(6)
――世界が滅んでも、いつまでも一緒にいようね。
ユーマは飛び起きた。
「あら、いつもより早く目が覚めたわ。良かった」
自分の部屋、自分のベッドである。
やはり、いつも通り――。意識を失った後に運ばれて、ベッドに寝かされていたらしい。びっしょりと寝巻きを濡らす冷や汗が気持ち悪いが、それもまたいつものことである。
「母さん、ごめんなさい」
サイドテーブルに置かれたランプの向こうに、優しい灯りに照らされて微笑む母の姿。絶対に変わらないものに、ユーマはホッと安心する。「ユーマが悪い訳ではないから、謝らなくて良いのよ」と云いながら、母はドロリと濃い緑の液体が入った椀を手渡してくる。
「ほら、嫌そうな顔をしないの」
「……はい」
胃が引っくり返るような苦さを耐えて、ユーマは一気に薬を飲み干した。
本来、薬は高級品である。
そして、ライディング家は母子家庭である。
父の居ない家庭には貧しさが付き物であるが、幸いにして、ローラ・ライディングという母は偉大な人だった。少なくとも、ユーマに貧しさに苦しんだ記憶はない。
ローラは医者である。
この家を仕事場にしていた。
様々な薬草を煎じた先程の薬も、ローラが自らの手で作っているものだ。医者としての評判は上々である。これまで幾度も第一王壁区画に居を移さないかと打診があったぐらいなのだから。腕が良い医者ならば貴族や豪商からも重宝される。富裕層を相手にした方が儲かることは明らかだったけれど、母は、第三王壁区画で貧しい人や流れ者、あるいは、危険な仕事を引き受ける冒険者の世話をする方を好んだ。
意志は強い。
信念は、決して曲げない。
線が細く、儚い印象を与える風貌。温和な笑みと裏腹に、荒くれ者に脅しを掛けられても一歩も引かない。顔立ちは、レイティシアと瓜二つである。要は、美人。そしてまた、姉妹に間違われることもある程に若々しかった。
ユーマにとっては微妙な気持ちになる話だけど、ローラに治療されたいというどうしようもない理由で、ちょっとした怪我をする男が少なくないとか――。
「レティはまだ帰って来てないわ。〈杖の儀式〉が近いから、気持ちはわかるけれど……。でも、少しは落ち着くように、ユーマからも機会があれば云ってあげてね」
そう云われても、ユーマは顔を伏せることしかできない。
「ああ、うん。機会があればね……」
ローラに見つめられている。視線は感じていたが、そちらを向く勇気はない。視線を合わせると、レイティシアに対する嫌な気持ちを見透かされてしまいそうだった。
もちろん、今さらの話であるけれど――。
ローラは、ユーマとレイティシアの仲の悪さを知っている。兄妹の関係をどうにかしたいとは思っているようだが、一方で、時間が解決してくれるだろうと、どこか気軽に考えているような節もあった。
ユーマは時々、「レティを許してあげてね」と云われる。
そう云われる度、悪いのはやはりレイティシアの方なのだとホッとするが、反面、怒りや憎しみを溜め込んだ醜い心を見透かされたようで――ユーマは、とてもドキリとする。
「ちょうど良い機会かも知れない。少し、話をしましょうか」
診療時間を過ぎても、急患が慌ただしく運び込まれて来る事も多かった。母と子で、落ち着いて話ができる機会は少ない。数少ないそんな機会も、大抵はレイティシアが一緒であるから、ユーマが自分から口を開く事はほとんどなかった。
「……良い機会って? 何の話を?」
ユーマは尋ねるが、ローラは答えない。
珍しく、何やら考え込んでいるようだ。いつもは即断即決の母なのだけど。ユーマは違和感を肌でピリピリと察する。どうにも居心地が悪かった。
何やら、かなり大事な話をするつもりのようだ。
大人になるのだから、家を出て行けと云われたらどうしようか。
(いや、まさか……)
悪い想像に、ユーマはそっと首を横に振る。
(改まってするような話に、思い当たる所と云えば……)
そう、心当たりがあった。
大人になる十五歳を目前として、敢えて切り出されるような話題は何か。
それはおそらく、父について――。
ユーマとレイティシアが物心付く前から、この家には父と呼べる人の姿はなかった。それと云うのも、近所の人々の噂話で度々耳にしている。ローラはまだ少女と云っても過言ではない頃に、たった一人、赤ん坊を抱えてこの国にやって来たらしい。
父が誰なのか、どんな人なのか――。
母がアルマ王国に来る前は、何処で何をしていたのか――。
実は、ユーマとレイティシアは何も知らないのだ。気にならなかった訳ではないし、もっと幼い頃には無邪気に尋ねてみた事もある。だが、はっきりとした答えが返ってくる事はなく、いつしか不穏な空気を察して尋ねる事もやめてしまった。
ローラがようやく、口を開き始める。
ぼんやりと、ユーマはその言葉を待っていた。
家族について、父について――興味はあるけれど、興味以上のものではない。ここで両親の過去を知ったとしても、自分に大きな変化があるとは思えなかったのだ。ユーマには、先の見えない、暗い未来がじわじわと迫って来ている。
過去よりも、未来が怖かったから――。
何を云われようと、ほとんど気にしないと――。
だが、違った。
大きな間違いだった。
「ユーマ、ごめんなさい」
母は――。
否。
これまで母だった人は、最悪の秘密を告げた。
「あなたは、私が産んだ子供ではない」
不幸や不安というものについて――。
その原因がまた増えるなんて、ユーマは思ってもいなかった。
「レイティシアが産まれたその日に、あなたは拾われた」
たった一つの幸運があったとすれば、既にベッドの中にいた事である。
それ以降の記憶は曖昧なものになった。
ローラの話し声は遥か遠くで鳴っているように遠くなり、シーツを固く握りしめているはずなのに、指の感覚がどんどんなくなっていく。座っているのか、立っているのか――いつの間に横になっていたのか、ユーマには全然わからなかった。
悲しくない。
それなのに、泣いていた。
悲しくないはずがないのに、悲しくない。
感情も何もかも、さらさらと涙と共に流れていく。
気が付けば、真夜中――。
ランプは消えており、ユーマはシーツを頭から被っていた。
考えている、ずっと。未来が怖かったのだ。暗闇を覗き込むようで、自分がこれから踏み出す一歩に何の保証もなくて。見えない未来が怖い。でも、過去も見えなくなるなんて思わなかった。過去が怖い。何もない、何もない、何もない――友達もいない、恋人もいない、家族もいない。過去も未来も、いつでも一人ぼっちの自分が怖かった。
子供のように震えている。
誰か、助けて――。
頭が痛い。
痛い、痛い、痛い。
(助けて)
ユーマはまだ気付かない。
痛みの向こう側にあるもの。
かつての約束。それは、自分の言葉である。
――世界が滅んでも、いつまでも一緒にいようね。
ただし、今はまだ必死に祈る事しかできない。
――誰か、助けて。
頭が痛い。
痛い、痛い、痛い――。
震えるだけで気付かない。ユーマにはまだ聞こえない。痛みの向こう側から呼びかけるその声。あるいは、何よりも大切なものの存在。約束と、祈り。どちらも、ユーマの心の奥から出てきた言葉である。
そして、それらに答えてくれる者と云えば――。
――はい、ユーマ。
もう少し。だけど――。
夢から覚めた時、ユーマはやはり何も覚えていなかった。
END
>>> 【第1話 死神の〈レーベンワール〉】
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