続ける。ボコボコだった。もうダメである。死ぬ。死んだ。
「ちょっとぐらい、目が覚めた?」
ユーマがベッドにバタンと倒れた所で、レイティシアはようやく手を止めて云った。
目が覚めたと云うか、目を回している状態のユーマ。どうにか云い返そうとする。
いつも通り、憎まれ口を叩いてやろうとした。
口を開きかける、「レティ、幾らなんでも馬鹿力――」と、そこで気付く。
「目が覚めた?」
レイティシアは同じ台詞を繰り返した。
そして、真正面から見下ろしてくる。
ユーマは今、彼女に話しかけようとしたその瞬間、レイティシアの名前を口にする事すらも一ヶ月振りなのだと気付いてしまった。憎まれ口を叩いてやろうと、そんな気持ちになるのも、一ヶ月振り――レイティシアと久し振りに会ったような気分になっていた。
一ヶ月という時間。
決して短くない。長い時間である。
それだけの時間を、ユーマは孤独に過ごして来た。
そのため、ローラにはとても心配されていた。心配されている事に、ユーマはちゃんと気付いていた。気付いていたけれど、それでも無視する事しかできなかったのだ。昼間からベッドに横になっていると、ローラは診療時間にも関わらず、暇を見つけては様子を見に来たけれど――どんな風に話しかけられても、ユーマは怖いと思う事しかできなかった。
一方で、レイティシアはユーマがそうしているように、まるで相手が透明であるかのように無視してきた。互いに、完全な不干渉。それで一ヶ月やって来たのだ。仲の悪さを思えば、むしろ、これまでわざわざ毎日のように喧嘩していた事が不思議なぐらいだった。
今、久しぶりに喧嘩した(一方的に殴られただけかも知れないが)。
そして、じっと見つめられている。
何か云わなければいけない。
そうしなければ、たぶん、また殴られるから――。
「レティ、その、えっと……」
「なに? はっきり云いなさい」
本心ではない。
だが、これもいつもの事である。
ユーマはとりあえず、こう云ってみた。
「ごめんなさい」
「はい、よくできました」
もっと色々と云うべき事はあるような気もするが、何にしろ、ユーマはレイティシアに話しかける事が得意ではない。はっきりと苦手である。嫌いだった。話したくない。一緒にいたくない。彼女がいなければ、もう少し幸せな人生を歩めたのではないかと――。
そんな風に、色々と云いたい事はあるのだ。
だが、何も云えなかった。
「さあ、行くわよ」
レイティシアに手を引かれて、ユーマはベッドから降りた。
憎まれ口を叩くのも――。
あるいは、さよならを告げるのも――。
(全部、今日が終わってからの話だ)
ユーマはそう思いながら、身支度を整え始めた。